1章
《(中略)先日北陸であった若い女性の自殺を覚えているだろうか。近年増えつつあるうつ病によるものだと判断された。だがちょっと待って欲しい、単純にそれで片付けていいのだろうか。政府の無策による社会不安、その被害者であるとは言えないだろうか。我々は人々の尊い命を守る為、この問題を政府に突き付け続けていきたい。》
眉の間に深い縦皺を刻んだ男は、新聞の社説のコピーを読み終えると長い溜息を吐き出した。そして突然顔に怒りの色を表すや、紙を手荒に放り投げた。
そして男は机の上の煙草を掴み、フィルターを噛み潰し、オイルライターのホイールを回した。しかし煙草に火は点かなかった。
男はイソギンチャクのようになっている灰皿に吸えなかった煙草を押し込み、ソファと兼用にしているらしいベッドから立ち上がった。そしてヤニが付いて黄ばんだ壁に掛けられている時計を睨んだ。
時計の針は午前5時47分を指していた。
男は古びた革の鞄に茶封筒、手帳、筆記用具、ICレコーダーなどを慌てて落とし込んだ。
そしてクリーニングから返ってきたばかりのワイシャツ、スーツに袖を通した。。長崎も1月はまだ寒いだろうと厚手のコート羽織った。その後玄関に向かい、艶々に黒光りしている革靴を履いて出ていった。
主を失ったワンルームの部屋は不気味な程静まり返っていた。
第1章弟切耕一、美代
男は腕時計をチラリと見た。12時52分だった。約束の時間は13時だったので、目的の場所へはすぐに向かわず、家族連れがまばらに歩いている住宅街を逍遥した。
ほぼ13時に男はインターホンのボタンを押した。『ピンポーン』という音がとても間延びに響いた。その間に男は大理石に『弟切』と黒字で彫られている表札を見つめていた。
『はい……』
不審感を微塵も隠そうとしない女性の声がスピーカーから流れてきた。男はそれを耳にし、声の主が疲れているのではないかと思った。
「こんにちは、先日電話をしました……」
声の主に、恐らく弟切美代、これ以上不審感を抱かせないように猫なで声に近い口調で話した。しかし男の努力は徒労に終わった。
『あっ、はい。すぐ開けます』
美代の慌てたような声で男の言葉は遮られた。そして言葉通り門の奥の玄関の錠が外れる音がし、扉が小さく開いた。
根元に白髪の線が入った髪の毛を肩に触れるくらいの長さに揃えた女性が顔を覗かせた。70代にくらいに見えるが、それは疲労感でそうに見えるだけで実際はまだ60代だろう。
男はニッコリと笑った。美代の緊張と不審感を少しでも和らげようと考えたからだ。美代の目の脇の筋が動き、顔が少し綻んだ。どうやら男の思惑は成功したようだった。
「どうぞ、主人も待っています」
美代が扉を半分開いた。男は美代の気持ちが変わらないうちに、門を押し開けて玄関まで速足で歩いていった。
『失礼します』と言いながら男は弟切家の敷居を跨いだ。午後の早い時間だから廊下の電灯は点いていなかったが、それでは説明がつかないくらい室内は暗鬱としていた。
そして男は同時に鼻をヒクヒクさせた。強い線香の臭いを感じ取ったからだ。
美代に続いて廊下の奥のドアをくぐった。リビングの左手にはキッチンがあり、右手には食卓と奥にソファがあった。ソファに座っていたやはり老けて見える男性が、耕一と思われる、テレビを消して立ち上がった。
棚の上に陶器の小瓶に立て掛けられた写真があり、食事が置かれていた。そして、その前で短くなった線香が煙を上げていた。
「お時間を頂きまして申し訳ありません。先日お電話した者です。あっ、お口に合うかどうか分かりませんが、どうぞお納め下さい」
男は自宅駅近くで買ってきた、地元では有名なパティスリーの、ケーキの箱を美代に渡した。美代は箱を受け取るとキッチンへ向かっていった。
「気を遣わせてしまったかな。まあ、どうぞ」
耕一は向かいのソファを勧めてきた。男は一礼してソファに座った。どのように話を切り出そうかと考え、男は唇を舌で湿らせて口を開いた。
それと同時に『頂きもので申し訳ありませんが、すぐにお茶をお持ちしますね。コーヒーでいいかしら』という美代のとんきょうな声がリビングに響いた。耕一は申し訳なさそうに引き攣った笑いを顔に上せた。男も耕一の気持ちを少しでも軽くしようと、追従して片方の口角を上げた。テーブルの上にコーヒーとケーキが並ぶまで、男と耕一は無言であった。
美代はお盆を手にしてキッチンからやってきて耕一の横に腰を下ろした。そしてその刹那口を開いた。
「とっても美味しそうなケーキを沢山頂いたわ。耕一さんはどれにする? 好きなモンブランが無かったから、次に好きなタルトがいいかしら」
玄関に出迎えてきた時とはうって変わり、美代の声は弾んでいた。そしてかいがいしく耕一の世話を焼く姿は、とても楽しそうだった。
「美代」
たしなめる響きを含む声が耕一の声から漏れた。心底うんざり仕掛けていた男は内心ホッと胸を撫で下ろした。耕一がまともな感覚を持つ男だと分かったからだ。
すると美代は体を幾分小さくした。そして耕一と美代がほぼ同時に『すみません』と口にした。ただ、耕一の言葉は男に向けられていたが、美代のは耕一に向けられていた。
「あの、そろそろお嬢さんの話を伺いたいのですが、よろいしでしょうか?」
男の言葉を聞くと2人の顔が強張った。
「その事なのですが、何度もお電話下さったので来て頂きましたが、正直娘の話をする意味があるのかと、この数日で考えておりまして……」
時間を空け過ぎてしまったかと男は後悔した。男は心の中で歯噛みしたが、鉄の意志で微笑みは崩さなかった。
「ご遺族の心情を思うと無理矢理話を伺うのは非道なのかもしれません」
身を乗り出して話を始めた男は言葉を切り、名刺を1枚取り出して耕一に差し出した。それには男の名前佐藤真と雑誌社の名前が書いてあった。
「8年前の朝一新聞の社説を改めて読み、ワタシは憤りました。それによると娘さんは社会の犠牲者だと書かれていました。ワタシもそう思います。ワタシは娘さんの死を無駄にしない為、同じような事例を集めて政府の無策を糾弾しようと思っているのです。そして、弟切さんを初め、社会に抑圧されて子供を喪った方々に政府から賠償金を払わせようと思っています。ワタシの会社にはこのような問題に詳しい弁護士もいますので、どうかご協力頂けないでしょうか」
言い終えるや真はテーブルに両手をつけて頭を下げた。その勢いが強かったのでコーヒーカップ、スプーンやフォークなどが『ガチャガチャ』と音を立てた。
美代が耕一の右腕を擦るようにし、『耕一さん……』と呟いた。口を真一文字に閉じていた耕一だったが、鼻から大きく息を吐き出し『分かりました。ご協力しましょう』と言った。
真は頭を下げたまま『ありがとうございます』と大きな声で言った。俯いた顔に思わず悪魔的な笑いが表れてしまった。真は頭を下げていて良かったと思った。
ガバッと真は顔を上げた。その顔は真剣であったが、受け入れられた喜びにも輝いていた。そして鞄から筆記用具を取り出し、ICレコーダーの録音ボタンを押してテーブルの上に置いた。
「それでは娘さん、弟切密さんの事をお聞かせ下さい。もちろん思い出すのも辛い事は話して頂かなくて結構です。娘さんが普通の、幸せの権利を持つ女性であったという事を聞かせて頂きたいだけですので」
「それでは、役に立つかは分かりませんが……」
耕一は躊躇いがちに話し始めた。
――耕一は今でこそ関東圏に17の店舗を持つ外食チェーンの代表取締役をしているが、元々はメガバンクに勤めていた。
20代後半に後に妻となる美代と出会い運命を感じ、将来結婚しようとすぐに誓い合った。結婚するには安定した収入が不可欠であると考えていた耕一だったが、上司に媚びへつらい目をかけられて出世していく同僚と同じような事をしようとは思えなかった。
耕一は退職を決め、貯金と少ない退職金を投資に注ぎ込んだ。何年も銀行で金融の事を学んでいた耕一は機を見るに敏で、数年で500万の資金を創りだしたのだった。
2人は必死で働いた。最初は居酒屋を経営し、郊外にあったにも関わらず客がつき、その店は大いに繁盛した。しかしそれは長くは続かなかった。開店から1年くらいしたら美代が体調を崩したからだ。
ただこれは不幸な出来事ではなかった。なぜなら美代の体調不良は妊娠だったからだ。耕一は業務を大規模に展開する事を決心した。産まれてくる子供が大きくなった時、夜仕事に出ると擦れ違いになってしまうと考えたのだ。
耕一は繁盛していた居酒屋を売り、更に借金をして一気に3つのレストランを開店したのだった。優秀なシェフを雇った事もあり、レストランは時流を掴んでとても儲かった。
耕一の仕事が波に乗りかけた時娘が産まれた。耕一と美代は産まれる前は『佳織』と名付けようと思っていたが、赤ちゃんの顔を見て意見を変えた。
そして2人が娘に付けた名前が『密』だった。耕一が明治の官僚前島密を尊敬していたからだ。美代はいくら偉大な人物の名前を貰うとはいえ、やはり男性の名前を付けるのに抵抗を見せた。しかし男性と女性の名前の垣根が無くなりかけている事、“ヒソカ”という音の響きなら女性でもおかしくないのではないかと耕一が主張したので結局それで決まった。
40歳過ぎで、且つ難産で一時母体の命も危ぶまれた。その為2人はその後の子作りは諦める事にした。そして、2人の愛は一人娘の密に傾注される事になった。
蝶よ花よと育てられた密は、少々自己中心的な性格に育った。それが災いしたのだろう、密には深い付き合いの友達は出来なかったようだった。
小学校の高学年になるまで密は友達を家に呼ぶ事も、友達の家に遊びにいく事もなかった。ただ5年生の時に転機が訪れたようだった。仲の良い友達が出来、その子と頻繁に遊ぶようになった。その子の家に行く時に何度もお菓子を持たせた事があった。
耕一の仕事は順風満帆で、一家は大きな家に引っ越すことになった。ただ1つ耕一には懸念があり、6年生の3学期のある夜の夕食、耕一は密に決定事項を切り出した。
「密、あのな、今度引っ越す事になったんだ。……それで、中学は別な所になってしまうんだ……」
耕一の顔は申し訳なさで歪んでいた。
「あっ、そう、分かった」
予想すらしていなかった言葉に、耕一と美代の顔は呆然となってしまった。その為沈黙と静寂がリビングに漂った。密は箸を止めようともしなかった。
そして密の箸先が何の躊躇いも見せずに煮魚に届いた時、やっと耕一が口を開いた。
「本当にいいのか? せっ……、いや大事な友達と別れる事になるんだぞ。分かってるのか?」
すると密の顔に親を馬鹿にするような冷笑が浮かんだ。6年生の理解力を侮っていた事に気付いた耕一は、直後後悔で顔を暗くした。
「うん。別にいいんだよ。ちょっと前からあの子と遊ばなくなったし。密の事は気にしないで」
感情を伴わない口調だった。娘の真意を読み取ろうと、耕一はジッと密を見つめた。その視線に気付いたのであろう、密の目が少し険しくなった。
思春期へ入りかかっている密との付き合い方に戸惑いを感じていた耕一は、これ以上はこの問題に言及しない方がいいと考えた。そして密の許可を追い風にして、引越作業をドンドン進めていった。
引越した先の中学は9割が小学校からの持ち上がりの生徒が来るので、学校内でムラ社会が形成されていたようだった。元々友達を作るのが得意ではない密は孤立しているらしく、彼女の口から友達の話はおろか学校の話も出てこなかった。耕一と美代は密に気を遣い、無理に学校の事を聞き出そうとはしなかった。
しかし、ある日を境に密が足取り軽く学校へ通うようになった。『どうやら彼氏が出来たらしい』と美代が言った。耕一はまだ恋愛は早いのではないかと思ったが、これがきっかけになって学校で立ち位置を見つけてくれればと期待して看過した。
1学期が終わりかけた頃、密の性格が明るくなった。耕一が探ろうとするまでもなく、自分から『友達が出来た』と嬉しそうに話してきた。その友達の名は“加藤蝶子”といい、密が亡くなるまで度々話に出てくるのだった。
中学2年生になり、密は蝶子と同じクラスになった。2人の仲はより親密になり、学校帰りや休日に出掛ける相手は常に蝶子だった。
そして高校に進学する時、密は蝶子と同じ学校に決めたようだった。蝶子にとっては充分合格圏内であったらしいが、密にとっては挑戦するレベルだった。その時密は成績を落としていたらしく、かなり努力を要していた。そして、何とか蝶子と同じ高校に合格した。
この時の密の顔は未来への希望に光り輝いていた。
――耕一は言葉を切り、重く長い溜息を吐き出した。顔色は悲愴一色で塗られていた。
「あの時、密は本当に嬉しそうだったんですよ。本当に人生の春を謳歌していました。それが……」
「あんな事になってしまったと……」
メモを取りながら真はそう呟いた。そして自分の失言に気付いて顔をハッとさせた。
「いや、申し訳ありませんでした。ご遺族の気持ちを考えない事を言ってしまって」
そう言うと、真は申し訳なさそうに顔を歪めた。
「いや、まあ真実だし、もう8年も経っていますから。もう私達も乗り越えました」
耕一は小声で言い、頬の筋肉を強張らせた。どうやら奥歯を噛み締めているようだ。そして美代は耕一に身を寄せ、震える指で耕一の腕に触れていた。
彼等の様子を見て、2人はまだ娘を襲った悲しみから立ち直っていなのだろうと判断した。
「それで、不躾で申し訳ないのですが、人生を楽しんでいたひ……、いや娘さんがその……、自ら死を選んでしまった理由は何だと考えられますか?」
その言葉を聞くと耕一と美代の顔に影が落ちた。真はそれを見逃さなかった。
「あの、いや、別に興味本位とかではなく、政府に訴えをする時、より詳しい情報が必要というか、そういうものがあった方が賠償金を取れると思いますので。でも、言うのも辛いなら別に仰らなくてもいいし、日を改めてもいいので」
真の口調はしどろもどろだった。
「ああ、別に賠償金とかはいいので、本当に。でも密のような不幸な人をこれ以上生み出さないように、私は協力しようと思って、今日は来て頂いたので」
耕一は一度俯いてから顔を上げた。先程落ちた影は既に消えていた。
「娘との短い付き合いの中で、私はたった1つだけ過ちを犯したと思っています」
突然真は咳き込んだ。自分の子育てにあまりにも自信を持っている耕一の発言が笑いを誘ったのだった。そして呼吸を落ち着け、『失礼しました。続けて下さい』と下を向きながら言ったのだった。
「ある日、突然密が『私、結婚するから』と言ったのです」
「それで、耕一さんは何と言ったんですか?」
一度言葉を切ってなかなか続きを口にしない事に痺れを切らし、つい真は催促の言葉を口にしてしまった。
ただ耕一の思考は過去に飛んでしまっていたようで、真の発言を聞いても気分を害したような様子は見せなかった。いや、そもそも真の言葉も耳に入っていない可能性すらあった。
「私は、もちろん反対しましたよ。まだ21歳でしたから、もっと人生を楽しんでから結婚してもいいんじゃないかと思いました。いや、私があの子を手放したくないと思っていたのかもしれませんね。つまり、私の子離れが出来ていなかったのかもしれません」
耕一と美代は一瞬見つめ合って視線を落とした。美代の頬を光の粒が1つ流れた。
「こんな事を言うのは何ですが、今なら結婚をお許しになりましたか? あっ、話を伺っていてある仮説を立てたのです。耕一さんは娘さんの相手の方の収入の面に不安を感じたのではないかと。この国の経済が順調に成長していれば相手の方の収入も年々増え、娘さんが結婚しても金銭的に不自由な目に合うのでないかと考える事はなかったと思うのです。それならば、やはり耕一さんを不安にさせ、その為に結婚を反対されて悩んでしまった娘さん、そして自死を選んでしまった……。この不幸の連鎖は、結果的に政府の金融政策の失敗がもたらしたものではなかと。そのように攻めていこうと思うのです。どうでしょうか?」
真が話し終えると耕一と美代がゆっくりと顔を向けてきた。その目は木の洞のように虚ろだった。しかし真直ぐ見つめる真の視線を受けると、どうやら耕一が真の真意気付いたようだった。
耕一はチラリとICレコーダーに目を向け、張りのある声で話し始めた。
「そうです! 世の中がこんなに不況でなければ、私達が子供の頃のようにこの国が成長さえしていれば、私は娘の結婚に反対なんかしなかったと思うのです。娘を殺したのは、……、この国だと思うのです!」
耕一の顔は先程より赤らんでいた。興奮しているからだろう、耕一は饒舌になっていた。
真は耕一の発言を聞き、満足そうにニッコリ笑った。
「そうですね。ワタシもそう思います。お2人の無念、必ずやワタシがはらしてみせます。任せて下さい」
そう言うと2人に誇示するように真はガッツポーズを作った。
「それでもう1つ聞きたいのですが、娘さんが結婚しようとしていた相手は何というお名前でしたか?」
耕一と美代が見つめ合った。美代の目は泳ぎ、耕一は慄える唇を前歯で噛んでいた。
「えっ、知らないなんて事はないですよね。娘さんが結婚すると言ったくらいの相手なんですから、お会いした事くらいはあったのではないですか?」
「え、ええ、もちろん知っていますよ。ただ、10年も前の事ですから、すぐに思い出せなかっただけです。それと1つ言っておきたいのは、私達は密が結婚しようとしていた相手とは会った事がありません。それはそうですよね、最初から結婚させないと言ってしまったんですから、その男性も来たくなかっただろうし、密も無理矢理私達に会わせようとはしませんでした……」
耕一は両手の指を組み、自分の手をジッと見つめた。その顔からは娘の言い分を却下した事への後悔が滲み出ているようだった。
部屋には重苦しい沈黙が垂れ込めた。
「あの、それで、娘さんが結婚しようとしていた人の名前は?」
空気を読まなかったのか、それとも自分の聞きたい事に気が逸ったのか、真は蛙の面に小便といった雰囲気で口を開いた。
「えっ、ああ、そうでした。確か……」
中空を見つめて考え込み、たっぷり時間を使ってから耕一は言葉を継いだ。
「ホヅミ、ホヅミキリトだったと思います」
すると美代が耕一の服の裾を掴んだ。相当力が入っているようで、布地に皺が寄った。そして、とても小さな声で『耕一さん』と呟いた。声は震えていた。
真はメモを取っていて2人の様子を見ていなかった。
「ホヅミキリト、ですね。えーっと、どんな字を書くか分かりますか?」
「いえ、1回しか聞いた事なかったし、そもそもその時は興味が無かったので密に確認しようとも思いませんでした。申し訳ありません」
済まなそうに耕一は顔を歪めた。
「あ、いえ、こちらこそ申し訳ありません。そうですよね、ワタシもジャーナリストの端くれですから自分で調べてみます。長居してもご迷惑でしょうから、ワタシはこれでお暇させて頂きます」
そう言うと男はコーヒーを飲み干し、ケーキはそのままに席を立った。そして2人に見送られて玄関で靴を履きながら、真は首を捻って口を開いた。
「今日はありがとうございました。何か思い出した事があったらご連絡下さい。それと、また必要な事があったらお話を聞きにきてもいいですか?」
とても人懐っこい笑顔で真は言った。それに対して反射的に美代が『はい』と呟いた。その言葉を聞き、真は満足そうに微笑んで外に出ていった。
2月の東京の冷たい風が入れ替わるように吹き込んできた。
耕一と美代は閉じられた玄関の扉をしばらく無言で見つめていた。そして真がもう戻ってこないと確信したのだろう、扉に鍵をかけてリビングへ戻っていった。
2人の足は廊下を拭くように引きずられていた。