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ゆっくりと、悲しげに。2

 目を覚ますと、使われなくなって久しいといった感じの、吹き抜けの廃倉庫のような場所の隅に、僕は体育座りのような姿勢で座らされていた。

 手足を縛られ猿轡を噛まされているようで、身動きをとることも、声を出すこともできない。

 体には何も身につけてはおらず、文字通りの丸裸だ。

 高いドーム状の天井に二列に並んだ蛍光灯が、ぽつぽつと薄ら寒くなるような人工的な光を発していたが、広い倉庫をしっかりと照らすには数が足りていないようで、倉庫内は暗かった。

 どうやら気を失っていたらしい。どうしてこんなところにいるのか――記憶を辿ろうとした瞬間、最後に自分が目にした光景が頭に甦り、どきりと心臓が跳ねた。

 あの――首だけの少女は。

 首だけ、というのは正しくない。もっと正確に言うならば、頭と、その下に延々と続く「首ばかり」の少女だ。

 その光景に突き動かされるように、土ぼこりの積もったビニール質の床の上で身を捩りながら周囲を見渡す。

 機械油に似た臭いに満ちた建物の中には、何に使うのかも分からない工具が散乱していた。がらんどうの建物内にはどこからか微かな風が流れていて、その向きが何かの拍子に変わると、魚の腐ったようなとも下水のつまったようなとも言えない悪臭が漂ってくる。

 焦って思い切り息を吸い込み、吐き気を催してえづくものの、口で息をすることも適わずに涙が滲む。僕はぼやけた視界のまま、薄闇に目を凝らした。

 とりあえず、あの“顔”は無い。

 数m離れた部屋の中央寄りに、病院で患者を寝かせたまま運ぶ時に使うストレッチャーのようなものと、3mはあろうかという頑丈そうな鉄の長机が、照明を受けて薄闇の中に浮かび上がっていた。

 一体あれは、何だったのか。

 あの、タンクの中にいた“もの”は。

 人では無かった。明らかに違う。

 しかし顔は人間のものだった。それも愛らしい少女の顔かたちをした――。

 目を覚ましたばかりのぼんやりとした意識がはっきりとしてくるにつれて、僕の耳に水音が届く。

 音の出所を探して首を巡らすと、長机から少し離れた左の壁際に、学校の廊下に見られるようないくつもの蛇口が並んだ流し台があり、その内一つが、勢い良く水を吐き出していた。

 その前に立ち、こちらに背を向けて何かを洗っている人影は――あの職員らしき男だ。

 ということはこのほとんど空っぽといっても良い倉庫は、制御設備かなにかがあるのだろうとふんでいたカマボコ型の建物の中なのだろうか?

 そんなことを考えている中に男は蛇口を閉めてこちらにゆっくりと向き直った。

 男との距離は十数メートル程だが、暗がりで表情はうかがえない。

 だらりとたらされた右腕に握られたものを見て息をのむ。

 分厚い刃、精肉店で見られるような巨大な肉切り包丁の表面が、僅かな光を反射してぬらついていた。

 僕はしゃっくりのように短い悲鳴を上げた。あんなものの用途は、幾つも無いはずだ。

 男はひざ下まである分厚く黒いゴム皮のエプロンを身に着け、同様にゴム製の長靴を履いている。包丁の両面をゆっくりとエプロンに撫でつけて、嫌な擦過音をたてながら水気を拭う様は、いっそ芝居がかって見えた。

 ほとんど闇に沈んでいる男の口元あたりが微かに動いたのを見てぞっとする。

 男は――嗤っていた。

 僕は声も無く、男が近づいて来るのを瞬きをするのも忘れて見つめていた。

 頭のどこかで『気を失ったままのフリをしようか』などとも考えたが、男が手に持った“それ”が僕の想像した通りの使われ方をするのではないかと考えたら、恐ろしくてとても実行する気にはなれなかった。

 途中、長机の側にあった木製の椅子を空いた手で引っ掛けるようにつかみ、後ろ手に引き摺りながら僕の目の前まで近づいてきた男は、放り投げるように椅子を置くと、そのまま腰を下ろした。

 「今から君の口のそれを外そう」

 男の包丁が僕に向けられ、ゆらゆらと揺れたのは、僕の口はまった轡を指したものか。

 唐突に口を開いた男の顔を、僕は改めて見つめた。

 男は、僕のことを見ていなかった。

 椅子の背に深く体を持たれさせ、疲れ切った顔で落ち窪んだ眼を中空に彷徨わせている。

 実際疲れていたのだろう。あの給水塔を“大きな荷物”を持って上り、それよりも大分小さいとはいえ、今度は僕を背負って降りてきたのだろうから。

 男を見た印象は『枯れ木でできたデッサン人形』だ。

 痩せぎすで、身に着けた衣服も所々がたわみ、サイズに相当余裕がありそうだった。とても先の重労働を安々とこなせるタイプではないように見える。

 「その前に――いくつかおじさんと約束して欲しい――君、えーっと……『カヤノ ミノル』君。私の言っていることが聞こえているかな?」

 男は溜息と一緒に吐き出されたようなしわがれた声で、ポケットから取り出した手帳の表紙部分を読み上げた。

 僕の生徒手帳だ。

 通っている学校も、住んでいる場所もばれた。

 裸を他人に晒している気恥ずかしさも忘れて僕は頷いた。果たして男にそれが見えたのかは分からない。だって男は僕を見ていない。

 ただ――。

 「まず――騒がないこと」

 男から立ち上る、よく見知った臭い。

 「次に――暴れないこと」

 “暴力”の臭いだ。

 「そして――嘘をつかないこと」

 内側に渦巻く衝動が臭い立つに任せて。

 「約束――できるね?」

 男は――嗤っていた。

 全てを諦めた振りをして、うまく行かなかった全てを他の何かのせいにしたくて堪らない。そんな顔をしていた。

 僕は男のその顔が何よりも恐ろしくて、目を逸らすように俯いて頷いた。

 だから男の右手が大きく振り上げられ、風を切る音とともに鋭く振り下ろされた瞬間を、目にしていない。

 左の頬に感じた突然の灼熱感、次いでそれが周りの皮膚に、神経に、波紋のように広がっていく。

 ――耐え難い激痛を伴って。

 恐らく生まれてからこれまでで一番大きな悲鳴が出た。

 痛みの原因が分からない恐怖。暗がりと、痛みで反射的に流れ出す涙で何も見えない。それがどの程度でどんなものなのか、手で触れて確かめてみることもできない。

 滲む視界の端に覗く首から左胸を伝ってだらだらと流れていく気泡を含んで泡立った血液と、床に落ちたひも状の布を見て、衝撃を受けたときに聞いたがりがりという音が、頬と下顎の骨に刃が擦れたそれなのだと気づく。

 「しーっ!しーっ!しーだ、しーしーっ!」

 男が自分の唇に左手の人差し指を当て、自分は普通のことをしたのに何故だか突然騒がれて、いかにも迷惑だと言わんばかりに眉根を寄せ、顔をぐいっと近づけてきた。

 「約束は!?約束はなんだっけほら思い出して!私は守ったよ!?」

 引くどころか増してくる痛みで床に体をのたくらせている僕に、男は詰め寄る。

 約束?なんだっけ?

 「あれえ!?なんだっけ!?ほら!」

 猿轡を外す?

 「どうするんだっけっ?思ーい出して!思い出っして!まずどうするんだっけっ?はい!」

 あ――。

 男の目がすうっと細まった。

 「まず?――」

 ――騒がない。

 僕は急いで絶叫を飲み込んだ。大量の血が口の中にあふれ出して息が吸えない。だから飲み込む、ごくりごくりと。苦い、鉄錆の味。苦しい、息が吸えない。鼻に詰まった血の塊を鼻息で飛ばす。イメージしていたよりどろりとした塊が両鼻から流れ出した。苦しい。歯を食いしばって口の両端から荒く息を吐く、吸う、吐く、吸う、吐く――。

 ――騒がない。

 うまく――できたかな。

 ヤカンが噴き出す蒸気のような呼吸を繰り返しつつ黙り込んだ僕を見て、男は一瞬意外そうな表情を浮かべて、()()()()()()()をゆっくりと降ろす。

 握られた肉切り包丁の先から点々と滴り落ちる血を見ながら、僕は冷や汗がだらだらと背中を伝っていくのを感じた。

 危なかった――あと一瞬でも僕が黙るのが遅れていたら――。

 「そう、そうだ……それでー良い!」

 奇妙なイントネーションで男は口を歪めた。笑顔のつもりらしいが、血走った眼は見開かれたままだ。

 ストンと勢いを付けて椅子に座りなおした男は前かがみに僕の顔を覗き込んで言った。

 「君――結構良い子か?」

 ――狂ってる。

 こんな状況でなければ僕は笑っていたかも知れない。

 恐怖と暴力で言うことを聞かせて、なにが良い子か。

 それでも唯々諾々と従わねばならない自分の無力さが惨めで惨めで、僕は別の涙が滲むのを必死に堪えた。

 恐ろしい。僕はこの男のことが怖くてたまらない。体が震えているのは痛みのせいだけではない。

 見た目は全然違う、でも同じだ。

 この男は――同じだ。

 「それじゃあ話の続きをしよう。私は君に謝らなきゃあならない。そう、他でもない私の娘のことさ。あんな『ろくろっ首』の出来損ないみたいな姿を見たら、それは驚いたろう。すまないね」

 何を話し出すのか。

 「でも許してやって欲しい。あの姿は娘の姿の中でも、ましな方なんだ。あれでも初対面の君に気を遣ったのだろうね。未だ幼いが、その辺りの女心っていうのかな、そこは分かってあげて欲しいなあ。君にはまだ早い話かも知れないけどね」

 何が可笑しいのか、握り拳を口元に当ててくつくつと笑い声を上げる。

 「あともう一つ。君の持ち物は全て処分させてもらったよ。この――生徒手帳も、後で同じようにさせてもらう。何故って?決まっているじゃあないか。君にはもう必要ないものだからさ」

 何を言っている?

 そんなの決まっている。

 これは『宣言』だ。

 全身からへなへなと力が抜ける。

 目の前の光景が音もなく遠ざかっていくような感覚。どこか他人事のような諦観。

 ――僕はもうだめらしい。

 ふいに男の両目が僕の顔をじっと覗き込んでいるのに気付く。

 顔の半分はあろうかという、ぎょろぎょろと極限まで見開かれた、濁り血走った眼。

 そんなに強調しなくったって良い。僕はそれをよく知ってる、それはもう嫌という程に。

 「ふうん――そうか」

 そうかそうかと男は繰り返し頷く。

 「まあいい、話が早い、私だって忙しいんだ」

 僕の反応が男が期待したものと違ったのか、少し苛立ったように言い捨てて話を続ける。

 「じゃあ早速聞かせてもらおうか、どうして君は、あそこにいたのかな」

 口を開こうとして、突然に走ったあまりの痛みに呻く――顎の骨が折れている。

 「いやいやいや、それは大げさだろ。結構うまくやれたと思うよ?ほとんど布しか切ってないって」

 額を地面に擦り付けて悶え震える僕の姿を胡散臭そうに眺めながら、どれ見せてみろ、と男は無造作に僕の髪を鷲掴みにして、自分の顔の前まで近づけた。

 「うわ、なんだこれ」

 はあ、と一つ深いため息をついて手を放す。僕は顔から地面に打ち付けられ、頭が白く焼けそうになるほどの痛みに再び呻いた。鼻から下の感覚が無かった。

 「ちゃんとうまく避けろよなぁ・・・・・・どんくさい。顎取れかけちゃってんじゃん」

 ぶつくさと文句を言う男の恐ろしい言葉にも、僕にはもうあまり動揺しなかった。もしかしたら急に血が無くなりすぎたのかもしれない。それとも痛みで気を失いかけているのかも。

 「はいはいわかりました。じゃあいいよ、首を縦に振るか横に振るかで答えて。それくらいできるでしょ」

 僕は額を地面に付けたまま頷いた。

 「なんだ!その態度は!」

 一瞬完全に意識を失った後、後頭部へ遅れてやってきた衝撃に覚醒する。体中が熱くてどこが痛いのか分からなかったが、かろうじて自分が壁に背をもたれさせているのを感じた。多分座っている。後頭部が特に痛い。

 「正座!」

 できるだけ早く体を動かしたつもりだったが、上下の感覚が戻ってこない。

 「正座はこうだろうが!不細工!」

 めきめきと音をたてて体のどこかの関節がおかしな方向に曲がる、血で塞がった眼の隙間からなんとか周りを見ようとしたが、色々な光がちかちかとしていて、ただどこかが痛いということしか分からない。

 「本当、嫌になるなぁ、むかつく」

 荒い息遣いが聞こえる。ようやく開いた右目に男が奇声を上げながら、自分が座っていた椅子を蹴り上げるのが見えた。

 「それだよ、それ!いじめか!?」

 包丁の先を僕に向けて、右に左にウロウロと定まらない歩幅で往復しだす。

 頭を掻きむしり言い放った男の言葉に僕は硬直した。

 「いや違うな」

 その直後、男は手に持った包丁の平たい先っぽで僕の脇腹あたりを小突く。

 「こことか」

 二の腕。

 「こことか」

 首筋、肩、背中。

 「それにここ、ここ、ここにも」

 男は次々に僕の体を突いていく。

 切りつけられている訳でもないのに――。

 「酷い痣だよね」

 ――なんて、ひどい痛み。

 「ざっと目につくものの他にも、治りかけのものがいくつもあるよね。これは“日常的に繰り返されている”ことの証明だ」

 喜色満面とはこのことを言うのだろう。

 「どっちだ?どっちがやった?お母さん?」

 首を横に。

 「おとーうさん!?」

 縦に。

 「お父さん!お父さんが!?」

 お酒を飲むと、いや飲まなくても、機嫌が悪いときは。

 ぎらりと蛍光灯の光を反射したのは投げ捨てられた包丁だったか、異常な興奮を湛えた男の双眼だったか。

 「こういう感じかな!?」

 男が突然僕の腰辺りに馬乗りになったかと思うと、今度は右目の周りにもの凄い衝撃が走り、遅れて鈍く沈み込んでくるような痛みが追いかけてきた。それで完全に僕の視界は閉ざされてしまった。

 「それともこうかな!いいや違うな、顔じゃないな。そうだここだったね!」

 右のあばらがみしりと音を立て、少しの抵抗の後、あっけなく折れる。

 「ねぇこう!きっとこうだよね!教えてよ!君のお父さんと比べてどう!?」

 大きな石を投げつけられるような衝撃が全身に降り注ぐ。

 すでにほとんど失神していた僕は、声も上げられず殴られ続けた。

 視界はとうに無い。明滅する光は頭の中で散っている。

 殊更大きな痛みが4回。

 大きいとか小さいとか、上も下も無くなって。

 ――痛覚だけの世界に僕は居る。

 そうだ、これが僕が最も良く知り、最も長い時間を過ごした世界。

 体なのか、心なのかも無い。

 ――単純な痛みだけの世界。

 早く抜け出さないと、終わらせないと。

 例えそれが束の間のものだったとしても。

 僕はこの世界が好きじゃないから。

 「ごめんなさい」

 意味のわからない言葉が出た。

 声が出てる自信は無かった。

 「ごめんなさい」

 僕は繰り返した。意味は分からなかったけど、こう言わないと、この世界は終わらない。

 何度この言葉を繰り返しただろう。

 これは呪文だ。意味を知る必要はない。

 ただ願いを込めて唱える呪文なのだ。

 ――世界を終わらせるための。

 「今日から私がお前のお父さんだ」

 声が聞こえた。

 「前のお父さんはもういらないよね」

 再び気を失おうとしていた瞬間、微かに戻った視界に映ったものは、本当に僕が見たものだったのだろうか?

 きっと夢だったに違いない。

 それくらいありえない光景だった。

 だから――夢だ。

 首を下に向けて見た僕の体には、両手足が無かった。


                        〇


 誰かが何か喋っている。

 声は途切れ途切れに、どこかずっと遠くから聞こえてくるようだった。

 まるで電波の悪いラジオのように。

 元は意味のある言葉だったのだろうそれは、僕にはただの雑音としか聞こえず――そこで自分が、何か大きな布のようなもので、すっぽりと覆われていることに気づく。

 唐突に、給水塔から見下ろしたあの『跳ねたズタ袋』を思い出した。

 ――そうか、僕は()()になっているのか。

 雑音はまだ続いている。

 言葉でありそうなその音を聞き取ろうとする気力は、残っていなかった。

 何もかもがはっきりとしない。

 目を開けているのか、閉じているのか。とりあえず周りは真っ暗でなにも見えない、が、そもそももう何かを見ることができるのかどうかも怪しい。

 微かに肌に伝わるザラザラとした重い布の感触が、体が揺れるたびに本来の肌触りとは大きくかけ離れたであろう、ふわりと羽のような微かさで皮膚の上をなぞっていく。

 あれだけ激しく全身を苛んだ酷痛も、最早疼く程度だ。

 その理由に胸の奥が震える。

 ――僕は死にかけている。

 あれだけの傷、最早傷などと言えるものですらない。致命傷だ。

 僕はもう、助からない。

 確信を抱いた。

 刻一刻と迫るその瞬間。恐怖を感じぬほどに達観できない。痛みの全てを忘れることもできない。だからと言って滂沱し、狂乱に身を任せて暴れる力も、そもそも振るうべき手足も、もうない。

 あの感覚だ。

 振り下ろされる拳、何度も何度も。

 そう僕はいつも感じていた。

 不自由だ――僕は不自由に死んでいく。

 永遠の夜を迎える床に、寝返りもうてず就きながら、窓から顔を上半分だけ覗かせてこちらを窺う蒼白い『死』の双眸を見つめる。そいつは不意にその窓枠を超え、ずるずると気味の悪い這いずり方で、僕の方ににじり寄ってくるのだ。

 僕は動くことができない。それから身を捩って遠ざかることもできない。

 それに触れられたなら、終わりだ。

 死とは――なんと不自由なのだろう。

 いつの間にか声は止んでいた。

 ああ、やっと静かになった。

 そう感じた次の瞬間、闇が溶けるように、いきなり視界が広がった。

 茫とした視界に飛び込んできたのは降り注ぐ滲んだ清輝。焦点のおかしくなった、わざとらしいくらいの星々の光だった。

 首は動かない。眼球を左右に動かし――顔の左半分はもう完全に感覚が無い、包丁で切り付けられたのは頬から顎にかけてだと思っていたが、下瞼のあたりからだったのか、左目の視界は完全に閉じている。なんとか見える右目の方で辺りを見渡した。

 やはりあのズタ袋に入れられていたのだと気づくのが早いか、べりべりと引き剝がすように乱暴に袋から引き摺り出されると、僕は変わり果てた自分の体を再び目にした。

 気味が悪い――芋虫みたいだ。

 そんな程度の感想しか出てこない。

 真っ赤な血にまみれた芋虫。手足を捥ぎ取られたバッタ。両羽を千切られた蝶々。

 人には見えない。そうだあれだ――こけし。

 男が上から何かを言っている。ラジオの雑音はこれか。血で耳が詰まったのか、鼓膜自体が駄目になってしまったのか。

 特に意味もなくゆらゆらと視線を彷徨わせていた時、虚ろな光景がいきなり焦点を結んだ。

 もしかしたらそれは、神様がこれまで僕に起きた出来事のどこかに、ちょっとしたバツの悪さを感じて、気まぐれに遣わした御業だったのかもしれない。

 僕は給水塔の上にいた。

 給水塔の天辺、あのタンクの上に。

 その向こうには、初めて見る景色が広がっていた。

 何度も魅入られたように見つめ続けたはずのあの景色は、まるでその様相を変えていた。

 夜が、街を包んでいた。

 家々の灯りは、池の底に敷き詰められた玉砂利のようにのようにきらきらと輝き、そこから向こうに見えるはずの村は、一つの光もなく完全に闇に沈んでいたが、唯一、御門港という村の岬の先にある港の灯台だけが、冥府を睥睨する鬼の目のように、時折ちかり、ちかり、と瞬いている。

 ついに僕は――向こう側に来たのだ。

 夕陽の下に見たあの景色は、この場所に、繋がっていた。

 ――涙が出た。

 瘧のように体は震えていたが、不思議と心は穏やかだった。

 やっと――。

 「実、こっちにおいで」

 僅かな浮遊感の後、いつの間に開いていたのか、タンクの開口部の縁に降ろされる。

 胸から上を穴の上に乗り出すような格好で降ろされたせいで、ともすれば今にもタンクの中に落ちてしまいかねない。

 男が持っていたライトの灯りでは、タンクの中に詰まった闇を照らしきるまでには至らず、まるでどこまでも続く深淵を覗き込んでいるかのようだ。

 「奈美、寝てるのか、奈美。いい知らせだぞ」

 その言葉に反応するように、タンクの中で何かが()()()と蠢いた気がした。

 「お兄ちゃんができたんだ。今、ここに連れてきた。お兄ちゃん、お前、欲しがっていただろう」

 最初は気のせいだと思っていた、ただ暗さに目が慣れてきたせいだと。

 タンクの内部、恐らく中心の辺りに行燈の灯りのようなボンヤリとした光が灯ったと見えた瞬間、そこから血管を流れる血液のように、赤い光が四方八方へと爆発的に広がった。脳のシナプスを巡る電流を視覚化したなら、こんな風に見えるのかも知れない。

 タンクの中は、それ自体が放つ光で満たされた。

 同じように赤い、血のように赤い液体が満たされている。

 その液体は粘度が異常に高いと見えて、ほとんどゼラチン状に固まっているようで、表面でてらてらと光が反射していた。

 その中から、一つの顔が浮かび上がった。

 ともすれば液化しかけた腐肉のようにすら見える血盆に浮かぶ、あどけなくも可愛らしい少女の面差は、まるで血池地獄に玲瓏と浮かぶ月ように、鮮やかに輝いていた。

 「さあ奈美、この子が実、今日から奈美のお兄さんになるんだぞ」

 「お兄……ちゃん?」

 か細く、子猫のような声が、タンクの中に響いた。

 吐きそうだ。

 やはり居たのだ――この中に、ずっと。

 本当にいたのだ。

 この吐しゃ物のような、得体の知れない粘液の中で――ずっと。

 「さあ、ご挨拶しなさい。奈美」

 「こんばんは、お兄ちゃん」

 あたりの時間帯を含む現実的な挨拶。

 冷静に周りの状況も把握できる精神状態で――ずっと。

 少女の『顔』は瞳を輝かせながら、満面の笑みを浮かべ、それはそれは嬉しそうに笑った。

 なんて――悲しい。

 「さすがは兄妹だね、姿形もそっくり――なんてお父さんちょっとずるして実君を剪定しちゃったけど」

 男が笑いながら返す。

 「お兄ちゃんだけ手足があるなんて、不公平、だ、から」

 空気がもれるような含み笑いは、途中から哄笑に変わった。

 「あー可笑しい。じゃあお父さんはちょっと実君、いや実の昔のお父さんのところに行ってくるから。実、奈美をよろしくな。あれ?死んでる?」

 男はかがみこんで僕を『裏返し』た。微かに上下する僕の胸を見て取って、満足そうに頷くと再び立ち上がる。

 「奈美、お兄ちゃんと仲良くな――喰うなよ」

 その声色に交じった感情は――。

 「うん、お父さん」

 男の喉がしゃくり上げるように、ひくり、と動くのが見えた。

 「いってらっしゃい」

 「ああ――いってくるよ」

 男は無造作に、穴の縁にいた僕を――僕の一部だったものと一緒に――ばらばらとタンクの中へと放り込んだ。

 「お腹がすいたらお兄ちゃんに聞きなさい。『お兄ちゃんの手と足を食べてもいい?』って」

 内臓が宙に浮くような浮遊感とともに背中から落ちていく僕の目に、星明りに縁どられた開口部が小さくなっていくのが見えた。

 そこから覗き込んだ男の表情は逆光で見えなかったが――泣いていたのだと思う。


                        〇

 

 水ではなかった。

 それはゲル状とも、ペースト状とも違う。

 強いて言えば、やはり――肉だった。もしくは液化した内臓だろうか。

 僕がタンクのなかに落とされた時に感じたのは、着水のそれではなく、溶けかけた脂肪の塊にめり込むようなものだった。

 底なし沼に沈んでいくのは、こんな感じがするのかもしれない。

 赤い半透明の柔肉の内に、ずぶずぶと取り込まれていく。

 ハッチの閉じられたタンクの中は、全体がこの『肉』と同色のぼんやりとした光で満たされていた。

 沈む感触が無ければ、『肉』との境目も分からなかったかも知れない。

 怖くなかったと言えば嘘になる。

 少女の首を持つ、半透明の不気味な『肉』の身の内に、じわじわと取り込まれていくのは、生きたままミンチ製造機の中に巻き込まれていくのを連想させた。

 体の中でぐつぐつと煮立つ恐怖心で、気が触れてしまいそうになる。

 僕がそうならずに済んだのは、ついに達観にいたったからでも、全ての感覚を手放してしまったからでもない。

 ただ――疲れていたのだ。

 ついに全身が『肉』の内に落ちて、僕は体のどこかにほんの少し残っていた緊張を解いた。

 ふと僕の顔のすぐ近くにある白い球体に気付く。

 バレーボール大のそれは、ゆったりと流動している『肉』の中でくるりと回転する。

 球体には直径4,5センチ程の穴が左右対称に空いている。

 しゃれこうべだった。

 僕が意識した瞬間、頭蓋骨は、ふいに小突かれたように動き、光の弱い方へと流れて行った。

 おそらくそちらが下なのだろう。

 不思議だった。

 全身がこの滑光る肉に埋もれているというのに、全く息苦しくない。鼻から耳から口から、まるで液体のように入り込み、胃や腸や肺を満たしている事は感触で分かった。

 なのに舌先にぴりぴりとした感触が少しする程度で、臭いも味もしないし、呼吸することに何の障害もない。

 苦しいどころか、体の内側から剥きだしの神経をやさしく撫でられているような、えも言われぬ快感が、じんわりと全身を包んでいた。

 口の中の血の味も、全身の痛みも感じない。

 僕の体を縁どる境界線はすでになく、全てが溶けだしてしまったかのような――。

 目の前に少女が立っていた。

 横たわっていた?逆さまになっていた?

 ――少女がいた。あの少女だ。体は――あった。

 未発達の、人形めいた、一糸纏わぬその姿は、この場ではむしろふさわしく見えた。

 どこかの密集した神経がまさぐられる感覚がして、ちりちりと視界に火花が散った。

 赤い世界の中で、少女の裸身だけがただ白く輝いている。

 花の蕾のような可憐な唇が動いて、流れ出たのは僕の声だった。

 「やめてよ!お父さん、痛い、痛いよ!」

 少女は苦痛に顔を歪めて叫ぶ。

 「なにもしてない!告げ口なんてしてないよ!」

 白い光が弾けた。

 目の前にあるように映像が浮かぶ。

 築何年になるのか、開こうとするといちいちつっかかる、黒ずんだ木枠の窓を開くため、台所のシンクに身を乗り上げる。

 窓を開けば、大きく、赤い夕陽が目に飛び込んできた。

 窓の下にあるアパートの大家の家庭菜園には、なんとも知れぬ野菜の葉が夕陽を照り返し、なだらかに波打つ畑の土の陰影が描く縞模様を彩っていた。

 不意に聞こえてきたメロディーに首を巡らせれば、そこに夕食の仕度をする母の横顔があった。

 母は時折、その不思議な旋律を口ずさんだ。

 おっとりと、優し気なこの面差しが、苦痛に歪むことももうすぐ無くなる。

 僕たちは、自由になる。

 もうすぐだ――。

 安らかな日々は、もうすぐそこにある。

 世界の中心で生きることができる期待に、胸が沸き立つ。

 ――母と共に。

 視線に気づいた母が僕に向き直った。

 僕は母に聞いた。その曲は何という曲なのかと。

 母は知らない、と答えたと思う。

 ――口笛が聞こえる。

 終わりにしようか――もう。

 誰かが言った。

 そうだ。

 そうだあの母の口笛を聞いた次の日、僕がもっとずっと小さかったあの日。

 僕と母は、家を出ていくことにしたのだ。

 もう叩かれるのは嫌だから。

 痛いのはつらいから。

 父が出かけるのを待って、大きくないバッグが余るくらいに少しだけの荷物を持って。

 僕らはアパートの2階の部屋を出た。

 小走りに1階への錆びた鉄の階段に足を踏み出した時、背中にすごい衝撃を感じた。

 何が起きた?

 浮遊感。

 慌てふためいて母を見ると、目を見開いて背後を――階上を見つめながら、叫び声を上げている。

 目線を追って首を巡らせた僕は見た。

 憤怒に燃える目をぎらつかせた、父の顔を。

 前方に突き出された両腕を。

 浮遊感――落ちていく。

 母がかばうように僕を抱きしめるのが分かった。

 ふわりと若草のような母の香りを感じた。

 僕らはほとんど垂直に落下するように階段を転がり落ち、そして。

 ごきり、と嫌な音がした。

 恐怖に固く閉じていた目を恐る恐る開くと、2つに折りたたむように首を自らの胸の上にのせた母が、古びた階段の一段目に右足をかけ、ぐったりと横たわっていた。

 斜めに捻じれてほとんど上下逆になった母の顔の口と鼻から、思い出したように血の泡が、際限なく流れ出していく。

 目を離すことなど、できなかった。

 痛みや、恐れのない日常を望んだ。

 聞いた話では――多くの人々には、望まなくとも与えられる世界であるという。

 その世界は、その日、僕にその門扉を閉ざした。

 ――母の死とともに。

 ほとんど即死であったことは、救いだった?

 ――父は捕まらなかった。

 警察は『家族旅行に出ようとした矢先の不幸な事故』としてこの一件を処理した。

 怖かったのだ。

 ――何も言えなかった。

 母の死にまつわる事実を告発する勇気など、父への恐怖心の前に何の力にもならなかった。

 言えば殺す。

 単純な脅しの言葉は、いつも母の死に様を思い出させた。その度に身が震え凍え、動けなくなった。

 「痛いよ、お父さん」

 少女が言う。

 「ごめんなさい」

 何度も。

 「ごめんなさい」

 僕の声で。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい――。

 臆病で――。

 卑怯で――。

 薄情で――。

 ――お母さん。

 お母さん――ごめんなさい。

 生きていたかった。

 そう思ったのが、全ての間違いだったのだろう。

 目の前で母を殺されても。父にどんなに暴力を振るわれても。

 無力感に苛まれても。不自由さに身もだえても。

 痛みだけが、全てだったとしても。

 死にたくなかった――生きていたかった。

 間違っていたのだ。今は――そう思う。

 「ねぇ」

 少女が小首を傾げて不思議そうに僕を見つめている。

 ふと誰かに聞きたくなった。

 少女の目を見つめ、口を開こうとした時。

 少女はゆっくりと目を伏せて、首を横に振った。

 「間違ってないよ」

 少女の声で。

 突然の言葉に面食らう。だって僕は何も――。

 「間違ってなんかない」

 はっきりと繰り返された少女の言葉を聞いて気付いた。少女の唇もまた、動いていない。

 そうして僕は、ここがどこであるのかを悟った。

 少女の目が優し気に細められ、口の端が僅かに、静かに震えるように持ち上げられるのを見て。

 限界だった。

 僕は――泣いた。

 爆発的な感情の波が、涙と声となって、僕の中から噴き出していく。

 頬を伝う涙も感じずに、慟哭は鼓膜を震わせることもなかったけれど。

 僕は泣き続けた。

 辛かった、苦しかった、悔しかった。

 きっと初めて、それは許されたのだ。 

 「ねぇ」

 僕の全身を包み込む少女は聞いた。

 ねぇ

 聞くときの癖なのだろう。


 うん?


 つかれた?


 うん。

 

 そう。

 

 ありがとう。

 

 なんで?

 

 君にはわからない?

 

 へんなの。

 

 うまく言えない。

 

 そう、いいよ。

 

 ありがとう。

 

 そう。

 

 疲れたな。

 

 ねぇ

 

 うん?

 

 ――どうしたい?

 

 どうしたいって。

 

 どうしたい?

 

 ――生きていたい。

 

 そう。

 

 でもだめかな。

 

 どうして?

 

 だって。

 

 そう。

 

 うん。

 

 ねぇ

 

 うん?

 

 おわりにしようか――もう。

 

 ああ――。


 口笛が聞こえる。

 誰の?僕の?それとも――。

 ああ、そうだね、終わりにしよう。

 だってここは――世界の果てなのだから。 


                        〇


 わんわんと音が反響していた。

 鉄製の銅鑼を打ち鳴らすような不快な音に、頭がぐらぐらと揺れる。

 僕は、薄く目を開いた。

 暗い、何も見えない。

 どうやら僕はどこかに寝ていて、背中に小さな石が敷き詰められているかのような感触がある。

 息苦しい。暑い。

 喉がからからに乾いている。

 僕は上体を起こした。

 頭上からぎいぎいと鉄の軋む音がして、ぽっかりと白い円が生まれた。

 ()()()()()()あまりに強烈は刺激に、それが差し込んだ日光であると気づくよりも早く、眼前に()()()()()()遮った。

 僕はのろのろと立ち上がると、降り注ぐ光が作る輪の下へと歩を進めた。

 苛烈さを増したそれから守るように両手で顔を覆い、目を細めて見上げる。

 ひっと息をのむような短い悲鳴に続いて、声が響いた。

 「なんて……ことだ。こ、こっちに来てくれ!シノさん、上です!タンクの中に……子供だ。子供がいるぞ!早く!救急上げろ!」

 興奮に高ぶった大声にたまらず両耳を抑えて屈みこむ。

 「きみ!きみ!大丈夫か!?ひどい匂いだ……今すぐ助けるからな!ライトを直接見るなよ!」

 若い男の声だ、聞いたことのない男の声。

 体を乗り出すように覗き込んだ男の手にあるライトの光が更に広範囲に辺りを照らし出す。

 「なんだ、この砂利?消毒用の軽石かなんか――」

 独り言を呟きながら周囲を確認していた男が不意に息をのんだ。

 「なんだぁ……こりゃあ」

 つられて僕もライトの先を見やる。

 溶けるように崩れかけたしゃれこうべ。

 ここに落ちていたのか。

 「ほ、ほね、なのか?これ全部?おいおい、おいおい冗談じゃないぞ。おい!だれか早く!」

 大騒ぎで怒鳴り散らす男の声に顔をしかめながら、ぼんやりと霞みがかった意識で、更に漠然とした記憶を手繰りながら、僕はこんなことを考えていた。

 ――どうして、終わらなかったのだろう、と。

 

 

 

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