ゆっくりと、厳かに。1
わたしが、わたしたちだったのを、わたしにしたのはばくはつ。
おおきな、おおきな。
ずっとむかしから、ずっといっしょだったわたしたちは、ちいさかったり、おおきかったりにわかれた。
おおきなわたしたちから、ずっとちいさなわたしはわかれた。
そのばくはつよりずっとまえ。
ずっとまえのいちばんまえ。
くらくておおきなあなのなかで、わたしたちはまるまっていた。
ただまるまっていた。
たまにごはんがあなにおちてきたから、それをたべていた。
べつにたべないこともあった。
おなかはすかないから、ごはんもいらない。
たべてもいい、たべなくてもいい。
おいしくても、おいしくなくても。
おいしいのはうれしいけど。
わたしがわたしたちだったとき、いろんなわたしたちではないいきものをみた。
わたしたちのおとうさんとおかあさん。
おはな。
おはなのかたち。
おはなのおとうさんとおかあさん。
いたいことをする。
やなことをする。
いやなおとうさんとおかあさん。
だからじゃあね。
じゃあね。
それからわたしたちはおおきくなった。
いっぱいじかんがたった。
じかんしってる?
じかんがあると、おおきくなる。
じかんすごい。
わたしたちはいっぱいおおきくなった。
おぼえてる。
まほうつかいのおねえさん。
おおきな、わたしたちとおなじくらいおおきな。
おおきなおふねにのったおねえさん。
おねえさんはいろいろしってた。
色々おしえてくれた。
わたしはおねえさんはお母さんだと思った。
でもちがった。
わたしたちはなんだかさびしかった。
おふねもなくなって、おねえさんもいなくなった。
もっとさびしくなった。
じゃあね。
おねえさんじゃあね。
うみ。
うみは大きい。
うみは広い。
うみはすごい。
色々いった。びっくりした。すごい。
世界はすごい。
世界しってる?
とても大きい。
わたしたちよりも、ずっと、ずっと。
たくさんずっとをかさねたよりずっと。
大きい。すごい。
わたしたちはたくさん見て、たくさん感じて、たくさん食べた。
まんぞく。
一杯だから、まんぞく。
私たちはしずかもにぎやかもすき。
いままではにぎやかだったから。
今度はしずかの番。
私たちより大きな穴の中で、ときどきおちてくるごはんを食べながら。
思った、考えた。
今までのこと。
お父さんのこと、お母さんのこと。
お姉さんの事。
ずっと、ずっと、とても長い時間。
覚えてる。
魔法使いのおじいさん。
変なおじいさん。
ちょっとお父さんににていた。
いやなおじいさん。
それから、ばくはつした。
痛くて、怖くて、辛かった。
私たちは、ばらばらになった。
沢山の私たちが死んで、一杯の私たちがいなくなった。
ばくはつの中で、私たちは私に色々な物をくれた。
私たちの大切なもの、私たちの宝物を。
私にくれた。
話すことをくれた。考えることをくれた。見ること、感じること、変わること、作ることをくれた。
――そして、私が生まれた。
私は、私たちから生まれた。
いなくなった私達は、きっと私のお父さんと、お母さん。
私がこれから生きていくために、必要だと思うものをくれた。
――ありがとう。
――心をくれて。
爆発は思った以上に大きくて、私は必死に逃げた。
小さな管があったから、そこに逃げ込んだ。
体を細く長く伸ばして、私はその管の中を進んだ。
水が一杯に詰まっていたから、もっと体を細く、糸のように伸ばした。
恐怖に突き動かされて、私は管の中をでたらめに進んだ。
行き止まりを曲がったり、破ったり。
そして、私は――その場所についた。
今の私よりもずっと大きな、水の入った箱の中に。
どうやら逃げ切れたらしい。
私はほっとして、力を抜いた。
静かだった。
丁度いい、今は静かの番だ。
あの大穴よりはずっと小さいけれど。暗くて、静かで、水がある。
丁度いい。
しばらくここにいようと決めてから、数日が過ぎた。
騒がしいのがやってきた。
何かを喚き散らしているわけではないけれど。
心が同じことをしていた。
魔法使いのお姉さんは静かでやさしくて、でも悲しかった。
魔法使いのおじいさんは大仰で、意地汚くて、変なことばかり考えていた。
このうるさい人間は、魔法使いではないようだったが、その心は二人よりも散々だった。
ずっと単純で、刺々しい。
今までは私達がそれぞれ分担して、感じることを分け合っていたので、それほど何かを苦痛に思うことはなかった。
今は私しかいない。
これは正直堪らない。
ほんの少しだけ、このうるさい人間の心に触れてみた。
思ったよりも強烈に、男の心の大部分を占めている感情、そしてそれが生まれる原因となった出来事、記憶が流れ込んでくる。
不快だった。
この人間、男は6年前に大切な人と、そこそこ大切な人を失っていた。
もともと単一でも群体でもなく、宿主でもない別の生き物としての大切な命があるのだという感覚は、種というものへの理解を深める新鮮な発見だったが、それだけだ。
男は事故、交通事故、車と車の衝突事故で妻子を失っていた。
久しぶり――娘が生まれてからはほとんど初めての『家族旅行』。
娘の小学校の夏休みを利用しての2泊3日。
妻の急な要望で、男は市外の観光地に向かう前に海岸線のドライブコースを走っていた。
同乗者は妻と娘、男と合わせて計3人がその車、白いセダンタイプの乗用車に乗っていた。
事故現場は私のいるこの場所、市街地の北部にある給水塔からずっと南東にある、水無瀬市海岸部高台にある道路で、下方約20mに海が広がっている。
片側2車線、対向と合わせて4車線の長さ15km程のほぼ直線の海岸道路。
天候は雲一つない快晴。碧に直線を引いたような水平線を望むことのできる最高のドライビングスポット。
男の乗る車は海岸側の一番左の車線を、約時速60kmで南に走行していたが、事故の原因となった対向車は自身の走行レーンを大きく外れ、男の乗る車の走る車線を逆走する形で、時速100km程で走行していた。
正面衝突するコースだ。
だが見晴らしの良い起伏のないほぼ直線道路。男は対向車をかなり早くから認識していた。
娘は事故が起きる大分前から、はしゃいだ様子で後部座席から立ち上がり、運転席と助手席の間から顔をのぞかせ、両親になにかと話しかけていた。
その娘からも直前に3度、正面から接近する対向車の存在に対する警告を受けている。妻はといえば自らの申し出の筈のドライブ中に居眠りをしていた。
娘の声が緊迫感を増してきても、男はずっと危機感を持っていなかった。
『対向車線を逆走するなんておかしい。あちらが避けてくれるはずだ』
浅はかに過ぎる。
男が対向車を認識してから衝突するまでの時間は約20秒。
5秒前には対向車が海岸側のガードレールをこすり、火花を上げ続けているのも確認している。にもかかわらず、対向車は一向に減速する様子がない。男が他車線に走路を変更する様子がないのと同様だ。
男がその段階で考えていたことといえばこうだ。
『もしかしたら危ないのか』
当たり前だ。一体何を見ている。
男が選んだ行動とは。
急ブレーキ。と、間違えての――急アクセル。
結果男の車は更に加速し、対向車との相対速度を上乗せした。
両者の車が最接近した一瞬、対向車の運転手と目が合った。
「魚?」
男がそう思った次の瞬間。
――衝突。
間際に申し訳程度に山側にきったハンドルが、男を現世に繋ぎ止めた。
対向車はガードレールを飛び越え海へ。
妻は抉り取られた助手席内にかろうじて留まったものの、衝撃で頸椎を骨折、内臓破裂、死亡。
娘はフロントガラスを突き破り、対向車とは方向は違えどやはり海へ。
ちなみに娘が車外に弾き出される様を見た時に浮かべた男の感想は「あれぇ?」だ。
もう十分だろう。
男と家族に起きた事故は同情に値するものだ。責任のほぼ全ては対向車にある。
しかし――。
これは避けられた事故でもあった。
事故当時対向車はその原因となった1台のみ、男の後方にも追走車はゼロ。周囲の状況を確認し、山側の車道外スペースに避難するだけの余裕は十分にあった。
男の状態も助手席で寝息を立てる妻に対する不満は若干あったものの、衝突の瞬間まで、パニックをきたしていた様子はない。
想像力と危機予測能力の絶望的な欠如。そこそこ安全で、ぼんやりと幸せな生活がもたらす副作用。
ただただ愚かであったというより他ない。
いや――この男はその後に更に愚かと言える行動に出るのだから、「ただただ」という強調表現はまだとっておいた方が良いのだろうか?
いやいや――『愚か』なのはここまでだったのかも知れない。
私が類推するに、男のこの後の行動は愚かさとは別のものから導き出されたものだろうから。
それはおそらくこう呼ばれるものだろう。
――狂気、と。
〇
男は事故の後、家族の葬儀、警察の取り調べ、交通裁判といった儀式めいた手順を茫然自失した様子で坦々とこなした。その間の感情の揺れは驚くほど少ない。
――あくまで『揺れ』はだ。
これは私の感想だが、人間の感情の動きは、個人差はあれど他の生物に比べてスローテンポに感じることがある。これは強い感情を喚起される際に、より強い傾向がうかがえる。
地表と海面の温度の上下にも似ているとも感じる。地熱は水温に比べ時間をかけて上がり、なかなか下がらない。
それは、比較的高いとされる人間の知能がみせる、反射的に感情を帯びることからくる自身の物理的、社会的危険性へのリスクヘッジという側面もあるのだろうが。
ある種類の感情という温度は、遅々とした歩みながらも確実に上がり続ける。それは自らを害する温度に達しても止まることはない。その先に待つものが、決して望まぬものであったとしても。
――頂点に達するまでは。
男は事故以前から務めていた、市から委託された水道設備の管理会社で、再び働き始めた。
その働きぶりは、しかし正常なものとは言い難かった。
いつもふらふらと頼りなげな足取りで、そこら中にぶつかり、他人の話もほとんど耳に入っていない様子だった。当然仕事など手につかない。
なのに――虚ろに彷徨う視線の奥で、濁った瞳の沼底に、ぎらりとぬめ光るものがはっきりと見えるのだ。
男の感情はその温度を上げ続けていた。
同情的であった同僚達の男への視線も、いつしか気味の悪いものを見るものへと変わっていく。
さもありなん、げっそりと瘦せこけた頬に無精ひげを伸ばして、ぎょろぎょろとした目だけが忙しなく動いている痩身は、獣じみていた。
ほどなく男に『異動』が告げられる。ようは体のいい厄介払いだ。
男に必要なのは、無いも同然の薄給での、ほとんど打ち捨てられた水道管理施設における単身勤務などではなく、ある程度の拘束強度を持った療養施設への入院であることは、誰の目にも明らかなように見えたが。
実際そういった類の提案は、度々男の上司や同僚から行われていた。しかし、男は頑としてそれを受け入れなかった。
理由は単純、男は温度を失いたくなかったのだ。
その枯れ枝のような痩身の奥で沸々と煮えたぎる感情の温度を。
男にとって“状況”は終了してなどいなかった。
未だそれは山場さえ迎えていなかった。
そしてそれを成すために必要な“熱”が、そう長くは持たないことも、男は同時に自覚してもいた。
結果、男の異動は最悪の事態を招く。
当たり前だ、正気を失った人間を廃屋と呼んで差し支えない建物に一人押し込めたらどうなるかなど、火を見るより明らかだ。
事故の相手の親族から、多額の賠償金が男の口座に振り込まれたことも良くなかった。
それによって男は、貧窮に根を上げて仕方なく公的機関に身を委ねる機会も失った。
男には運がなかった? 私はそうは思わない。
男はどうしようもないくらい自分の意思でそれを成した。
しても、しなくてもいい仕事の形に沿って手足を動かしてみせる日々。
とうに供給を停止した給水塔の管理業務。
温度を上げ続けた男の感情の名は怒り。
ありふれたように聞えるそれは、あまりに醜く都合よく歪んでいた。
事故後何百、何千と繰り返された思考。
「なぜ、自分がこんな目に」
なぜもなにも自らが招いた結果でもあるに関わらず――。
「自分は何も悪くない」
最大限の努力と言えるほどの事もしなかったにも関わらず――。
「悪くない自分がこんな目に合うはずがない」
いつもはここで最初に戻るはずの問い。ついに頂点に達した感情の熱は、男の脳髄を痺れを伴って熔解させ、次の展開を見せた。
ならば――と男は考えた。
かくて厚く厚く塗り重ねられた狂気の身仕舞いは、結実する。
曰く――娘は生きている。
「ふざけやがって!」
事故後、娘の遺体が見つからなかったという一点を以て。
――娘は生きている。
「みんな俺を騙していたのか!」
なんて滑稽で身勝手で自己保身に満ちた責任転嫁だろう。
男はある程度理知的な生物として負わねばならぬ責任から逃走した。『這這の体で』という言葉の似合うみっともない姿で。
それは男自身と、男がこれまでに関わった全ての社会的関係を気付いた者達への明確な裏切りだ。
不可抗力などではない、自らが心の底から望んだ無様な逃亡。
責任と同時に権利を失う覚悟すらない、ぐうの音も出ぬ完全な敗走。
――人間は弱い。
その精神的脆弱性から逃げ、男は虚構の獣となった。
全てを盲目の霧の中に隠して、その薄もやが作り出す形振りを身勝手に決定する。
然してたった一つ男にとって本当の事があったとしたら、それは果たして死んだ娘への愛情だった。
昏い怒りの汚泥の表層に沸き上がった泡のような愛。
個人の抱く感情に善悪や正誤、貴賤などない。
それは相対する他者が決める。
私はこの男の娘に対する愛情に疑念を感じるが、男にとっては紛れもない正真正銘の尊いものであったことも事実。
そうだ――こんなにも人間は弱い。
ではもう一人、今度は掛け値なしに不運な人間の話をしよう。男の最初の犠牲者となった人間の話だ。
その人物は男の同僚で職場の先輩でもあった。そして本当に偶然その場に――男が絶頂にも似た“気付き”に見舞われている時に、姿を現した。
同僚は男を心配して、男の新たな職場に様子を見に訪れたのだ。
概ね善人といって構わない同僚は、作業場で一人怠放に身をよがらせる男の異常にすぐさま気付いた。
形ばかりはかろうじて人間の姿をしている男に”言葉”による接触を試みた同僚に間違いはない。
同僚に、男の中身が殆ど言語能力を持たない、一方的に自分の欲求を押し通すことだけを望んでいる痴鈍に堕していることを見抜く力などないからだ。
その場面において明確に同僚が間違えたと言えるのはただ一つ。
娘は生きているという男の主張を一蹴したことだ。
そのことで同僚は男の敵となった。
こいつも俺を騙そうとしていると。
娘に会わせまいと嘘をついているのだと。
十年来ともに仕事をした同僚に逡巡なく男は襲い掛かり、手近にあった工具を身の内に燃え上がる怒りに任せて振るった。
敵は排除しなければならないから。
男は押し倒した同僚に馬乗りになると、何度も執拗に、頭部を殴打した。
眼球がつぶれ頬骨が陥没し頭蓋が砕けても、何度も何度も。
瞬く間に人間の頭部ではない形に変形した同僚が何の音も出せなくなって、頭部が薄いひき肉のようになって、打ち付ける工具にコンクリート床の感触しか無くなっても、何度も何度も。
口を閉じたまま甲高い笛の用な音を、喉の奥から漏らしつつ、男はそれを繰り返した。
しばらくして男が手を止めたのは敵の死亡を確認したからではない、単に体力の限界を迎えたからだ。
同僚の死体に馬乗りになったまま男は荒く上がった息を整え考えた。
娘を探しにいかなければ。
一人で寂しがっているに違いない。腹を空かせて泣いているに違いない。
自分が助けなければならない。
――たった一人の父親なのだから。
世界がすべて敵に回ったと仮定して、慎重に行動しなければならない。
やつらはどこに潜んでいて、自分の邪魔をしようとしているのかわからないから。
どうだ――こんなにも人間は弱い。
娘を探し出すという“使命”に向かう前に、この邪魔者を片付けなければならない。
もし自分が奴らの仲間を殺したと知れば、すぐさま奴らは数に任せて自分を殺しにくるだろう。
未だ馬乗りになっている同僚の死体を見下ろし、男は考えた。
燃やすか、埋めるか、何れにしても敵の仲間に気付かれないようこっそりとやる必要がある。
ほとんど打ち捨てられている機材に掛けられた分厚く大きな布を風呂敷のようにして同僚の死体を包み込むと端をロープで縛り着ける。
それを持ち上げようとして、男は重さに呻いた。
“これ”をもっと軽くする必要がある。
男の頭に、離れの機材メンテナンス用のホールが浮かんだ。そこには大きな作業台も、様々な工具も、洗浄用の巨大な流し台もある。
そこで“これ”をもっと運びやすくしよう。しかし問題はどうやって最終的に処理するかだ。
ともかくも男は“これ”に下処理をすべく、ずるずると即席の死体袋を引き摺り、ホールへと向かうために外に出た。
そして――見た。
茜色の天を衝く影色の巨塔を。
夏に近づきつつあった晩春の夕、娘が男の元を去って一年が経とうとしていた。
熱を増してきた赤光、それを遮るように頂点で鈍く光りを照り返す給水タンク。
自分以外の誰も見向きもしないだろう、古く、今は使われていない、密封された鉄の箱。
――あそこなら。
男は慣れない『解体作業』の末、どうにか持ち運べる程度の加工に成功した。
そして、給水塔を上り、タンクを開け――私に会った。
〇
私には、私がこの場所に来る直接の原因となった事件による損傷を回復するために、未だ休息が必要だった。
今はまだ、男に騒ぎを起こされては困る。この場以上に休息に適した場所は私には思いつかなかった。
だから男の虚構に付き合うことにし、私は男の娘の形を作り、男を父と呼んだ。
効果は覿面だった。
在りえない状況、馬鹿げた展開こそ男が望んだものだったから。
男にわずかに残った正常な思考がどんなにそれを否定したとしても、従わずにいられない。
突然目の前に現れた、男にとって異形である私を、娘とせずにはいられない。
私がそれを主張し、男がそれを望んだから。
男は私に『贄』を与え、私はそれを受け取った。
それから男の凶行の動機は、『娘を探す自分の邪魔をするものの排除』から『娘への日々の糧の供給』へとすり替わった。
本来の目的は野放図な激情の発散によって生まれた『望まぬ副産物の処理』であったのだが。
それは男にとって邪魔な物の始末という些末さと同時に、しかしきっとまた、男の考え得る、これ以上ない、最上の祈瘞――。
死してよりの祭であり且つ、命の営み。
狂った、矛盾した、男にとっての――この世の――果て。
そして――。
――わたしは男をお父さんにして、お父さんはわたしを娘にした。
お父さんは死んだお母さんはあまり好きじゃなかったのに、わたしの事は大好きらしい。
わたしはお父さんもお母さんも好きだった。
でもお母さんは死んで、お父さんはおかしくなった。
死んだ人をごはんだと言ってわたしに食べさせる。
あの時といっしょ。
わたしは食べても食べなくてもいい。
けどわたしは食べた。
何人も食べた。
お父さんはわたしに食べてほしがって、わたしは食べることができて、そうすると少し体が元気になる気がしたから。
育ちざかりなのだそうだ。
わたしはお父さんの言うことを聞くいい子。
なのにお父さんはわたしの事を怖がっている。
少しじゃない、とても怖がっている。わたしにはそれが分かる。
なのに好きだからずっとはなれていかない。けど近くに来ることもない。
ごはんの時だけ。
お父さんはわたしより、お父さんの心の中にいるわたしの方が好き。
わたしはそれが少し悲しい。それにちょっとおこっている。
もっといい子になれば、お父さんはもっとわたしが好きになる?
もっとお父さんの心の中にいるわたしになればいい?
わからない。お父さんはわたしをこわがってる。
人を食べるから? わたしは食べても食べなくてもいい。お父さんが食べさせるから食べる。
なのに食べるたびにお父さんはわたしをもっとこわがる。
わからない。もやもやする。
ねぇ。
どうすればいい?
ねぇ。
わからない。
いつからだろう。
音がきこえるようになった。
ついさいきんのことだ。
――こども、男の子。
わたしのすぐそばに来るようになった。
その子が音を出している。
苦しくて、悲しくて、とおくを見てる音。ずっとずっととおく、昔? 大切? わからない。
ただ、きれい。
きれいな音。
それだけでいい。
はじめてきく音、曲?
はじめてきいたのが、この音で、この曲でうれしい。
ねぇ。
これは何の音?
口笛だ。
わたしにもできる?
できるみたい。
――楽しい。
楽しくて、うれしくて、きれい。
すごい、きれい。
わたしはこの曲が好き。
もやもやしない、ふわふわする。すてきな音。
すごい。すごい。
すごい。
この音を出す男の子が好き。
悲しくない。口笛が好き。
ねぇ。
わたしは男の子の中を見たくなった。
どんなものが好き? どんなことが好き?
前はずっととおくの人の中が見えた。とおくのお父さんの中も見えた。
でも今は人の中をうまく見ることができなくなってきた。
むずかしいことも考えづらくなった。
きっとお父さんの娘になったから。いい子は人の中をかってに見てはだめ。
なんて言った? そう、はしたない。
はしたない。だめ。
男の子はきいたらおしえてくれるかな?
どんなものが好き? どんなことが好き?
でもお父さんみたいに怖がるかもしれない。
わたしのことが怖くてもう来なくなるかも。お父さんみたいに。
いやだな。
もっと音を聞きたい。いっしょに口笛を吹きたい。
だからがまん。
でも男の子はお父さんとはちがうから、わたしにごはんをくれなくていい。
だから男の子はここに来ても来なくてもいい。
いやだな。
これがさいごだったらいやだな。
ねぇ。
どうしたらいい?
わからない。
〇
たいへんだ!
お父さんが男の子をつれていった。お父さんはすぐに人をころしちゃう。
どうしよう!
たいへんだ! わたしのせい。
さっき、わたしはお父さんがごはんのためにあけたわたしのおへやのドアから、体をのばしてとびだした。
がまんできなかった。
男の子がすぐそばにいて、ドアがあいて外に出られるなんてもうないと思ったら。
どきどきして、うれしくてとびだしてしまった。
お話がしたかっただけだ。男の子と。
何を? わからない。
男の子はおへやの外で小さく丸まっていた。すこしおかしかった。
きっとお父さんからかくれていたのだと思った。
おへやにもどろうかと思ったけどやっぱりがまんできない。
でも男の子が怖がったらいやだから、おへやのかげから少しだけかおを出して話しかけた。
お父さんに見つからないようにできるだけ小さな声で。
ねぇ。
「ねぇ」
何を話せばいい? 楽しいこと。悲しくないこと。そうだ――。
「きょうは、くちぶえはなし?」
うまくはなせなかったけど、わたしは言った。
いっしょに吹こう。きっと楽しいから。
男の子はびっくりしてた、きっときゅうに話しかけられたから――うそだ。
わたしはうそをつこうとした。いい子はうそをつかない。ごめんなさい。
男の子は、こわがってた。すごくすごくこわがってた。
わたしを見てこわがってた。
ごめんなさい。
中を見なくてもわかるくらい。とてもすごくこわがってた。
悲しい。うれしくない。すごく悲しい。
生まれてきていちばん悲しい。
男の子は怖くて大きな声を出した。口笛よりもずっとずっと大きな声だった。
大きな声を出しすぎてたおれてしまった。
それでお父さんにみつかった。
わたしのせい。ごめんなさい。
〇
お父さんがわたしのおへやのドアをしめておとこのこをつれていったあと、わたしはかんがえた。
じかんはみじかくしたから、そんなにたくさんはかんがえていない。
おとこノコがしんぱいだった。
おとうサんはおとこの子をころしチゃう?
おとこのこガイなくなって、いっしょにクチブえはなし?
ごハんをたべなくちゃだめ?
いやだな。
すごくいやだな。
まだなにもお話してない。好きもきらいも聞いてない。
もっとお話ししていっしょにあそびたい。
だからわたしはやってはだめなことをした。
お父さんとしたやくそく。
かってにおへやを出ません。
おやくそく。
だって男の子がしんぱいだった。
いい子はやくそくをまもります。
でもそんなことは今はなし。今だけなしでいい。
わるい子はしかられます。
お父さんに見つからないようにしないと。
わたしはこのおへやにきたときと同じように、ほそく長くなって、くだをとおっておへやを出た。
お父さんのいるところはぼんやりわかったから、そのおへやにあるくだからかおを出した。
見つからないようにこっそりと。
男の子はお父さんにたくさんぶたれたり、けられたり、うすいてつの板でたたかれたりしていた。
かわいそう。
男の子はそんなにわるい子?
しんじゃいそう。
そう思ったらどこかがぎゅーっとなった。
あーってなった。あーいけないんだって。
あーよりももっとすごくあーってあーって。
どうしよう。どうしよう、あー。あーあーあー。
あー、あー、あー!
わたしの中であのばくはつみたいなのがおきそうになったけど、おきなかった。
男の子の名前はミノル。
お父さんがそう言っていた。
お父さんは言った。
ミノルのお父さんになるって。
わたしのときと同じ。
ミノルとわたしは同じ。
うれしい。
お父さんは『きゅうしょくぶくろ』にミノルを入れた。
お父さんが言ってた。大きなふくろ。
死んだ人を入れるふくろだからへんだけど、ミノルはまだ生きてるから。
でもこれは――わたしのとこに来るってこと。
お父さんに見つからないように、わたしはすぐにおへやにもどった。
それからちょっとして、お父さんはミノルをわたしのおへやにつれて来て言った。
ミノルは今日からわたしのお兄ちゃんになります。
すごい。
すごい。かぞく。お父さんとわたしとミノル。わたしたちだったときみたい。
すてき!
けどへんだ。わたしの方が先にかぞくなのに、ミノルがお兄ちゃん。
お父さんはまちがってる。
でもがまん。
ほんとはわたしがお姉さん。でもお姉さんだからがまん。
お父さんがあいさつしなさいと言ったから、わたしはミノルに言った。
「こんばんは、お兄ちゃん」
心の中ではお姉さん。
魔法使いのお姉さんと同じお姉さん。
お姉さんもたくさんがまんしてたから、わたしもお姉さんだからがまん。
なんだかいい気分。きっとわたしはいい子。
ミノルとどんなお話をしよう。
うれしい。たのしみ。
お父さんはわたしとミノルがそっくりだってわらった。
きょうだいだからって。
さっきからミノルがぜんぜんうごかなくてしんぱい。
それなのにお父さんはわらってる。
それにわたしにミノルを食べるなって言った。
わたしはミノルを食べたりしない。かぞくはわたしたちなんだから食べない。
なんて言った? しつれい。
しつれいしちゃう。
「うん、お父さん」
わたしは言った。
お姉さんだからがまん。
お父さんはおしごと、心が『おりょうり』の色になっているから。
お父さんがかえってきたらごはんのじかん。お父さんはだれかをころしにいく。
おなかが空いたらミノルの手と足を食べなさいってお父さんは言っておしごとにいった。
わたしはいってらっしゃいをしたけれど。
もう。
しつれいしちゃう。
〇
わたしはミノルにいらっしゃいをした。
わたしのおへやは、ぜんぶがわたし。
でもたいへんだ!
わたしはミノルを食べちゃいそうになった。
食べないって思っても食べそうになる。
どうしよう。
どうしよう。
わたしはいそいで考えた。
ミノルがわたしのおへやに入ってわかったことがある。
ミノルは大きな声を出さなかったけど、やっぱり怖がっていた。それに大きな声は出さないんじゃなくて出せない。
死んじゃいそうなんだ。
ひどい。
どうしよう。
わたしはもっといそいで考えた。
お花のお父さんお母さんなら、魔法使いのお姉さんなら、おじいさんなら、どうするか考えて、ぜんぶした。
でもだめだった。
どうしよう。
わたしはミノルを食べそうだし、食べなくてもしんじゃいそう。
――ごめんなさい。
――少し食べました。
そして思い出しました。
わたしがわたしたちだったころ。
ずっとじゃないけど昔の話。
このおへやぜんぶのわたしより、ずっとたくさんずっと大きかったわたしたちのころ。
わたしたちの中に入ってきた人がいた。
おっこちてきたのじゃないとびこんできた人。
ちょっといやな人。
だっていらっしゃいをしていない。
でもそのときはわたしはわたしたちだったからしかたない?
でもやっぱりしつれい。
わたしたちをころそうとしていたし、ころされたわたしたちもいた。
でもわたしはわたしたちだったからだいじょうぶだったけど。
ずいぶんとにぎやかで、元気。
わたしたちの中でおどってた。そう、おどってた。
その人よりずっと昔の人たちが、おんなじおどりをしてたのをおぼえてる。
すごくにぎやか。
わたしたちはその人を食べようとした。だってわたしたちをころそうとするからしかたない。
でも食べられなかった。食べられてた? 食べてもなくならない? ううん、やっぱり食べられなかったと思う。なんだかわからない。
なんでもいい。
その人はわたしたちの中で元気だった。
それがだいじ。
何て言った? かむい。
かむいのおじさん。
さむいさむい海にわたしたちがいた時にあったおじさんだ。
わたしたちはそのおじさんがいやでじゃあねをした。
思い出しました。
もしも――。
もしも――ミノルがおじさんと同じになったら。
わたしはミノルを食べられない? いや食べません。
でも食べようとしても食べられなくなる?
ミノルはおじさんと同じになったらわたしをころそうとする?
いやだな。
どうしよう。
早くしないとだめ。ゆっくりはだめ。
いそいで、いそいで。
わたしの中あるわたしたちからもらった大切な宝物。
おしえて。
どうしたらいいかおしえて。
おじさんがどんなだったか。
わたしの中のずっと小さくなった宝物のわたしたち。
おしえて。
それから、あたらしいわたしたちに。
そう、たくさんいたくてつらかったミノルに――。
もっとたくさん――やさしくしてあげないと。
かぞくは、わたしたち。
わたしは――お姉さん。
〇
がんばりました。
ミノルはもうだいじょうぶ。わたしの中にいても元気。
わたしと、小さな宝物のわたしたちがミノルをがんばれしたので。
おじさんと同じにできました。
ミノルはおじさんと同じはちょっといやだったので、もっとちゃんとすごく元気にできました。
すごい。
すごい、いい気分。
なにこれ。
けどもう少し。ここからがほんばん?
ミノルの心もがんばれします。
でもがんばれがいやな人もいます。
ミノルはどっち?
わたしはミノルにはじめましてをしました。
ちゃんとのはじめましてです。
わたしはおじさんをミノルにできるので、わたしをもっと小さいお姉さんにもできます。
かんたん、かんたん。
もうミノルはこわがっていません。
よかった。
なんて言った? ほっとした。
生まれてはじめてほっとしました。
さあ、はじめます。
ミノルは心の中でずっとごめんなさいをしています。
いたくてつらくてくるしい、ごめんなさいです。
もうずっと、ミノルの時間でほとんどずっとごめんなさいをしています。
そんなにごめんなさいをしなくてもいいことに、ごめんなさいをしつづけています。
わたしはもうそれはおわりにしていいと思います。
ミノルは、ミノルのお母さんと、生きていたいと思うことにごめんなさいをしています。やめようとしません。
しかも生きていたいことはまちがってるって。
そうミノルは思っています。
間違い?
ねぇ。
どういうこと?
間違ってないよ。
あたりまえ。
生きていたいのはあたりまえ。
間違ってなんかないよ。
ああ、そうか――お母さん。
でも――。
間違ってなんかない。
ちゃんと、言っておかないと。
あーミノルが泣きそうです。そんなに強く言ってないのに。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
わたしはミノルを元気にするためにわらったのですが。
ミノルはわんわんと泣きだしました。
すごく泣いています。ずっと泣いています。
でもわたしはミノルから、つらいのも、いたいのも、くるしいのもとったりしません。
ただいっしょに分け合うのです。がんばれをするのです。
わたしがわたしたちだった時みたいに。
あたらしいわたしたちの間で。
あまりうまくできなかったとしても。
そうしないとおわらないことをわたしは知っています。
ねぇ。
ミノルが泣きやむのをまって、わたしは聞きました。
いろいろなことがあって、たくさん泣いて。
つかれた?
うなづいたミノルにわたしは言いました。
そう。
あ、いいな。
『そう。』はいい。
なんだかすごくお姉さん。
気に入りました。
ありがとう。とミノルは言いました。
なんで?
君にはわからない? とミノルは続けます。
へんなの。
何にありがとう?
わからない。
ミノルはうまく言えないのだそうです。
そう、いいよ。
ありがとうをミノルはまたしました。
そう。
疲れたな。となんだかねてしまいそうなミノル。
ねてもいいけどその前に。
ねぇ
――どうしたい?
聞いておかないと。
どうしたい?
――生きていたい。ミノルが言いました。
そう。
やった。
がんばれせいこうです。
でもだめかな。またミノルが言います。
どうして?
どうしてそうなる?
わたしはびっくりしました。
そう。
でもお姉さんでだいじょうぶ。
どうしてか聞かないと。
ねぇ。
ほんの少しだけミノルの心を見ました。
ミノルの心の中のミノルには、手足がありません。
なんだ、死んじゃうと思っているんだ。
だいじょうぶ。
ミノルはもっとずっと元気になりました。
あのかむいのおじさんよりもずっと。
死んじゃいません。
だいじょうぶ。
じゃあがんばれおわりです。
それでいい?
ミノル、それでいい?
おわりにしようか――もう。
ああ――。答えるミノルはもう半分ねてます。
つかれたね、がんばったね。
えらいね。
おやすみなさい。
おやすみはどうするんだっけ? こもりうた。
でもわたしはうたえません。
うたを知らないから。
だから――
――口笛を吹きます。
よく知っている、口笛を吹きます。
今まで何回も何回も吹いたけど。
いちばん上手に吹きます。
ミノルがぐっすりおやすみなさいできるように。
ずっとにぎやかだったミノル。
ミノルのにぎやかの番はおわり。
今はもう、しずかの番。
ちゃんとしずかの番にしないと――。
――お父さんが死にました。
わたしには分かりました。
おかしくなったお父さん。
ひどいお父さん。
しつれいなお父さん。
さっきいってらっしゃいをしました。
わたしのお父さん。
ミノルのお父さん。
お父さんが死んだ。
ミノル、おやすみなさい。
ミノルはしずかの番。
ああ、そう――。
そう――おわりにしよう。
わたしのしずかの番は――。
――おしまい。