3章
第3章加藤蝶子
『ポーン』
スマホが真を呼ぶ声がした。真はカーテンで作った夜の中で手を伸ばしてスマホを掴んだ。直後、夜の中の一部分だけが明るくなった。
すると真は弾かれたように飛び起きた。
《パピヨン:今日の14時新宿》
弟切夫妻から名前を聞き、SNSを使って加藤蝶子に辿り着いた。そしてメッセージをやり取りし、ラインの交換まで成功していたのだ。
そして一週間前に『予定が空いたら連絡する』という色気の無い連絡を最後に、真が送った『了解しました。よろしくお願いします』にも既読が付かないままだったのだ。
半ば諦めていたところに突然約束の連絡が来て、真は驚きと焦りで頭が瞬間的に覚醒した。
《佐藤:はい、もちろん大丈夫です。どこに行けばいいですか?》
寝起きとは思えないような素早い指さばきで返信した。
《パピヨン:歌舞伎町のカラオケ。部屋決めたら教える》
《佐藤:了解しました。》
無駄なものを一切省いた要件だけのメッセージだった。そして当然の事ながら、真の送ったメッセージには既読は付かなかった。恐らく、蝶子はスマホを手放しているのではないだろうか。
真は連絡を終えて安堵し、息を吐きながらスマホをベッドに投げた。その瞬間スマホの画面が光った。
11時14分だった。
今から準備して家を出て、駅近くで手土産を買って新宿に14時だとギリギリだった。真は女性に会うので急いでシャワーを浴び、スーツを羽織って部屋を飛び出した。
13時30分、電車の中の真のスマホが鳴った。すぐに見られるように手に持っていた。
《パピヨン:カラオケ俱楽部3号館118号室》
どうせ読まれないと思いつつ、真は返信した。予想通り既読は付かなかった。そして真は新宿に着いてから迷わないよう、地図アプリを起動させて場所を確認した。
駅構内、歌舞伎町を小走りし、真が指定された部屋の前に着いたのは13時57分だった。真が118号室のドアを開けると、中から大きな歌声が流れ出してきた。
漆黒の髪を腰まで伸ばした170センチくらいの女性が阿部真央の歌を熱唱していた。人が入ってきたというのに恥ずかしそうにする様子もみせず、チラリと切れ長の目を真に向けただけで再び視線をモニターに戻した。
真は入口近くのソファにそっと腰を下ろし、歌い続ける蝶子を見た。美しい、そして似合っていると思った。
14時ほぼ丁度、蝶子は歌い終えてマイクを置いた。そしてテーブルの上に置かれている泡の無くなったビールに手を伸ばし、ジョッキに半分残っていたものを一気に飲み干した。
「どうも」
蝶子は言った。歌を歌っている間真を待たせたが、丁度14時に歌い終えたので謝るようなそぶりすら見せなかった。
「初めまして、ワタシ……」
真の言葉を蝶子が手を上げて制してきた。
「もう名前も知ってるから、無駄な自己紹介とかいりません」
「あっ、はい。それじゃ、これをどうぞ」
焼き菓子の入った箱を真は差し出した。すると一瞬嫌そうに顔を歪め、蝶子は片手で箱を受け取り無雑作にテーブルの上に置いた。
「あたしも暇じゃないので、さっさと用件に入りましょう」
明らかに年下の蝶子に圧され、慌てて真は鞄を探って写真を取り出し、テーブルの上に置いて蝶子を見た。
「密ね」
眉の筋を動かす事もなく、平然と蝶子は言った。
「加藤さんが弟切密さんに最後に会ったのはいつですか?」
「あっ、質問にはだいたい答えます。でも、面倒なんであたしの事は蝶子、密は密って呼んで下さい」
真は鼻白んだ。しかし片方の口角を上げてゆっくり頷いた。
「確か25歳の頃かな。だから、7~8年前」
「蝶子さんは密さんの親友だったと聞きました。そこで、学生時代の密さんの話を聞きたいのですが」
『さん』付けではあったが呼び方が変わり、蝶子は一瞬満足そうな笑みを見せた。
「密の事? 具体的には何が聞きたいんですか?」
真は顔を真剣なものに改めた。そしてソファの上で少し身を乗り出して口を開いた。
「全てです。蝶子さんが密さんについて知っている事全てを。どんなに細かい事でも、どうでもいいと思えるようなものまで」
真の話に興味をあまり示していないように蝶子は小さく『フーン』と言った。そして空になったジョッキを見つめ、ビールの追加を頼んだ。
「メールでもお伝えしましたが、密さんが普通の女性であったという事を証明したいのです」
なかなか話の核心に向かおうとしない事に焦り、真は蝶子に話を促した。すると蝶子の口が少しへの字になった。真は何か間違いを犯してしまったのではないかと心配になった。
それでも蝶子が口を開くと同時に部屋のドアが開いた。カラオケボックスの店員が、お盆にビールがなみなみと注がれたジョッキを持って入ってきた。
蝶子が口を閉ざしてしまった。
気まずく重い沈黙の中、蝶子はジョッキを取り上げて口に運んだ。喉の皮膚が波打ち、口の端から黄金色の雫が零れた。蝶子は手の甲で拭うと、真直ぐ真を見つめてきた。
とても深い話が聞けるのではないかと、真は興奮と恐怖で体を慄わせた。
――蝶子は小学校低学年の頃から群れない女子だった。
小学校は集団登校を行っていて、多くの生徒は早い時間から群れて登校していた。しかし蝶子は独りで登校した。校門が閉じる前に到着すればいいので、ギリギリまで本を読んだり、テレビを見たり、勉強したりして過ごした。母親は『皆と一緒に行った方が安全よ』と言っていたが、蝶子は聞く耳を持たず自分の行動を変えなかった。
朝からこんな調子だったので、蝶子の行動は学校内でも同じようだった。トイレに一緒に行くなど、自分の意に介しないものは誰かと共に行動する事は決してなかった。
1、2年の担任教師は独りで行動する蝶子を心配した。無理矢理クラスメイトと一緒に行動させようとしたり、クラス全体を巻き込んだ遊びなどを企画した。更に独りで給食を食べている蝶子と机を付け、食事をしながら話し掛けてきた。また何度か家庭訪問も行われた。
6年生になり、夏休みが終わり、運動会と音楽会があった。その頃になるとクラスの数人の男女が『中学は私立に行く』と言い始めた。まだ卒業まで何ヶ月もあるのに別れを悲しむような様子に、正直蝶子は閉口して嫌悪感すら抱いていた。
しかし、その蝶子の頭にある考えが閃いた。自分も私立に進学すれば、この大多数の愚鈍な者達と別れられるのではないかと。
蝶子はその日の夕食に『もっと高いレベルの勉強をしたい』という学生にとっての聖剣を抜き放った。しかし親からは『NO』を突きつけられた。理由は中学までは公立に行って欲しいというものだった。
蝶子は愕然としてしまった。しかしすぐ後の日曜日に父親に外出を誘われた。かなり面倒だし嫌だったので最初拒否したが、昼からステーキを食べさせてくれるという誘惑には勝てなかった。
鉄板の上で音を立てて焼ける肉を見ているだけで腹が鳴り、口に唾液が溢れてきた。すると父親がウーロン茶で喉を湿らせて話を始めた。
父親も母親も、本当は蝶子の私立進学に反対ではなかった。問題は兄の慎司だった。既に公立の中学に進学していたからだ。兄が公立なのに妹の蝶子が私立に進学したら、慎司が自信を喪失するかもしれない。
父親と母親は蝶子の成績が良いので、もしかしたら私立中学進学を口にするかもしれないと予想していた。そして事前に話し合っており、話が出たら夫婦の総意として却下しようと打ち合わせ済みだったのだ。
蝶子は溜息を吐いた。そして父親に文句をぶつけようとした時、美味しそうなステーキが目の前に置かれた。冷める前に蝶子は肉にナイフを入れ、獣のように食った。
柔らかい肉を咀嚼している最中、肉よりも甘美な考えが蝶子の脳内に閃いた。口の周りを脂だらけにし、蝶子はナイフとフォークを宙に浮かせた。
ほとんどの生徒が地元に通うのは中学までで、高校になると方々に分かれていく。それはクラスメイトの話を小耳に挟んで蝶子は知っていた。ならば、高校進学の時にこの恨みを晴らせばいいと蝶子は思いついた。
蝶子は中学3年間で必死に勉強し、くだらないクラスメイトが絶対に到達出来ないレベルの高校に入ろうと思った。そして、高校ならば兄の慎司の学力をぶっちぎった学校でも許されるだろうとも思った。
蝶子は念の為、父親から『高校は好きにしたらいから』という言葉を引き出し、何時か使う時に備えて心の奥底に納めたのだった。
中学に入っても蝶子は何も変わらなかった。そもそも慣れあうつもりもなかったし、高校進学時はこのくだらない連中を置いていくつもりだったので勉強に勤しんだ。
1学期も半ばになったある日の昼休み、この時も午後の授業に備えて予習をしていた蝶子は、何か異変を感じてノートから顔を上げた。
クラスに見た事もない女子がいた。いや、そもそも蝶子はクラスメイトに興味が無く覚えてもいなかったが、さすがにぼんやりとは認識していた。ただその女子は全記憶に無かったのだ。
『あれ、誰?』と尋ねる者もクラスにいないので、蝶子は勉強の合間に女子を観察した。
女子は、やはり蝶子が名前の知らないクラスの男子と付き合っているようだった。しかし、他の付き合っている男女のような雰囲気でないのが気になった。
興味と疑問が澱のように溜まっていき、蝶子は校内で女子を見つけたら目で追うようになった。そして蝶子が出した結論は、その女子は独りであるという事だった。
厳密には蝶子のように誰とも関わらないという態度ではなかった。しかし蝶子には全ての人と一線を引いているように見えたし、女子が見せる笑顔はまるで仮面のようだと思っていた。ただ彼氏に見せるものだけは本物と思える笑顔だった。
ある日の休み時間蝶子はトイレに行った。しかしそこにはくだらないクラスメイトが汚物ように溢れていた。蝶子は嫌悪感から鼻に皺を寄せ、人気の無いトイレの方へ爪先を向けた。
トイレのドアに手を掛けた時、突然ドアが勝手に開いた。直後、その恐怖現象以上の事態に蝶子はギョッとした。トイレから男子が出てきたからだ。蝶子は自分が間違ったのかもしれないと確認したが、やはりそこは女子トイレだった。
蝶子は声を掛けるつもりもなかったが、男子は顔を俯けていそいそと立ち去っていった。さすがに呆然としてしまっていた蝶子の横を、今度は女子が通り抜けようとした。それは件の女子だった。
刹那に自分を取り戻した蝶子は、女子の腕を掴んでトイレの中に引っ張り込んだ。
「あんた、いやあんた達ここで何やってたの?」
女子はジロリと睨んできた。そして顔を背けて小さな声を発した。
「別に……、何も……」
そうは言ったが微かなアンモニア臭いに混じる、更に微かに隠された獣のような臭いを蝶子の嗅覚は捕らえていた。
「あんた達……、授業中とかって方法もあったんじゃないの? まあいいわ」
尿意が高まっていた蝶子は個室のドアに手を伸ばした。その瞬間、破裂したような笑い声が耳に届いた。
「プハッ、面白い事言いますね。ヒソカ、てっきり『先生に言いつけるよ』とか『学校でするな』とか『避妊してるの』とか言われると思ってました」
女子の言葉を聞き、蝶子は鼻で笑った。
「別に、あたしはそういうのに興味が無いから。じゃあね」
蝶子は言い残すと個室に入り便座に腰を下ろした。驚かなかったと言えば嘘になる。しかし、どうでもいいというのも本当だった。蝶子は尿と一緒に驚愕を放出し、落ち着きを取り戻して個室から出た。
再び蝶子は驚かされた。なぜなら個室の前にまだ女子がいたのだ。その顔にはニヤニヤとした笑いが貼り付いていた。蝶子は恥ずかしさを隠す為、女子を視線で殺しそうな勢いで睨みつけた。
「何?」
言葉も、全く隠していない棘だらけだった。
「すみません。別にからかおうとかバカにしようとか、そんなつもりはないんです。ヒソカと友達になって欲しいと思って待っていたんです」
口を尖らせて蝶子は女子を見た。
「うーん、1つ質問していいかな? あんたさ、クラスの人達とは何で友達じゃないの?」
すると女子の顔がハッとした。そしてすぐに笑顔を取り戻した。
「ヒソカの事、見てくれてたんですか。嬉しい……。あっ、クラスの人達と話しててもつまらないんです。もちろんドラマとか芸能人の話するのは楽しいですけど、何て言うかヒマつぶしです。本心を言うとか、怖くて出来ませんよ。でも、先輩とならそれが出来そうだと思って」
蝶子は驚きで目を丸くした。この女子が自分の事を年上だと思っていた事に。そう言えばずっと敬語で話し掛けられていた。
「あのさ、あたしも同じ1年だから」
「えーっ、そうなんですか。大人っぽいから絶対先輩だと思ってました」
「まあ、よく言われる。だから、これからはタメ口で。あたし、加藤蝶子」
そう言うと蝶子は手を伸ばした。すると女子もすぐに手を握り返してきた。
「よろしくお願いしま……、よろしく! 私、弟切密。前島密と同じ、お父さんが前島密が好きで、女にもつけてもおかしくないだろうって」
理解し、蝶子は『あ~』と言いながら何度か小さく頷いた。
「あの、ホントに分かった?」
「えっ、あれでしょ、秘密の“密。それくらい…」
「へ~、加藤さんすごいね。今まですぐ分かった人いなかったから」
歴史の勉強も進めていいたので当然であったが、初めての友達の名前をすぐに分かってあげられて蝶子は内心ホッとしていた。
「あっ、そう? まあ、歴史も好きだから。それと、“蝶子”!」
密は顔をハッとさせ、舌をペロリと出した。その可愛らしさに、蝶子も思わず顔を綻ばせた。
「それで、蝶子は何組?」
この質問にはさすがの蝶子も啞然としてしまった。
「密……。あたし、2組だよ。あんたの彼氏の、何だっけ、とにかくその男子がいる」
「えっ、志朗の? ごめ~ん、全然見てなかった」
あっけらかんと笑う密を見て、蝶子も許さざるを得なかった。狭いトイレに2人の笑い声が響いた。
久しぶりに大声を出して笑ったなと蝶子は思っていた。
それから蝶子と密はしょっちゅうつるむようになった。校内でお互いの姿を見ると立ち止まって話をし、密が彼氏の志朗の所へくるとそのまま蝶子の所へもやってきた。その時間は徐々に蝶子といる方が長くなった。
絶対に蝶子からは密を訪ねていかなかったし、時に冷たく突き放したりしたが、密は蝶子との距離をドンドン詰めてきた。その圧にむしろ蝶子の方が驚かされた。
ある日、いつも通り独りで校門を出ると、背後から密の呼ぶ声が追ってきた。続いて密が全力で走ってきて、蝶子の傍で膝に手を置いて呼吸を整えた。
「ちょ、蝶子……、一緒に帰ろう」
面倒だなと蝶子は思った。出さないようにしたが、右目を少し細めてしまった。それでも直後たまにはいいかと思い直した。
「まあいいけど。でもさ、彼はいいの?」
それを言われると密はちょっと困ったような顔になった。
「う……ん、まあ、今日はいいかなって」
「えっ、大事な彼なんじゃないの?」
クラスの女子が恋愛に血道をあげているのを見て、蝶子は世の中の女子とはそういうものなのではないかと思っていたのでそう言った。ただ蝶子は全く理解していなかったが。
「うん、まあ、そうなんだけどね。でも、別に初めての男じゃないし」
「えっ、どういう事? あんたも中1でしょ。公園で聞かせて」
そう言うと蝶子と密は連れだって学校から少し離れた公園に向かった。衝撃発言をしたにも関わらず、道中の密は平常と変わりがなかった。その様子を見て、むしろ蝶子の方が後ろ暗い気持ちになった。
ベンチに座り、周囲に学校関係者がいないのを確認すると、蝶子は真直ぐ見つめた。
「さっきのどういう事? 彼氏が出来たのが? それとも……」
それ以上蝶子は言えなかった。
「どっちも。6年の時に」
急に密が大人に見えた。手を繋いだだけでもキャアキャア言っているクラスの女子に対し、自分の性体験を朝食の事を話すようにあっさりと口にしたからだ。
そして、この時密が中学に上がる時に引越してきた事を聞いた。小学生の頃も友達が少なく、中学生になったら変わろうと思い頑張って周りの女子に話し掛けたそうだった。
それでもあくまで表面的な付き合いで、密は学校生活に満足出来なかった。ある日図書館で本を読んでいたら紙面が急に暗くなった。窓を背に立っていたのが笹田志朗だった。
そして突然密は告白された。志朗に話したのはその日が初めてだったが、密は嬉しくて付き合う事を決めた。丁度夏休みに入る少し前だったので、密と志朗は夏休みの宿題そっちのけで会った。
密が処女ではない事もあり、2人が一線を越えるのに時間は要しなかった。ただ密で童貞を失った志朗は肉体関係に耽溺していくようになり、会う度密の体を求めてきた。自分が必要とされている事が嬉しくて、求められるがままに体を開いたと言った。
友人関係がドライな蝶子は密にとっても都合の良い存在だったようだ。密は蝶子と友情を深めつつ、志朗との付き合いも濃く続けていけたのだから。
中学2年生になり、教師達の忖度があったのか、蝶子と密は同じクラスになった。密はそれなりにクラスメイトと上手くやっていたが、蝶子は相変わらず一切交流を持とうとしなかった。
密はクラスの女子達に『加藤さんって怖くない? 一緒にいてヤな事されないの?』などと聞かれたらしい。それに対して『別に、密は大丈夫』と“は”に力と含みを込めて答えたらしい。
他の女子に蝶子がとっつきは悪いが付き合ってみると良い人だと知られるのが嫌だったと密は謝ってきた。それはむしろ蝶子の望むところなので気にするなと伝えた。すると密は胸に手を当てて安心する様子を見せた。
ゴールデンウイークに入る前、密に連休中に会おうと誘われた。ちょっと面倒だなと思ったが、何故そう思ったのか密に尋ねてみた。すると密は長い間会えないと寂しいからだと言った。
どんなに考えても全く理解出来なかったが、世の女子はそんなものかと咀嚼し消化した。そして勉強で疲れた脳を休ませるにはいいかなと考え、5月3日に約束をした。
5月3日の午後2時、蝶子の携帯が突然呼び掛けてきた。何故こんな時間にと鳴ったのか不審に思った蝶子は携帯の画面を見た。すると『3時密駅前』と表示されていた。
約束していた事を思い出し、蝶子はシャープペンシル置き、指を組んで大きく上に伸ばした。肩の辺りからポキポキと音がした。
さすがに部屋着ではまずいと思い、適当に服を選んで家を出た。早い午後の日射しが目に痛かった。よく考えたら、連休に入って家を出たのはこの時が初めてだったのに気が付いた。
駅には15時ちょっと前に着いた。既に密が待っていて、蝶子に気付いたらしく大きく手を振ってきた。ちょっと恥ずかしく、足早に駆け寄ってすぐに止めさせた。
密の服装はキュート系で、白いベレー帽のようなものまで被っていた。自分との温度差を感じ、もう少しちゃんと服を選んできたらよかったなと思った。
何をするか全然決めていなかったが、密は一緒に街歩きをしようと提案してきた。ウインドショッピングなどした事がなく、母親と一緒に買い物に出掛けた時色々連れ回されてうんざりした事があるのを思い出した。
友達と一緒なら楽しいものになるかもと、蝶子は渋々といった体で承諾した。洋服屋、雑貨屋、本屋などを密と回った。何も面白みを感じなかったし、時間の無駄だという考えは拭えなかった。そしてこの時になってやっと蝶子はこのような行動が自分は嫌いなのだと分かった。更にもう二度としないと心に誓ったのだった。
うんざりしている蝶子の横で、密は目を輝かせて腕を絡めてきていた。背の高い蝶子と密が並ぶと倒錯的なペアに見え、道行く人の目を引いた。
2時間位歩き、蝶子は疲れを感じていた。そして休憩するか、適当な理由を付けて帰ろうと考えていた。
「あれ、蝶子じゃん」
聞き慣れた声だ。蝶子は声のした方に目を向けた。案の定兄の慎司だった。遠慮せず溜息を吐いた。
慎司の隣には男がいた。
「お前が友達と一緒って珍しいな」
「うるさい、あっち行け」
心臓まで凍りつきそうな冷たい声で蝶子は言った。
「そう言うなよ。なあ、おごってやるから一緒にカラオケ行こうぜ」
「ハァ? なんであたし達が? 2人で行けばいいじゃん」
蝶子は取り付く島もない態度だった。
「ヤロウ2人でカラオケって拷問じゃなんいだから。ノゾミが来れなくなっちゃったからさ。なあ、いいだろ?」
もっと厳しく言わなければ分からないのかと蝶子は思い、顔を歪めて口を開きかけた。その時袖を引っ張られているのに気が付いた。
蝶子は雷の速度で顔を振った。そこには潤んでいる目で真直ぐ前を見ている密がいた。さすがの蝶子も胸騒ぎを覚えた。
「密、あんたには……」
「シッ。蝶子、密はカラオケ行きたい。一緒に行こうよ。お願い」
このような経験をしたのが初めての蝶子は混乱してしまい、嫌々ながらも首を縦に動かした。そして願わくば密の視線の先にいるのが兄ではない事を祈った。
カラオケボックスに行き、密の狙いはすぐに分かった。慎司の同級生という男の横で、しな垂れかかるように座っていたからだ。
蝶子は恋愛に興味が無かったし、密と男を奪い合うつもりも無かった。なので『何で兄貴とカラオケ来てんだろ』と独りシラケていた。それでも歌を歌うのは大好きだったので、シャウト系の歌で憂鬱を吹き飛ばそうとした。
2時間近く経ち、最後は慎司の同級生の番だった。男女ヴォーカルのフューチャリング曲で、密はイントロがかかると『密、知ってる、一緒に歌いたい』と言ってマイクを握った。
歌のミュージックビデオの中で男女のヴォーカルが腕を交差するシーンがあった。密と慎司の同級生はそれを再現した。
約束通り慎司達が料金を払い、2人は去っていった。蝶子は密を見た。密の目は完全に恋する乙女のそれだった。
「蝶子……、密、分かっちゃった。さっきあの人と腕を交差した時、運命の相手なんだって……」
――突然真が蝶子の述懐に口を挟んだ。
「その男性の名前は?」
話を遮られて不快に思ったのか、蝶子は鼻の上に皺を寄せた。
「ああ、穂積霧人。同じ区に住んでいたんだけど、中学は違って、高校で知り合いになったって言ってました」
突然の穂積霧人の登場に真は驚き、ペンを持つ手が震えるのを感じた。
「でも、その……、密さんには彼氏がいたのでは?」
「ええ」
気のない返事をしながら蝶子はチラリとスマホの画面を見た。
「それをこれから話そうと思ってました」
蝶子はジョッキのビールを飲んだ。どれくらい飲んでいるのか分からないが、蝶子の顔には酔いの兆候は全く見えなかった。
――突然の密の告白に蝶子は驚いた。手にしていた携帯を落としそうになり、慌てて携帯でお手玉をする事になった。
「ちょっ、密、あんた彼がいるじゃん」
「ああ、志朗?」
この言葉を、感情に乏しい口調の、聞き蝶子はもう密の心の中には志朗がいなくなっているのに気が付いた。
それから密の質問攻めが始まった。初対面の霧人の事は知らないが、慎司の事はつぶさに教えてやった。通っている高校の名前、レベル、バトミントン部に入っている事など。蝶子は意外に兄の事を知らないと思った。
そして密に霧人と繋げてくれるよう頼まれた。それには慎司と話さなければいけなくなるので拒否したかったが、あまりにも必死な密の様子に首を縦に動かすしかなかった。
蝶子はその日の夜に早速慎司の部屋を訪ねた。
「兄貴」
「おう、蝶子。今日はありがとうな。また一緒に行こうか? いやいや冗談だよ。兄貴とカラオケなんて一種の拷問だよな」
恥ずかしさを払拭する為にか、慎司は口元を緩めて早口で話した。ただ予想外の話の展開に、蝶子は渡りに舟と飛び乗った。
「いや、また行こうよ。って言うか、一緒にいた友達、密っていう子なんだけど、兄貴に友達を好きになったんだって」
「へー、霧人の事を……」
「キリトさんって言うんだ。その人さ、彼女とかいるのかな?」
眉間に皺を寄せて慎司は考え込んだ。
「あー、今はいないって言ってた気がするなー。まあ俺も霧人と出会って1ヶ月だから詳しくないけどな。よしっ、聞いてやるよ」
そう言うと慎司は携帯でメールを打ち始めた。送信すると間も無く返事があった。その間部屋は沈黙が支配していた。
「おっ、返ってきた。霧人は女友達も多いみたいだけど、今は付き合ってる特定の女はいないみたいだぞ。その子に連絡先教えていいよって言ってきたけど、どうする?」
蝶子は黙考した。霧人には女の影が見え隠れしている。二股ぐらいするかもしれない。友達の密が傷付くかもしれないと思った。
直後蝶子は顔をハッとさせた。霧人と付き合いたいと望んでいるのは密であり、それを乗り越えるのは密自身なのではないか。最悪捨てられたとしても、密は初めてじゃないから人生経験の1つになるかと結論を出した。
「それじゃ、密に教えとく。後は2人に任せたらいいんじゃない」
慎司は『そうだな』と言って霧人の電話番号とメールアドレスを教えてくれた。翌日密にそれを教えると、文字通り飛び上がって喜んだ。それを見て蝶子は自分の行動は間違っていなかったと思った。
1ヶ月が過ぎた頃、一緒にいても密が携帯を頻繁に見るようになっていた。驚いた事に、密は既に霧人と付き合っていた。そしてあっさり志朗とは別れていた。
中学2年生の夏休みがやってきた。蝶子は密と共に行動するようになってまだ1年も経っていないが、密の霧人への入れ込み方は異常だと思った。志朗と付き合っている時とは雰囲気が全く違ったからだ。
それこそ密が“運命の人”と言ったように、寝ても覚めても霧人の事を考えているようだった。そして家、学校、蝶子、霧人との四重生活を必死にこなしていた。もちろん霧人に1番のウエイトを置いているようだったが。
蝶子と話す時もほとんど霧人と何をした、霧人が何をしたという内容で蝶子を辟易さえた。またある時は密の生理が数週間遅れ、さすがに蝶子も胸をハラハラさせたのだった。
中学3年生になり、蝶子と密は別のクラスになった。しかし行動は相変わらず共にしていた。4月のある日の帰り道、密が相談口調で話し掛けてきた。
「ねえ、蝶子は高校ってどこ行くつもり?」
「あ、世界キリスト教大の付属考えてる」
密は顔を青くして絶句した。初めて口にしたが、普通はこんな反応するよなと思った。そして蝶子はもう家族と教師以外には話すのは止めておこうと思った。
「そ、そうなんだ。そうだよね、蝶子、めちゃくちゃ頭いいもんね」
「まあ、昔から勉強してたから。密は?」
「密は……」
ちょっと密は恥ずかしそうだった。
「渋谷開明高校」
蝶子は息を飲んだ。何故なら慎司の行っている高校だったのだ。そしてすぐ合点がいった。霧人を追っていこうとしているのだと。
「そうなんだ。まあ、いいんじゃない。でも、そこってそれなりに偏差値高いから、密、ちょっと頑張らないとだね」
蝶子の言葉を聞き、密は俯きながら『うん』と呟いた。
「それでさ、蝶子も一緒に行かないかなって思って……」
眉の間に深い縦皺を作って考え込んだ。同じ中学から誰も行かないだろう高校を目指して勉強してきたが、密と一緒の高校にするとなると相当レベルを落とさなくてはならなくなる。
今までの蝶子であれば、信条と友情ならば秤にかけるまでもなく信条を取っていた。それを悩むという事は、密にかなりの友情を感じているという事だった。その自分の変化に、蝶子自身が戸惑いを感じていた。
「うーん、今は何とも言えないから“保留”。それよりさ、密が渋谷開明に行けるかどうかの方が微妙なんじゃないの? とりあえず頭に入れとくけどさ、年末に密の成績が全然だめだったら検討すらしないからね」
再び密の顔色が変わった。今度は青を通り越して白かった。恐らく蝶子に指摘されるまで自分の学力を失念していたのであろう。
「蝶子、お願い。密に勉強教えて」
神にでも祈るように、密は顔の前で手を合わせて頼んできた。それを見て、蝶子は諦めとも呆れともつかない溜息を吐いた。
「まあ、あたしの勉強もあるからずっとは付き合えないけど、一緒に勉強しながら分からない所は教えてあげるよ」
密の顔がパッと明るくなった。
「ただあたしもリスクを背負うんだからさ、密も気合入れなさいよ。入学したら毎日会えるんだから霧人さんと会うの控えるとかさ。やってばかりだとバカになるかもよ」
女として自分より経験豊富な密に嫉妬していたのかもしれないと、少し意地悪に忠告した。すると密はあからさまに嫌な顔をしたが『頑張る』と呟いた。
そして密は蝶子に付いて勉強をした。かなり熱心にやっていたので、中間、期末試験の成績は着実に上がっていった。しかしどうやら霧人との時間はほぼ減らしていないようだった。常に密は眠そうにしていたので、蝶子はそう予想していた。ただ、密は同学年の女子の中で最も色っぽく、容姿は十人並みなのに男子や教師まで魅了していた。
時に泣きながらでも勉強していた密は、2月に渋谷開明高校の合格通知を手にした。そして今度は喜びの涙で顔をグシャグシャにした。
当然蝶子も渋谷開明高校の合格通知を受け取ったし、希の世界キリスト教大付属高校の合格通知も受け取っていた。周りから見れば選択の余地のない問題であるが、蝶子はその2つを机の上に並べて悩んでいた。
そして数日迷い、悩んだ結果、1枚の合格通知を引き裂きゴミ箱に投げ込んだ。世界キリスト教大付属高校の方を。
教師、家族からは『もったいない』と言われた。しかし当の蝶子には一片の後悔も無かった。ただそれは密との友情が強固だったからではない。いやそれも多少はあっただろうが、本質は観察だった。好きな男の為に現を抜かし、一方で実力以上のものを発揮する。蝶子には全く理解出来ない感覚を持つ密を、もう少し身近で見てみたみたいと思ったのだ。
そして、それは3年間と決めていた。また大好きな勉強をして、今度は自分が本当に希む大学に行こうと思っていた。それは結局世の中の人達が評価するのはどの高校かではなく、どの大学かという事を見抜いていた為でもあった。
蝶子と密が入学した時、霧人と慎司は高校3年生になる。たった1年しか一緒に通えないのにと思いながら新しい制服の袖に腕を通した。
慎司の親友だという言葉を裏切らず霧人もバドミントン部だった。そして当然だが密もバドミントン部のマネージャーになった。密に請われてバドミントン部の試合を見にいった。かいがいしく霧人の世話をする密に思わず微笑みが漏れた。
霧人は容姿が良く、学校の女子からそれなりに人気があった。密は霧人と付き合っているのを隠そうとするどころか、むしろ誇示するような態度だったので霧人が卒業するまで先輩達から嫌がらせを受けていた。
蝶子と密が高校2年生になり、当然霧人は卒業していった。すると密は全く未練を見せずに部を辞めてしまった。そのブレの無い行動に、蝶子は当然だろうと驚きもしなかった。
バドミントン部を辞めた密は、学校が終わるとしょっちゅう霧人の通う大学に遊びにいっていった。霧人が所属するサークルの人達にマスコットのように可愛がられ、酒もふるまわれたそうだった。
また霧人がサークルの先輩から怪しいハーブを貰ってきたと言い、それを使ってから情事に及んだらしかった。その時の体験を密は恍惚とした表情で語っていた。蝶子は馬鹿馬鹿しいと言いつつ、興味深く耳を傾けたのだった。
そんな2年間を過ごし、蝶子と密にはまた進学の問題が突きつけられた。蝶子は勉強に余念がなかったので全く悩まず、あっさり京都大学に合格した。東京大学も合格圏内だったが、兄を大事にする実家から出たいという側面もあった。この時、もう蝶子は密に付き合うつもりはさらさらなかった。
一方密は全然勉強してこなかったので蝶子との学力の差は絶望的に乖離していた。しかしある意味で密も悩まなかった。あくまで密の行動原理は“男”だったからだ。
霧人は理系の大学に進学したので、密は同じ大学に行くのは諦めた。したがって霧人の大学の近くでさえあったらどんな大学でも良かったのだ。結果、ほとんど誰も知らないような大学の文学部に現役合格を果たせた。
蝶子は京都に、密は東京にと別れてしまったので4年間どのように密が生きていたのか詳しく分からない。しかしメールはそれなりにやり取りしたし、年に数回帰省した時は必ず密と会う時間を作っていた。話を聞く限り、密と霧人の交際は順調のようだった。
大学4年生になり、蝶子は早々に就職を決めた。東京に帰る事になっていた。ほとんど単位も取り尽くし、週に1コマだけ学校に行けばいいので、蝶子は京都のあちこちを廻るようになった。
密は前々から『卒業後は霧人と結婚する』と言っており、蝶子は半ば呆れていた。しかし夏に密から泣きながら電話が掛かってきた。
『蝶―子―、助けてよぉ』
「密、落ち着いて。何があったの?」
一緒に騒ぐと密の動揺が大きくなると思い、努めて感情を消した冷静な声で話した。その効果はあったようで、蝶子の一言で密は少し落ち着きを取り戻した。
『うん、あのね、私は卒業後に霧人と結婚するって決めてたでしょ。それで霧人を家に連れていったら、親が急に反対してきて……』
堪えきれなくなったのか、大事な部分まで言い終えると密は突然号泣した。
付き合いが始まってから10年近くが経っており、蝶子も密には友情を感じていた。そしてこの時は本人も自覚していた。蝶子は『すぐ行く』と言って電話を切り、10分後には玄関の鍵を閉めていた。
蝶子は電車の中から密を実家に呼んでいた。実家のマンションの前に幽霊が、いや密が佇んでいた。たかだか男女の別れ話でこんな風になってしまうのかと、蝶子は正直意味が分からなかった。しかし古くからの友達の変わり果てた姿には心を痛めた。
廃人のような密の手を取り、蝶子は実家へ連れ込んだ。両親はまだ蝶子の部屋をそのままにしていてくれて、掃除も行き届いていた。
蝶子は温かい紅茶を密の前に置いた。そして隣に座ってそっと密の背中を撫でた。直後、堰を切ったように密の目から涙が溢れ出し、蝶子に縋りついてきた。
「あのさ、前に聞いてた話だと両親に霧人さんの事話した時、結構いい感じだったんでしょ? 霧人さんがIT企業に勤めてるって言ったら、信用されたって言ってたじゃん」
混乱する密を前に、蝶子の頭はドンドン冴えて冷静になっていった。
「うん……。それで霧人を家に連れていったら、お父さんが突然反対して。お母さんも……、前は『今の時代専業主婦になれるなんて幸せよ』って言ってたのに、やっぱりお父さんと一緒に反対してきて……」
「理由は何だって?」
密は首を左右に振った。
「分かんない……。って言うか教えてくれなくて。とにかくダメの一点張りで。私、霧人と結婚するつもりだったから就活とかしてないし、もう10月だし、どうしたらいいか……」
言い終えるや密は『ワーン』と声を上げて泣き出した。この時、蝶子は人生を男に預け、就職活動もしていない密に呆れていた。しかしさすがにそれは口にしなかった。
思わず溜息を吐き出したが、その瞬間名案らしきものが頭に閃いた。
「情報が少ないから何とも言えないし、原因も分からないから根本的な解決は無理だと思う。だからさ、とりあえず対処療法しかないと思うんだよね」
すると密はキョトンとした顔を小さく傾げた。それを見て蝶子は可愛いと思った。
「あたしもさ4月から東京に帰ってくるけど、そのまま一人暮らししようと思うんだ。だからさ、密も家を出ちゃえばいいんじゃないの?」
「ええっ、でもそれじゃ、私、生活出来ない……」
蝶子は小さく鼻で笑い、再び口を開いた。口調は諭すようなものだった。
「いやいや、霧人さんも一人暮らししてるんでしょ? だからさ、霧人さんの部屋に転がり込んじゃえばいいんじゃない。元々専業主婦でもいいって言ってくれてたんでしょ? それなら働いてない密が行ったって大丈夫だよ。そんでさ、両親の信頼を得る為に仕事探したっていいんだしさ。それに……」
珍しい事ではあるが、蝶子は言葉を切って唇をなめ、目を左右に泳がせた。
「昔はさ親に結婚を認めらなかったら駆け落ちしたって聞くじゃん。それでさ、その後で仲を許されようになるんだけど、きっかけが子供だったりする訳。だからさ、2人で子供作っちゃったらいいんじゃない。血が繋がった孫の顔を見たら、密の事も許してくれるって」
「本当に?」
そんな事はやってみないと分からない。しかし瞳を涙で潤ませた親友とも言える密に、蝶子は辛辣な言葉を掛ける事は出来なかった。
「大丈夫、あなたなら出来るよ。あたしのカワイイ密……」
もうこみ上げてきている自分の気持ちを抑えきれなかった。蝶子は涙の跡の付いた頬に唇を寄せ、妖しく動く舌で密の目の端に溜まっている涙を舐め取った。そして果実のように張りのある唇を、密の唇に重ねたのだった。
2人のキスは濃厚で、とても長い時間続いた。蝶子は手を密の腿から上の方へ這わせた。脇腹から少し上がると突然手を止め、密の肩へ跳んだ。そして無理矢理といった感じで2人の体を剥がした。
「蝶子……」
密の目は潤み、頬は紅潮し、口からは熱い吐息が漏れていた。そして口の端からだらしなく一筋よだれが垂れていた。
「大丈夫、あなたなら出来る」
目を見つめ、蝶子は力強く頷いた。すると蝶子の力が伝播したのか、小動物のように弱々しかった密の目にも力が戻ってきた。
「うん、蝶子、ありがとう」
そう言うと密は立ち上がり、顔を笑顔に輝かせて部屋を出ていった。
独り残された蝶子はベッドに背を預けてしばし呆然としていた。しかし温もりが失われた唇を一なめすると、ノロノロと立ち上がった。
口が付けられず冷めた紅茶を流しに捨てながら、蝶子は他人の人生に干渉し過ぎたかなと後悔していた。
4月になり、街はピンク色に染まった。蝶子は宣言通り東京で一人暮らしを、密は霧人と同棲を始めた。
密の両親から一度密の居場所を聞かれた事があった。蝶子は密の為と自分に言い訳をして『知りません』と答えた。密の両親の落胆振りに、蝶子の精神は罪悪感で苦しんだ。
しかし頻繁に送られてくる密の幸せそうな画像付きメールを見て、蝶子は自分が間違った事をしていないと励ましたのだった。また密が家の近くのパン屋にアルバイトに出たと聞き、社会との繋がりも保っているのだとホッとした。
蝶子は大手出版会社に勤め、優秀な営業職員として働いていた。密はあまり時間に縛られず、霧人との生活を楽しんでいた。その為蝶子と密は同じ東京にいながら、ほとんど会う事はなかった。
約2年後、密から無理矢理同棲が解消されたという連絡が入った。そして両親から完全に信用を失ったと。それを聞き、密の両親への罪滅ぼしと密の為、蝶子は自分の父親のコネを使って密に仕事を紹介した。中小企業の事務の仕事を。
軟禁状態の閉塞感もあったのだろう、密は蝶子の申し出に飛び付いてきた。
25歳の時、蝶子の携帯が鳴った。
『蝶子? 今度の土曜日に会えないかな?』
蝶子は眉をしかめた。今までは1ヶ月も前から連絡を取り合い、2人に都合のいい日と時間を擦り合わせていたからだ。横紙破りの密の行動に、蝶子は一抹の不安と不審を感じた。
肩と顎で携帯を挟み蝶子は素早く手帳を開いた。土曜日には職場の女子達との会食の予定が入っていた。
「オッケー。あたしも大丈夫。それで何時にする?」
蝶子は自分の直感を疑わなかった。もちろん女子会など馬鹿らしいと思っており、それを断る口実が出来て喜んでいたというのもあった。
結局午前中から密が蝶子の部屋を訪ねてくるという事になった。蝶子は前日の内にデパ地下で美味しいものを買い求め、念の為酒も各種取り揃えておいた。
訪ねてきた密はとてもテンションが高かった。蝶子が用意した食べ物を口にし、とてもよく喋った。ケーキもモンブランとオペラをペロリとたいらげたのだった。
ただ日が傾いてくるにつれ、密の顔に陰が落ちた。そして訪ねてきた時とは別人かと思ってしまう程テンションが下がったのだ。
今日は必要ないかと思っていたが、蝶子は冷蔵庫から酒を取り出した。密はビール、ワイン、日本酒、焼酎、ウイスキーと口にしていった。しかし、アルコールの力を借りても密が陽気に戻る事はなかった。
「密……、もしかして、霧人さんと何かあった?」
密がこのようになるのは霧人の事しかないと当たりを付け、蝶子は心配そうな口調で言った。すると密は小さく首を左右に振った。
「ううん、霧人は関係無いの……。私の、いや私の親の問題なの。でも、もう大丈夫になるかもしれない。でもね、そうなるとしばらく蝶子に会えなくなるかもしれないから、今日は無理言って会いにきたんだ」
しっかりした口調で密は言った。意外な事かもしれないが、密は酒にとても強く、これくらいの量で戯言を言う筈はなかった。
「霧人さん、転勤でどっか遠くへ行くとか?」
「ううん、いや、それもあるかもしれないけど、まあ、私の問題……かな。だからね、蝶子と思い出が欲しくって」
そう言うと密はローテーブルを飛び越え、蝶子の隣のソファに座ると突然抱き付いてきた。そして濡れたように光る唇を寄せてきた。
密の口からは酒臭い息が漏れ出していたが、蝶子には香水の如く感じられていた。そして大学の卒業の時以来、2人は唇を再び重ねたのだった。ただ今回は密が止まらなかった。密の手が蝶子の肌を這い回り、服の間から入ってきたのだった。
しかし蝶子は驚かなかった。自ら服を脱ぎ、且つ密の服を剥ぎ取りながらベッドに誘ったのだった。まだ蝶子は男性経験が無かったが、自分ではしていたのでどこが気持ちいいかは知っていた。
ベッドルームの温度が上がり、獣の臭いが充満した、2人は汗だくになって眠りに落ちた。
朝、カーテンの隙間から射し込む光で蝶子は目を覚ました。隣には一糸まとわぬ密が、とても幸せそうな顔で眠っていった。
そして、朝食を終えると密は帰っていった。
ドアが閉まる音が、蝶子の心に重く暗く響いた。
――真は手を前に突き出して蝶子の話を止めた。
「ちょっ、ちょっと、ストップして貰ってもいいですか。それっていつの話なんですか?」
一種蝶子の顔が暗くなった。
「密が……、自殺するちょっと前。あの時はあたしがあの子の気持ちに気付いていたら、違う未来があったのかもね」
呟くように蝶子は言うとジョッキのビールを飲み干した。
「あの……、無粋な事を聞くようですが、密さんは穂積さんと付き合っていて、その……、男性が好きなのではと思ったのですが。それなら蝶子さんとは……」
突然蝶子の額に皺が寄り、刺々しい口調の言葉が口から飛び出した。
「あたしがレズビアンって言いたいの? 本当に無粋な質問ですね。あたしは、相手が密だったからそうしました。あの子はあたしにとって特別なんです。あなたにだって、友情を越えてそうしてもいい相手っているでしょう?」
真は愛想笑いを返した。真の友達の中にそのような者は思い当たらなかったからだ。そしてそれが伝わったらしく、蝶子は不満そうに顔をしかめた。
「蝶子さん、あの」
その刹那蝶子のスマホが鳴った。液晶画面を見た瞬間、蝶子の顔色が変わった。
「はい、酒﨑です。日和がどうかしましたか? はい、はい、分かりました。これからそちらに向かいます」
通話を切ると蝶子は身の回りを見て、バッグなどを自分の近くに寄せた
「すいません。この後ご用事があったんですね。時間作って頂きありがとうございます」
「幼稚園からです。娘が腹痛を訴えてるから早く迎えにきてくれって。18時まで預かって貰えるから高いお金払って私立入れてるのに、参るわ」
「えっと 今、“酒﨑”って……」
「ん? ああ、あたし結婚してるので。主人が官僚で、名前見て擦り寄ってこられると迷惑だから旧姓を名乗ってます。まあ主人はATMみたいだって考えてるから、主人の姓を名乗るのもなんなので」
自分の言葉の何が面白かったのか、蝶子は口角を上げて微笑んだ。
「そうだ、蝶子さんと出会う前の弟切さんを知っていそうな人物や、穂積さんの事を知っていそうな人物をご存知ないかメールで質問しましたが、心当たりありましたか?」
プライバシーが叫ばれる昨今である、こんな事を聞いたら嫌がられるかもしれないという心配で心を満たしながら真は言った。それ程真は情報を集めるのに必死だったのだ。
蝶子は真を睨むように一瞥すると、バッグの中から2つに折られた紙を差し出してきた。受け取った真はチラリと中を見て、顔を輝かせた。
「密に1回だけ聞いた事があって間違ってるかもしれないけど、小学生の時の同級生の名前です。密が引越してくる前の地域を調べたら何か分かるかもしれませんよ。それともう1つは兄の慎司から聞いた人です。霧人さんととっても仲が良く、話にも出てきた希さん。家庭もある人だから、変な風に引っ掻き回さないで下さい」
言い終えるや蝶子はテーブルの上のスマホに手を伸ばした。娘の事で多少動揺していたのであろうか、2センチ浮かした辺りでスマホを取り落としてしまった。その瞬間スマホの液晶に光が灯った。そこに同じボーダーの服を着て、笑顔で身を寄せる家族の写真が写し出された。その蝶子の笑顔は、この2時間では見られなかった輝くようなものだった。
蝶子は急いでスマホをバッグに入れ『それじゃ、さようなら』と言うと足早に部屋を出ていった。テーブルの上には真が持ってきた手土産が残されていた。
蝶子が出ていきドアが閉まると、真は壁に首を預け溜息を長く吐き出した。目が覚めるような美人だったが、一緒にいると緊張感が強過ぎるので自分は遠慮したいと思った。
真は5分程その場に佇み、膝に両手を置いて立ち上がった。口から『ヨイショ』と言葉が漏れた。そして自分が持ってきた手土産を持って部屋を出て、受付にマイクを返した。
すると店員が部屋の使用料を告げてきた。金額を聞いて真は明細を凝視した。蝶子は1時30分どころか、11時から来て歌っていたらしい。しかも4月初旬だというのに驚く程のビールを飲んでいた。
真はこれも情報料かと思い渋々支払った。店員にレシートを指し出されたが、真は手を上げて断った。
そして、引きずるような重い足取りで真はカラオケボックスの自動扉をくぐっていった。