ゆっくりと、厳かに。2
警察によってあの給水塔から救助された僕は、すぐさま市内にある警察病院へと保護入院することになった。
診断の結果は「異常なし」。
あの環境、あの状態で発見されたにも関わらず、僕の体の隅々を調べても、何の異常も見受けられなかったらしい。
それこそが異常と言えることだったに違いない。
僕の入院は2週間続いた。名目上は検査入院として。
僕の身元引受人が見つからず、今後の身の振り方がなかなか決まらずにいたということも大きな理由だったろう。
父は例外なくすべての親族から煙たがられていた。いわゆる鼻つまみ者というやつだ。
誰もそんな嫌われ者の一人息子を、積極的に引き取りたいとは思うまい。
――僕の父は死んでいた。
それに関しては気持ちの整理がまだついていない。
何か大きなものが抜け落ちたような感覚はあるものの、それが大切なものだったのかと言われると、そうだと返す自信はまだない。
正直を言えば、現時点では、あの理不尽と――今だから思える――暴力に晒されることがなくなったという事への安堵の方が強かった。
が、この胸の内に燻る違和感は何だろうか? 球技の終盤で酷い雨に邪魔され中止にされたような――最終章だけが抜け落ちた物語を読むような――。
父は、僕があの男に給水塔のタンク閉じ込められた日、その同じ日の夜に、どうやら殺されたらしい。
どうやらというのには理由がある。
これはもっとずっと後になって分かった話なのだが、父は骨だけになって発見された。
現場には人体を構成するすべての骨が揃っていたという。
まるで一瞬で骨以外の体の全てを失ってしまったような、そんな状態だったそうだ。
どんなことが起きれば、こんな事になるのか――。
分からないだろう。
一応、父を殺した容疑者らしき人物は特定されていた。
『持田 勝治』僕を閉じ込めた男――。
彼は、父と同じ場所で、頭頂部から下顎までを極厚の肉切り包丁で真っ二つに割られて死んでいた。
きっとあの包丁だ。
その話だけで、僕には大体の事の顛末が分かった。
警察の公式の見解としては、大雑把にこうなっている。
金銭、私怨等目的は不明ながらも、何らかの理由で僕を誘拐した持田は、父を脅迫するため僕の持ち物から住所を特定すると、凶器である肉包丁を用意し、父と僕が暮らしていた市内のアパートへと勤め先の会社所有の軽トラックで向かった。
同日23時過ぎにアパート着、2階にある目的の部屋を訪れた持田は水道修理の依頼があったフリをして、父にドアを開けさせようと、何度か呼び鈴を押しノックをしながら父に呼びかける。この時すでに凶器が持田の右手に握られていたものと見られる。
翌朝早くから土木作業の予定だった父は突然の訪問者に苛立ち、怒声を上げながらドアを開ける。おそらく父はいつものように大量の酒をあおっていただろう。部屋の中央に置かれたちゃぶ台の上に、紙巻タバコ、ライター、山盛りの吸い殻がのった灰皿、袋入りのイカの燻製、残りが4分の1程になった4リットルペットボトルに入ったアルコール度数25度の焼酎と、それと同内容物が入ったガラスのコップが見つかっている。テレビと照明はつけっぱなしになっていた。
玄関先に現れた父と持田の間にどんな会話が為されたのかは分かっていない。時間にして数秒、おそらく何等かの交渉に失敗したのだろう持田は、これ以上は問答無用とばかりに肉切り包丁で父を切りつけた。
狙ったのは頭部から首までの辺り向かって左側、しかしそれは反射的に上げられた父の左上腕に深く食い込み止まった。その傷は骨まで達しており、現場に残った父の骨の同部分から、真新しい傷が見つかっている。
生来の気性からか、酒の力もあったのだろうが、父はその持田の暴行に怯まなかった。
それどころか持田に誰何の怒声を浴びせ、力任せに肉切り包丁を奪い取ると、そのままの勢いで持田の頭部にその刃を叩きつけたのだ。
包丁の刃は持田の頭頂部から入り込み、下顎まで一気に到達、即死だったと思われる。
しかし持田は差し違える形で用意していた毒性の強い化学薬品を父の全身に浴びせた。
そこに騒ぎを聞きつけた目撃者が現れる。
持田の死体の第一発見者でもある父と同じ会社の期間作業員の、同アパート1階の部屋に住んでいた30代男性は一連の事件の最中に、このような音を聞いたという。
襖同然の厚みしかないのではないかと思われる程、このアパートの壁は薄く、生活音から話し声まで聞き取れるというありさまだったので、1階と2階という階層の違いがあったとしても、外からの音はほとんど筒抜けだったのだ。
まずは水道管の工事に来たという持田の呼びかける声が数度、強めのドアのノック音と連続したチャイムの音が何度か。
次に父の怒声と壊れるのではと思われる程激しくドアが開け放たれる音。
「なにすんだこら!」という父の声と再びの怒声。
目撃者はいつもとは少しだけ違う父の様子を不審に思い、できるだけ足音をたてないように階段を上がり、2階の廊下を恐る恐る覗き込んだ。
そこで廊下の壁に背をもたれさせ、頭に大きな包丁が刺さった状態で死んでいる持田と、それを見下ろすように玄関口に仁王立ちして左腕から血を流している父を発見する。
驚きに小さく悲鳴を上げた目撃者に気付いた父は、返り血に真っ赤に染まった顔面を怒りの形相に歪めて『ああ!? 見てんじゃねぇ!』と恫喝したそうだ。
目撃者は自分も殺されるのではと思い、そのままアパートを飛び出した。
すぐに財布も携帯電話も無いことに気付いたが、今にも父が追いかけてきそうな気がして足を止めることができず、目撃者はそのまま5km程離れた交番へと走った。
父は持田の死体も開けられたドアもそのままにして部屋にもどると、傷の処置をするためか流し台へ向かった後、風呂場へ向かったと血痕のつき方から推察される。
返り血に染まった白いタンクトップと黒の膝上丈のショートパンツを下着と一緒に脱ぎ捨て、シャワーを浴び始めた。
そこで持田に浴びせられた薬品を洗い落とそうとしたが、その前に骨以外の全てが溶けて死亡。未知の薬品の物質腐食性が強かったとされる。
父の衣服からも、風呂場のタイルや排水溝からも、事件現場のどこからもそんな奇天烈な薬品は痕跡すら見つからなかった。
疑問に感じる部分が多すぎる推測。それは誰もが感じていただろう。
しかし、どうしても説明がつかない――矛盾なく考えられない――常識では。
持田以外の別の犯人がいる可能性も検討されたがすぐに否定されることになった。
風呂場にいた父を殺すには部屋の中を通らなければならない。
玄関付近には持田の血しぶきが大量にまき散らされ、廊下や玄関口にも流れ出し、飛び散っていて、そこから部屋に入ろうとすれば空でも飛ばない限りは必ず何らかの跡が付く。
窓は一つあったが雨戸が閉められ、内側からつっかえ棒がされていて、且つその内側のガラス窓は鍵が閉められていた。開けられた痕跡もない。
ちなみにこの窓は僕ら親子が住み始めてから一度も開けられたことはない。
天井裏や床下も侵入の形跡はなかった。
持田の死体が作った、血の密室。
しかもそこを神業によってどうにか通り抜けたとしても、今度は父に何の抵抗もさせず『骨だけに』してみせねばならない。浴室にも、他の部屋にも争った形跡はない。静かに、一瞬のうちに、犯行は行われなければならない。さらには警察が現場に到着する30分強の時間制限付きでだ。
どうすればこんな芸当が可能なのか――分からないだろう。
まとめるとこうだ。
容疑者の持田は僕を営利目的で誘拐、父と直接対峙し脅迫しようとしたが、当然口論になり喧嘩闘争に発展し差し違えて二人とも死亡。
もしくは父が持田を衝動的に殺害した後、それを悔いてどこかに隠匿していた工業用の強いたんぱく質腐食性を持つ“何らかの”薬品を、風呂場で自ら全身に被って自殺。
どちらも荒唐無稽な推論と言わざるを得ない。
しかしながら、監禁、誘拐、脅迫、窃盗、暴行、殺人、とにかく予想し得る何れの罪が一連の事件の中で行われていたのだとしても――持田の単独犯ということが真実ならば――『被疑者死亡のまま送検』となる。
乱暴に言うなら、結論そこに行き着くのだから、それまでどうだったかは置いておいて、一番“それっぽい”ものでいいんじゃないか、という空気が流れていたように感じる。
正に『死人に口なし』といったところだろうか。
捜査は継続されていたものの、大方は以上のようなふわっとした感じで事件は着地しつつあった。
僕の入院中に給水塔と関連施設の調査が進んだことで、持田に余罪がある可能性が限りなく高まり、捜査熱が再燃しつつあるものの、それは一連の事件の不明点を解明するためのものではなく、もっぱら他の被害者を特定する作業に関する事が多かった。
「――なあ、実君。やっぱり何も思い出せねえか?」
取り留めのない思考に沈んでいた僕は、上半身を起こすことのできるベッドに背をもたれさせたまま、ベッドの横に置かれたパイプ椅子に腰かけてこちらに身を乗り出すようにしている刑事を見つめた。
「すみません……何も覚えてないんです」
ここ数日、飽きるほどに繰り返されたやりとり。
僕への事情聴取が許可されたと思しき日から、この定年間近だという刑事は、毎日僕の病室を訪れていた。
15分という面会時間は、今日もこれといった収穫を刑事にもたらすことなく、終わりを迎えようとしていた。
事件の全容解明の鍵となるかも知れないと思われていただろう僕が、終始こんな感じなのだ。捜査員たちはさぞかし落胆したことだろう。
すまないとは思うが、僕が経験した事実を包み隠さず供述したところで、否定こそされずともとても額面通りに受け取られるとも思えない。悪くすればこの入院が、更に長い長いものにならないとも限らないし、それは避けたかった。
力無げに肩を落とす篠田刑事。『篠田 幸平 水無瀬警察 刑事課 巡査部長』僕の誘拐事件の身元保護の立役者となった人だ。
事件に巻き込まれる前の僕に、公園前で声をかけてきたのも彼。なにか不思議な因縁を感じなくもない。
彼は別の事件での聞き込みの際、僕とよく似た子供が給水塔付近を頻繁に歩いていたという証言を得ていたそうだ。それから僕の誘拐事件が起き、その関連性にいち早く気付いたという話だが――それが本当なら、彼は僕の命の恩人と言っても差し支えない。
実際その功績から近く表彰される予定だと教えてくれたのは、篠田刑事の後ろに立っている横田刑事。30代にかかるかどうかという若い刑事だ。給水タンクの中で僕を発見したのも彼である。
つまり僕は、自分の恩人であるところの二人に連日見舞いに来てもらいながらも、嘘をつき続けているわけだ。
我ながら面の皮の厚い話だと思う。
「なあ実君。おじさんなあ、ここに来るの今日で最後にするわ」
篠田刑事は出し抜けにそんなことを言いだした。
「実君もあんまり事件の話……まぁ覚えてなかったとしてもよ……繰り返し聞かれんのもつれぇと思うしな」
軽く溜息をつく篠田刑事を僕はじっと見つめた。
「だからといっちゃあなんだが、最後に少し、ほんの少しだけでいい、二人っきりで話させちゃあくんねぇかな?」
それを聞いた立ち合いの看護師はすかさず口をはさんだ。
「刑事さん、それは――」
しかし看護師が最後まで言葉を発するのも待たず、横田刑事がまぁまぁと間に入る。篠田刑事の振る舞いに、何か感じるところがあったのだろう。
「な、実君、頼む。話したくないことを無理矢理聞いたりはしねぇ、約束する」
なぜこんなことを言いだすのだろう。
僕は篠田刑事の真意を測りかねて、手で拝むようなポーズをとっている篠田刑事を見つめた。
これで最後だと言うのなら――いくら僕が恩知らずとはいえ、この人たちに嘘をつき続けるのはさすがに堪える。
「分かりました――」
うまく笑顔を作れただろうか?
「ありがてぇ! すまねえな」
篠田刑事がぽんと一つ膝を打ったのを合図に、まだ何事かを抗議している看護師を横田刑事がまぁまぁまぁと部屋から押し出して行く。
病室のドアの向こうでは、未だに看護師が横田刑事に詰め寄っているような声が聞こえていた。
「まずかったですかね? こんなことしちゃって」
「まぁ良くはねぇわな……」
僕が苦笑しながらいうと、篠田刑事も同じ表情で返す。
「時間は無駄にできねぇ、さっそく俺の話を聞いてくれ」
一度顔を俯かせた篠田刑事は、徐々に顔を上げながら僕をねめつけるような視線で見上げた。
「もしかしたら……犯人わかっかもしんねぇからよ」
その一瞬の間に、篠田刑事の雰囲気が、これまでのものとは全く別のものに変貌しているのを感じた。
あの時に似ていた――あの公園で、初めて篠田刑事と出会った時――。
篠田刑事は何か並々ならぬ覚悟と、それを決めさせる“何か”を持って、今日ここに現れたのか。
なるほど――。
「聞かせてください」
時間は無駄にできないといった割にはたっぷり5秒は真剣な眼差しで僕を見つめていた篠田刑事は、次の瞬間相好を崩すと饒舌に語り始めた。
「なんてな。本当はさっぱりなんだ。ちょっと言ってみたくなっただけでな……ほんとは実君に謝んなくちゃいけねぇことがあってよ。いや、多分実君は知らないだろうから、言おうかどうしようか迷ったんだけどよ……」
やっぱり気持ちわりぃから、と篠田刑事は頭を掻いた。
「この話はまだ誰にもしてねぇ、ほんとに誰にもだ。警察にも、家族にも――ああ、一匹いたが、あいつは人間じゃねぇからノーカンだな――この話はな、お前さんを見つけた事に深く関わってる話だ。
事件があったアパートの部屋にいるはずの実君の姿が見えねぇってわかった時な、実君を探すためには俺だけじゃ無理だって思ったんだ。
それで俺は他の警察の人間駆り出すのに『別の事件の聞き込み中に、偶然実君らしい子供を、給水塔付近で見かけたって話を聞いた』って言ってまわったんだよ。だからあの辺が怪しいんじゃねえかってよ。だから人を寄越せってな。
そんでそいつが大当たり、実君は正にあの施設のタンクの中に閉じ込められてた――でも聞き込みで聞いたってあれな――嘘だ」
僕は黙ったまま、篠田刑事の次の言葉をまった。
「あんな場所、近所の人間でも滅多に近づかねぇよ。面白いもん何て一つもねぇ、ただの廃墟みてぇな建物があるだけだ。どっかの悪ガキ共がたむろするにしたって、あんなでけぇフェンスがあったら簡単に入り込めねぇしな……だから実君の姿を見かけた、なんて人間もいるわきゃあねぇんだ――あんまりおどろかねぇな。知ってたか? この話。そんなわけねぇよなぁ?」
「はい、初耳です。それに、驚いてますよ。後から僕を見つけてくれたときの話を少し聞いて、なんでだろうとは思ってました。僕が見つかったのがあそこに閉じ込められた日の翌日だったらしいですね。すごく早いなって」
「あたぼうよ、日本の警察は優秀なんだ」
ちゃかすように笑ってから篠田刑事は続けた。
「って胸張って言えれば良いんだけどよ。本当は大分違ってな、実君の居場所なんて、見当さえついてなかったよ――あれがなかったらな」
何が――。
「俺はただ聞いただけなんだ。居場所の答えはあっちからやってきたんだよ……まぁ話の続きを聞いてくれ……俺が別件で聞き込みしてたってのはホントの話だ。いちいち現場近くまで来んのが面倒でな、交番に泊ってた。ほら実君にも教えたあの交番だよ」
頷く。
「野犬が子供襲ったっつうひでぇ事件の聞き込みでな……俺は何日もその現場の公園の近くをうろうろして、色んな人に話を聞いてた……それは置いといて、とにかく俺は何日か交番に泊ってた。で、あの夜だ、宿直のヤツがあんまり寝てないってもんだから先に寝かしてやって、俺は机で報告書――お巡りさんの宿題みたいなもんだな――それをやってた。
時間は深夜前だったと思うが――気が付くと俺のすぐ左っかわにに女の子が立ってた。手を伸ばせば触れる程近くにな。
交番のドアが開いた気配もねぇのに突然だぜ? いや、腰が抜けるほど驚いたね。警察やって40年近く、定年前についに幽の字が出て来やがったと思った。
年の頃は実君よりちょっと下くらいかな……えらくきれいな顔した女の子でな、黒みてぇな青の高そうな一枚物の――そうワンピースを着てた。あれは将来別嬪になるにちげぇねえ。ま、生きてりゃの話だけどな。
でな、言葉も出せねぇ俺に向かって言うんだよ『わたしたちのお父さんが殺されました』ってな。俺は藪から棒に何を言うのかって飛び上がりそうになって、ますます何も言えなくなった。
で、続けてな『ミノルは向こうの一番高い、高いばしょにあるおうちにいます。わたしのおへやだった所でねています』北の方を指さしてから、じっと俺の目を見ながら言ったんだ。まるで女の子の見た目よりも、もっとちっちゃい子が話すような……つたねぇ話し方だったなぁ……。
一体何がどう繋がった話をされてんのか俺には分からなかったよ。ただ、その嬢ちゃんが何か大事な――とても大事なことを言っているんだってことは分かった。嬢ちゃんが言ってることは、絶対に忘れちゃいけねぇ類のもんだってことがな。
それから――これは相当言いにくかったんだろうな、嬢ちゃんの目ん玉と口元が、小刻みに震えてた。そん時だ、俺はこの嬢ちゃんが幽霊なんかじゃねぇって気付いたのは。
一字一句だって間違えてねぇ。『わたしはミノルのお父さんを殺しました。ミノルにごめんなさいをしないといけません。でも――』そう言った。言ってその次の言葉が出てこないままだった。
俺の口の中はからっからで、お茶なしで何枚もしょっぺぇ煎べぇを食べた後みたいになっちまった。
嬢ちゃんが幽霊じゃねぇのは分かった。分かったが、じゃあ?――俺はこう聞くのがやっとだった『お前さん……なにもんだ?』
実君……そのお嬢ちゃんはこう言ったよ――『わたしはミノルのお姉さんです』ってな。実君……あれだ、一人っ子だったよな?」
僕は篠田さんの方を見たまま固まった。
「『ミノルをおねがいします』あの嬢ちゃんはそういってふけぇお辞儀をしてさ、くるりと背中を向けた。あっ行っちまうって俺は反射的に手を伸ばしたんだが捕まえることが出来なかった、だってよ、普通交番から出ていくときは外に出てくもんだろうよ。けどな、あの嬢ちゃんは交番の奥に向かって走っていった。走るっているよりあれはなんだ、滑るみてぇな変な感じがしたなぁ……」
じっとりと額に汗が滲んだのを意識した瞬間、ぼつぼつとそれが湧き出るように珠になっていくのを感じた。そのいくつかが限界を迎えて一粒、二粒と僕のこめかみを伝っていく。
「交番の奥に出てくとこなんてねぇよ。ちっちぇえ交番だからなぁ、奥には台所と仮眠室があるだけだ。俺は慌てて後を追った。けど台所にも仮眠室にも嬢ちゃんの姿はどこにもなかった。静かなもんだったぜぇ? うちのもんがいびきかいて寝てやがるだけだ。
俺は押し入れから台所の戸棚からトイレから、嬢ちゃんが隠れられそうな所は全部見た。でもいねぇんだよ。そうこうしてたらよ、寝てたやつもさすがに起きて来て、こんどは2人でいちから全部探してまわった。それでも見つからねぇ、ほんとに煙みたいに消えちまってた。
やっぱりあれは、幽霊とかそういう類のものか、寝不足が続いてた俺の頭が変になっちまったとかそんなことがぐるぐる頭ん中を回ってた。
でも気になることが一つだけあってな――嬢ちゃんの立ってたとこから台所までな――なんか湿ってんだよ、濡れた雑巾引き摺ったような……なんかが這ったみてぇにな」
ああ――。
「それを見つけたすぐ後だ、今度はぜぇぜぇ言いながら男が交番に飛び込んできてよ、これが『人が死んでる!』と来た。一体なんだってなもんだ。あの夜はおかしな事が立て続けに起きやがった。
やっぱりあの嬢ちゃんはお化けかなにかだったのかもなぁ……もしかしたら、虫の知らせだったのかもなぁ、変なもん見たなぁとか俺は思ってた。だもんで俺達は男を急いで車にのっけて、無線で署に連絡しながら現場に急いだ、もちろんサイレン鳴らしながらな。
なぁ気付いてたかよ実君。この街さぁ、そんなにでっけぇってわけでもねぇのに、妙に多くねぇかよ? サイレン」
ああ――。
「現場についた俺達はすぐにそのアパートの2階に向かった。知らせに来た男に車の中で聞いてた通り、男が一人死んでた。ひでぇ有様でな……その仏さんが『持田 勝治』だ……実君を攫ったヤツだな。とにかく現場保存――そこを元のまんま残さなきゃってことで、俺達は男に事情を詳しく聞きながら応援を待った。それから現場が封鎖されて、本格的な捜査が始まった。
最初仏さんは一人だけだと思ってたらよ、違うらしいんだよ、部屋の奥でもう一人見つかった。それがよ……あれだ……実君のお父さんだな」
すまねぇな、と篠田刑事は一つ小さく頭を下げる。
「そのときはすぐに分からなかった、だってよ……まぁちょっとな……おじさんなぁ、ずっとだ」
頭を下げて、深く大きなため息をついてから上げた篠田刑事の顔は、ひどく疲れているように見えた。
「ずっとずうっとな、変なこと考えてる」
それは――。
「あの嬢ちゃんを見た時からずっと。鑑識からいろんな話を聞いて……アパートの住人から、その部屋に、小学生の男の子も、実君も住んでたって聞いて、そこでようやっと実君と会ってたこと思い出して、必死に探し回って、あの場所で実君を見っけた時も、その後も、今日ここに来てからも、ずっと考えてる」
それ以上は――。
「なに……言ってるんですか、篠田さん……」
僕は必死に篠田さんの前に両掌を突き出して振った。
「もしかして、嬢ちゃんは俺の見た幻とか幽霊とかじゃあなくてよ。本当にいるんじゃねえのか? そんなことあるわけねえよ、あるわけねぇけど。そしたら全部説明がつきそうな気がするんだよ……実君のお父さんが死んだことも含めて全部だ」
「それは――もうやめましょう。篠田さん」
「実君もしかして――あの子に会ったことあるんじゃねぇか? もしかして――この病院に来てからもよ――でよ、もしそうならよ、さっき言った『今日で最後にする』ってやつは――嘘になる」
だめだ――。
「だめ……だ……」
それは――。
僕は一層強く手を振った。その動作がどんどん強く大きくなってほとんど何かを押しとどめるようなものになっているのは自分でも分かっていた。
「あるのか? 実君――あの子に会ったのか?」
そう聞かれても大げさに両手を振り続けることを、僕は止められなかった。
会っていなかった、あれが最後だった――。
そんな僕の様子をあっけにとられたように眺めていた篠田刑事は、何かに思い至ったかのようにびくりと体を震わせると。僕の顔を覗き込むように近づいてきた。
「なあ――実君。俺はなぁ、こうやって嬢ちゃんもじいっと見た。ガラスの細工みてぇな不思議な目をしてた。見たことないくらいきれいなのに、底の見えねぇ高い崖から、下を覗き込んでるよう気になるようなおっかねぇ目だ」
「だめだ……だめだ……」
「なぁ、おじさんなぁ、さっきからおっかなくて仕方ねぇよ……実君、なんでお前さん……あの嬢ちゃんとおんなじ目をしてるんだ?」
「違う……」
「あんまりよぉ……おじさんを怖がらせないでくれよ、実君」
――会っていなかった。
「そうじゃない……」
――たった今までは。
「実君……お前さんさぁ……一体さっきから――どこを見てる?」
どこって――。
水を打ったような静けさ。
先ほどから聞こえ続けていた、看護師と巡査のやりとりも、外からの雑踏のざわめきも、近くのビルの工事音も、どこか遠くから聞こえてくるサイレンも――。
全てが止まっていた。
僕は天井に向けていた視線を、少しずつ、少しずつ下げて行き、篠田刑事の目を見つめ返した。
僕の歯の根が合わずにカチカチと音を鳴らして――。
「なあ――そうなのかよ? ……うそだろ?」
――彼女の吐息が篠田刑事の首の産毛を揺らすのを見た。
涙で滲んできた視界の向こうに、篠田刑事の眉がぎゅっと顰められたあと、泣きそうなような、怒ったような、なんとも言えないような顔に変わっていくのが見えた。
「――いるんだな?」
ああ――いる――恐らく篠田刑事が言わんとした意図以外の意味でも。
少し前から気付いていた。篠田刑事の背後にある病室備え付けの洗面台の蛇口から、それは顔を出していた。
最初は水滴のように小さく、少しづつ膨らんでいく様は、水風船を連想させて――。
「嘘になる」そう篠田刑事が言った瞬間に、瞬きもできないほど一瞬で、病室の天井一杯に広がった。
――憤怒に歪んだ、少女の、巨大な――顔。
天井の半分以上もあろうかと思しき大きく開かれた赤い口には肉食獣を思わせる小さな牙が、びっしりと並んでいる。ざわざわと風に揺れるように蠢く、夥しい量の葛のような黒髪、そして目じりにかけて異様につり上がり見開かれた目には、あまりにも純粋な――殺意がありありと浮かんでいる。
それは今や壁すらも埋め尽くし――僕らは、ほとんど少女の中に――いる。
「だめなんだ……それじゃ」
「なぁ実君――もしかして……俺は」
他の物を見ることが出来なくなったかのように固定され、じっと僕の顔を覗き込んでいた篠田刑事の強張った表情が、すうっと音を立てるように変わっていく。
見たこともない表情――。
「ああ――死ぬのか」
僕はその瞬間、今までで一番大きな声で叫んだ。それは殆ど絶叫で、僕は自分がこんな声を出せるのかとどこか他人事のように思った。
初めてだったのは大きさだけじゃない、僕は初めて――。
「だめだ! それじゃだめなんだ!」
多分“僕たち”のために――。
「そんなことをしたら許さない!」
新しい――僕らの『これから』のために――。
「やめなさい! ナミ!」
そこに繋がる『たった今』全ての思いを込めて、初めて僕は誰かを――叱りつけた。
突然シーツを跳ね上げ、ベッドに膝立ちになって叫ぶ僕の姿に気圧されるように、篠田刑事はパイプ椅子ごと後ろにひっくり返った。仰向けになったまま、かっと目を見開いたまま天井を見つめている。
果たしてそこには――何もなかった。
ただ、白い、廊下よりも少しだけ高い、無機質な光を放つ蛍光灯が並んだ“ただの”天井があった。
「シノさん!?どうしました!?」
病室内の騒ぎを聞きつけたらしい横田刑事が中に飛び込んでくる。看護師も慌てた表情でそれに続いた。
篠田刑事はそれに答えず、しばらく黙って倒れたまま天井を見ていたが、やがて「ちぇっ」と小さく呟くと、床に座りこんだまま上体をむくりと起こし、こちらを見て言った。
「……やったな、実君」
『苦虫を嚙み潰したような』という表現がこれほど合う表情は見たことがない。
「な……なんてな……でしたか……?」
僕は全身の力が抜けてベッドの上にへたり込みながら、何とかそんなことを言って篠田刑事に向かってははと乾いた声で笑った。それはそれはひどい顔だったろう。
病室に入ってきた二人は訳も分からずぽかんとして僕らを見ている。
僕を見る篠田刑事の顔が、ひどく優し気なものになっているのに気が付いた。その意味を推し量る間もなく「わはは」と大笑いし始めた篠田刑事を、僕は二人と同じく呆気にとられて眺めた。
その笑い声に付き合う元気は、僕には残っていなかった。
「ごめん……言い過ぎた……」
――俯いて、そんなことを呟くのがやっとだった。