ゆっくりと、悩めるが如く。2
息を整えながら真下から見上げる給水塔は、いや増して大きく見えた。
高さは3、40m、直径20m程の大きさのはずの給水塔は、僕の視界全て、僕の世界を圧倒した。
目を移せば、給水塔から少し離れた場所に、かまぼこ形の建物が建っていた。おそらくそこが給水塔の管理施設になっているのだろう。こちらも給水塔と同じように塗装は剥がれかけ、周囲の雑草も伸び放題になっていて、機能していそうもないように見える。
その建物と給水塔をぐるりと囲むように、高さ3m程の赤錆の浮いた金網が張り巡らされていた。
同じぐらいの高さの鉄柵でできた出入り口も同様に錆付いていたが、そこにかかる大きな南京錠は、やけに新しいように見えた。試しに引っ張ってみたが、当然外れるはずも無く、僕は逸る心にじりじりと焼かれ、うろうろとその場を歩き回りながら思った。
どうにかしてこの中に入ることはできないだろうか? 僕は恨めしげに金網を見上げた。
3mの金網だ。登ることはそれほど難しいとはいえないだろうが……気になるのはそれよりも、金網の最上部に幾重にも巻きつけられた有刺鉄線だ。鉄の棘を持った茨を連想させる鉄線はいかにも攻撃的に見えて、僕の金網を乗り越えてしまおうかという衝動を抑制するのに、十分な効果を持っていた。
だからといって給水塔へ登ることもあきらめられず、僕は頭上に聳える鋼鉄の玉座を見上げたまま、指先を金網に触れさせながら、それに沿って未練たらしくとぼとぼと歩いた。
出入り口から50mほど離れた位置にある金網の、丘の斜面と接する部分に空いた隙間を見つけた時、この厄介な境界線を越えることをほとんどあきらめかけていた僕の心臓は、跳ね上がった。
急いで駆け寄って確かめると、子供一人がなんとか入り込める程度に、金網がたわんでいる。
僕は矢も盾もたまらず、そこに体を滑り込ませた。
途中で服を引っ掛けたりしてしまわないように注意しながら、慎重に地を這いずるように金網を潜り抜け、ついに僕は給水塔施設の内側へと足を踏み入れた。
悪いことをしているのだ、という自覚はあった。が、それを遥かに凌駕する高揚に、僕は服に着いた泥を払うのもそこそこに給水塔の上へ登る梯子へと駆け寄る。
布製のカバンを肩にしっかりと掛け、ざらつく錆の浮いた梯子を登っていく。
いつ僕の行いを咎める誰かの怒声が響くかと戦々恐々としながらも、周りを見回すこともせず、僕は両手両足を動かし続けた。
汗ばんだ手に錆びた梯子はやけに滑った。途中、ズボンで手を交互に拭いながらちらりと下を見ると、想像していた以上の高さに驚いた。思わず目が眩み、慌てて両手で梯子にしがみつく。
早鐘のような心臓の鼓動が治まるまでその場に留まり、もう決して下を見るまいと、あと少しで手に届くところまで迫った頂上部を見上げながら、これまでにも増して足元に気をつけつつ登る。落ちれば、良くて大怪我だろう。
梯子の最後の段に手がかかり、僕は祈りを込めて頭上の鉄の跳ね上げ戸――頂上部の床の一部――を押し上げる。それが通じたのかどうか、大きな鉄の蝶番が擦れ合う耳障りな音をたてて、戸は開いた。
途端に赤光が目を焼く。目を細めてそれをやり過ごしながら、同色に口を開けた穴の中へ、僕は身を躍らせる。
上がった息を整えながら跳ね上げ戸を閉め、頑丈そうな金網に囲まれた直系10m程の円柱形の、鈍く夕陽に輝く貯水タンクに着いた梯子を駆け上がり、丘の斜面の方角へと歩を進めて――。
ようやく辿りついた鋼鉄の頂きから、僕はあの光景を、その日、初めて目にした。
――この世の果て、を。
次の日の授業中も、頭の中は前日給水塔の上から見た景色で一杯になっていた。
それほどまでに僕には衝撃的だった。あの神秘的とすら言える光景の一部分が、自分が普段暮らしている町だとは信じられぬほどだ。
いつもの公園が使えなくなり、また別の場所を探し直さねばならないと憂鬱になっていた矢先の幸運に、僕は舞い上がっていた。
当然のように僕は放課後、今度は町外れにある給水塔に通うようになった。
雨の降る日は梯子を上るのが危険なので、流石に止めておいたが、天気の良い日には欠かさず給水塔に登った。
そして日が落ちてしまうまで、目の前に広がる景色に酔い痴れながら過ごした。
もし許されるなら、僕は日中と言わず夜と言わず、その場に留まり続けたことだろう。
なにが僕をそこまで惹きつけるのかは分からなかったが、そんなことなどどうでも良かった。
口笛を吹きながら、巨人の国の玉座に座している時、僕は確かにこれまでに感じたことのない充実感に包まれていたのだから。
僕は“いじめ”の標的とされたらしい。
またこの学校でも、と付け足すべきだろうか。
それを見つけたのは、給水塔に通うようになってから数日後の放課後のことだ。
男子トイレの小便器の中で、僕のボロボロのスニーカーが、小便まみれになっていた。
給水塔へ向かうために一刻も早く学校を出ようとしていた僕は、自分の下駄箱が空っぽであるのを見て、しばらくその場に立ち尽くした。
その時点で大体の予想はついていた。
ああ――またなのか、と。
上履きのままで帰ろうかとも思ったが、そんなことをすれば父に叱られるのは明白で、僕は仕方なく学校の中を探し周り、教室の近くのトイレの中でそれを見つけたのだ。
不意に聞こえてきた押し殺した笑い声に入り口の方を向けば、底意地の悪そうな細い目を更に細めて、顔を覗かせじっとこちらの様子を伺っている少年の姿があった。
おそらく下駄箱のあたりで待ち伏せていて後をつけ、狼狽する僕の様子を見て暗い愉悦に浸っていたに違いない。
いろいろと気付いてはいた。
机の中にきちんとしまっていたはずの教科書が、席を外し戻ってきたら床中にぶちまけられていたり、細かく千切った給食のパンが、僕のロッカーの中にばら撒かれていたりした。
誰がやっているのか見当は付いていたのだが、確証は無かった。
だからというのもあるが、僕はそんな目にあっても何も言わなかったし、してこなかった。
もし仮にそうした幼稚な嫌がらせを騒ぎ立て抗議したとして、それが一旦解決するとしても、その後に控えている厄介事の方が、いわゆる“いじめ”と呼ばれる一連の行為そのものよりも、僕にとっては耐え難い苦痛だったからだ。
今回もそう思った。たかだか靴が汚れただけだ。
だが――。
少年は僕と目が合うと、慌てて顔を引っ込めた。おそらくこいつだろうと、中りをつけていたとおりの人間だった。確認はできなかったが、他にも数人の少年達が、僕の視線を感じて、さっと入り口から顔を隠すのが見えた。
その時思ったことは二つ。
――なぜだろう。
それが一つ目。
どうしてこういうことをする人間がいるのか。
僕は覗いていた彼に対して、いや、他のどのクラスメイトに対しても、危害を加えたりしたことはない。
そんな僕にこんなことをして、何の得があるというのだろう。
転校して、他の学校でも幾度かこうした目にあった。
その度に僕は思い、時には実際に口に出して聞いた。
――なぜこんなことをするのか?
生徒達は言う。
――暗くて気持ちが悪い、と。
教師達は言う。
――もっとクラスに溶け込みなさい、と。
答えになっていない、といつも思った。
そんな的外れな返答を、ぼんやりと頭の中で転がしながら思いついたことがあったが、その当時はそれを明確に言葉にする事はできなかった。
が、それへの対処法は知っていた。
僕の父が僕に教えてくれた、数少ない実生活に役立つ“処世術”だ。
そして二つ目。
こちらの方がその時僕にとっては、より重要なことだった。
多分この二つ目がなければ、僕はその“処世術”を行使することはなかっただろう。
僕は気付いたのだ。
そうだ――この靴が無ければ、給水塔へ行くことができない。
そう思った瞬間、身の内からこれまでに経験したことのない激しい感情が溢れ出した。
あっという間に僕の頭の中は、その感情に埋め尽くされていく。
それに従うことに、僕は決めた。
給水塔から、景色を見たかったから。
――こんなことが何度も起きるようなら、その障害になる。
僕は薄汚れたトイレのタイルを思い切り蹴って駆け出した。
トイレを出て辺りを探すと、ケタケタと耳障りな笑い声を上げながら、小走りに廊下を遠ざかっていく四つの少年の背中が目に入った。その中に先程の顔を見つける。他は分からなかった。
ぐんぐんと加速し、背中との距離を詰めていく。まだ少年達は、僕に気付いてはいない。
ふと振り向いたその内の一人が駆け寄る僕を見つけて、わあと大袈裟な声を上げる。あの目の細い少年だ。
他の三人がその声に驚き立ち止まる。彼らが振り向くより早く、駆けたスピードそのままに三人の内手近な一人の背中に大きく飛び込んで、真っ直ぐに膝を突き出した。
緊張していない筋肉の、ぐにゃりとした気色の悪い感触が膝から伝わってきたすぐ後、だらしのない放屁のような音を口から吐き出して、その少年は前のめりに倒れ廊下をのたうった。悲鳴は聞こえない、息が詰まってしまったらしい。
ちらりと顔を確認するが、違う、と思った。
足首を痛めないように気をつけながら着地し、次に近い一人へ。
低い姿勢のまま突進し、迷い無く股間に拳を突き出す。僕は体が丈夫な方ではない。だからなるべく体の硬い部分で、柔らかい場所を狙うのだ。
喧嘩はしたことがなかった――。
直接内臓を叩いたら、こんな感触がするのかもしれない。経験したことのない感触に総毛立つ。ひゅっと短く息を吸い込んで相手が硬直し、体がくたりとくの字に折れ曲がる。下りてきた頭の髪の毛をつかんで、膝で蹴り上げる。
――けれど、どこをどうすれば痛いのかは知っていた。十分に、嫌と言うくらい。
二人目、その少年も違った。
次に目に入ったのは、最初に僕に気付いた細目の少年だが、脇をすり抜け、最後の一人に向かった。案の定僕には何もしてこない。
目を見て分かった。まだ目の前で起きていることを完全に理解していないか、分かっていても体がついていかないか。どちらにせよ“残しておくべき奴”だということが。
最後の一人の姿を捉える。
名前の全部は覚えていないが、今廊下に転がっている少年達が“タカノリ君”とか呼んでいた覚えのある少年。
こいつだ、と僕は思った。すぐに分かった。
『ちっちゃな国の王様』の目をしていたからだ。
自分の世界で思い通りにならないことは、一つも無いのだ、という目だ。
確か空手をしているのだと得意気に吹聴していた記憶があるその“タカノリ君”は、身を低くして飛び込んできた僕に、型通りのきれいな正拳突きを繰り出してきた。
肩口に鈍い痛みが走る。
でもそれだけだった。
僕は両手を腰に回し、抱きつくような格好で押し倒し馬乗りになる。
息を荒げ、僕は聞いた。
「なんであんなことをする」
腰と背中を打ちつけたらしい“タカノリ君”は、息を詰まらせながらも僕を睨み付けてくる。
「うるせぇな痛ぇよ! きめぇんだよお前は! いつも怪我ばっかしてるし暗いんだよ!」
下から突き出された拳が口元に当り、頭がぐらりと揺れた。
口の中に血の味が広がる。塞がりきらない傷が、また開いたらしい。
“タカノリ君”の答えを聞いて思った。
――また、それか。
僕を殴った手が引かれないうちに両手でつかみ取り、肘の下の内側辺りに思い切り噛み付く。半袖で剥き出しの腕に歯は簡単に突き立ち、“タカノリ君”の絶叫と共に口の中に自分のものでない血の味がした。
それに呼応するかのように、周りに集まり始めた野次馬の生徒達も、ぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。
「先生を呼べ」だの「もうやめろ」だの。
無責任だと思った。それなら直接自分で止めればいいのに、と。
でもそう思いながらも、保身のための計算がちゃんとできるのだということに、どこか関心したりもした。
騒ぎはどんどん大きくなっていった。まもなく教師が駆けつけるに違いない。
わめき続けている“タカノリ君”の鼻に肘を振り下ろし黙らせながら、僕は言った。
「謝れ」
一瞬“タカノリ君”の動きが止まったのが見えた。彼はきっと、その瞬間に葛藤したのだろう。『いじめられっ子に謝って許しを請う』か『王様の地位を守るために意地をはる』か。
迷わせてはいけない。すかさず今度は頬骨の辺りに肘を落とす。
「謝れ」
「ごめんなざ」
次の反応は早かった。どうやらこの場からとにかく逃れようということらしい。
よかった。“タカノリ君”は、“ルール”の理解が早い。
しかし僕は“タカノリ君”が言い終わる前に、左耳の辺りを横から殴りつけて言葉を遮った。
そうしなければならない。だってそういう手順だからだ。
「何に」
僕の問いかけに訳が分からないといった顔になった“タカノリ君”の頬を張る。
廊下に平手の音が高く響き、見ていた女の子の一人がが泣き出した。そんなに嫌ならば、見なければいいのに。
「何にごめんなさいだ。言え」
――頭の中に、声が聞こえる。
「くづ……ドイレでぃ……」
流れ出た涙と血でぐしゃぐしゃの“タカノリ君”の顔。
――「今日、警察の奴が来たぞ」
「謝れ」
「ぐづ……ごべんだ」
殴る。
こうしなくてはならない。相手に言葉を最後まで出させてはいけない。
――「公園で会ったとか言ってたぞ。お前余計な事言ったか?」
「余計な事はするな」
「……ごべんざぁ」
殴る。もっと強く。
「何に!」
「ぐづぅ……ぐづぅ……!」
殴る。殴る。
――「謝れ」
「ごめんざさ」
何度も。いくら謝っても。
――「お前は馬鹿だ。馬鹿なんだからもっと謝れ」
「……うぅ……おぇ……ぐぐ」
うめき声しか出せなくて。血か鼻水か唾液か涙か何かで喉が詰まって。痛いのかどうなのかも良く分からなくなっても。
それでも続くんだ。
そういう手順なのだ。
そういう“ルール”なのだ。
――「何にごめんなさいだ! ちゃんと謝れ」
「ぐ……づ……」
何に謝っているんだろう。
何度も何度も拳を振り下ろしながら、僕は思った。
お前は――。
「やめなさい!」
泣き声交じりの悲鳴じみた制止の声に、僕は我に返って動きを止めた。
馬乗りの姿勢のまま声の方を見上げれば、やさしそうな女の人が、目に涙を溜めて立っていた。
「なんて……ことを」
声が戦慄く。
――「自分の子供にまで!」
口元にあてた手が、ロングスカートに包まれた膝が、慄き震えていた。
「先生……?」
――「お母さん……?」
目を下ろせば、無残に変形し膨れ上がった顔の“タカノリ君”が、咽喉に血が流れ込むのが苦しいのか、ごほごほと咳き込みながら、嗚咽を漏らしていた。
僕の体を突き動かしていた赤暗い感情が、潮が引くように去っていく。
僕は振り上げていた手をだらりと垂らし、放心したように“タカノリ君”の上に座り込んだまま、その女性の顔を見上げた。
まるで怪物を見るような目。歪み、震え、怯えた目。
この女の人は、たしか“ナオコ先生”。僕のクラスの副担任。
――母ではない。
そんな事を思った。
辺りは静まり返っていた。微かに“タカノリ君”と女生徒のしゃくり上げる声が聞こえるだけだ。
ああ――。
僕に残ったのは気だるさとジンジンと響く手の痛みだけ。
――疲れたなぁ。
ぼんやりと立ち上がり、その場を去ろうと歩を進めると、遠巻きに見ていた野次馬の人垣が左右に割れた。
誰も動かなかった、駆けつけた副担任でさえも。
一度で終わればいいな、と僕は思った。
まだ僕に付き纏うようなら、何度でも繰り返すつもりだった。多分“タカノリ君”達がいじめを止めるようなことは無いと思っていたからだ。
だから続けようと。
『これは他のやつをいじめた方がいいな』と思ってくれるまで――例えば『いじめ仲間の内でも、一人だけ報復を受けないような妬ましい奴』はそういう標的にされ易くなるかもしれない――。
それが父が僕に教えてくれた“処世術”。
――『人は何時如何なる時も易きに流れる』のだ、という。
いじめられるなら、自分よりいじめやすい人間を作ってやればいいのだ、という。
教師の呼び止める声が聞こえるが、聞き流す。どうせ手は出してこない。
素直に言うことを聞いて事情を説明したとしても、どうせまた明日同じ事を『事情を良く知らない先生方に説明するため』に、話さなければならなくなるだろうから。
それも全ては僕が次の日も学校に来ることができれば、の話だったのだけど。
小便まみれの靴を履いて、その日も僕は給水塔に登った。
随分時間が遅くなって、ほとんど給水塔にはいられなかった。
でも、夏の夕の湿った空気の中でも、口笛はよく響いて。
給水塔から宙に舞ったジムノペディは、いつしか山彦をともなって二重奏になっていった。
それがとても、嬉しかった。
そして僕はその次の日から、学校を休むことになった。