第1話:火のない凍死体
朝靄の奥に、城壁の影が浮かび上がる。
その向こうには、私の知らない世界があった。
馬車に揺られながら、ぼんやりと考える。
(……露店の焼餅、あれ、冷めないうちに食べきればよかった)
そんなことを思い出していたのは、現実から目を逸らすためだったのかもしれない。
なにせ目の前には、武官三人と、金の刺繍をあしらった召使が一人。
そして、私の手にはしっかりと“招集状”が握られている。
――蘇静蓮、王命により診療招集。速やかに帝都へ。
(命令じゃなくて、これはほとんど拉致では……?)
反論の余地はなかった。
辺境の診療院で薬草を煎じて暮らしていた、ささやかな生活は、あっけなく終わりを告げた。
「ここが、後宮――」
帝都の中心、天陽宮。
その北の奥まった場所に、女たちだけの楽園――などと呼ばれるにはあまりに広く、沈鬱な空間が広がっていた。
敷き詰められた白い石畳には、香の煙が漂う。
季節外れの梅が咲いているのに、空気は妙に重い。
異様な沈黙。目を伏せる侍女たち。
誰もが何かを恐れていた。
(これは……病気ではない、けれど……)
私は、運ばれた先の部屋で“それ”と対面した。
木でできた屏風の向こう、床几に寝かされた若い女性の亡骸。
名は霞音。
二十二歳。下妃。
化粧が薄く、もとは美しい人だったのだろう。だがその唇は青く、指先には紫の変色がある。
ふと、背筋が寒くなった。
理由はわからない。だが――
(……変だ)
冬ではない。
なのに、彼女の肌はひどく冷たく、硬直が通常よりも早く、強い。
しかも、頬の一部には擦過傷。胸には薄い皮下出血。
(まさか、と思うけれど)
「これは、呪いです」
声をかけたのは、金の髪飾りをつけた若い宦官だった。
名を崔文という。
帝に近しい立場らしく、私に対しても高圧的だった。
「先月も、同じように若い妃が突然亡くなりました。夜も昼も関係なく、香も食も変えておりませぬ。それでも三人。共通しているのは――死の直前、口にしたのが“供物の菓子”だったことです」
供物。
つまり、宮内で神前に供えられた後、下妃に分け与えられる菓子のこと。
甘く、保存がきくものが多いが、口にした後に死ぬとは……。
だが、私はうなずかない。
「あなた方は“呪い”と呼びますが、私は“現象”を見ます」
指先で、霞音の頬をなぞる。
すこし削れば、爪の跡があった。
(苦しんだ、はずだ。なのに、声も出さず、身を起こすこともできずに死んだ……?)
「お腹を見せていただけますか」
侍女が顔をしかめるのを無視して、衣をまくる。
細い肋骨の下、脇腹に、わずかに赤い刺し跡。
(……やはり)
私の中で、かつて辺境で見た“奇妙な死”の記憶が結びついた。
死後、心臓に明らかな器質損傷がなく、毒も検出されず、それでも死ぬ。
しかも、瞬間的に。
その時と、同じだ。
「これは、心因性の――致死性不整脈による心停止です」
私の言葉に、宦官たちは沈黙する。
香でも毒でもない。
命を絶つには、“心臓”を止めればいい。
だが、そのためには身体のリズムを乱す何かが必要。
供物の菓子。それはトリガーにすぎなかった。
「問題は、この刺し跡です」
私は、脇腹の跡を指す。
「ここにあるのは……鍼です。医療用の、しかもごく細いもの。これは、ただの呪いではありません。医術を逆用した殺人です」
(ああ、また――面倒なことになった)
目を閉じて、天を仰ぐ。
重く、どんよりと曇った空。
まるで、この後宮の空気そのものだった。
私はただ、薬草を煎じて静かに暮らしたかった。
だけど、目の前に“理不尽な死”があるのなら。
黙って見過ごすのは、もっと嫌だった。
数日後、私はまた別の妃の死体と向き合うことになる。
すべての始まりだった。