ゆっくりと、悲しげに。1
父が仕事に出たのを見計らってからすぐに、僕はどこだかの野球チームの貰い物の帽子を目深にかぶると、かばんを手に家を出た。
学校を休んでいるとはいえ、その衝動を抑え切れなかったからだ。
転校してきてからこっち、あてどもなく町を歩き回ったときに覚えた、人通りの少ない道を通る。目指すのはもちろんあの給水塔。
僕は周りに目を配り、誰にも見咎められることのないよう注意しながら道を進んだ。
僕くらいの年の人間なら、今は当然学校にいるべき時間だからだ。
見つかって声でもかけられようものなら、厄介なことになりかねない。
いくらこちらが放っておいて欲しいと願っても、首をつっこみたがる輩はいるものだから――例えば、あの警官のように。
人目を避けるのは、思ったよりもわりと簡単だった。
夏の昼、もっとも日が高くなるこの時間。
仕事を持つ人の大半は市街中心部に集中していたし、学生は学校に、家にいる主婦や老人も、ほとんど攻撃と言っていい日差しの住宅地を、好き好んで出歩く者はあまりいないようだった。
それに、僕の道行きの助力となった一つの要因として――いくつかの町を同じように歩き回ったことのある僕が思うに――水無瀬市の住宅地に見られる一つの変わった特徴があった。
人通りの多い大通りから枝分かれする小道が、異様に多いのだ。高い壁に両脇を挟まれたそれらは直線ではなく曲がりくねっており、その上お互いが所々で交わっていて、まるで迷路のようになっていた。一本の道幅は、大人二人がすれ違うのに肩がぶつかりそうな程に狭い。なので一見行き止まりに見える所も、近づいてみると曲がり角になっていて道が続いていたりすることが往々にしてあり、それが一層小道の迷路化に拍車をかけているようだった。
放課後の有り余る時間にまかせてそういった小道も歩き回っていた僕は、どの道を通ればほとんど人に会わずに町外れまで行くことが出来るのかを知っていた。
まったく役に立たないと思っていたその知識が、こんな風に役立つことがあるとは思ってもいなかったが。
僕の知っている放課後の時間とは外れていたが、人通りのない道というのは時間帯にはあまり左右されないようだ。
真上から照りつける夏の太陽の光に晒されているというのに、小道は薄暗かった。
逆に光が強い分、両側に大地の裂け目のように続くざらついたコンクリートや、色あせてささくれ立った竹垣、時折姿を現す古臭い土壁等が作り出す陰影は濃い。
その影が溶け出したような小道は、昼尚暗かった。なのに空気がこもるからなのか、大通りに比べて気温も湿度も高く、歩いているとまるで熱帯の洞窟の中を進んでいるような心持になってくる。
それでも僕は、ためらわずに小道を進んだ。
大通りの音は少しも聞こえてこない。小道には黒い霧のように道の先を覆い隠す薄暗がりと、奇妙な静寂があるだけだった。
歩き続けていると、全身の毛穴が開き汗まみれになる。そこから闇が身に染み込んでくるような気がして、僕はまとわり付く湿気を振り払いながら歩いた。
両脇に立つ家々から、わずかに耳元で囁くように、低い電気機器の唸り声が聞こえてくる。どの家のクーラーもフル稼働しているのだろう。地面は大通りのきれいに舗装されたものとは違い、剥き出しの土に平石が所々埋め込まれただけのもので、道の端には雑草が生い茂っていた。
僕は黙々と小道を歩いた。給水塔へと逸る心が、自然と歩調を速めていく。
ほとんど小走りのようになった、その時だった。
体に鈍い衝撃を受けた僕は、思わず尻餅をついた。その拍子にかぶっていた野球帽が落ちる。
何が起きたか分からずに視線を上げると、制服を着た高校生くらいの背の高い少年が立っている。
「うお、あ! と、ごめんごめん、余所見してた」
どうやら曲がり角で少年とぶつかってしまったらしい。少年は慌てて僕の前に屈み込むと、座り込んだままの僕の両脇に手を入れて軽々と立ち上がらせた。
「大丈夫? ケガとか平……気」
足元の僕の野球帽を拾い上げながら柔らかい笑顔で問いかける少年の顔が、僕の姿を見て急速に曇る。
「病院、行っとくか」
「平気です。大丈夫」
背負われそうになり慌てて離れた僕を、少年は心配そうに見つめた。
「平気って……どう見たってそれダメだろ。何かあったのか?」
「いいんです……本当に」
「えー……?」
納得がいかなさそうな表情の少年だったが、それ以上言葉を続けずにじっと僕を見ているだけだ。
――これが嫌だったんだ。
「なら……いいけどさ」
言葉とは裏腹に全く納得がいっていない様子だったが、その少年の言葉に僕は心の内で胸を撫で下ろした。
「ぶつかってすみませんでした。さようなら。帽子、ありがとうございます」
「あ……ちょい待ち! 君、この辺の子?」
少年の手からひったくるように帽子を受け取り、脇をすり抜けた僕の背に少年の声がかかる。
まだ何かあるのかといささかうんざりしたが、いつかの警察のように下手に興味をもたれても困る。僕は足を止め振り返った。
「まあ、そうです」
「ああ……良かった。この辺にさ、洋館……えっと、見た感じ外国の家みたいな大きーい家、ないかな? 相当大きな家だったんだけど、俺ちょっと道に迷っちゃったみたいで、見つからないんだよ。この脇の家が、そうだなぁ……10件分くらいある家なんだけど」
道の脇から屋根の覗く民家を指差して、少年は言った。
記憶になかった。おそらく僕は、この辺りの大抵の道を歩いていた。本当に少年が言う程に特徴のある大きな家ならば、当然記憶に残っているはずだが全く覚えがない。
「すみません、知りません。でも――」
――給水塔の上から見た景色では。
「大きな川沿いになら何件か、すごく大きな家があったと思います」
「ああ、川沿いの“お屋敷通り”のことなら俺も知ってるんだ。そっちじゃなくて、この辺りのはずなんだよなぁ……うん、ありがとう、もう少し自分で探してみることにすっか。あのさぁ……お礼に兄ちゃんが病院連れてってやろうか?」
まだ――言うのか。
「いえ、大丈夫です」
「そっかぁ……ところで君、学校は……」
「失礼します」
「まあ俺も言えたもんじゃないか」
言葉を遮ってお辞儀した僕に、少年はじゃあと苦笑混じりに手を振った。
それ以降は順調に誰にも会うこともなく、給水塔に辿り着くことができた。
僕はすっかり慣れた足取りで給水塔に登ると、タンクが作る日陰に腰を落ち着け、夕暮れを待った。日陰に身を寄せていても、鉄の床から立ち上る熱気で茹で上げられてしまいそうだ。
体をタンクにもたれさせて、持っていたカバンの中から水道水を詰め込んだ500mlのペットボトルを取り出すと、一口飲み込む。まだ先は長い、最初からがぶがぶと水を飲むことはできない。温い水道水が、その時はやけに甘く感じた。
いつもと違う時間に給水塔から見る景色には、色々と新しい発見があった。
燦々と照りつける日の光の下では、町を行き来する人の姿がよく見える。夕焼けのフィルターを通さずに見る町の姿は、なんだかとても白々しく見えた。重大な何かを知っているのにとぼけているような、伝えなければならないことがあるのに、知らん振りを決め込んでいるような。
しかし最も驚いた発見があったのは、それからもっと時間が経った夕暮れの直前のことだった。
この施設には、人がいたのだ。
敷地内に突然大きく響き渡ったエンジン音に驚いた僕は、咄嗟に身を低くして、聞こえてきた方向へと目を走らせた。
管理施設らしいかまぼこ型の建物の裏手から白いバンが現れ、出入り口へと向かって行く。
緊張しながら目で車を追っていくと、出入り口の鉄柵の前で止まり、運転席のドアを開けて中から男が現れた。
男はグレーの作業着のポケットから鍵を取り出すと、その鍵で鉄柵に付けられた南京錠を開け、重そうな鉄柵を難儀そうに横へとスライドさせてから車へと戻った。
車が外へ出ると、男は同じように鍵を掛けなおして、丘の下り坂を走り去って行く。
僕は息を潜めて、その様子をじっと伺った。
男は、地上から遥か上空の給水塔の天辺にいる僕には少しも気付いたような素振りは見せなかったが、それでも僕の心臓は、男の車が町の風景の中に完全に溶け込んでしまうまで、飛び跳ねるのを止めてはくれなかった。
出で立ちからしてここの職員なのであろう男――年までは分からなかったが、作業着同様にくたびれた感じのする男だった――に今まで見つからなかったのは、幸運そのものだ。もし遅くまで男の仕事が長引いていたとしたら、いつも吹いている口笛の音で気付かれていたかも知れないし、単純に鉢合わせていたかもしれない。そう考えると背筋に冷たいものが走った。
けれど僕は、この施設に職員がいたということを、それほど深刻には受け止めはしなかった。これからここに来る時にはもっと気をつけなければと思う反面、気をつけてさえいれば大丈夫ではないかとも思った。
なぜならもうほとんど機能していないようにも思える給水塔に、いつも僕が来るような時間に及ぶまで、仕事が沢山あるとも思えなかったからだ。
ほとんど毎日と言っていいほど給水塔に登っていた僕とニアミスすらしなかった事も、そのことの裏づけになる気がした。
そもそもあの職員の男が、毎日ここで仕事をしているとも限らないのだ。今日は装置や何かに異常がないかどうか、たまたま点検に来ていただけかも知れない。
念のため男が去った後他の職員が残っていないか、離れたところから管理施設の建物の中の様子を伺ってみたりもしたが、埃がべったりと張り付いた窓ガラスの向こうは何も見えず、人の気配など少しも感じられなかった。
多少は不安に思いながらも、結局僕は給水塔の上に戻り、いつものように心に迫る夕暮れの風景を眺めた。
しばらく“この世の果ての光景”に身を漬していると、その不安はすっかり無くなってしまっていた。体から流れ出る汗と同じように、僕の魂が体からするすると溶け出して周囲に広がっていくような、えも言われぬ陶然とした心持ち。
――なぜ僕は、ここから見える景色にこうまで心奪われるのか。
順序も説明も無視して言葉にしてしまうなら。
僕はそこに“終わり”を見出していたのだと思う。
ここがこの世の果てならば、そこには当然“終わり”があるはずだから――。
その日も山彦は、心地よく耳に届いた。
学校に通えるようになるまでの数日を、僕は同じように給水塔に登りながら過ごした。
昼過ぎに遅い出勤をする酒臭い父を見送り、小道を抜け、給水塔の上から景色を見て過ごす。それは単調で代わり映えのしない日々だったが、僕にとって今まで経験したことも無いほど、とても心安らぐものだった。
「お前、明日から学校に行け」
その父の一言は、そんな僕のささやかな休暇の終わりを意味していた。
また明日から“始まる”のだ。
胃が鉛を飲み込んだように重くなる。しかし僕にはどうすることもできなかった。
父の言に何も言わずに頷き、僕はその“休暇最後の日”も、当然のように給水塔に向かった。
僕の楽観的な予想は見事に外れ、職員の男はあれからも毎日、施設に通ってきていた。
しかし当った部分もある。やはりというか男は、僕には少しも気付く様子を見せなかった。毎日定刻らしい夕方の5時少し前には、車で施設を出て行く。
そんな日が続いて、僕も次第に男が施設にいるということ自体を、あまり意識しなくなっていった。
――それが悪かったのかも知れない。
昼過ぎに給水塔の頂上に着いてから一、二時間後、職員の男が車で出て行くのを見ても「ああ、今日は帰りが早いな」ぐらいにしか思わなかった。
日が陰り、最大の見せ場である夕暮れが訪れる頃。冬の時期ならば完全に日が落ち夜が訪れているだろう時間に、男の車が再び給水塔に戻って来た。
舗装のない坂道を、車体を左右に揺らしながら登ってくるバンのライトが道の上で跳ねるのを見て、なんだか無性に嫌な気分になる。
この時間に施設に人が来ることなど、今まで無かったことだ。
夕暮れの暗がりで、ほとんど見つかる心配は無いようにも思えたが、僕は貯水タンクの影に身を潜ませ、じっと車の動向を伺った。
見慣れた車から現れたのは、間違いなくあの男だ。
男は施設内へと車を乗り入れると、そのまま建物の裏手へと消えた。
車が見えなくなっても緊張は収まらず、視線は男の車が入っていった暗がりに釘付けになった。
こんな時間に何をしに戻ってきたのか。
闇の中から再び男が姿を現した時、僕ははっと息を呑んだ。
男はいつもの作業着を着て――いつもは持っていない大きなズタ袋を引きずっていた。
男がこの施設を出て行った時には、そんなものは持っていなかったように思う。ずっと車の中にあった物なのだろうか? もしかしたら施設内の整備に必要なもので、それを置き忘れたので戻ってきた、とかかも知れない。
相当に重いものが入っていると見えて、男は全体重を掛けた前傾姿勢で袋を引きずっていく。
広い間口の施設正面入口に辿り着くと、男は袋を足元に放り出し、ポケットから取り出した鍵束の中の一つを使い扉を開ける。
その時僕は、確かに見た。
入口に灯った照明の作り出す輪から、暗闇に半分ほどはみ出て地面に転がったズタ袋が。
――もぞり、と波打ったのを。
入口をくぐりかけた男もそれに気付いたようで、扉を開け放したままぴたりと動きを止め、目線を袋に落とした。
まただ。袋が。また。
足元で巨大な芋虫のように時折のたくる袋を、じっと声もなく見下ろしていた男は、しばらくすると袋をそのままに、建物の中に入っていった。
何を、しているのか。
時を待たずして戻ってきた男の手に、土木工事の現場でしか見られないような両手持ちのハンマーが握られているのを見ても、その時何が起きようとしているのか、僕には把握できなかった。
それは男がハンマーを重そうに肩に担ぎ上げた時も同じで――。
音は、ここまでは届いてこなかった。
赤い、赤い夕陽を、鈍く黒光りする鉄頭に煌めかせて振り下ろされたハンマーは、ズタ袋の丁度真ん中辺りに深々と食い込んだ。袋の両端が一度大きくくの字に跳ね上がり、萎れた植物のようにくたりと落ちる。
給水塔の上には、風の音だけが聞こえていた。
ハンマーをその場に投げ捨て、ズタ袋を引きずって男は建物の中に消えた。
後に残された墨汁に漬した筆で乱暴に引かれたような、夕焼けにむしろ黒々として見える染みを見れば、いかに遠く給水塔の頂上からであろうとも、それが何を意味するのかは分かった。
それは、あの袋の中に何か“生き物”が入っていたのだという事と、それだけの大きさを持つ生き物の種類は、大自然に包まれた地方都市といえども、かなり限られたものであること。そして最も重要なのは、あの袋の中にいた“生き物”は、おそらくもう息をしてはいないだろうということだった。
そこから導かれる結論の一つが頭の隅を一瞬掠め、僕はタンクに背をもたれさせながら、ずるずるとその場に座り込んだ。
金網越しに町がいつもの色に染まっているのが見えた。今このタンクの上に登れば、あの心揺さぶる光景が広がっているのに違いない。
しかし、全くそんな気にはなれなかった。
燃えるように熱を帯びていく頭とは逆に体には寒気が止まらず、ぶるりと体を震わせたのを口火にがたがたと全身が大袈裟に震え出し、止まらなくなる。必要な酸素量の計算を間違えた脳が、肺にもっともっとと呼吸を強制した。
強い眩暈を感じた僕は、座っていることさえままならなくなり、鉄の床にくたりと体を横たえた。
鉄の床のほとんど異臭とすら言える鉄錆の匂いが、鼻腔に充満する。こめかみを滑り落ちた汗の珠が目尻から下まぶたをねぶるように伝い、鼻の柱にひっかかってだらしなく崩れる。
目の前を、どうやってここまで登ってきたのか一匹のアリが、触覚をぴくぴくと震わせながら横切っていった。
一体どれほどそうしていたのか、呼吸が元通りになっているのに気付いた時、アリはもういなくなっていた。もしかしたら少しの間、気を失っていたのかも知れない。
べったりと鉄の床に張り付いた右耳に、規則正しい音が響いてくるのを聞き取って、僕は勢いよく起き上がった。
再び速まっていく呼吸を感じながら耳を澄ます。
聞こえる。ほぼ等間隔で、鉄の棒を叩くような音が。
誰かが、給水塔の梯子を登ってきているのだ。
誰が? そんなの決まっている。
僕は這いずるようにして、タンクを挟んで梯子の反対側の位置まで、音を立てないように細心の注意を払いつつ移動した。
足音は徐々に、だが確実に大きく、近くなっていく。
絶対に見つかるわけにはいかない。
もし見つかれば、のたうつズタ袋の中の生き物のように――。
鉄の床についた引き上げ戸を、下から乱暴に押し開ける大きな音がタンクの向こう側から響き、あまりの音の大きさに声を上げそうになるのを寸でのところで堪えた。
続いてどちゃりと、水気をたっぷり含んだ何かが床に投げ出される音が続き、それが何であるのかを想像を巡らせる度、全身に怖気が振るう。
タンクのすぐ裏側で震えている僕に気付かず、足音は軽快な音をたててタンクの上部へと登っていく。
誰なのか確証は無いが、状況から考えてあの男しか考えられない。
しかしなぜ、今日に限って?
たまたまタンクの点検日だったとでもいうのだろうか。
それとも――僕の姿を見つけて?
心に浮かんだ最悪の状況に絶望しそうになる。
もしそうなら、僕は――。
頭の中であの一度大きく跳ね上がったズタ袋の光景が何度も繰り返され、頭の中がぐちゃぐちゃになった。喚き声を上げてその場で暴れだしたくなる衝動を、下唇を噛みながら必死に堪える。
口の中に血の味が広がった。
僕の頭上、体をこれ以上無いほど小さく丸めて張り付けたタンクの上から、錆び付いた金属をひっかくような音が聞こえてくる。タンク上部の開閉バルブを回す音だろう。それに混じって他の音、いかにも機嫌の良さそうな鼻歌も聞こえてきた。
「さーあお姫様! お食事の日ですよー。楽しみに待っててくれたかな? 今日はねぇ、ご馳走を持ってきたんだよ。と、言ってもいつもと同じだけどね!」
上ずったような猫なで声と、ひぃひぃという呼吸困難にも似た笑い声。中年の男の声だ。
今までに僕が見ていた男の、あのくたびれたような倦み疲れたような姿からは想像し難い、軌道の定まらぬ興奮に満ちた甲高い声。
僕は、狂人と相対したことはない。
が――分かった。
――この男は狂っている。
語尾にこびり付く粘液のような狂気の響き。
爛れた皮膚を掻き毟るような不快な昇華の開き直りが、男の声音にはっきりと伺い知ることができた。
一際大きい炭酸飲料の栓が抜けるような音がそれに続いて、鉄錆の臭いを何倍も強くしたような強烈な臭いが辺りに漂う。
「おやおやーもう起きてたのかい? そこに置いてあるから、お父さん今もってくるからね。少しだけ我慢するんだぞ」
臭いは周囲の空気を丸ごと変えてしまうほど濃密なものだったが、僕は混乱して、それどころではなかった。
――誰に話しかけている。
男の言葉は明らかに自分以外の“誰か”に対して向けられたものだ。
しかし、この場にいるのは僕と男の二人だけ。男はまだ僕に気付いた様子はない。ならば独り言ということになるはずだが――。
額から流れる汗が頬を伝うに任せて、僕はゆっくりと顔を横に捻った。
夜が訪れようとしていた。
どれだけの月日が流れたのか、昔は白く輝いていたのだろうタンクの塗装は、今や干からびた大地のようにひび割れ、ささくれ立ち、斑に剥げ落ちていた。
「お待たせ。ご飯の時間でーす! さあ召し上がれ」
いくつもの大きな石を沼に投げ込むような音が、何度も何度もタンクの中で響き、僕の耳にまで届く。
――そんな、まさか。
おずおずと手を伸ばし、タンクの表面に触れる。灰のようにさらさらと剥がれ落ちる塗料。指先は震えていた。
――ここに。
「おっとまだまだ、ご飯の時には何て言うんだっけ?」
――そんな。
「いただきます。お父さん」
聞こえてしまった。
確かに、それは男の声ではなく。
小さな、女の子の声で――。
はい、どうぞ。嬉しそうな男の声が聞こえた。
猛暑なんだそうだ、今年は。
担任の教師が朝のホームルームで言っていたのだ。
熱中症に気をつけねばならないくらいに。
それなのにこんな、朽ちかけた給水タンクの中に――。
「よっぽどお腹が減っていたのかな。誰もとりゃしないよ――そんなもの」
そんなもの、のくだりにだけ異様な冷たさがこもっていた。
落ち着け。落ち着け。
呪文のように繰り返したが、とても無理だった。
確かに聞こえた。少女の声だった。
どこから? このタンクの中からだ。
今日一日、僕が来た昼過ぎからは、タンクに人が出入りした様子はない。
様子はない。ではない。僕はほとんどずっとここにいたのだから。それは絶対に、なのだ。
――認めたくない。
ならば、このタンクのなかの少女は?
中には水が入っている。水音を聞いた。炎天下、密封されたタンクの中は一体どれくらいの温度になる?
“食事”をしている? 何を? このタンクの中で?
一体いつから、どうやって、どうして?
合理的な説明がつくはずがない。
それでも僕は必死に探した。貯水タンクの中にいる娘に、開口部から『食事』だという何かを投げ入れて与える父。その理由を。
だが次の瞬間に耳に飛び込んできた音に、頭の中が真っ白になってしまい。それ以上は混乱すらすることが出来なくなってしまった。
それは言葉ではなく単純な音。
風に乗り、高く、かぼそく、掠れて、連なっていく音。
ああそれは――口笛だ。
――ジムノペディ。
いたのだ。
いたのだ、ずっと。
僕が給水塔に登る度に、気の趣くままに繰り返した。
――ジムノペディ。
ずっと聞いていたのだ。
一筋の光もない闇の中で、同じ色の水に身を浸しながら。
いつからだったかは覚えていない。
ある時気付いた、僕の口笛に追従するように控え目に耳に届いた二重奏は、こんな低い丘で聞こえる“山彦”なんかであるはずも無く。
――“少女”だったのだ。
一日の内ほんの少しの時間、外から聞こえてくる口笛の旋律を覚えてしまう程の長い間、このタンクの中に。
吐き気がした。
どうすればこんな環境で生きていられるのか。
嘘だと思いたかったが、口笛は続いていた。
少女、それも声からして僕よりも幼い少女に、こんなひどい環境が耐えられるはずがない。
出来るというのであれば――それは人ではない。
少女の声を出す、“何か”だ。
暮れ行く丘の上をたゆたう旋律。それ以外の全ての音は、この世界から締め出されて聞こえない。
ゆっくりと、悲しげに。
奇妙でやさしい旋律は、男の声に不意に途切れた。
「何だ、それは」
底冷えのする、嫌な耳障りには覚えがあった。
男は、怒っているのだ。
「おしえてもらったの」
男の声の調子が変わったのに気付いていないのか、動ずることも無く、少女の声は平然としていた。
「まさか……お前、ここから出た、のか?」
「ううん」
「じゃあどうやって!?」
「ええとね――」
まずい。
まずい、まずい。
逃げなくては。
地上数十mを超える高さにある金網に囲まれたこの場にある唯一の逃げ道。梯子へと続く跳ね上げ戸に視線を向ける。
ちょうど裏側にある戸はここからでは見えない。
そこまでタンクの上にいる男に気付かれる事なく、辿り着く事ができるだろうか。
「だいじょうぶだよ」
出し抜けにタンクから響いた少女の声に、それがまるで自分に向けられたものであるかのように思えてどきりとする。
「大丈夫なものか! どんな奴だそいつは!? ――ここに、来たのか?」
考えている暇は無いようだ。僕は音をたてたりせぬよう気を付けながら、じりじりと数cmずつ、体をずらすようにして進んだ。
直径10m程のタンクの反対側までの距離が、まるで永遠のように感じる。
何度もハンマーを振り下ろされたズタ袋の跳ねる光景が頭の中でフラッシュバックする。
「おい、なにしてる?」
見つかった!?
僕は身を竦めて固まった。こめかみの辺りの血流の音が聞こえてきそうだ。
「おいおいおいおい、出てくる気か!? だめだだめだ!」
出てくる? 出てくるって?
荒くなった息が聞こえないよう両膝を抱え、手が白くなってしまうほど強く握ったかばんに顔を埋める。
「お前は……お前達はいつもそうだった! いつもいつも! お父さんの事を馬鹿にして言うことを聞かない!」
ドン、とドラを鳴らすような音がタンクを伝い背中を揺らす。男が足を踏み鳴らしているのか。
「そりゃあ頼りないお父さんだろうさ! ドジばっかりで、お前とお母さんはそれを見ていつも笑ってたもんなぁ。それでもなぁ。それでもお前達を愛してたんだ! お前達だってそうだろう……本当はお父さんのこと好きだったんだろう……知ってるぞ!」
突然ヒステリックに、男は訳の分からない事を叫び出す。
「あの旅行だって……名誉挽回のはずだったのに!」
裏返った声が途切れるたび、男の獣のような唸り声とタンクを打ちつける音が重なった。
「それが……それが! どうして! あんな! ことに!」
タンクから伝わる衝撃が、背から腹にじわりと広がる度に、胸の内の焦りが高まっていく。
「びっくりしたよ……お父さんなぁ、旅行に行くために仕事を詰め込みすぎてさぁ、疲れてたんだ……でも信じてくれよ、あれはお父さんのせいじゃない。お前も見てただろう? お父さんはちゃあんと左側を走ってた、それは絶対だ。そりゃあ少しはスピードを出していたかも知れないさ。だってお母さんが海沿いをドライブしてから行きたいって言うから……ものすごい遠回りになるんだぞ? 日暮れまでには市外のホテルに着きたかったんだ、ほんの少しぐらい仕方ないだろう?」
男の声に、いつしか嗚咽が混じり始めていた。
「悪いのは相手の方だよ……裁判だって勝ったんだからな……完全に車線をはみ出してどのくらい出してたと思う? 下は断崖の急カーブなんだぞ! それを100kmだよ! 100km! 正気の沙汰じゃない! 案の定その自殺志願者はそのまま海へ真っ逆様。望みがかなってそいつは良かっただろうが、巻き込まれたこっちはたまったものじゃない! お母さんの首は折れちゃうし、お前なんかお転婆だからさぁ……フロントガラスを突き破ってさぁ、崖下の海に飛び込んじゃうんだもの」
男はそこまで言うと、今度はケタケタと壊れたおもちゃのように甲高い声で笑う。
「信じられなかったよ、そうだろう? ほんの数秒のことだもの。笑ってたろう、珍しく機嫌良さそうに。さっきまで! ついさっきまでさぁ!」
――狂ってる。
男は頭の中に浮かんだことを、ただわめき散らしているだけだ。
そんな男の声に追い立てられるように、僕は再び這い進んだ。立ち上がり駆け出したくなる衝動を何度も抑えながら、ゆっくり、ゆっくりと進む。
べったりと汗の滲んだ手のひらに、鉄床の錆が砂利のようにまとわりつく。
「でも見つけちゃったよ。お父さんすごいだろう? こんなぼろいタンクの中に隠れてたなんて、誰だって気がつかないよな。わが娘ながら本当に呆れるよ」
再びひきつけを起こしたのかと勘違いしそうなほど笑いこける男の声。こちらまでおかしくなってしまいそうな声だった。
タンクの脇に、ついに跳ね上げ戸の端が見えた。
僕はかばんを胸に引き寄せて逡巡する。ここからなら駆け出しても大丈夫かも知れない。しかし戸を開けた後梯子を降りることを考えると、このまま見つからないようにゆっくりと進んだほうがいいか。
どうする。どうすればいい。
男はまだ終わりの見えない狂笑に身を任せていた。多少の物音には気付きそうもない。
僕は、一か八か一気に戸にに駆け寄ることに決めた。
あらためて跳ね上げ戸に目をやる。距離は数メートル。なんという幸運か、戸は上げられたままになっていた。これならばスムーズに梯子に辿りつけるだろう。
かばんを肩にかけ直し、手をついて腰を浮かせた姿勢で駆け出そうとして、僕は身動きが取れなくなった。
跳ね上げ戸から覗く梯子に目をやった視界の隅に――。
タンクの脇から半分だけ顔を覗かせて、屈んだ僕を見下ろす目があった。
顔を上げた僕と真正面から視線がかちあうと、その“少女の顔”は、覗かせた半面だけで目を細め、笑顔を作った。
顔の造作だけを見るならば、十分に可愛らしい少女と言って良かっただろう。
細くやわらかな眉に、くっきりとした二重の大きな瞳を縁取る睫毛は、眉とは逆に濃く、しっかりとしていた。小鼻はすっきりとして、その下に小さくぽってりとした唇が、つつましやかに咲いていた。
少女は恥じらいの表情を浮かべて、タンクの脇から、僕の目の前に姿を現した。
「ねぇ」
鈴の音のような声で囁きかける少女の口元は、血に塗れていた。そして――。
見てはいけない類のものが、この世には確かにあり、そして自分の目の前のそれが、まさにそういったものの中の一つだった。
「ねぇ」
少女の顔の下には、当然続くべき体が無かった。
あるのは肉色の大蛇のようにのたくる、長い長い首だけ。
それはタンクの横腹を伝い、上部へと消えていた。
僕はタンクに視線を移す。この中で、とぐろを巻いているのか。
「ねぇ」
三度目の囁きは近すぎた。
吐息が頬にかかり、血の臭いがした。
「きょうは、くちぶえはなし?」
「あ――」
耳朶を打つ良く知った調に、咽喉の奥から掠れた声が漏れる。
ひび割れ、崩落するダムから噴出す水のように、様々な感情が激流となって流れ出し。
僕は絶叫していた。
叫びとともに大切な何かが流れ出して行く感覚。
暗度を増していく世界とは裏腹に、視界は白く染まっていく。
――そして旋律だけが残った。