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サクラサク  作者: 雪兎
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6章


第6章岸田俊雄(としお)鈴音(すずね)


 新幹線の窓の景色は高速で流れていった。太平洋の水面が朝日を反射して美しかったが、真は富士山を見たかったのでちょっと不満だった。関東に住んでいるのでその気になれば天気のいい日はいつでも見られるが、やはり新幹線から見る富士山は一味違うからだ。

 真は手帳を開き、今まで聞いてきた話を整理していた。弟切夫妻には『密さんが普通の女性である事を証明したい』と言ったが、それを覆すような内容が次々出てきた。

密が愛した霧人も同様だった。密を合わせれば2度の婚約破棄をした事になる。この世にいない者にはもう事情は聞けないが、もう1人には聞く事が可能だった。

 これから大阪に向かい岸田に話を聞く事になっている。娘の婚約が破棄され、父親としてはどのように思っているか、真は想像しただけで興奮と胸騒ぎを覚えた。

 大阪にはビジネスホテルが林立していた。真はその中でも安く狭い部屋をとった。そして岸田との約束の2日前から会社の近くに張り込み、霧人の情報を収集した。

 年上の社員はそうでもなかったが、霧人と年の近い者達からの評判は良くなかった。仕事は出来るらしいが、岸田専務の娘と結婚して昇進を狙ったという噂が出た。更に、娘との結婚が破断になった事により、福井、長崎へ左遷されたらしいとも。ニヤニヤと笑いながら饒舌に語る者も少なくなかった。

 また少数ながら霧人の事を擁護する意見もあった。仕事が出来るのは当然として、異動になったのは岸田に睨まれた訳でも仕事でミスした訳でもなく、霧人本人が望んだものらしいと。

 真は霧人の印象をどちらにも傾かないようにするのに苦慮した。そして、当事者の岸田に話を聞くまで霧人に対する判断は下さないようにしようと考えていたのだった。

 しとしとと梅雨の雨が落ちるその日、霧人が所属する会社の大阪支社の受付へ真は向かった。女性が1人座っており笑顔で迎えてくれた。

「こんにちは、ワタシは本日岸田専務にお約束を頂いていた者で、佐藤真といいます」

 真は同時に名刺を出した。女性は笑顔を崩さず名刺を受け取り、チラリと手元を見た。

「はい、承っております。それでは私が岸田の部屋までご案内致します」

 女性は振り向きもしないのに真と常に一定の距離を保つ速度で歩き、ある部屋の前に立ってノックした。

「専務、お客様をご案内してきました」

 扉の向こうから『入って頂いて』という少ししわがれた声が聞こえてきた。女性は扉を開け、『どうぞ』と言って入室を促してきた。

 真は早鐘を打つ心臓を抑え、岸田がいる部屋の敷居を跨いだ。髪の毛が寂しくなりかかっている50代後半の男性が袖付きの机から立ち上がって近付いてきた。顔は笑顔で、好々爺と表現するのにピッタリだった。

 岸田がソファに座るように促してきた。部屋の豪華さに恐縮していた真は、頭をちょっと下げてソファに腰を下ろした。

 真は1つ咳払いをし、自分のペースを取り戻そうとした。そして早速岸田に話し掛けようとしたところで挫かれてしまった。秘書らしき女性が部屋に入ってきたからだ。

「専務、お飲み物はいかがしましょうか?」

「あ~、そうだな。どうする、ビールでいいかい?」

 まだ昼前なのに『ビール』という単語が出てきて、真は目を剥いて驚いた。

「専務!」

 秘書の一喝が入った。すると岸田は悪びれた様子も見せずに破顔した。

「冗談だよ。それじゃコーヒー2つ」

 指を2本立てる岸田を見て真は肺に詰めていた空気を吐き出した。どうにも相手に主導権を握られてばっかりだなと思った。

 そしてコーヒーが運ばれてくると岸田は指を組んで肘を腿に乗せると、上体を前に傾けて人に安心感与える笑顔を見せた。

「さあ、何でも聞いてくれ」

 岸田に言われ、真は『それでは』と言い、ICレコーダーと筆記用具を取り出して質問を始めた。名目は『どのようにして会社は発展したのか』だったので、岸田は社長とは元々友人だった事、数人で資金を出して会社を興した事、自分は人事で優秀な人材をいかに集めたか、どのような苦労を乗り越えて発展したか、これからの会社の展望を語ってくれた。時には席を立って身振り手振りを交えて話していたので、まるで演劇をみているようだった。

 気が付くと1時間半が経過していたが、真にとってはあっという間だった。そして話が一段落した頃を見計らい、真は固唾を飲み込んでから口を開いた。

「あの……、こちらの社員に穂積霧人さんという方がいらっしゃると思うのですが、この大阪支社でもしばらく仕事していたという、その方はどのような人物なのか教えて頂けないでしょうか?」

 真は一気に喋った。すると先程までの和やかな顔が仮面だったかのように、岸田の顔は険しくなった。

「ああ、そういう事ですか……。ここ2日間社員に妙な事を聞き回っている人がいるという報告がありました。それは、あなただったのですね」

 さすが会社を興し、有数の企業にまで育てた人物である。視線だけで人を殺せるとでもいうかのように、目を細めて真を睨みつけてきた。

「一体、何が目的なんですか?」

 心臓が強く鳴り、真は止まらないだろうと思っていたが、自分を落ち着かせる為にゆっくり息を吐いた。そして自分の考えを遮られないように、強い口調で岸田に言葉をぶつけた。

「ある一面では嘘を言ってしまったのは申し訳ありません。しかし、人助けの1つだと

考えて頂けないでしょうか。穂積さんの……」

 目の前の岸田は娘が霧人と婚約して破棄している。その人の前で密の話をしていいのか、一瞬迷った。

「前の婚約者弟切密さんという方いました。数年前福井県で自殺し、丁度穂積さんが赴任していた頃です、ご両親は気落ちし、真相を知りたいでしょうし、彼女がその道を選んだのは政府の失策だと思うのです。私は弟切密さんと少しでも関わりのあった人の事を調べ、弟切密さんの名誉回復とご両親の賠償を勝ち取りたいのです。ですから、どうかお話を伺えないでしょうか」

 言い終えるなり、真はテーブルに手をついて頭を下げた。対して岸田は、真の後頭部を厳しい顔をして見つめていた。

「そうですか……。分かりました」

 岸田の言葉に光明を見出し、真はガバッと頭を上げた。顔は期待と希望で輝いていた。

「あ、ありがとうございます」

「ここ2日間我が社の社員話を聞いて、まあ東京でも話を聞いたのでしょう、穂積君の悪い噂を聞いたと思います。私の娘をたらしこんで昇進を狙ったとか、私が報復人事で福井に飛ばしたとか」

 色々な人の口から聞いた言葉だった。真は認めるように首を縦に、ただ霧人は密と関係を持ち続けていたと知っているだけに躊躇いがちに、ゆっくり動かした。

「しかし、それは違うのです。真相は、ちょっとここでは言えないのですが、その為に娘と穂積君は婚約破棄になったのです。私も色々と否定して回ったのですが、真相を隠しながらなので説得力に乏しく、噂を払拭する事が出来ませんでした」

 岸田は顔をしかめた。顎が強張ったのは、奥歯を噛み締めたからだろう。この表情を見る限り、岸田は穂積が中傷を受けているのが悔しいと思っていると判断出来た。

「……、いつまで大阪にいる予定ですか?」

 突然話が変わって真は面食らったが、目をパチクリして己を取り戻した。

「はい、今日までの予定でしたが、もちろん予定は変えられます」

 資金の事が一瞬頭をよぎったが、真相に近付けるなら金の問題ではないときっぱり言い放った。

「それなら、明後日の土曜日に私の自宅に来て頂けませんか? 役者が揃いますので」

 最後の一言は呟き声だった。そしてメモ用紙に何かを書き付け、それを真に渡してきた。

「それでは土曜日の朝10時に来て下さい。……、1つ聞きたいのですが、最初の取材はダミーで記事になる事はないのですか?」

 真は顔を青くした。しかし直後力強い声を出した。

「いえ、あれも記事に取り入れたいと思います。関係者の穂積さんが勤めている会社は優良で、彼の周りにいる人も普通の人だと証明する為に」

「まあ、期待しています。それでは」

 岸田に胸の内を見透かされたかと思った。真は硬い表情で挨拶をして部屋を辞した。その足取りは、岸田の人柄が良かっただけに、良心の呵責で引きずるようだった。

 そして真は予想外の予定変更が起きてしまい、経費節約の為にビジネスホテルをチェックアウトした。そして大阪一安い宿が集まる街を訪れ、狭い部屋で2日間を過ごした。

 土曜日、真は岸田の家へ向かった。梅田から私鉄に乗り神戸の山裾の住宅街へ。真はスマホの地図アプリを見て岸田の家を探したが、終始口がポカンと開いていた。そして立派な門構えの家に着いたのだった。

 これから何が起こるだろうか、相手のテリトリーに深く潜り込んでも大丈夫なのかという思いが頭をよぎった。しかし、真は腹に力を入れ、『エイ』とインターホンのボタンを押した。

『はい。おお、君か、待っていたよ。今開けるから』

 岸田だった。声音には何か企んでいるような雰囲気は無かった。真はとりあえず胸を撫で下ろした。

 間も無く玄関の扉が開き岸田が顔を覗かせた。微かに笑顔だった。相手は企業を大きく育てた海千山千の人物なので、真は警戒心は解かずに玄関へ向かった・

「さあ、中に入ってくれ」

 岸田が先導して上がり框の先に進んでいった。すると真の背後で玄関の扉が閉まった。音はまるで監獄の扉が閉まる音のように真の耳に響いた。そして玄関が暗くなり、真は自分の未来を暗示しているのではないかと胸を騒がせた。

 岸田は真を応接室に案内した。本革のソファが部屋の中央にあり、壁には洋酒や本が並んでいる棚があった。

 ソファに岸田が座り、真が座った。しかし岸田はすぐには言葉を発しなかった。ほんの一瞬だったが真には永遠のように感じ、渇いた喉に唾を流し込んだ。

 その刹那、部屋のドアが開いた。真は喉から心臓が飛び出る程驚いた。そして脂汗が噴き出した顔を、急いで音のした方向へ向けた。若い、真よりも少し年下の、女性が立っていた。ドア枠を額のようにしたその姿に、真は目を奪われた。

 真が硬直している隙に女性はスルスルと部屋に入ってきて、岸田の横に腰を下ろした。

「娘の、鈴音です」

 岸田俊雄は女性を紹介した。鈴音は頭をちょっと下げて『こんにちは』と言った。俊雄は小声で『鈴音』と言った。すると鈴音は棚から洋酒を取り出し、クリスタルガラスのグラスに茶色の液体を注いだ。そして真と俊雄の前にはそのままの、鈴音の前にはミネラルウォーターで薄めたものを置いた。

 俊雄が口にしたのを見て、真も安心してグラスに口をつけた。口の中に煙のような味が広がり、真は目を見開いた。

「スコッチだ。私はこれに目が無くてね」

 俊雄はニッコリと笑ってスコッチを半分程飲んだ。

「お父さん。すみません、父はお酒にだらしなくて、控えるように言っているのですが」

 咎めるような口調で鈴音が言ったが、俊雄はニヤッと笑うだけだった。

「あの……、その、何と言うか、何故この場にお嬢さんが?」

 混乱する頭から何とか言葉を搔き集めて真は喋った。

「鈴音は、穂積君と婚約していた。君の知りたい事を聞くのに、私と娘、これ以上に適当な人物はいないのでは?」

 何と言うか僥倖だろうと真は思い、グラスをきつく握って身を乗りだした。しかし直後に真は顔を曇らせた。

「しかし、その、婚約が破棄になったお嬢さんにお話を聞くのは、その、えー、申し訳ないというか、心苦しいというか」

 しどろもどろの真の言葉を聞き、鈴音は笑顔になった。

「ご心配はいりません。どのような噂話を聞いたか分かりせんが、つまるところ、平静に話せる内容という事です」

 納得のいった真は頷き、鞄からICレコーダーと筆記用具を取り出して『お願いします』と言った。しかし2人がICレコーダーの使用には難色を示してきた。真は鈴音の将来の為に言葉を残すのはよくないと理解し、素直に言葉に従った。

 すると俊雄と鈴音はそれぞれの立場で見て感じた事を口にし始めたのだった。

 ――俊雄は本を読んでいた。癌に関する本だった。眉と眉の間に深く皺を寄せ、文字列を睨むかのような表情だった。

 パタパタと足音が聞こえてきた。俊雄は本を閉じて背後に隠した。

(とし)さん、電話ですよ」

 妻の成美がスマホを手にしてやってきた。走ってきたからか、成美はこの短い言葉の途中や最後の咳を混ぜていた。

 俊雄は『ありがとう』と言ってスマホを受け取った。液晶画面に『穂積星二』と表示されていた。

 星二に最初に会った時はちょっと不思議な男だと思った。しかし付き合ってみると気の良い人物で、飲み会やアウトドアでの時間を楽しく過ごせた。

 いつもつるんでいた5人で起業しようという話になった。しかし星二はその時抱えている問題で仲間に迷惑がかかるからと辞退し、結局4人で資金を出し合う事になった。

 それからしばらく経ち星二から連絡があった。息子の霧人がIT企業に勤めたいからお勧めの会社があったら教えて欲しいというものだった。昔のよしみもあったし、自分の会社に自信があったのでむしろ勧誘した。すると、どうやら霧人は自社を受けているという事だった。ならばと、人事を統括している者の権限を遺憾なく発揮した。

 呼び出し音の鳴る中、俊雄は過去の思い出に浸っていた。呆けていた俊雄だったが、差し出されたスマホを見て我に返った。

 久し振りに来た星二からの連絡に、一体何だろうと思いながら俊雄は通話マークをタップした。

 俊雄と星二の話は10分くらいで終わった。内容は再び息子の霧人の事だった。関東という狭い世界を見ているだけでなく、俊雄のいる大阪に異動させて欲しいというものだった。丁度大きなプロジェクトを計画していて人材が欲しかったので、俊雄はいい返事が出来るだろうと伝えた。

 東京本社の人事に話を通そうとしたら難色を示された。おかしいと思った俊雄は独自に調べてみたのだが、どうやら霧人は優秀な人材らしかった。手放したくないのだろう。

 俊雄は大阪支社の抱えているプロジェクトを成功させる為、旧友の星二の頼みを叶える為、やはり旧友で社長の葛城数夫(かずお)に連絡した。そして事情を伝えると、霧人の異動が即決定した。

霧人が大阪へやってきたと知っていたが、普段は政財界人と会合で忙しかったし、人事と技術と畑違いという事もあり俊雄は霧人と接触する機会は無かった。

半年後、大阪支社を牛耳る俊雄の元にプロジェクトの進捗状況が伝えられてきた。どうやら順調のようで、俊雄は満足気な顔で柔らかい椅子に背を預けた。

忙しさにかまけて考えないようにしていたが、突然俊雄は霧人の事が気になりだしてしまった。そして同時に、10年以上会っていない星二の話を聞きたいと思った。しかし専務の自分が一般社員の元を訪れる訳にもいかないので、秘書を通して自室に呼び出した。

会ってみると、霧人は予想以上の好青年だった。もっと長く話したかったので、また自宅に漂う閉塞感を払い且つ新風を吹き込みたく、週末霧人を家に呼んだのだった。

霧人は如才ない男だった。いや、自然に気遣いの出来る男だったのかもしれない。女性が喜びそうな手土産と、見る人の気持ちを明るくする笑顔を持ってやって来た。

父親の旧友の息子が訪ねてくるからと、その日は家にいるように言われていた鈴音は不満を胸に抱えていた。そしてその男がやって来て、一緒に食事をとるように父親に声を掛けられた。鈴音の心中には怒りが渦巻いた

鈴音はこの日大学の友人とショッピングに行く予定を立てており、数日前に突然横槍を入れられて行けなくなり、霧人の来訪は全く歓迎していなかった。よって、リビングの敷居を跨いだ時の鈴音の顔はむくれていた。

ただ、その顔はいつまでも維持出来なかった。均整のとれた顔、軽妙なトーク、さりげない気遣い、口中に唾液を溢れさせる洋菓子に、鈴音の顔と心は軟化していった。

会食が始まった頃はムスッとしていたが、終わる頃はニコニコしている娘を見て、俊雄はホッと胸を撫で下ろした。そしてその胸は、後日驚きで跳ね上がる事になった。

関西に来て半年、今まで来た事があるのはせいぜい修学旅行だけで、大阪の事は全然分からないと霧人は言った。特に何も気にせず、鈴音は自分が大阪を案内してあげると提案した。

両親がたまたま席を立った時間があったので、鈴音と霧人は連絡先を交換した。まだ20代前半の鈴音は、何とも思っていない男であっても、両親の前で男性と連絡先を交換する事に恥ずかしさを感じたからだった。

心斎橋、アメリカ村、USJ、ひらかたパーク、梅田、天王寺動物園、神戸、各種美術館や博物館を霧人に案内した。何度も一緒に出掛けているうちに、鈴音は霧人に惹かれていった。そして2人が付き合うようになるのに、ほとんど時間を要さなかった。

初めて霧人にと会ってから約半年後、鈴音はそれを父親に伝えた。父親は目を丸くして驚いた。女同士なので母親にはもっと前に話しており、父親が目を白黒させる様子を見て母親と一緒に笑っていた。

突然の告白に俊雄は驚いた。しかしこの1年で霧人の能力と人となりを認めていたので、正直嫌な気持ちは無かった。そして結婚するのかと匂わせてみたら、娘は『まだ早い』と言って否定はしなかった。

こんなに早く娘が人手に渡るなど想像もしていなかった俊雄だったが、タイムリミットが近付いているのも感じていたので、娘に霧人との関係を進めるように促したのだった。

娘がリビングでウエディング雑誌を読むようになった頃、俊雄の心に不安がよぎった。本当に霧人は星二の子供なのかと。何度か会った霧人の妻の潮里の面影はあるので血縁関係にはあるのだろうが、どう考えても星二の子供である筈がなかった。

しかし時間が無かった。娘も幸せそうな顔をしているし、成美も期待に胸を膨らませている。心なしか、最近は顔色が良いように見えた。そして何より、霧人の人柄が良いので、俊雄自身も娘の将来に明るいものを見ていたからだ。

鈴音にとって霧人は良い恋人だった。もちろん何人かと付き合ってきたが、霧人は抜群に優しかった。鈴音が我儘を言っても怒らないし、機嫌を損ねてムッとする事も無かった。常にエスコートは優雅で、自分が大切にされている事を実感出来た。

そして何より鈴音の趣味を認めてくれた事が嬉しかった。実は鈴音は腐女子だった。中高が女子高で、その時の友達に教えて貰いはまってしまったのだ。大学時代はコミケにも足を運んだ事があった。結婚も視野に入り始めた頃、将来どうしてもやめられる自信がなかったので、思い切って霧人に話してみたのだった。

すると霧人は眉1つ動かさず鈴音の話を聞いてくれた。そして最後は漫画を自分にも貸して欲しいとまで言ってきた。

もちろん鈴音は霧人を疑った。彼は専務の娘の自分と結婚する事によって昇進を狙っており、2人の間には愛が存在していないのではないかと。そしてBL漫画を貸して欲しいと言った事も、自分へのお追従ではないかと。

どうやらそれも鈴音の杞憂だった。漫画を貸して次に会った時、霧人はそれをしっかり読み込んだような感想を述べたからだ。しかも、本当に楽しんだようだった。

まだ鈴音には懸念があった。それは霧人が月に1度は関東に帰るようになった事だった。霧人に聞いてみたところ、両親が心配で帰っているという事だった。自分の父親と同年代と聞いていたのでそれ程年でもないのに、何故そんなに帰らないといけないのかと。でもそれぞれの家に事情があるのだろうと、鈴音は無理矢理納得しようとした。

しかしそれは無残に砕け散った。なぜなら、霧人の持ち物には女子が持つような可愛いものがあったし、霧人の部屋に泊まった時ペアのマグカップと色違いの歯ブラシを目にしたからだ。

「霧人……、これ、何?」

 顔を真白にし、右手にはマグカップ、左手には赤い歯ブラシを持って霧人の前に立った。しかしそれを見ても霧人は慌てた様子を毛程も見せず、ベッドで本を読みながらチラリと目を向けてきた。

「やっぱり……、浮気してたの……?」

これ程良い男だ。他に女がいてもおかしくないと心のどこかで思っていたが、目の当たりにすると衝撃だった。そして自分はそれでも1番だという自信があったが、音を立てて崩れていったのだ。

「違う、違う、それ、妹の」

 父親から霧人は兄弟姉妹がいないと聞いていた。安っぽい嘘でごまかそうとする霧人に腹が立ち、一転顔が真赤になった。

「ウソ、霧人に妹がいるとか聞いた事ないもん」

「あー、そうだっけ。でもさ、事情があるんだ。密は、妹の名前ね、子どもの頃に生き別れてさ、高校の時に再開したんだ。うん、密は愛情に飢えてて、俺が大阪に転勤になってからも遊びにくるようになったんだ。ホラ、これが密」

この話が嘘だとして、こんなに立て板に水のように言葉が出るだろうか。しかも顔色一つ変えず。汗が噴き出している様子もないし、声に震えも全くなかった。鈴音の心には不安が渦巻いていた。

 目尻が吊り上がった目で、鈴音はまだこの時は珍しかったスマホの画面を睨んだ。

 笑顔の霧人の横に、これまた笑顔の女性がいた。バックは祇園の八坂神社で、体を寄り添わせていた。言われてみれば、2人の顔は似ているように感じた。

 確かに兄妹かもしれない。いや、自分の感覚を信じ、霧人と密という女性は兄弟であると納得する事にした。

「そうだ、水曜に密がこっちに来るんだけど、一緒にメシでもどう?」

「えっ……」

 鈴音は絶句した。密が浮気相手なら、自分と会わせるような事をするだろうか。鈴音は混乱していた。

「いいの……?」

「ああ、もちろん。何で?」

 屈託なく霧人は言った。これは真偽の程は自分の目で確かめなくてはいけない。鈴音は霧人の提案に乗り、密と会う事にした。

 そして、運命の水曜の夜がやってきた。

 鈴音は創作居酒屋で先に待っていた。まだ突き出ししか出ていなかったが、既にジョッキのビールは半分以上減っていた。そして『もうすぐ着くね』と霧人から届いたメールを見ながら、心臓をドキドキさせていた。

「いらっしゃいませ~」

 店の人の明るい声が聞こえた。鈴音の心臓が強く鳴ったが、何でもないかのような顔を入口に向けた。果たしてそこに霧人の姿があり、その後ろに、小さな人影が見え隠れしていた。

 急に喉の渇きを感じた鈴音は、大きくビールを口にした。

 まだ気持ちも落ち着いていないので、霧人と密と思われる人物が近付いてきた。そして鈴音の向かいに霧人が座った。

「お待たせ」

 声と一緒に、霧人がいつも使っている石鹼の香りが漂ってきた。幸いな事に、それが鈴音に少しの安堵と平静をもたらした。

「はっ、初めまして。私、霧人……お兄ちゃんの妹で、弟切密っていいます」

 さすがに鈴音は密の顔は見られなかった。『こちらこそ、初めまして』と呟くように言い、テーブルを経由して密の体に視線を動かした。

 鈴音は眉をひそめた。バッグの持ち手を握る密の手が、小刻みにブルブル震えていた。鈴音はちょっと大きく目を開き、ゆっくりと視線を上げていった。

 直後、鈴音は顔をしかめた。しまったと思ったのだ。密は表情を硬くし、体を緊張させて立ち尽くしていた。その顔はやはり霧人と似ているように感じた。

「あ、密さん、どうぞ座って」

 鈴音の言葉を聞き、密はチラリと霧人を見た。すると霧人が小さく頷いた。密は顔を安堵させ、『失礼します』と言って霧人の横に座った。

 鈴音と密は同じ歳だったので、アルコールが投入されると話がとても盛り上がった。2人の前には空のグラスが並んでいき、笑い声は絶える事がなかった。時に霧人が口を挟んだが、ほとんどは邪険にされて終わっていた。しかし霧人の顔は満足そうだった。

 3時間位で会食は終わり、密は霧人の部屋に泊まるというので一緒に帰っていった。2人の姿が街中に消え、鈴音は踵を返して家路に着いた。その足取りは雲の上を歩くように軽やかだった。

 ちょっと前に結婚を匂わせたら、霧人に『将来そうしようか』と言われていた。しかしその後に女の影を発見してしまい、不安を払拭するようにウエディング雑誌を読み漁った。その為、鈴音の顔には影が射していた。

 しかし密に会ってから様子が一変した。義理の妹になる密はとても感じの良い子だったし、霧人との将来も祝福してくれた。鈴音が霧人と手を取り合って歩む道にはもう障害は見当たらず、以前とは全く違った気持ちでウエディング雑誌を読めるようになっていた。

 鈴音は笑顔で紙面を見つめ、鼻歌を唄ってページをめくった。紙と紙が触れ合う音ですら、鈴音の耳には麗しい音楽のように聞こえていた。

 密に会ってから約1ヶ月後、霧人が『今度ご両親と話をしたい』と言ってきた。鈴音は天にも昇る気持ちになった。色々と急ぎたい鈴音は、その週の週末を指定した。

 日曜日の朝から俊雄は難しい顔をしてテレビを見ていた。内容は全く頭に入ってきていないので、眺めていると言った方がよかったかもしれない。

 ほんの数日前、娘が『日曜日に霧人さんが来るから、ちゃんとした服を着て家にいてね。お寿司もとっておいて』と言った。何があるのかと尋ねたら、娘は笑って答えを言わなかった。

 さすがに俊雄も何が起きるか予想出来た。

 霧人は人柄も良く、仕事も出来るので、娘を託すに足る人物である。ただまだ24歳なのでまだ早いのではないかとも思った。しかし、急がなくてはいけない理由もあった。

 それは妻の成美の病状が悪化しているからだ。体内の癌はかなり進行していて、担当医にはあと半年の命と言われていた。

 もう孫の顔を見せるのは不可能としても、今から急げば娘のウエディング姿は見せられるのではないかと思った。これが霧人の人となりを早々に判断し、娘が霧人と付き合っているのを知っていても口を出さなかった理由だった。

 2つの感情に挟まれて葛藤する俊雄であったが、成美の事を考えると天秤は結婚して欲しい方に傾いた。午前11時、俊雄の気持ちは完全に決まった。

 11時半、駅に迎えにいった娘と一緒に霧人がやってきた。入院している成美に代わり、いや成美がいたとしても、俊雄がビールを冷蔵庫から取り出した。寿司は12時に届く事になっていた。

 食卓に座った霧人の顔を見て、俊雄はやはり今日の話は結婚についてだろうと予想した。複雑な気持ちではあるが、長期的に見れば喜ばしい事なので、俊雄は若い2人を祝福しようと肚を決めた。

 エビスビールのプルトップを開け、俊雄は霧人の方へ傾けた。するとどうだろう、霧人は真剣な面持ちでグラスの上に手を置いたのだった。

「専務、大切な話がありますので、お酒はちょっと……」

 『なるほど、娘を貰うのにアルコールが入ってはと思っているのか、やはり真面目な男で良かった』と俊雄は思った。身の内から溢れ出ようとする笑顔を必死で噛み殺した。

「そうか、いや、そうだな。それで、私に話とは?」

「はい……」

 霧人は言葉を切って俯いた。そして顔を上げたのだが、表情は石のように硬かった。

「私とお嬢さんがお付き合いをしているのは専務もご存じだと思います」

 俊雄はコクリと頷いた。喉は早くもビールを欲していた。

「ご両親の教育も良かったのでしょう、お嬢さんはとても素晴らしい女性でした。私が今まで出会ってきた中でも1番です。私にはもったいないくらいです。お嬢さんと結婚出来る男は、世界一の果報者と言えると思います。その栄誉を……」

 霧人が固唾を飲んだ。

「私が受けられないのは、とても残念です」

 俊雄はニッコリ笑ってビールに手を伸ばしたが、冷たさを感じて冷静さを取り戻し、表情を失って手を止めた。

 横で微笑んでいた鈴音も目を大きく開き、口を半開きにして固まっていた。

 時計の秒針が動く音がやけに大きく5回部屋に響いた。

「それは、どういう意味だ?」

痺れた頭でやっとそれだけ俊雄は捻り出せた。

「つまり、これは私のうぬぼれかもしれませんが、お嬢さんとの結婚の話はストップ、いや白紙にさせて頂きたいと思います」

「き、霧人……。ううん、霧人のうぬぼれなんてない、私も霧人と結婚したいと思ってる。でも、何でダメなの? 私が悪いの? 原因は?」

 今まで呆けていた鈴音は突如我を取り戻し、矢継ぎ早に言葉を放った。

「スズ、いや君は全く悪くない。100%俺が悪いんだ」

「穂積君、それはいったいどういう事なのかな。返答次第によっては、私も人事畑の人間だ、どうなるか分かっているな」

 私情を絡めた報復人事をチラつかせ、俊雄は低い声でそう言った。その筋でも幹部になれそうな、人の心臓を凍り付かせる声音だった。

 しかし霧人には効果がないのか、先程から表情に変化は無かった。

「はい、実は、私は女性を愛せないのです。いわゆる……、ゲイというやつで」

 憤怒に囚われていた俊雄が、悲しみに暮れていた鈴音が、魂を抜かれたかのようにポカンとした顔になった。

「つ、つまり、君は男しか愛せないと?」

 俊雄の震える声の質問に、霧人は縦に動かす事で答えた。

「ウソ、ウソよ。だって霧人、私とエッチ出来るじゃない」

 混乱し、必死になっていたので鈴音は父親の前であるにも憚らず発言した。

「ああ、いつも俺は必死だった。でも、頭の中はいつも冷静だった。女性と出来ない訳じゃないけど、どうしても慣れないんだ」

「それでもいいよ。子供1人だけ作って、ううん、嫌なら養子でもいい、それでいいから結婚してよ。私は満足だから」

 鈴音の目からは滝のように涙が溢れ出ていた。

「それも考えた。でも、スズがあまりも素敵な女性だから、だますのが辛くなったんだ」

 娘に向いていた目が俊雄に向けられた。目の奥の真剣な光に、俊雄は重大な告白を聞かされると察して背筋を伸ばした。

「専務、スズ、私は普通の幸せな結婚をしなければいけない宿命があるんです。まあ“普通”って何だって感じですが。一般に流布する男は愛する女性と結婚し、子供が出来て、その子が結婚して孫を連れてきて、多くの家族に囲まれて死を迎えるという。しかし私の魂がそれを望んでいないのです。ただ、それに正直に生きてしまうと、両親がとても悲しむ事になってしまうと思うんです。自分達のDNAが悪かったのか、育て方が悪かったのかと自責の念を抱えたまま最期の時を迎えなくてはいけなくなると思うんです。私をここまで育ててくれた大好きな両親の為、私は偽装でもいいから女性と結婚し、子供が出来るまでセックスし、その子供を育てていって、2人を安心させなくてはいけないんです。両親の事をご存知の専務なら、分かって頂けますよね」

 以前に感じた不安がこの段になって噴き出してしまったと、俊雄は苦悶の表情になった。

 父親が顔を歪めているのに気付いた鈴音は覗き込んだが、どうやら父親は全く気付いていないようだった。

「き、君はそれでいいのか?」

「はい、両親が幸せになるなら、私の性癖など抑えればいいんです。まだこの国では胸を張って言う事も出来ませんので。それに、実はもう相手も見つけてあります。その女性と私は結婚するでしょう。そして子供を成すと思います。もしかしたら離婚はしてしまうかもしれませんし、カミングアウトして彼女に外で女性としての快楽を求めて貰う事もあるかもしれません。離婚や不倫ならどこにでも転がっている話なので、両親もそこまで心配するとは思えませんし」

 身辺調査ではないが、俊雄は霧人と同年代の者達からちょくちょく話を聞いていた。概ねは良好な噂ばかりだったが、妙に熱のこもっている女性、そして男性もいた。その理由を今はっきりと理解したのだ。

「ですから専務、お嬢さんは女性としての幸せを全うして貰いたいんです。スズ、分かってくれ」

 言い終えるや霧人はイスから身を翻し、フローリングの床に額を打ちつけた。

 鈴音は自分の事を大事に思ってくれている霧人に感動し、唇を噛んで目に涙を溜めていた。

 少々演技臭い雰囲気を感じたが、俊雄は現段階ではこれが最善であると考えた。それと同時に人生の旅路を終えようとしている妻の事を考え、もっと早くに言ってくれれば3人の時間を無駄にせずに済んだのにと歯噛みした。

「それで専務、1つお願いがあります」

 重大な告白を終わらせたからであろう、霧人の表情はいく分明るくなっていた。しかし俊雄はこの状況で自分に頼み事するなどと、心に鎧を着けて身構えた。

「私を福井にある北陸支社に飛ばして欲しいのです」

 今回の状況は霧人に完全に非があるように見えるので慰謝料などは要求されないと思っていた。自分が不利な状況から何を求めるのか興味を持っていた俊雄は、霧人の提案を聞いていったいどんな裏があるのだろうと考えて眉を寄せた。

「会社には私と専務のお嬢さんが付き合っているのを知っている者が何人もいます。そして結婚するのではないかと考えている者もいます。それなのにいつまでも私が結婚しなかったり、お互いが別の人を結婚したら怪しまれると思います。それはお嬢さんにとっても不都合な事になるかもしれません。そこで婚約が破断になり、私が左遷されたという事にして欲しいのです。会社の人は私が何かやらかしたと思うでしょうし、お嬢さんは被害者としてむしろ株が上がるかもしれません」

「でも、霧人、それじゃ……」

 全ての責任を背負おうとしている霧人の言葉を聞き、鈴音は愛ゆえに胸を潰して顔をハッとさせた。

「スズ、迷惑をかけたのは本当なんだ。俺の心配なんてしなくていいよ。ああ、その優しさが君の魅力なんだ。スズがとても魅力的過ぎて、俺はここまで話が進むまで言い出せなかったんだ。俺の真実を知り、見守ってくれる人がいるというだけで、俺はこの先の長い偽りの人生を耐える事が出来そうだ」

「分かった。君の言う通りにしよう。君の待遇が悪くならないように、創業の4人の間では情報を共有し戒厳令を出しておく。この後も我が社で頑張って欲しい。いや、もし気まずくなって転職を考えるなら、それにも協力するぞ」

「いえ、私は我が社の待遇と仕事内容にとても満足しておりますので、私が不必要になるまで働かせて頂きます」

 やっと霧人の顔に安堵が広がった。結婚に向かっていた話を反古にして許されるのか、自分の事を受け入れて貰えるのか、自分の将来、両親の事などが心配だったのだろう。俊雄は約束を果たすと証明するように霧人に微笑み掛けた。

 すると霧人は『迷惑をかける自分はここに相応しくない』と言い、礼を尽くして家を出ていった。そして入れ替わるように特上寿司が3人前が届き、俊雄と鈴音はせっかくの寿司を美味しそうな顔もせずにもそもそと食べたのだった。また冒頭に俊雄が開けたビールは虚しく排水口に流れていった。

 そして霧人が抱えていた仕事を終えた2ヶ月後、大阪を後にして福井へ向かっていった。

――東京と大阪で集めた霧人像を崩されるような話に、真は啞然としてしばし言葉を失ってしまっていた。しかし俊雄は真を急かそうとせずゆっくりグラスに唇を寄せた。そしてグラスの底とテーブルが触れ合う音でやっと真は自分を取り戻した。

「驚きました。ワタシの知っている穂積さんとは全く違ったので」

「まあ、敢えて誤解させているから仕方ないだろう」

 真は渇ききった喉を潤す為にグラスに手を伸ばした。強い酒を急に飲んだせいで咳き込んでしまった。

「それで、お2人はその後穂積さんとお会いした事はあるのでしょうか?」

 俊雄はゆっくりと首を左右に動かした。目の奥には昔を懐かしむ光が宿っていた。

「いや、名目は喧嘩別れだから私達が彼を訪ねる事も、彼が私達の元へ来る事もない。ただメールとお節介な社員からの噂話で結婚したと聞かされたけどな」

 一瞬鈴音の目が伏されたが顔が曇る事はなかった。恐らく彼女の中で霧人との思い出は消化され、彼女の人生の良い糧になっているのであろう。

 すると真はカバンから写真を取り出し、スッとテーブルの上を滑らせ『この方ですよね』と言った。俊雄と鈴音の目が集中した。

「えっ、この写真……、密ちゃんじゃないですか。そうですよ、面影あります。密ちゃんは元気にしてますか?」

 鈴音の言葉を聞き、真はこっそり不適に微笑んだ。

「あー、すみません。間違えました。こっちじゃありませんでした」

 真は急いで写真をカバンにしまった。そしてゴソゴソさせている手を止め、顔を鈴音の方に向けた。そして真剣な顔で口を開いた。

「もしかして、弟切密さんが亡くなったのをご存知なかったのですか?」

 その刹那鈴音は口を『エッ』という形にして手を当て、顔を青くさせた。この時点で答えは明白だった。

「そんな……、いつですか?」

「穂積さんが結婚してすぐです」

「何でですか? もしかして、病気……?」

 鈴音は悲しそうな顔をした。癌で亡くなった母親の事を思い出しているのかもしれない。

「いえ、自殺でした。理由は分かりませんが、福井の断崖から身を投げて」

 鈴音は“不信”という名の彫像になってしまった。そしてその横で俊雄は顔を背けて酒を口にしていた。先日話した事は鈴音に話しておらず、それを少し心苦しく感じているようだ。

 いつまでも衝撃の中にいさせるのはと思ったのと確かめたい事があったので、真はまた別の写真を取り出した。それを見た2人の額に皺が寄った。どうやらこの写真の人物は知らないようだった。

「この女性は、神木崎シノさんです」

「カミキザキ……。ああ!」

 左の掌に右拳を打ちつけながら俊雄はそう言った。

「そうです。今、穂積さんがご結婚している女性です」

「ふーん、本当に偽装結婚の相手って感じですね。私と違って背も低いし、何かケバいし」

「そうですね。でも、お子さんは2人いらっしゃるみたいですよ」

 一度愛した事のある男性の結婚相手を見せられて鈴音は気分が良くないのだろう、少し意地悪なもの言いをした。それに引きずられ、真も少し嫌味な言い方をした。鈴音は口を尖らせて黙ってしまった。

「それでは穂積君は4人で……」

「はい、家族4人で長崎の片隅に住んでいます。でも、何故穂積さんは御社の九州支社のある福岡ではなく、長崎に追いやられてしまったのですか?」

「これも報復人事や左遷といったものではないのですよ。穂積君の希望なのです。何でも奥さんの気管支が弱く、空気の良い所に住みたいからと。それで長崎の僻地に我が社のサービス終了しようとしている事業を処理する事業所があって、そこに配属になったのです。我が社の者達にとっては閑職ですが、穂積君は願いが叶って満足しているようです」

 後ろで煙草の煙がもうもうと上がっていそうな場所で撮られたシノの写真を見て、真は俊雄の話との間に齟齬を感じた。しかしそれは口にしなかった。

 そして、もうそろそろ帰ろうかと思った時、下腹部に手を重ねて置いている鈴音の姿が気になった。

「あの、プライベートな事を聞いてもいいでしょうか。鈴音さんはもしかして……」

「はい。お腹に赤ちゃんがいます。今、4ヶ月なんです」

 突然鈴音の顔が慈愛に満ちた母親の顔になった。

「驚きましたか? まあ話の流れからすると穂積君の事を忘れられず一生独身で過ごすって考えるかもしれないが、現実は違います。あの後娘はいい人と出会って、今じゃ2人の母親だ。私は寂しいやもめ暮らしだが、たまに来てくれる孫がいて楽しくやっています。ただ、妻に娘の花嫁姿を見せられず、孫に会わせてやれなかったのが心残りでしたが」

 俊雄は目を擦りながら言った。

「まあ、私達の知っている穂積君の事は全て話したつもりです。まだ他に聞きたい事がありますか?」

「あっ、いえ、もう何もありません。立ち入った事までお話して下さって、本当にありがとうございます」

 真は頭を下げて荷物をカバンにしまった。そして何度も礼を口にして玄関に向かった。真が扉に手をかけた時、突然俊雄が声を掛けてきた。

「君、もしかして穂積君の所へも話を聞きにいくつもりがあるのかな?」

 俊雄の問いに、肯定も否定もしない無言で真は答えた。

「そうか……、正直そっとしておいて貰いたいが、君もジャーナリストだろうからな……。まあ、必要がなければ放っておいて欲しい」

「私からもお願いします」

 色々な感情と想いが真の胸に去来した。それが喉に蓋をし、真は声を出せなかった。そして真はくぐもった声で『失礼します』と言い、扉を押した。

 その背中に俊雄と鈴音の溜息の音が届いた。それで2人の気持ちを察した真は、突然やってきた素性の知れない男に優しくしてくれた2人に心の中で謝り、鉛が縛り付けられたような重い足を無理矢理動かして外へ逃げ出した。

 外は岸田家の植木を通して柔らかな光が射していたが、真にとっては身を焼き尽くすような光線に感じた。


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