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サクラサク  作者: 雪兎
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5章


 第5章 風吹(ふぶき)(のぞみ)


 桜が散り、枝に緑の頃もが揃った皐月。とはいえまだ朝晩の風は肌寒く、真はまだ暖まりきっていない住宅街を歩いていた。

 門も無く道路に玄関が直接面している小ぢんまりとした家もあるが、敷地のゆったりした家が多かった。この街並みから、この辺りに住む者は日々の生活に汲々するなど考えもつかないのだろう。

 真は妬みのこもった目で家々の表札を睨み、時折スマホの画面に目を落とし、それでいて迷いの無い足取りで道を歩いていた。

 静かな住宅街の一角で真は足を止めた。真の視線の先には白く清潔そうな大きい家があった。家全体から幸せの空気が漂っており、狭い部屋で独り暮らしをしている真は奥歯を噛んで目をすがめた。

 そして真は頭を振った。先程までの表情は消え、人当たりの良い顔になっていた。真は門に繋がる階段を上り、インターホンのボタンに指を伸ばした。

 ボタンに指を当てて押し込む前にチラリと表札を見た。金属板に『風吹』と彫られていた。随分洒落た名前だなと真は思ったが、別に本人が選んだ訳でもないのだなと思い直した。

 加藤蝶子から聞いた、高校時代に穂積霧人と加藤慎司といつも一緒にいた人物がこの家にいる。どうやら高校進学の時は霧人を追ったふしがあるようだった。霧人という人物の深い話を聞けるかもしれないと、真はこっそり胸を踊らせていた。そしてその先にある密の人となりを知るきっかけになるのではないかと期待もしていた。

『ピンポーン』

 小さな音が鳴った。しかし住宅街は静寂が漂い続けたので、真にとっては意外に大きな音に聞こえて驚いた。

『はい、どなたですか?』

 インターホンのスピーカーから女性の声が聞こえてきた。訝しむ様子の無い、乾いて軽い声だった。顔も見えない相手だが、男として一緒にいても疲れなさそうな女性だと思った。

「あの、ワタシは本日希さんにお話を伺う約束をしていた者で……」

 真は自己紹介がてら雑誌社と自分の名前を言った。するとスピーカーの向こうでマイク部分に手を当て、家族に向かって話し掛けている様子が伝わってきた。

「えっと……。分かりました。すぐそちらに向かいますので……」

 女性の言葉を裏切らず、風吹家の玄関の扉が間も無く開いた。

「風吹希です。ここではアレですので場所を変えましょう。とりあえず車に乗って下さい」

 真の来訪を待っていたのだろう、希の短い髪は整えられており、服装も誰に見られても恥ずかしくない小ざっぱりしたものだった。

 希に促されて真は電気自動車の後部座席に乗り込んだ。すると間も無く車は動き出し、迷いなく何処かを目指して走り続けた。

 希は口を固く閉ざし、真直ぐ前を見つめて運転していた。車はブレも少なく、ブレーキによる揺れも少ない、とても丁寧な運転だった。

 真は会話を拒否するような様子に声も掛けられなかった。斜め後ろの席から、端正な横顔を見つめ続けているだけだった。

 車は希と真と重苦しい空気を乗せて1時間程走った。そして都心のホテルの車寄せに乗り込んだ。希は車外に出ると慣れたように車の鍵をホテルの者に渡し、迷わずロビーに入っていった。真は慌てて希の後を追った。

 地方に行ってもビジネスホテルがメインの真はこのようなホテルには慣れておらず、きらびやかなロビーに立ってオロオロしていた。

「お待たせしました」

 チェックインを済ませた希が真に近付いてきてそう言った。そしてカードキーを手にしてエレベーターへ向かっていった。

長い時間をエレベーターは上昇した。目的の階に着いて希と真は降り、重厚な扉を押して室内に入った。

 真は窓に近付いて外を眺めた。まだ日が高くて夜景でもないし、ビルばかりで基本的に灰色だった。しかし一国の首都だけあってそこで活動する生けとし生くる者達のエネルギーのようなものが噴き上がってきており、真は圧倒されて無言になった。

「今、お茶を淹れているのでソファに座っていて下さい。コーヒーでいいですか?」

 真はハッとして我に返り、希の問い掛けに首を縦に動かした。すると間も無く室内にコーヒーの香りが漂い出し、両手にカップを持って真の所へ希がやってきた。

 真は緊張し、上ずった声で『ありがとうございます』と言った。希は真の内心を看破したのだろう、対照的に柔らかく微笑んだ。

「どうかしましたか?」

「いえ、てっきり喫茶店かレストランかと思っていたので。まさか、こんな高級ホテルだとは……」

「ああ、何か内密な話になりそうなので勝手に用意させて頂きました。私も仕事の関係でこのように昼間の時間だけ借りたりするので、ついついいつもの調子で……。あっ、勝手にした事なのでもちろんここはこちらで持ちます。……、それと、こういうちゃんとしたホテルは商談でも使われるので、誰かに見られても変な勘繰りされる心配ありませんから」

 真は詰めていた息を吐いた。正直部屋代を自分が持たなくてはいけないかと心配していたのだ。その重荷を取って貰えてホッとし、コーヒーに口を付けた。高級ホテルの備え付けのコーヒーはいつも飲んでいるものより格段に美味しく感じた。

「それで、今日は霧人について聞きたいと言っていましたね。本当は約束の時間に家の前で待っていようと思っていましたので、少し早めにいらして驚きました」

 真は目を開き、頭を下げながら『すみません』と言った。本来なら約束の時間まで待ち、それで姿が見えなければインターホンを押すか電話をするのがマナーだっただろう。気が逸って起こしてしまった行動を、真は素直に謝った。

「まあ、いいです。過ぎた事は。それで、どのような話を?」

 真の顔が引き攣った。自分がやるべき事の信念を取り戻した瞬間だった。そしてテーブルの上にICレコーダーと筆記用具を並べ、希を見つめて力強い声を出した。

「穂積霧人さんの事で知っている事の全てです。弟切密さんという亡くなった女性の名誉を回復し、遺族を慰める為に。風吹さんは穂積さんと加藤さんと仲が良かったと、加藤蝶子さんから聞きました。そして穂積さんの事を一番よくご存じなのではないかと、ワタシは勝手に思っています」

 真の言葉を耳にすると希の顔が弛んだように見えた。

「ああ、慎司の妹さんの紹介でしたか。高校時代はいつも3人で行動していました。慎司とは高校から一緒になったんですけど、私と霧人は小学生からの付き合いで、それから高校卒業までずっと」

 希の目は過去を見つめていた。その顔を見る限り、希は霧人との思い出を宝物のように大切にしていると推察出来た。

「穂積さんは、端的に言ってどのような方なのでしょうか?」

「そうですね……、霧人はとにかく分け隔てなく優しいんです。だから男にも、女にも人気がありました。私も霧人に救われた1人と言えます。今の生活があり、家族を守れているのは霧人のお陰と言っても過言ではありません」

 表情、仕草、口調、雰囲気から希は霧人に対して強い想いがあるのは明白だった。それを見抜いた真は、眉根に少し皺を寄せたのだった。

「あの……、こんな事を言うのは何ですが」

 真は言葉を切った。蝶子が別れ際に口にした言葉を思い出したのだった。しかしこれを確かめなければ先に進めないのではないかと考え、固唾を飲み込んでから言葉を続けた。

「その……、風吹さんは、穂積霧人さんの事が好きだったのですか?」

 真の言葉に希は顔をハッとさせた。そして表情を暗くし、小さく頤を縦に動かした。

 すると真は驚愕で目を大きく開いた。

「し、しかし、それでは……」

 ――希は幼い頃からおとなしい子供だった。幼稚園の頃は外遊びもそれなりにしたが、むしろ塗り絵や友達とままごとや人形遊びを好んだ。

 小学生になると男友達も増え、且つ彼等はとても活発だったので、希も休み時間は校庭で遊ぶようになった。正直最初は嫌だったが、体力がついてくると希もそれを楽しめるようになった。

 そして3年生になり、希は霧人と一緒のクラスになった。霧人は一度でも一緒のクラスになった者達からは人気があり、いつも周りに人がいた。しかし希にはいつも笑っている霧人が何を考えているのか分からず、友達に霧人と一緒に遊ぼうと誘われても拒否していた。

 事件が起こったのは3年生の2学期だった。

 ある女の子が青い上下のジャージを着てきたのだ。その女の子は普段から意見をはっきり言うので、やり込められた男の子達から『男女』とからかわれていた。

 そこにきての燃料投下である。件の男の子達は調子に乗ってはやし立てた。それは普段参加しない男の子も祭りに参加させる事になった。さすがに女の子達は静観していたが、助け舟を出す事もなかった。

 希は成り行きを見つめる側だった。

「うるっさいっ! 女が青い服着ちゃいけないなんてことないでしょ! 他にも青い服着てる女の子いるじゃん!」

 女の子は爆発した。

「あー、いるよ。でもよー、お前みたいにまっさおな服着てるヤツいねえじゃん。この男女!」

 喧々諤々の言い争いが始まった。昼休みも終わりに近付いていたが収拾がつくような様子はなく、中には『先生呼んでこようかな』などと囁く者も出始めた。教室内は不穏な空気で満たされていった。

「ちょっといい? 別に女の子が青い服着てもいいんじゃない?」

 霧人がいつもの笑顔のまま近付いてきてそう言った。すると男子生徒達の中に怒りの炎の影が揺らめいた。

「あ? 穂積、お前はあの男女の味方するのかよ?」

「いや、そうじゃなくて。ほら、サイレンジャーのリーダーは赤着てるじゃん。しかも全身まっ赤で。でもさ、レッドは男じゃん。だから男は青、女は赤っていうのも決まってないんじゃないかと思って」

 正論だった。しかしむしろそれが男子生徒達から冷静さを奪い、怒りに火を注いだ。1人の男の子が霧人を指差して叫んだ。

「それなら穂積、お前はピンクの服着れんのかよ?」

 そう言われても霧人の顔に変化は起きなかった。そして霧人の口が開いた時チャイムが鳴って教師が入ってきた。すると教室内の熱は急速に下がり、議論はうやむやになってしまった。

 その日クラスメイトの中で議論が再沸騰する事はなかった。ただ希には平穏の底流にある苛立ちのようなものを見て取っており、胸騒ぎを感じつつ帰宅していった。

「穂積さあ、昨日調子のってたよな」

「ああ、マジむかついた」

「だよね、ヤルか?」

「だな」

 青いジャージを着た女の子をからかった2人の男の子、慶一と(こう)()が話しながら登校していた。それを見聞きし、希は霧人に一足早く警告した方がいいかと考えた。しかしその後慶一と滉輝に報復を受けるかもしれないと思うと、足がすくんでしまったのだ。

 消極的ではあるが、2人の動向を見て何か起きたら職員室に走ろうと決心した。そして希は慶一と滉輝のちょっと後ろを歩いて学校へ向かった。

 慶一と滉輝が教室の引き戸を勢いよく開けた。顔には何か企んでいる時のニヤけた表情が浮かんでいた。

 その2人が入口の所で凍り付いた。何が起きたのだろうと思い、希は2人の後ろから教室内を窺った。そして、希も2人と同様に動けなくなった。目は霧人に釘付けになってしまった。

 何と、霧人が目にも鮮やかなピンク色の服を着ていたのだ。

「おはよう、慶一さん、滉輝さん」

 霧人が朝日の如く爽やかな笑顔でそう言った。すると2人は毒気が抜かれたように『おはよう』と呟き、背中を丸めて自分達の席へ向かっていった。

 この感動的な光景を見て、希は胸を熱くした。そして霧人と友達になりたいと思った。

 その機会は早々に訪れた。昼休みにトイレから帰ってきた霧人が1人で歩いていた。希は立ち止まり、霧人が近付いてくるのを待ち、ドキドキしながら声を掛けた。

「穂積くん、朝、すごかったね」

「あっ、希さん。べつに、大した事やってないと思うけど」

 霧人は意識的にそうしているのかは分からないが、男女の別無く『さん』を付けて呼ぶ。霧人に名前を呼ばれ、希は胸の奥から喜びが湧いてくるのを感じた。しかし、何故そのような気持ちになったのか、当の本人も分からなかった。

「あの、友達になって欲しいんだけど……」

 希の声は不安で震えていた。すると霧人がニッコリ笑った。

「面白い事言うね、希さん。ぼく達、もう友達じゃないか」

 スッと霧人が手を伸ばしてきた。希にとっては神々しく見える手を握った。膝まづきたくなる程の感動が身を貫いたが、希は足を励まして立ち、霧人の目を見つめた。

 それから希は霧人の側にはべるようになった。もちろん以前から霧人の取り巻きをしていた者達からは煙たがられた。しかし希は勉強が出来、気働きがするので、自分達の力不足を感じた取り巻き達は霧人に近い席を希に譲ってきたのだった。

 4年生から6年生まで、希は霧人と同じクラスになったり別のクラスになったりした。しかし、希と霧人の親交に変わりはなかった。いや、日に日に深くなっていった。

 中学に進学した。同じ地区に住んでいる希と霧人は同じ中学だった

 いくつかの小学校から生徒が集まるので人数はとても多かった。それに比例するかのように色々な部活があり、生徒達は色々なものを選ぶ事が出来た。

 希は美術部に入り、霧人はバドミントン部に入った。クラスも違い部活も違ったが、希が足繁く霧人の元を訪れたので疎遠になる危険性は全く見られなかった。

 もちろん霧人のクラスメイトに、特に霧人に近付きたい女子から、希は邪魔者扱いされた。しかし霧人も希の来訪を喜んでいたし、2人の姿は自然で微笑ましいものだったので、周りの者達は何も言えなくなっていった。

 理科がとても得意だった霧人は、理科の教師に可愛がられた。20代の女性教師との関係に、自分とは違う種類の絆を見て希は嫉妬で苦しむ事になった。

 希と霧人が2年生になった6月、理科の女性教師が3年生の修学旅行の引率で4日間学校を留守する事になった。女性教師は理科準備室で色々な生き物を飼育しており、留守にしている間の世話を霧人が担当する事になったようだった。

 修学旅行日程の2日目の放課後、霧人は理科準備室へ向かった。その傍らには希がいた。

「霧人、手伝うよ。早く終われば部活の時間沢山取れるだろうから」

「サンキュー、希」

 希は満足気に笑った。未だ霧人は友達の呼び方が『さん』付けだった。しかし、随分前から希は霧人に呼び捨てにされていた。他の人達とははっきり感じる違いに、希は嬉しくて微笑みを噛み殺す日々を送っていった。

「でもさ、何で霧人が世話しなきゃいけないんだろう? 理科部員がやればいいじゃん」

 少しでも霧人を慰めようと、希は唇と尖らせて文句を口にした。

「ああ、それは俺から頼んだからなんだ。先生にも希が言ったような事言われたけど、どうしてもって」

「そうなんだ……」

 6年間一緒にいるが、霧人が特別生き物が好きだという話は聞いた事が無かった。霧人の新たな一面が知れて、希は喜びの火を胸に灯した。

 理科準備室には水槽がいくつも並べられていた。希と霧人は手分けして魚に餌をやったり、しおれた青菜を交換したり、霧吹で土を湿らせた。すぐに終わり帰ろうと希が思っていたら、霧人が1つの水槽を運んできた。

「えっ、霧人、ちょっと、何やってんの?」

「掃除。きれいにしてやろうと思ってさ」

 希に声を掛けられても手を止めず、霧人は水槽の中身をドンドン出していった。水槽の中にいたのはカタツムリだった。

 希は顔を歪めた。小さな頃からウネウネしたものは苦手だったのだ。

「何だ、希はカタツムリが苦手か?」

 沈黙もしていたので看破されたのか、笑い声混じりで霧人が聞いてきた。

「う、うん。昔からちょっとね。何か、ナメクジとか想像しちゃって……」

「アハハハハ、そうか。まあ、仕方ないかもな。それじゃ、先に行ってていいよ」

「いや、霧人の事待ってるよ」

 自分の恐怖を乗り越えて霧人に近付きたいと、希は半歩右足を前に出した。

「そうか、それじゃヒマつぶしにカタツムリの雑学でも話すか。カタツムリってオスもメスもないんだぜ。出会った相手によってオス役やったりメス役やったりするんだ。もちろんそれで繫殖も出来るんだ」

 希はびっくりした。そしてかすれかかった声を必死で出した。

「な、何でそんな事を……」

「うーん、カタツムリってゆっくりだから遠くへ移動するのに時間がかかるだろ。だから交尾する相手を見つけるのが大変なんだって。だから偶然起きた出会いを無駄にしないようにしているんじゃないかって考えられてるみたい。雌雄同体って言うんだってさ。この話聞いてからカタツムリが好きになったんだ」

「そ、そうなんだ……。霧人、良く知ってるね」

「まあな。って言うか、俺も先生に教えて貰ったんだけどな」

 照れ隠しのように霧人は笑った。それがまたとても魅力的であった。

 オスでもメスでもない、言い換えれば男でも女でもなく、人間の感覚では無節操に生殖行為に及ぶカタツムリという存在に希は興味が湧いてきた。そして、自然に霧人の横にまで歩み寄ったのだった。

「ちょっと、興味出たかも」

「へ~、じゃあ、触ってみる?」

 霧人がカタツムリの殻を摘まみながら言った。カタツムリが苦手と言っている希には近付け過ぎず、それでいて良く見える位置と距離を取ってくれていた。こんな心配りが出来る霧人を、希はとても好きだし尊敬していた。

 霧人は目を優しくし、希の顔を真直ぐ見つめてきた。何を言わんとしているのか分かるので、希は恐怖と躊躇を振り払って小さく頷いた。

 霧人がカタツムリの殻を希の掌の上にゆっくり乗せた。最初は何も起こらなかったが、殻の口からカタツムリの本体が現れ、希の掌に足を下ろした。

 掌から全身に怖気が拡がったが、先程の霧人の話を思い出す事で耐える事が出来た。その刹那、希の右目から涙が一筋零れ落ちた。

「ご、ごめん、そんなに怖かった?」

 慌てて霧人がカタツムリを取り上げようとしたが、希は首を左右に振った。

「ううん、違う……」

 オスでもメスでもない不思議な生物を手にしていると、何とも言えない感動が湧き出してきたのだ。希は自分の掌の上でゆっくり動くカタツムリを慈愛に満ちた目で見つめた。

「そうか、それじゃ掃除が終わるまでそうしててくれ。でも。怖くなったら言えよな。絶対無理するなよ」

 ホッと溜息を吐いて霧人は言い、掃除に戻っていった。

 希はカタツムリの不思議な生態に感じ入ったのもあるが、そのような生物を好きだと言いかいがいしく世話をしている霧人がもっと好きになったのを自分でも感じていた。

 3年生の夏休み明け、ほとんど者が受験を意識し始めていた。夏休み前はそうでもなかった教師達に、焦慮の影がちらつき出しているのも要因だった。

 美術部の希は11月の文化祭まで活動があるが、霧人は夏休みに入ってすぐバドミントン部を引退しており、希の部活が無い日は時間を合わせて一緒に帰っていた。

「なあ希、もう行きたい高校とかあるの?」

 希はドキッとした。

 将来は広告系の仕事をしたいと思っていたので、大学は広告業界へ人を多数輩出している所に行きたいと思っていた。そして年上の従兄弟達からその情報を集めていた。

 高校は正直大学までの繋ぎと思っていたので、希はちゃんと勉強出来る所ならどこでもよかった。例えば実績のある塾の近くの高校など。ただこれは親に言っている建て前で、本当は行きたい高校があった。しかし、まだこの時点では自分でも知らなかったのだが。

「いや、まあ、いくつか候補はあるけどね。逆に、霧人は?」

「えっ、俺? 渋谷開明かな。バドミントンが強いし、帰りに遊んでこられそうだろ。それに西中の加藤ってバドが強いヤツにさ、最後の大会で『一緒に行かないか』って誘われたんだ。まあ、これからちょっと勉強頑張らないとだけど」

 不安さを隠すように霧人はぎこちない笑いを浮かべた。

「へー、そうなんだ」

 この瞬間、希の志望校が決定した。

「それじゃさ、一緒に勉強しよう。2人でやれば分からないところも教え合えるし、サボり防止にもなるじゃん」

「ああ、そうだな。ありがたいよ。でも希の方が頭いいから、俺の方にばっかメリットあるんじゃないか?」

 希の提案にパッと顔を明るくしたが、最後の方は顔を暗くした。申し訳ないと思っているのだろう。

「いや、そんな事ないよ。理科は霧人の方が得意だからさ。一緒に勉強出来たら助かる」

 2人の間で協定が結ばれ、放課後の図書室、希や霧人の家で勉強をするようになった。とても真面目に。その結果、霧人の成績はみるみる上がっていき、渋谷開明高校を射程圏内に捕らえた。

 受験シーズンが訪れた。希にとって渋谷開明高校は安全圏なので、滑り止めとして受験した。結果は2人共合格だった。

 第1志望にしていた霧人は安堵で長い間詰めていた息を吐き出していた。

「いや~、良かった。これで俺は受験終わりだわ。希、本当に感謝してる。ありがとう。希はまだ私立も公立も残ってるんだよな。何か俺に出来る事があったら言ってくれ。協力するから」

 希は唇を噛んで言葉が漏れないようにした。危うく、本当の願いを口にしてしまいそうになったからだ。

「そう? そしたらチョコでもプレゼントしてよ。勉強で疲れた頭には甘いものがいいって言うから。でもあれだね、もし他の受験がダメだったら、また3年間霧人と一緒に学校通えるから、それでもいいよね」

 そんな事はありえないと霧人は笑った。希も一緒に笑った。

 しかし、希は他の高校は全て不合格になってしまった。家族も教師も『受験は魔物だから』と慰めてきたが、希は全く気落ちしていなかった。なぜなら、希は合格しないように、敢えて正解を書かなかったからだ。

 かくして希は本当の志望校に進学する事になった。そして希は高校に入ったら勉強を頑張り、目標にしている大学へ進もうと考えていた。希は文系、霧人は理系で、どうせ同じ大学に通う可能性は低いのだから。

 渋谷開明高校には、霧人が言った通り加藤慎司という男も入学していた。本人はギリギリ合格出来たと笑っていた。飾らない様子を見て、希は仲良くなれそうだと思った。

 その希の予想通り、希と霧人と慎司の3人で行動する事が多くなった。3人は本当に仲が良く、それ以外の者達が入り込む余地が無かった。また3人組によくありがちな、2対1で対立するという事もほとんど無かった。

 しかし、希には1つだけしこりがあった。それは間も無く霧人が『慎司』と呼び捨てにした事だ。特別感が失われた悲しみと、霧人を奪われるのではないかという嫉妬に苦しむ事になった。霧人は高校に入って身長が伸びた。更に元々容姿も良かったので女生徒から人気を集めていたという焦りも手伝っていた。

 希は自分があくまで霧人の大事な“友達”以上になれないと思っていた。そして霧人が“運命の人”を見つけた時は笑顔で祝福しなければいけないと分かっていた。しかし、それなら長い人生で自分を励ましていける、霧人との絆が欲しいと考えていた。

 このような鬱屈を抱きながら、それでいて普段は笑顔を絶やさず霧人と行動した。しかし高校2年生のゴールデンウイーク後に変化が起きた。

 それまでも霧人に言い寄る女生徒はいて、希はそれとなく排除してきた。ただ希の監視網をすり抜けて霧人と付き合う女生徒が何人かいた。長く続かなかったし、よって肉体関係には発展していないと思った。

 それなのに連休中霧人と慎司とカラオケに行く約束をしていた日、急激な腹痛で参加出来なかった隙を突かれ、女子中学生と知り合ったというのだ。その1人が霧人に猛アプローチをしているらしく、とにかく希は焦った。そして仲介しているのが慎司とその妹だというのが口惜しかった。

 なにより霧人のまんざらでもない様子が希の胸をザワつかせたのだ。

 中間試験が近付き、周りの生徒達の間に緊張が高まってきた。これを利用して希は一計を案じる事にした。

「ねえ、霧人、慎司、今度の日曜日に勉強会しない? 丁度両親と弟が出掛ける事になってて、(うち)は静かだから集中出来ると思って」

「うえー、俺はカンベン。休みの日まで勉強したくねえよ。毎日希にちょっとずつ教えて貰って頑張る事にするよ」

 勉強が好きではない慎司がこのように言うのは想定済みだった。希は内心でほくそ笑んだ。同時に、霧人にも断られてしまったらと心配も立った。

「ハハ、それじゃ慎司には毎日特訓コース用意しとく。で、霧人はどうする?」

「ああ、俺は行くよ。慎司は毎日ちょっとずつ頑張れよ。3人一緒に卒業したいからな」

霧人の言葉で3人は笑い合った。その中希は内心でガッツポーズを決めていた。

日曜日、霧人が家にやってきた。予定通り家族は出掛けていたので、家中は静まり返っていた。

「おっ、キレイにしてるんだな」

 希の部屋に入ってくるなり霧人が言った。それもその筈、希は朝から気合を入れて掃除したからだ。ベッドメイクも完璧で皺1つなかった。それに気付いてくれて、希はとても嬉しかった。

「さあ、勉強始めよっか」

 午前10時から始まり、お昼は希がペペロンチーノを作った。霧人は『ピリ辛加減が丁度いい』と褒めてくれた。

 もちろん午後もみっちり勉強した。希は文系が強く、霧人は理系が強かったのでお互いに教え合いながら。

 集中し過ぎていていつの間にか15時半になっていた。希は『甘いもの用意してくる』と言ってキッチンに向かった。ケーキを皿に乗せ、コーヒーを淹れながら時計を見た。

 家族は17時過ぎに帰ってくると言っていた。あと1時間半くらいしかない。勝負に出るならもうこの後だけだと思った。希は真剣な面持ちでキッチンを出て、部屋のドアを開ける時は笑顔に戻していた。

 おやつを食べ終わり、霧人が腕を上に伸ばした。肩の辺りからボキボキと音が聞こえてきた。『さあ、もう一頑張りしよう』と霧人が言い出す前に、希が先手を打った。

「そうだ、霧人にプレゼントしたいものがあったんだ」

 わざといたずらっ子のような顔を作って希は言った。

「ええっ、俺に? 何だろ。ちょっと嬉しいかも。何? 何?」

 希は満足そうに微笑み、クローゼットの中から布で包まれた板を取り出した。そして慄える手を必死で抑え込み、それを霧人に渡すと自然に横に座った。

 2人はベッドに背中を預けてそれを見つめた。霧人が『見ていい?』と言うように顔を向けてきた。希は唾を飲んで少し喉を潤し、固い動きで首を上下した。

 霧人は布を取った。するとキャンバスが現れた。霧人の似顔絵が水彩絵の具で描かれているものが。

「これ、俺か。すげえ似てるな。希、中学の時は美術部だったもんな……」

 霧人の言葉通り、とてもよく似ていた。しかしそれ以上に、見る者が見ればこの絵に隠されたものが分かるように、強烈にある感情を主張していた。

「希、これって……」

 言いながら霧人が横を向いた。何とも言えない感情を顔に表しながら。この霧人の心に出来た虚を、見逃さず、希は床に置かれた霧人の手に自分の手を重ねた。

「希……」

「ずっと、好きだったんだ……」

希は霧人の顔に自分の顔を寄せた。意外な事に霧人は逃げなかった。この僥倖を見逃さず、更に希は顔を近付けた。

2人の唇が重なった。希は思い切って舌を伸ばすと、霧人がそれに応じてきた。

「霧人、やっぱり嫌?」

 拒否される事を予想し、潤んだ目で希は言った。

「そんな事ないよ。俺も希の事好きだし。あ~、ベッド使っていいか?」

 霧人がベッドを指さして言った。まさかこんな奇跡が起きるとは思っていなかった希は一瞬固まったが、顔を赤らめ急いで頷いた。

 2人は希のベッドに入った。バラの香りが漂ってきた。事前に、こうなったらいいなと思い、香りを付けておいて本当に良かったと希は思った。

 霧人の手が希の体の全てを撫でてきた。2人の吐息は熱く、激しくなっていった。すると突然霧人が動きを止めた。

「希、いいのか?」

 声を掛けられ、全て理解した希は首を縦に動かした。同時に目の端から光の粒が流れ落ちた。

 しかし、なかなか霧人は次の行動に移らなかった。痺れる頭でも希は不審に感じた。

「あの、希、お前はどっちがいいんだ?」

 ここでそれを自分に言わせるのかと、希は顔から火が出る程の羞恥心を覚えた。そして蚊の鳴くような声で呟いた。

「き、霧人がいれて欲しい」

「分かった。でも、俺、アレ持ってないけど、希は持ってるか?」

 希は首を左右に振った。

「ううん。でも、こういうの初めてだから病気とかないと思うし、霧人がそうでも気にしないから。それに……、妊娠の心配は絶対に無いから」

「プハッ、確かにそうだな。それに俺もだいたい付けてるから大丈夫だと思う」

そう言うと霧人は体を動かした。下半身から頭頂に衝撃が走った。しかし嫌でもなく耐えられなくもなく、希は霧人の方に手を伸ばして抱き寄せた。希の腕の中で霧人は体を動かし続け、果てていった。希と同時に。

 ――真は手に持っていたペンを落としてしまった。テーブルで跳ね、室内に乾いた音が響いた。

 あんぐりと開けていた口を閉じ、ペンを急いで拾い、真は希に声を掛けて話を遮った。

「ちょっ、ちょっ、待って下さい。えーと、風吹さんは今も、昔も、その……、男性ですか?」

 少し希の顔がムッとしたように変化した。

「まあ、そうですね」

「もちろん穂積さんも男性ですから、その、お2人は、何と言うか……」

 真は既視感に襲われた。確かにこの国にはジェンダー問題を抱えている人は10%くらいいると言われている。それでも短期間に2人も会うかと。

 いや、蝶子は自分ではそうではないと言っていた。真は興味本位もあったが、真実を確かめたいと思って窺うように希に話し掛けた。

「えっと……、その、風吹さんと穂積さんはいわゆる……」

 希の眉間に皺が寄り、目が細くなった。どうやら腹を立てたようだ。

「あなた、ジャーナリストですよね? こんな事で驚いたりしてどうするんですか」

「本当に申し訳ありません」

 無駄な言い訳をせずに真は頭を下げた。すると見えないながらも希の怒気が弱まったのを感じ、真は陰でホッと息を吐いた。

「あなたは私達をゲイと思っているようですが、それは違います。……、霧人はどうか分かりませんが、多分バイセクシャルじゃないかと思います。私の後、霧人は『男でもいける』と言ってたので。でも、私は完全なストレートです」

「えっ、いや、だって、風吹さんは穂積さんの事が好きだったんですよね」

 さすがに真は混乱した。

「あなたが女性キャラクターの着ぐるみに入ったとします。それで男に目もくれず女と写真を撮っていたら、男から『コイツ、レズだな』と言われたらどうしますか?」

 真は顎を指で挟んでちょっと考えた。

「いや、ワタシは男なので、女性が好きなのは当たり前だろって思います」

「男達には何と言いますか?」

「俺はノーマルだって。えっ、……」

「そうです。私は男性の衣を着ていますが、女なのです。小学生の時に気付いて、誰にも言えませんでした。とても苦しかったです。恋愛対象は幼稚園の頃から男性で、でも結婚はもちろん成就するのも難しいと思っていました。両親は私にフツウの人生を送って欲しいと思っている事が分かっていたので、いつかは女性と……結婚しなければいけないと考えるようになりました。でも一生に一回だけでも、本当に好きな人としたいと思いました。霧人はその願いを叶えてくれたんです。あの一日の思い出だけで、私は残りの人生を乗り越えていけると思いました」

 真はある事に気付いて顔をハッとさせた。そして希が言葉を切った隙をついて口を挟んだ。

「それじゃ、風吹さんは奥さんとは」

「ええ、茜との間に男女の愛は存在しません。両親の勧めでね。でも、とってもいい女性ですよ。私以外となら本当の意味で幸せになっていたと思います。子供を作る時も茜としましたし、今でもたまに求められます。もちろんやりますよ。ただなかなか勃たないので、目を瞑って霧人の事を思い出しますけどね。私は霧人に挿れませんでしたが、興奮して体は反応しますので。ただ、私はとても倒錯的な気持ちになりますけどね」

 口を閉じ、希が真を見つめてきた。まだ思考が追い付かず目を丸くしている真を見て、苦笑いしてから呟くように言った。

「あの時の、霧人はこんな感じだったのかなって思うんですよ」

 それから長い間沈黙が流れた。真が衝撃から立ち直るのを待ってくれているのだろう。希は苛立ちも見せずにコーヒーをすすっていた。

「なるほど、分かりました……。いや、本当の意味では分かっていないのかしれません。ただ、頭の中のかかっていた霧が、少し晴れたような気がします」

 真の言葉を耳にすると、希は少し嬉しそうに口角を上げた。自分は間違った事は言わなかったのだと。真はホッと胸を撫で下ろした。

「あの、それで伺いたいのですが、恋敵? の事を話すのは心苦しいと思いますが、弟切密さんの事で知っている事を教えて頂けないでしょうか」

 密の名前が出た瞬間、希の目がピクリと動いた。ドキンと真の胸が鳴ったが、霧人と事と同じくらい聞きたい話なので怯まなかった。何より希は霧人と密の両方を知る人物なので、その言葉は千金に値する筈だった。

「弟切密ちゃんか……。あの子の霧人へのアプローチは強烈でした。まあそのお陰で私も焦って霧人と関係を結び、私の処女を捧げられたんだからある意味感謝しています。私はてっきり霧人は密ちゃんと結婚すると思っていたんですよ」

 ちょっと苦しそうな顔で希は言葉を切った。不可能であると分かっていても、本当は自分が結婚したかったのだろう。

「それに霧人も言っていたんです。『あの子とは何か運命的なものを感じる』って。私とした後もですよ。私の気持ちを知っているのに……、まあ霧人は悪気がないんですけどね。あと、これも心苦しいのですが、体の関係も他の女の人と感覚が全然違うと言っていました。何て言うか、ぴったりしているみたいって……」

 自分と霧人の関係を話している時は甘美な夢に酔っているような顔をしていた希だったが、他の女の話をする時は苦虫を嚙み潰したような顔になっていた。その気持ちは理解出来たが聞き捨てならない言葉に、真は身を乗り出して口を挟んだ。

「ちょっといいですか。加藤蝶子さんに聞いた限りでは、弟切密さんは亡くなる直前まで穂積さんと付き合っていたと聞きましたが……」

「ああ、霧人はそういうヤツなんで。節操が無いという訳じゃなく、何と言うか、世の中の枠組みに囚われていないんです。男と男がセックスするのがダメとか、同時期に何人かと付き合ったらダメだとか。でも、その中でも密ちゃんは特別だったと思いますよ」

 自分が信じていたものを崩されていく衝撃に、真は目眩を感じていた。そして、それを受け入れれば、今まで聞いてきた話の違和感にも納得いくかと思い始めていた。

「なるほど……、つまり、何らかの事情で穂積さんと弟切密さんは結婚出来なかったが、2人の付き合いは続いていたという事ですね。えっと、それじゃ、風吹さんが穂積さんと最後にお会いしたのはいつですか?」

「ええと、霧人が結婚した女性、神木崎シノさん知ってますか?」

 真は自分の頭から血の気が引くのを感じた。神木﨑シノの話は後で聞いてみようと思っていたのに、それを相手から出されて驚愕したからだ。真は喉がヒリついて声が出せなかったので、必死で首を縦に動かした。

「時霧人が福井に転勤する少し前だったんですけど、私がクライアントと打ち合わせが終わった後、偶然池袋で出会ったんですよ。霧人は珍しく慌てて『この人と今度結婚するんだ』って言ってました。私は霧人の顔を見ていたかったし話もしたかったので、お祝いするという口実で食事に誘いました。イタリアンバルで、ワインを4本くらい開けたかな。シノさんって人はお酒が苦手みたいで結局一口も飲んでませんでしたけど」

 すると突然希の口が『アッ』という形に開いた。

「そうだ、そこに密ちゃんもいましたよ。霧人は妹だって言ってました。驚きましたけど、まあ、同席させる理由として最も適切だと思いましたけどね」

 真は先程よりも更に身を乗り出した。

「ええっ、風吹さんは穂積さんだけでなく、シノ……さんにも、弟切密さんにも出会っていたんですか……。確か弟切密さんが亡くなったのは、その後すぐですよね。お互いに運命の人とまで思っている人が結婚するんですから、弟切密さんは思い詰めたような様子だったりしましたか?」

「いえ、そんな事なかったと思いますよ。むしろ、妙にハイテンションだったかもしれませんね。あっ、しまった。霧人は東京に戻っているのは職場にも両親にも知らせていないから、会った事は黙っていてくれって言われていたんだった……」

 言い終えると希は口を曲げ、懇願するような目で見てきた。真は希を安心させるように笑って頷いた。

「他言はしません。それで、風吹さんから見たシノさんはどんな感じでしたか?」

「あー、そうですね。正直な感想は柄じゃないなって思いました。密ちゃんも、婚約を解消した鈴音(すずね)さんも、見た目は黒髪清楚系なんですよ。でも、シノさんは、髪の毛を明るく染めて毛先は巻いてて、霧人の好みとは違うと思うんですよ。うーん、こう言ってはなんですけど、霧人が遊ぶタイプの女性でしたね」

 ゴクリと真は固唾を飲み込み、鞄から写真を取り出して希の前にスッと差し出した。その写真には派手なメイクと茶髪の女性が、笑顔でピースサインを出して写っていた。

「この、女性を知っていますか?」

「あっ、シノさんですよ。さすがにジャーナリストですね。それにこれは、随分若い頃の写真かな?」

「シノさんに間違いないですか?」

 希の顔は怪訝そうなものになった。

「ええ、間違い……ありません」

「あともう1つ、風吹さんは穂積さんの元婚約者の方もご存知なのですか?」

「はい。まだ霧人が大阪にいた時の上司の娘さんで、結婚も考えてるって1度会った事があります。それと私見ですが、鈴音さんが……一番……霧人に似合っていると思いました」

「何で婚約を破棄したのでしょうか?」

 チラリと真はコーヒーカップを見た。もう中身は残っておらず喉も渇いていたが、話の腰を折る訳にはいかないと我慢した。

「さあ、分かりません。でもその後すぐ霧人はシノさんと結婚し、長崎へ転勤になりました」

「それって左遷ですか?」

「質の良くない高校の同級生はそう言いましたが、真相は分かりません。でもその後話した時、霧人には悲壮感の欠片もありませんでした」

 真は眉間に皺を集め、唇を尖らせて考え込んだ。そして、これはいよいよ大阪まで行って話を聞かなければいけないかと思った。

「それじゃ、この人は、知っていますか?」

 買い物袋を手にして田舎道を歩く女性が写っている写真を、真は同様に希に見せた。

「うん、もちろん知ってます。密ちゃんですね。この子がまさか自殺するなんて……。この写真、亡くなる直前くらいですか? かなりフケ……、いや疲れているのかな?」

 まだ希は写真を見ていたいようだったが、真はスッと片付けた。そして筆記用具を片付け、この話し合いの終了を暗に示した。

「あっ、そろそろ……」

「はい。風吹さんのご家族も心配なさると思いますので」

「お気遣いすみません。帰りも送りましょうか?」

「いえ、すぐ近くに電車もバスもありますから」

「ですよね」

 真と希は笑顔を交わした。そして2人がほぼ同時に腰を上げた時、心配そうな声で希が話し始めた。

「あの……、この話、記事になるんですか?」

 虚を突かれた真は一瞬何の事だか分からなかった。しかしすぐに希が言っている事の意味が分かった。

「ええ……、もちろん必要であれば記事にさせて頂きたいと思います。でも、もちろん仮名などを使ったりして、情報源の方に迷惑がかからないようにするのは約束します」

 すると希はホッと顔を綻ばせた。

 そして車寄せで真は希と別れた。希の電気自動車の姿が見えなくなるまで、真は行方を見つめていた。



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