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サクラサク  作者: 雪兎
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9章


第9章穂積星二・潮里


 再び真穂積家にタクシーで乗り付けた。駅から離れた閑静な高級住宅街は自家用車や運転手付きの車を持つ者にはよいが、来訪者にとっては迷惑以外のなにものでもない。真は残高の少ない財布から紙幣を抜き取って運転手に渡し、お釣りをきっちり受け取って車外へ出た。

 目の前には、12月の灰色の空の下で自分を見下ろしている豪邸が鎮座していた。正直前回は圧倒され、気後れしていた。しかし今回は真にそのような後ろ向きの感情はなかった。

 真はインターホンのボタンを押した。するとスピーカーから潮里の『はい』という明るい声が流れてきた。

「こんにちは、以前弟切密さんの件でご子息の霧人さんのお話を伺ったものです。今回は突然来てしまって申し訳ありません。ちょっと聞きたい事がありまして、本日お時間あるでしょうか?」

 アポイントを取らなかった事が、真が精神的優位を感じている証左であろう。

「あ、はあ、こんにちは。でも、私達はもう……」

 突然の訪問を非難し、それを拒否する気持ちがありありと分かる潮里の口調だった。真は口を一瞬尖らせ、インターホンに顔を寄せてボソボソ呟いた。

「息子さん、霧人さんの出生の秘密の話と、結婚相手のシノの事について聞きたい事が出てきまして。まあ、ワタシはここで、インターホン越しで大きな声で話しても構わないんですけど」

 大企業の役員の妻の座に納まり、多くの人が羨むような家に住み、日々の生活の心配もないのだろう。そんな人生の春を謳歌しているような女性が法の目から隠れるようにして子を成し、いけしゃあしゃあと生きている。庶民を睥睨しているような潮里に、敢えて真は嗜虐を込めて言ったのだった。

 すると『分かりました。少し待っていて下さい』という言葉を残して通信が切れた、間も無く門扉が開いた。そこから覗いた潮里の顔は不安と少しの恐怖に歪み、唇から色が消えていた。

「入って下さい。主人もおりますので」

 潮里の言葉を聞き、会釈に似せて顔を俯かせ、ニヤリと笑った。しかし門をくぐる時にはもう人懐っこい笑顔に戻っていた。

 前回訪れた時とは違う緊張感で張り詰めた廊下を歩いて応接間へ入った。そこにはこの家の主人星二がソファに座って待っていた。その顔には敵意が満ちており、明らかに真を歓迎していないと読み取れた。

 真が挨拶を口にしたが星二は反応しなかった。そこで真は笑顔を見せた。場を和ませようとした訳ではなく、敵地に来たにも関わらず余裕があると見せつける為だった。それはいくばくかの効果をもたらしたのであろう、星二の右眉がピクリと動いた。

 許可を与えられる前に真はソファにドカッと腰を落とした。そして星二の目を真直ぐ見つめた。リビングを緊張感という名の沈黙が占めた。

「潮里、お茶を……。いや、今日はブランデーにしようか」

 星二は真と視線を絡めたままそう言った。するとすぐに高そうなブランデーのボトル、グラスが3つ用意された。すぐに潮里は琥珀色の液体を注いだ。潮里の手は震えており、ブランデーのボトルの口とグラスの縁が触れ合ってカチカチと硬質な音を立てた。

「それで、どのような話を聞きたいのでしょうか」

 自分が用意させたにも関わらず星二はブランデーに口を付けずに即座に言った。質問というよりは、詰問といった口調だった。

 対して真はゆっくりグラスに手を伸ばした。液体が口の中に入ってくると火が点いたように熱くなった。しかし舌で感じる味、鼻腔を抜ける香りは素晴らしく、真はすぐに二口目を楽しんだ。

 そして、持ち上げた時と同様にグラスをゆっくり下ろした。真は猛獣のように睨んでくる星二から視線を外さず、慣れた手つきで鞄から写真を2枚取り出した。

 真は星二から写真に目を移し、満足気に、悪魔的にニンマリと微笑んだ。そしてカードゲームを楽しんでいるかのように、その中の1枚をスーッとテーブルの上を滑らせた。

 ゴクリと星二と潮里の喉が鳴り、2人の視線が写真に集まった。直後、2人の眉根に皺が寄り、訝しげな表情に変化した。

「この人、知っていますか?」

 カメラにピースサインを出して写った、明るい茶色い髪の毛の笑顔の女性の写真を指差して真は言った。テーブルを打つ指先に少しイライラが混ざっていた。

「あなた、この人、シノさんよ」

 写真をジッと見つめたまま沈黙している星二に潮里が言った。『ああ』と星二は応じた。分かっていたのか、今気付いたのかは外から判断出来なかった。

「髪の毛が茶色だと雰囲気が変わるわね。でも、と言うか、もちろん面影があるからすぐに分かったわ」

 メイクや髪型で女性を見前違えた事のある真は、女性とはそのように洞察力が高いのだなと思った。

「うん、シノさんだな。しかし、結婚の挨拶に来た時はもう少し落ち着いた格好だったな」

「星二さん、シノさんに会ったのはいつ頃ですか?」

「確か……、霧人が福井に行く本当に少し前だったと思います。2人はとても仲が良さそうでした」

「そうですか、それで、その後シノさんにお会いしたのはいつですか?」

 真の問いに星二は恥じるような顔になった。

「前にも言ったと思いますが、福井に行った後、またすぐに長崎に転勤になってしまって、それ以来会った事がないんです。暇も無いし、交通費も高いからと言って」

 大企業の役員の星二なら夫婦、いや家族4人で帰ってくる交通費を出す事くらい容易だっただろう。それでも戻ってこないというのは何か親子関係にささくれがあると予想させてしまう。星二はそのような心を向けられるのが辛いのだろうと真は思った。もちろん真は毛程も思っていなかったが、それを言って星二の心を軽くしてやろうなどとは全く思っていなかった。

 そして、シレッとした顔のまま、真はもう1枚の写真を提示した。夫婦と、手を繋ぐ男女の子供が写っている幸せそうな家族写真だった。

 望遠で撮ったので写りが良くない写真を、星二と潮里は穴が開くようにジッと見つめた。2人の顔にほぼ同時に影が射した。

「この写真ですが、最近ワタシが長崎に行って撮ってきたものなんです。証明するものがないからそこのところは信用して頂くしかないのですが」

 ここが勝負所だと思い、真は言葉を一度切って空気を鼻から大きく吸った。そして部屋には3人しかいないのに、声を潜めて付け加えた。

「霧人さんですが、浮気をしてるとかじゃないんですよ。この人は……」

「弟切……」

 呻き声に似た言葉を星二は口にした。すぐに手で口を塞いだ。顔面は真っ白だった。

「ええ、そうです。この深刻な状況をお2人ならよく分かるのではありませんか? ワタシは聞きたいんです。色々な人を不幸にしてしまった原因を作った、あなた達に」

 星二と潮里は小刻みに肩を震わせて沈黙を守っていた。

 無駄な時間が徒に過ぎていくのに耐えられなくなった真は、もう1つの切り札を出す事にした。

「星二さん、あなたは“A氏戸籍問題裁判”の当事者だったんですよね。昔の事だったので、さすがに気付くのに時間がかかってしまいました。あなた達が子供を得る方法はそれしか無かったのだと思います。しかし、俺にはそれが原因で人が1人死んだと思っているんです。お願いです。真実を教えて下さい」

 頼んでいるような台詞ではあったが、真の勢いは猛烈だった。しかし、まだ星二は言葉を発さず、そればかりか顔を怒りで歪ませていた。

 その顔を見て、真は顔をハッとさせた。彼等の関係をまっぜっ返したのは自分でだと知らせようと思った。

「あっ、1つ言っておかないといけないと思ったのですが、霧人さんの出生の秘密について弟切さんはお2人に繋がるような事は何も口にしていません。ワタシがしつこく聞きましたが、穂積さんの名前は絶対に口にしようとしませんでした。ワタシが勝手に予想したんです。それと裁判の話は、インターネットで調べてみたら出てきたんです。でもそれで合点がいきましたよ。星二さんがジェンダー問題に先駆けて活動している企業に勤めている事が」

 『バン』と音が立つくらい強くテーブルに手をつき、真は深々と頭を下げた。ただ2人の視線から陰になったその顔は、探求心と好奇心がありありと現れていた。

 とても深い溜息が星二の口から漏れ出した。

「分かりました。そこまで知っているのなら話しましょう。この写真が本物なら、もう取り返しのつかない事が起きているみたいですから。

 幸せそうな家族写真を、まるでそれが蛇蝎でもあるかのように顔を歪めて星二は睨んだ。そして唇を震わせ、細々と言葉を紡ぎ出したのだった。

 ――穂積家にまた1人赤ちゃんが産まれた。両親は目に涙を溜めて喜び、2人の姉もベッドを覗き込んで守るべき小さな存在に目を輝かせていた。

 赤ちゃんは“星楽(せいら)”と名付けられた。

 6歳離れた長女、4歳離れた次女と続いて3人目の女児だったが、両親は落胆した様子は一切見せなかった。そして、女子3人は正に蝶よ花よと育てられたのだった。

 パパは高校の教師、ママは看護師をしており、それなりに裕福な家庭だった。よって3姉妹は小さい頃から可愛らしい洋服に囲まれて育ったのだった。

 着せ替え人形のように可愛らしい洋服を着せられた星楽は、疑問を抱かず育った。ほぼ家族4人しか目にしないのだから当然と言えば当然だった。1歳になって保育園に入ってしばらくの間もそうだった。

 星楽が4歳くらいになった時、その幼い頭に突然違和感が湧いた。それは保育園にいたママや姉達とは違った小さな生き物の存在だった。

 それらは乱暴な言動をとり、時には保育園のオモチャを壊したり友達を叩いたりした。また自分を違う存在と夢想しているらしく、本来の名前と違う名前を叫び、虚空に手を突き出したりしていた。そしてそれらがお漏らしをして泣いているのを目にした時、お風呂で見たパパと同じような体の構造をしているのだと思った。

 どうやら世の中の半数を占めているらしいそれらに星楽は興味を持った。そしてそれらと一緒に行動する時間を増やしていった。

星楽はそれらの習性を知る為、それらが興味をもっているテレビの番組を観てみた。全体にゴツゴツした黒っぽい怪物が出てきて、画面内で爆発が起きるし音も凄かった。しかし、星楽はなかなか面白いと思った。

 更にそれらは青や黒い服を好み、自分が着るようなスカートではなく、毎日ズボンをはいていた。やはり星楽はそれも真似してみたが、ズボン姿の自分も結構いいないと思った。

 問題は体の事だった。自分にはパパやそれらが付けているものが無い。ママや姉達にも無かった。星楽はそれがどうやったら生えてくるのか両親に質問した。すると両親に笑われて『ママみたいにおっぱいが大きくなるのよ』と言われた。意味が良く分からなかったが、何だか胸が苦しくなった。

 星楽は友達の多い子供だった。男子も女子も分け隔てなくなく遊び、いつも周りに人が溢れていた。また他の女子よりもズボンをはく事が多く、且つ男子が知るアニメや戦隊モノにも詳しかったので男子によく囲まれた。

 しかしながら、星楽は少女マンガも好きだった。中でもママのコレクションの『ベルサイユのばら』は大好きで、1回読んでもオスカルの虜になってしまった。星楽は両親に男子が着るような服を買って貰い、旅行先で買ったプラスチックの刀を振り回した。

 小学6年生になり女子と話していて、星楽は自分と周りの女子達がちょっと違うのではないかと思い始めた。それは特に恋の話をしている時であった。

 修学旅行の夜の事だ。時に反目し合い、時に悪口を言い合う女子と男子であったが、友達の優菜が男子の健吾の事を好きだと言った。そしてそれにつられるように友達は好きな男子の名前を口にした。好きな人が重なると、小さな叫び声が上がったりした。

 星楽も聞かれた、一番仲が良く気の合う男子の名前を口にした。しばらくの間、修学旅行の部屋は女子の嬌声で満たされた。それを少し離れて聞いていた星楽は、自分の“好き”と他の女子の“好き”がちょっと違う事に気が付いた。優菜が健吾に向ける“好き”という感情は、自分が麻緒に向ける“好き”と似ていると思った。

 学校の性教育で“思春期”という言葉を覚え、自分の胸にわだかまるモヤモヤはその一環だと無理矢理納得していた。しかし時間が経つにつれ、最初小さな影のようだったそれはドンドン大きくなっていった。

 胸が膨らみ始め初潮を迎えた事。中学に入って制服でスカートを毎日はかなくてはいけなくなった事。男子と話していると不本意な噂が立ったり、時には嫉妬の感情を向けられる事など、いつしか星楽の胸の奥の不安と違和感は化物のようになっていた。

 高校生の時、星楽は1人の女子に告白した。すると、その女子は星楽の気持ちを受け入れてくれたのだった。2人は手を繋いで登下校し、人目を避けて唇を重ねた。

 しかし、ある日星楽が自分の部屋でそれ以上の行為に及ぼうとスカートの中に手を入れた時、その女子は突如拒否し、血相を変えて帰っていってしまった。

 その翌日から星楽は針のむしろだった。件の女子は途中まで自分も楽しんでいたのに掌を返し、他の者達と一緒に星楽を『レズ』というレッテルを貼ってきた。

 男子生徒は今まで通りに接してくれていたが、一皮剥いた内側には女性同士の関係への好奇心に満ち溢れていた。時おり下卑た質問を星楽に浴びせてきたのだ。

 しかも、男子も女子も高校生になると狡猾だった。教師達には星楽を異分子扱いしている気配は全く見せず、平穏で仲の良い学生を演じたのだった。

 この段になって星楽は悩みに悩んだ。そして誰にも相談出来ず、星楽は図書館に足繁く通って自分に何が起きているのか調べた。

 当時はまだ一般的ではなかった『性同一性障害』だと分かった。自分は学校で言われている『変態』なのではなく、ある意味病気に分類されるのだと知って安堵した。そして事が発覚したのが高校2年生の3学期だった事を幸いに、直接攻撃してくる者や日和見を決め込む者を無視して勉強に集中したのだった。

 そのお陰で高校3年生の成績は良くなり、星楽は都内の国立大学へ現役合格を果たした。通っていた高校からその大学へ進学した者は、星楽しかいなかった。

 星楽は北関東の出身で、新幹線が走っていない事を口実に都内で独り暮らしを始めた。自分を知る者が誰もいない新天地で、星楽は久しぶりの開放感を味わった。

 入学式までに星楽は髪の毛を耳が見えるくらいまで短くし、紳士もののスーツを買った。そしてどこから見ても男にしか見えない格好で参加したのだった。

 星楽は本来の姿に戻って大学生活を送った。名前も“星二”と称した。第二の人生を始めたという証として。

 大学で星二は登山部に入った。色々な山に登り、アウトドアの食事を楽しんだ。もちろん合宿で泊まりの山登りもあったが、慎重に慎重を重ねて自分の体が女性である事はバレないようにした。

 星二は出来るだけ他人から“男”と見られるように工夫した。カラオケで声を潰して低くし、言葉も敢えて粗野なものを使用した。靴は背が高く見えるようになるものを選び、洋服は体の線が際立たないものを選んだ。

 星二は女性から何度か行為を寄せられた。中には生唾を飲み込むくらい星二の好みの女性がいたが、高校時代のような目に合うのを避け、『許嫁がいるから』と断った。その日の夜は悲しみの涙で枕を濡らした。

 大学の友人には隠し通せたが、さすがに企業には通用しなかった。履歴書には法律上の性別を書かざるを得ず、面接では容姿を散々糾弾された。結果、星二はどの企業からも内定を貰えなかった。

 同じ登山部の岸田を初めとする4人の友人に心配された。星二は真相を話せず、『社会の歯車になりたくない』と言い訳をして企業への就職を諦めた。そして下町の工場のライン工になったのだった。

 大学を卒業した年の夏、岸田から連絡があった。キャンプ場でバーベキュー合コンをしないかというものだった。星二は悩んだ末に参加する事にした。

 すると葛城から『車を出してくれ』という連絡がきた。星二はこれが目的だったかと看破した。

 在学中一度も実家に帰った事が無かった星二だったが、連絡は取り合っていた。そしてそれなりに裕福だった両親は星二に車を買ってくれた。学生の間も星二は登山に行く時車を出していたし、万が一の事を考えて飲み会では1滴も酒を口にせず運転手を買ってでていた。

 また自分を運転手と運送係にするつもりだろうと葛城に言ったら、『バレたか』と臆面もなく認めたのだった。

 当日は5対5になると聞かされ、星二は自分の車は5人乗りだから全員は乗れないと言った。すると女子側で1台、そして仲間の増尾も車を出すと言われた。

 当日になり、星二は岸田をピックアップし、大型スーパーで食材と酒、木炭を買い込んで東京の郊外を目指した。買い出し係を兼ねていたので、星二と岸田は現地に最後に到着した。

 土曜日の午前10時に集合するという、とても健康的な形でバーベキュー合コンはスタートした。1時間程バレーボールやバドミントン、フリスビーで遊んだ後バーベキューが始まった。

 食材も酒も余る程買ってきてしまったかと思ったが、みるみるうちに減っていった。そしてそれに反比例して酔いどれが増えていった。ただ食材は無くなっても酒はまだ残っており、参加者は運転手以外ダラダラと飲み続けた。

 テントを持ってきていなかったので泊りはないなと星二は思っていた。酒は飲めないし、女性に食指を伸ばすのも自重していたので、日が傾く前に独り後片付けを始めた。

 洗い物やゴミの処理をしていると、いつも間にか女性が側にいた。そしてその女性のお陰でどんどん片付けが進んでいる事に気が付いた。確か“木嶋潮里”といったと思った。

 そう言えば、潮里は仕込みの時も日向となり日陰となり、色々と手伝ってくれていた。星二は高校を卒業するまで女性として育てられていたので家事は得意だったが、潮里のサポートのお陰で準備は思ったより速く終わっていたのだった。

 返事以外は一言も発せず黙々と作業をこなす潮里の横顔を見て、星二はしばしば手を止めてしまった。すると不思議そうな顔を潮里が向けてくるので、星二は慌てて顔を背けた。

 空が紅く染まってきて、バーベキュー合コンは終わりを迎えた。そして参加者は3台の車に分かれて帰路に着く事になった。

 来た時は男女別の車だったが、帰りは気の合った者達に分かれていった。星二は自分からは口に出さなかったが潮里に自分の車に乗って欲しいと思った。偶然、いや潮里も積極的に男性陣と話していなかったので必然と言えるだろう、ある意味押し付けられるように星二の車に潮里が乗ってきたのだ。

 同乗者の家の場所をそれぞれ聞き、星二は頭の中でルートを築き上げた。もちろん潮里の家を最後にするように。

 潮里と車の中で2人っきりになり、潮里の家が近付いてくるにつれ星二の喉は急激に渇いていった。そして、星二は意を決して潮里に声を掛けた。

「き、木嶋さん、今日はあまり話していないようでしたけど、楽しめましたか?」

 今まで沈黙が垂れ込めていたのに突然の事で驚いたのだろう、潮里は体をビクッとさせた。星二に向けられた顔は不安一色だった。

「あ……、はい。楽しかったです……」

 顔、声から察するに、それは嘘だと星二は思った。ただ自分の問い掛けに返事をしてくれたのは嬉しかった。

「木嶋さんは、何が好きなんですか?」

「あっ、スターウォーズとか……」

 不意を突かれた回答に星二思わず吹き出してしまった。まさかバーベキューをした帰り道に好きなものを聞いて映画の話が出るとは思わなかったからだ。

「ごめんなさい。俺が悪かったんですよね。えっと、食べ物では何が好きかなって」

 すると潮里は少し顔を赤らめ、小声で『蕎麦です』と言った。それから星二が問い、潮里が短く答えるというものが3回続いた。星二は『木嶋さん』と名前を言えるのが楽しく、アクセル操作をミスしないように気を引き締めたのだった。

「あっ、あそこのマンションです」

 潮里は古いが瀟洒なマンションを指差した。その細く白い指を見て、星二は心臓が強く拍動するのを感じた。そして同時に抑えきれない想いが口から飛び出した。

「あのー、木嶋さん。実は、言いたい事があって……、俺と付き合って貰えませんか?」

 言ってから星二はしまったと思った。答えがダメならもう潮里と会う理由がなくなる。ならば、何度か会えるように遊びに誘うべきだったのではないかと。

 ただ星二は焦っていたのだ。星二にとって魅力的な女性が、もたもたしている間に誰かにかっさらわれてしまうのを。

 潮里は目を丸くしていた。

 口にしてしまった瞬間は興奮していた星二だったが、すぐに頭は冷静になっていった。そして言わなければいけない事があり、落ち着いて話せるように車を止めた。

「ごめんなさい。突然で、それは驚きますね。そ、それで、もっと驚くかもしれないんですけど……、木嶋さんには話しておかないとフェアじゃないというか、だましているみたいな事があって……」

 星二は砂漠のような喉に固唾を流し込んだ。視界は小刻みに揺れていた。

「告白してすぐこんな事言うのはなんだけど、俺、実は“女”なんです」

 そういうなり、星二は思い切って潮里の手を掴んで自分の胸に当てさせた。服の下には女性としての膨らみが隠れていたのだ。

 先程よりも潮里の目が驚きで大きくなった。しかし星二にとっては幸いな事に、その目からは嫌悪の感情は伝わってこなかった。

「俺、体は“女”なんですけど、心は“男”で、女性が好きなんです。だから……。でも、こんなの気持ち悪いですよね。忘れて下さい。さようなら」

 自分で結論付けて星二はハンドルに額を置いた。そしてドアが開く音が聞こえてくるのを待った。しかしいつまでも車の中は静寂が続き、予想外な事に潮里が口を開いた。

「ちょっと時間を下さい」

 明らかな断りの言葉ではない事に星二は驚いた。そして潮里の言葉に遅れて何度も首を縦に動かした。

 そして慌ててメモ帳に自分の連絡先を書き、勢いで住所まで書いてしまった、ページを破いて潮里に渡した。潮里は大切なものであるかのように扱い、そっとバッグにしまった。

 潮里は『それでは』と言って車のドアを開けた。直後星二は言葉を飲み込んだ。何時まで待てばいいのか聞きたかったが、それをすると潮里を追い打ちし、ストレスを与えると思い止まったのだ。

 期待と後悔を抱いて星二は日々の生活を送った。仕事は単調なライン工だったので、どうしても潮里の事、自分の言葉を思い出してしまい懊悩してしまうのだった。

 鉛のように重い足を引きずりトボトボ帰ってきたある日、星二は郵便受けを覗いて驚いた。なぜなら、潮里からの手紙が入っていたからだ。

 何故手紙が届いたのか星二は驚いたが、先日潮里に連絡先を渡した時に電話番号と一緒に住所を書いたのを思い出した。触った感じだと便箋が2、3枚入っているようだった。星二はその場で開けたい衝動にかられたが、不測の内容に目眩でも起こしたら大変と、逸る気持ちを抑えて部屋に駆け込んだ。

 手紙を読んだ星二は予想すらしていなかった内容に衝撃を受けた。そして2度手紙を読み返し、カレンダーと時計に目をやり、部屋を飛び出した。

 ハンドルを握る手にめちゃくちゃ力が入っているのを自覚し、星二は深く息を出し入れして気持ちを落ち着かせた。そして都内のある公園に事故も起こさず辿り着いた。

 もう日が落ちてしまった広い公園を星二は駆けた。目をあちこちに走らせながら。街灯の光がギリギリ届く場所にあるベンチに、1人の女性が座っていた。星二はそれが潮里であるとすぐに分かった。

 星二は潮里の前に立った。潮里の顔が上がり目が合った。潮里の顔はロウのように白く、彫像のように表情がなかった。

 しかし潮里の目から涙が1粒零れ落ちた。その中に、星二は潮里の人生の苦しみを見て胸が潰れそうになった。

 潮里は手紙に、正直に自分の事を開示した星二に、自分の事を隠したままにするのはフェアではないと書いていた。

 潮里は高校2年生の時に初めて彼氏が出来た。そこそこ勉強は出来るが、学校ではあまり目立たない眼鏡の同級生だった。

 図書館や公園など、当時の高校生のデートとしては落ち着いたものを重ねた。そして1学期の期末テスト前に、2人は彼氏の家で勉強する事にした。

 彼氏は妙に焦っているように潮里を部屋に招き入れた。潮里は家が静まり返っているなと感じていた。

 潮里が彼氏の部屋に入り、後ろでドアが閉まる音が聞こえた。一瞬遅れて鍵がかかる音がした。部屋は片付いているが、これから勉強をするというような雰囲気は無かった。

 その刹那、彼氏が後ろから抱き付いてきた。そしてそのままベッドに押し倒された。潮里は抵抗したがブラウスを捲り上げられ、ブラジャーを剥がされ、スカートの下からショーツを手荒に脱がされた。

 細いといっても男の力は強く、潮里は彼氏の軛から逃れ出る事が出来なかった。そして心のどこかでもう諦めなければいけないのかと覚悟していた。

 彼氏が無理矢理潮里の中に入ってきた。彼氏が童貞で勝手が分かっていなかった事、潮里も処女であった事、恐怖で潮里が受け入れ態勢が出来ていなかった事もあり潮里は痛みを感じた。

 恐怖と心配で醒めていく潮里の上で彼氏は獣のような顔で前後に体を動かしていた。その彼が恍惚となり動きが止まった。潮里は初めてだったが、己の身に降りかかりかけている危険を感じた。

 潮里は急いで彼氏を抜いた。その直後欲望が迸った。不幸中の幸いで、それは白いブラウスが受け止めた。潮里は下着を掴んでカバンに入れると部屋を飛び出した。そして急いでブラウスをスカートに押し込み、後ろも振り返らず駆けていった。

 公園のトイレで潮里は下着を着けた。目から涙が落ちた。純潔を奪われたからなのか、恐怖からか、無防備に男の部屋に入ってしまった自分の愚かさからか、潮里には自分でも分からなかった。もちろん期末テストは散々だった。

 それ以来潮里は男性に不審と恐怖を持つようになった。女子大に通い男と接触する機会から逃げた潮里だったが、当然事情を知らない友達は潮里を色々な場所に誘ってきた。ほとんど断っていたのだが、あのバーベキュー合コンは断り切れず仕方なく参加したのだ。

 男性は女性を、女性は男性を狙い物色する中で働く星二に潮里の目が留まった。潮里は星二の元へ逃げ込み、それを隠すように手伝いに没頭した。男性にしては柔らかな体の線に安心し、料理の仕込みの手際の良さに感心した。

 星二に告白された時は正直戸惑った。そして生物学上と戸籍上は“女性”だと聞かされて驚いた。

 しかし、正直嫌な気はしなかった。

 それから潮里は必死で真面目に考えた。そして、男性女性という垣根を超え、星二の事が好きだという事に気付き、その気持ちを受け入れようと思ったのだ。

「ありがとう、木嶋さん。でも手紙って」

 すると潮里がペロッと舌を出して笑った。初めて見る笑顔に、星二は全てを奪われてしまった。

「ちょっと電話で話すのが怖かったし、手紙で会えたら運命を信じられるかなって思って」

「それなら、俺が来なかったら……?」

 星二の声は慄えていた。

「それも運命。尼寺にでも入っていたかもしれません」

 冗談めかしているが、潮里はあの手紙に人生を賭けていたのだろう。その細い糸を握れた奇跡に、星二は恐怖と安堵で膝から力が抜けていくのを感じた。

 付き合い始めてしばらく星二は楽しかったが、将来に不安を覚えた。ある日突然潮里が自分に愛想尽かして出ていく幻想にさいなまれたのだ。そこで星二は体も戸籍も男になり、潮里と正式に結婚する道を模索し始めた。

 心療内科で正式に性同一性障害であると診断を受けホルモン治療を始めた。声は低くなり、体つきは角が出て、生理が止まって髭が生えてきた。星二は本来の自分に近付いているのを実感出来て嬉しくなり、鏡の前で満足気な笑顔を表すようになった。

 しかしそれだけでは目的を達成できないと星二は知った。

 そして胸を手術で取り、遂に戸籍を“男”に変えたのだった。

 星二は更に階段を上ろうとした。それは潮里との結婚だった。もし産まれ落ちた時から男であったら潮里を奪っていただろうが、いやそれならむしろ悩む事もなかっただろう、そうではない星二は他の人達以上に手順にこだわった。

 星二は潮里の実家を訪れた。以前車で送った瀟洒なマンションで、室内も幸せの漂う家だった。優しそうな両親は、どこから見ても男性の星二の訪問を喜んだ。しかし星二の告白を聞くと、さすがに顔に影が射した。

 すると実家でも小さくなっていた潮里が動いた。星二を愛している事はもちろん、高校時代の自分の心と体の傷の事を話したのだった。その為潮里は男が怖く、このままなら結婚もせずに一生を終えるだろうと主張した。

 潮里の両親も娘の勢いと一途な想いに折れざるを得なかったようだ。星二は晴れて潮里と夫婦となる事が出来た。

 星二は風呂に入っている時、潮里との愛を交わしている時に違和感を覚えていた。自分の体に足りないものがあると。しかし、それが潮里に過去の恐怖を思い出させるかもしれないかと思うと、自分の一存では決められないと思った。

 そして、もう1つの問題も。

 ある晩、星二と潮里は紅茶ポットを挟んで話し合いを持った。星二の体の事と子供の事についての議題を肴に。

 星二は陰茎の形成を考えている事。そして2人で子供を育てたいと潮里に伝えた。しかし陰茎形成には金がかかる事、すると子供を持つのに支障が出るのではないか心配していると伝えた。

「でも、私達が子供を持つとなったら、養子しかないでしょ。子供をお金で買う訳じゃないんだから、あまり心配し過ぎる必要ないんじゃないの?」

 もう潮里は星二の事を完全に受け入れていたので意見に遠慮は無かった。

「うん……。そうなんだけど……」

「教育費の心配? 私も働くから大丈夫よ。あなたの体を本来のものにしていいのよ。私もあなたのなら、見ても不安にならないから」

 潮里にそう言われても星二の顔は晴れなかった。そして沈黙が訪れた。突然星二は固唾を飲んだ。音が部屋に響き、舌で唇をなめてから口を開いた。

「それだと、俺達が育てる子供はどっちの血も引いていない事になるだろ。俺はせめてどっちかの血を受け継いだ子供が欲しいんだ。その方法は精子を誰かから買うしかないって思ってるんだ。日本には精子バンクとかが無いから、秘密裏にね。その男への謝礼と、口止め料に結構な金額が必要になると思うんだ。そうなると、俺の陰茎形成の金がなくなる。それでも、やっぱり俺は潮里の血を受け継いだ子供が欲しいんだ。」

 静かな口調だが、誰も反対意見を差し込めない決意に満ちた口調で言った。それを感じた潮里は首を縦に動かした。目に涙を溜めながら。

 星二の頭に最初に浮かんだのは大学時代の4人の友人だった。しかし頭を振って考えを追い出した。そもそも彼等は自分の産まれた時の姿をまだ知らないからだ。

 そうかと言って誰でもいい訳ではなかった。潮里の体に負担をかけるのだし、産まれてくる子供の未来もあった。精子提供を受ける誰もが思う事であろうが、やはり星二も出来るだけ優秀な人が良いと思っていたのだ。

 あても無ければ、良いアイディアも生まれず数ヶ月が過ぎた。目の間に縦皺を寄せていれば状況が打開する訳でもないと思い、星二は潮里を誘ってプロ野球観戦に出掛けた。

 星二が応援していたチームの圧勝だった。ホームランも3本飛び出し、その度に星二は声を嗄らして声援を送った。その間は日頃持っていた悩みから解放されていた。

 久しぶりにストレスから解放された事、応援していたチームが勝った事もあり、星二の気持ちは晴れやかだった。そこで帰り道に意気揚々と場末の居酒屋に入ったのだった。

 酒とつまみを口にしていた星二だったが、突然動きを止めた。それに不審と心配を抱いた潮里が声を掛けてきたが、唇に指を縦に置いて制したのだった。そしてこっそり隣のテーブルを指差した。

 少々くたびれかかった男女が酒宴を開いていた。しかし雰囲気に華やかさは全く無かった。しかし問題は話の内容だった。

 どうやら2人は夫婦らしかった。そして男は名の知れた大学を出て、メガバンクに入行したらしい。何かのきっかけで銀行を辞める事になったらしい。働いていた頃にある程度蓄えがあったらしいが、今はそれも尽きかけていると嘆いていた。そして、男の方が外食産業を興したいらしいが、資金の面で困っているようだった。

 話が本当であれば、精子の提供者として経歴は申し分ない。更に金に困っているなら、自分が金を出す事で優位に立てて口止めも出来る。星二はこの僥倖に笑みを出さずにはいられなかった。

 星二は思い切ってその夫婦に声を掛けた。そしてテーブルを同じくして、資金を出す代わりに精子を提供してくれるよう提案した。当然男は訝しんだ。しかし精子を提供するだけで金が手に入り、その後の責任は無いという好条件に首を縦に振った。

帰り道、潮里は本当にいいのかと尋ねてきた。星二は陰茎形成の為の金を使えばいいと応じた。星二の事を思った潮里は顔を青くして反対したが、将来の事を口に出すと潮里は目に嬉し涙を溜めつつ納得してくれた。

件の男には、潮里の排卵日に合わせて精子を届けさせる約束だった。さすがに1回目では妊娠しなかったが、何回目かで潮里の生理が止まり、産婦人科で妊娠が認められた。

潮里の子宮で胎児はすくすくと育ち、予定日から数日遅れて男児が産まれてきた。2人は“霧人”と名付けた。

しかし、ある問題が生じた。役所で星二を父親として認められなかったのだ。

星二は激怒し、訴えた。他人から精子提供を受けた夫婦や代理出産で子をもうけた夫婦の間の子が嫡出子と認められているのに、何故自分達にも適用されないのかと。理由は星二が元は女性で、生物的に男児の父親足り得ないからと。

おかしいと感じた星二は毎日役所に出向いて訴え続けた。しかし職員は頑として受理しなかった。そして日は無常に流れ、霧人は無戸籍の子供になってしまった。

健康保険も使えないかもしれないし、成長していっても学校に通えない可能性もある。親としては子供の将来に不安を覚えた。嫡出子と認めないという役所の提案を受け入れれば、それらの懸念は払拭されるだろう。

しかし、星二は拒否した。

そして、星二は裁判を起こした。

人権関係に明るい弁護士を雇い、世論を味方につける為に駅前でチラシを配った。もの珍しい話を聞きつけたテレビ局が取材にもきた。

星二は悩んだ。多くの人に自分達の苦悩と訴えを知って貰えるチャンスだが、家族に好奇の目を向けられる危険性が出るからだ。それを潮里に話すと『私達は大丈夫』と、背中を擦りながら言われた。追い風を得た星二は、先の見えない暗闇の大海原に漕ぎ出した。

闘いの場は地方裁判所から高等裁判所へ、そして最高裁判所に移っていった。今のところ1勝1敗で、当然だが星二達3人の運命は最高裁判所の判断にゆだねられた。

長く苦しい闘いを続けていたら、霧人はいつの間にか9歳になっていた。大学時代の同級生の岸田から連絡があった。内容は同期5人で起業しないかという誘いだった。

正直星二は苛ついてしまった。ただ噂を聞きつけた4人が資金援助してくれたり、村越が紹介してくれた会社に入れたお陰で生活も安定するようになっていた。その恩があったので無下には断らなかったが、今は精神的に余裕が無いと丁重に断った。

4人は『分かった。そうだよな。頑張れよ』と言ってくれた。数年前自分の事を打ち明けた時も、驚いた顔はしたが、歓迎してくれた。星二は4人の友情に男泣きした。

そして4人が起業したIT企業が躍進していくのを、星二は喜ばしく思っていた。

霧人が12歳の時、遂に星二達と国との決着がついた。星二と霧人は正式に親子と認められたのだった。星二と潮里は抱き合って号泣した。

その後の人生は順風そのもので、星二は社内で出世していき、潮里の精神は安定し、霧人は健康に育っていった。そして霧人が就職する時、偶然同級生達が創ったIT企業を受けていた事を知り驚いた。そして岸田に連絡をして、内定を得た時は喜んで礼を伝えた。

就職しても霧人は独り暮らしを解消しなかった。同じ都内だったが、通勤の時間が1秒でももったいない事、夜遅くまで作業する可能性がある事などが理由だった。この時それなりの地位になっていた星二は、霧人の就職祝いに惜しむ事なく金を投入した。

霧人はほとんど帰ってこなかったが、女性の影はチラついていた。そしてどうやら同棲していると予想出来る言動が散見された。

霧人が就職して2年後、結婚すると言ってきた。まだ早いのではないかと思ったが、自分達のように障害の無い結婚に喜んだ。

しかし、ある日25年前に交わした契約を無視してある夫婦の男性が連絡してきた。お互いの子供達が結婚しようとしていて、それを阻止したいというものだった。

男性に見せられた写真を見て、化石になりかけていた記憶が呼び起された。霧人の横で笑う女性の顔が、25年前に会った夫婦の面影を持っていたからだ。更に霧人と並ぶと、恐ろしい事に、どことなく似ていた。星二と潮里は悪魔の奇跡を呪った。

男性は娘の密を同棲している部屋から連れ出し、監視下に置くと言った。そして星二達には霧人と密をどうにかして引き離して欲しいと懇願してきた。

血の繋がっている2人の結婚は、2人だけの問題ではなくなる可能性があった。今のところ戸籍上は問題無い事になっているが、マスコミにでも嗅ぎつけられたら騒がれるだろうし、自分達の時とは違って批判を煽ってくるだろう。そして何よりも産まれてくる子供にリスクを背負わせるのが心配だった。

そこで星二は岸田に連絡した。そして事情は聞かずに霧人を東京から異動させてくれるように頼んだ。岸田は本当にいい友達だった。自分のいる大阪支社で動かしたいプロジェクトがあるので、霧人を呼ぶと快諾してくれた。そして、理由は一切聞かれなかった。

2年後、霧人が結婚するから相手を連れてくると連絡してきた。前の事があったので心配だったが、今度は件の夫婦に似ても似つかない女性だった。星二と潮里はホッと胸を撫で下ろしたが、安心すると女性が妙に現代的であるのが気になった。しかしながら霧人が選んだ女性だという事と、健康な孫が産まれてくるだろう安心感に納得したのだった。

更に霧人と岸田からほぼ同時期に福井に異動になるという連絡があった。霧人が望んでいるという両者の言う事に齟齬は見られなかった。

すると間も無く、霧人は長崎に異動する事になった。再び岸田から連絡があった。閑職になってしまったが、これも霧人が望んだ事らしかった。霧人に聞いてみたら、結婚相手のシノの呼吸器が弱く、空気の良い土地に住みたいからと言われた。

時々入る近況報告で孫が産まれた事を知った。嫁のシノは挨拶以来姿を見せていないが、霧人と孫2人はたまに東京に遊びにきた。

2人の孫の内、上の男の子康太郎に障害があった。どんな夫婦の間にもその可能性はあるので、これも運命かと星二と潮里は腹に納めた。

――自分達の人生を語り終えた星二と潮里は、気持ちが晴れやかになっているように見えた。2人にとってはかなり重い荷物だったのだろうと思った。

そして同時に真は反省した。この日潮里を見た時、暢気な金持ちの妻だと思ってしまった事を。人に誇れない過去を抱えながら、人に微笑みかけていた潮里に尊敬の念を抱いた。

「それでは、霧人さんは普通に育ったので、この写真にあるような人物ではないと?」

 真は家族写真を示しながら言った。即答されるかと思ったが、意外にも星二は口を開くのを一瞬躊躇った。

「……それは、一般的に言う“普通”からは少し外れているかもしれません。私達がこのようですから、霧人には何事においても偏見の無いような人間に育てようと思いました。それはとても良いと思うのですが……、その……」

 星二の目が左右に揺れた。喉が急に渇いたのか紅茶に手を伸ばした。そして一瞬目を瞑った後、再び口を開いた。

「何でも受け入れてしまって、善悪の基準が他人(ひと)とは違っているようなのです。例えば複数の女性と同時に付き合っても罪悪感が無いみたいなのです。それに、霧人は私達が見てもストレートなのですが、男ともその、関係をもった事もあったみたいなのです。霧人は、それを何でもない事みたいに夕食の時に話していました。もちろん何でそんな事をしているか聞きました。霧人は、相手に求められたからと言っていました。私達が相手は1人にした方がいいのではとか、私が言う義理はありません女性とだけにした方がいいのではと言ったのですが、霧人はキョトンとしていました」

 衝撃的な話で、真は呆然としてしまった。しかし、どこか理解出来るものもあった。その為、真は無言で首を縦に動かし、星二に話を続けてくれるように促した。

「だから、霧人は、その密さんを一度は選んで……。別れさせた時、その時は特に抵抗とかはしませんでした。でも、もしかしたら少し続いていたのかもしれません。でも、その後シノさんを連れてきて、私達の知っている誰の面影も見られないシノさんを見て、とっても安心したのです。だから、霧人は密さんとちゃんと別れ、今は幸せに暮らしているんです」

 星二は言いながら片手でこめかみを挟んで顔をしかめた。その様子から、内心の葛藤が容易に見て取れた。

「なら、これはどう説明しますか?」

 家族写真を少し星二に近付けた。すると御札を見せられた悪霊のように、星二は体を引いて顔を青くした。

「うっ……、それは……」

 ついさっきまで饒舌だった星二の舌が凍り付いていた。

「合成写真とでも?」

助け舟のような言葉を向けたが、星二はそれに飛び付いてこなかった。さすがに冷静だなと考えた。

 真はハッとした。目が細くなり、表情も乏しくなり、声音も弱くなっていて、無意識に星二を追い込んでしまっていたのだと思った。そこで無理矢理表情を弛め、努めて優しい声で話し掛けた。

「お察しの通り、合成ではありません。この一年で撮ったものです。つまり霧人さんは……」

「いや……」

「別に疑っていません」

 真と星二の言葉を遮るように潮里が口を開いた。冷静で冷徹なその声は、完全に優位に立っている筈の真の肝を冷やさせた。

「もし、この写真に写っているものがあなたの言う通りなら、何をしたいのですか? 雑誌に記事を掲載するつもりですか? それとも警察に訴えるつもりですか?」

「お願いします。それだけは止めて貰えませんか。倫理的には問題かもしれませんが、霧人は何か罪を犯した訳ではないでしょう?」

 対して星二は縋り付かんばかりの必死さで訴えてきた。

 潮里は静かなる恫喝で、星二は良心を揺さぶる手段で説得してきているのだと真は感じた。血の繋がっていない星二の態度は、長い間一緒に過ごした情からなのか、今の地位から終われるかもしれない恐怖からなのか、真には判断がつかなかった。

「正直、どうするかは分かりません。罪があるならば市民の義務としてしかるべき所に伝えなければなりません。記事に関してですが……、掲載はデスクの判断に任せます。とにかく、私は真実を知りたいだけなのです。そう、真実を……」

 言葉の最後の方で、真は窓を透かして遠くの方を見つめた。

 そして、テーブル上の写真をかき集め、静かに立ち上がった。哀願する星二を、睨む潮里を睥睨した。口を開いたが、真自信も驚くくらい優しい言葉が出た。

「ありがとうございました。ワタシの聞きたかったお話は全部聞けたと思います。ワタシの知りたい“真実”が分かったらどうしますか? もしご希望なら、ご報告に参りますが」

 星二も潮里も口を開かなかった。それを見て、真は失笑してしまった。

「フフッ。あ、いや、申し訳ありません。お2人に伝えるかどうかは、わたしの方で判断します。それじゃ、失礼します」

 頭を軽く下げて真はドアの方へ向かった。その時、潮里が背中に声を投げ掛けてきた。声に震えはなかった。

「もしかして、この後霧人達の所へ向かうのですか?」

「そうですね。材料は全て揃いましたから。それを提示し、ワタシの知りたいものを知っているかどうか、聞いてみたいのです」

 今回2人は見送りにはこなかった。

 もう知りたい事の無い家を真は出た。そしてチラリと振り返った。その瀟洒な住宅は、真の目にはもう抜け殻のようにしか映っていなかった。

 高級車は通るが、歩行者がほとんどいない住宅街を歩いていると猫が前を横切ろうとしてきた。真は鞄の中に忍ばせていた菓子パンをちぎって投げた。すると猫は一瞥してどこかへ歩いていってしまった。

 真は一度舌打ちし、駅の方へブラブラ歩いていった。



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