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ゆっくりと、悩めるが如く。1

 沈み往く夕陽を背に受けて、長く濃い影を小高い丘の上に落とす、古びた給水塔があった。

 その頂に設置された貯水タンク。そこについている梯子で更に上り、日中の苛烈な太陽の熱をたっぷりと帯びたままの、鉄のタンクの端に腰かける。

 微かな風が吹く度に鼻をつく、まだ冷え切らぬ地面から立ち上る蒸気に乗って届く青草と、強い鉄錆の匂い。

 唇から小さく、細い糸のように漏れ出す口笛は、うろ覚えのサティのジムノペディ。

 ――ゆっくりと、悩めるが如く。

 見下ろせば地面は遥かに遠く、落ちれば無事では済むまい。けれどそんなことは気にもならなかった。

 心奪われていた、そこから見える景色に。

 そうだ、他の何も考えられないくらいに。

 その給水塔の上から見下ろす街の様子は――。

 ――まるでこの世の果てのように見えた。

 その光景を初めて目にしたとき僕は、あまりに幻想的な有様に息をのみ、まるで魅入られたように目を離せなくなった。

 手前に見える平地に広がる市街地は、夏日の夕陽に照らされ、まるで燃える水の底に沈む忘れられた古代の都市のように見えたし、遠くせり出した峠の向こうに闇に沈み始めた旧村部から、東部に広がる海岸へと続く黒のグラディエーションは、きっとそのまま隔り世につながっているに違いないと――。

 今よりまだずっと小さな少年だった僕に信じさせるのに、十分な説得力を持って見えた。

 僕はそれを、眺め続けた。

 飽きもせず、ただじっと――眼下に静かに身を横たえるこの街が、すでに失われた古代の都市であるというのなら――さしずめ忘れられた都市の王の玉座のようでもある、この給水塔から。

 


 三方を高い山々に囲まれ、東方を太平洋に面した盆地にある地方新興都市“水無瀬市みなせし”。

 僕が初めてその町にやってきたのは、小学六年生の夏、父の転勤に付き従ってのことだった。

 転勤といえば聞こえはいいが、父はもともと定職を持たない肉体労働者で、この町に来たのも、偶さかここに長期の建築関係の仕事があったからに過ぎない。

 この水無瀬市にある中高大院の教育機関を持つマンモス校“深青学園”の校舎の一部補修工事が行われるということを、父が数少ない知り合いの建築関係者より聞きつけたのだ。

 工事期間は四ヶ月ほど。

 僕は小学生最後の夏を、旧体然とした村社会と、急速に発展する市街地とを一つの身の内に内包する町、水無瀬市で過ごすことになった。

 その間工事に携わる者の寮として、市街地の外れにある古びた木造アパートの六畳一間の一室が、僕たち親子にあてがわれた。

 父と二人で過ごすには、いささか手狭ではあるものの、贅沢は言えない。寮を提供してくれるだけでもありがたいのだ。

 転校初日、幾度も父の“転勤”に付き添ったせいで、手馴れてしまった転入手続きを無事終えた僕は、いつものように転校生を物珍しがる、新しいクラスメイト達の視線に晒される授業を終えた。

 やはりいつものように放課後に浴びせかけられる、いくつもの質問を素っ気無くかわし、それが終わるとすぐに家にも戻らず、放課後を過ごすのに適した場所を探すために、早速、一人市街地を歩きまわった。

 ――これもいつもの通りだ。

 なるべく長い時間を、誰かに咎められることなく、一人静かに過ごせる場所を探す。

 それが転校直後の、僕の恒例行事だった。

 家にいれば、父と顔を合わせている時間が長くなる。

 僕は、父が苦手だった。

 父は家にいるときは大概酒に酔っていた。

 今思えば、きっと父は焦っていたのに違いない。

 安定した収入もなく、これからの展望も覚束ない。更には今からどれほど手がかかるのかも分からない、小さな僕という子供を持ち、途方にくれていのだろう。

 それを紛らわせる、つかの間の逃避の手段として、酒が必要だったのだ。

 僕はそんな父が――苦手だった。

 だから一日の時間の多くを、家の外ですごした。

 ならば無理に一人で過ごさずとも、友人とでも遊んでいれば良かったのに、と思うかも知れないが、友達を作るには思いのほかバイタリティがいるものだ。そしてその気力は、度重なる転校でとっくに尽きていた。

 いくら友達を作ったとしても、長くて数ヵ月後、早ければ一月経つか経たないかのうちに、別れなければならない。

 出会っては別れ、出会っては別れ。いつしか僕は、友人を作ることを諦めるようになっていた。初めのうちは寂しく思ったりもしたが、回を重ねるごとにそれは薄れていき、一人の方が気楽にさえ感じられるようになった。

 数日が経つと、飽きるのが早い子供達は、誰も僕には話しかけてこなくなった。今回も、これまでと全く同じだ。

 僕が誰ともコミュニケーションをとろうとしないことを担任は見ていただろうが、あと半年と少しすれば卒業する時期に入学してきた見知らぬ生徒に、手間をかけるようなことはしない道を選択したようだ。

 それでいい――無関心は心地良かった。

 誰からも気遣われない分、誰を気遣うこともしなくて済む。

 更に数日が経ち、市街地を歩き続けた僕は、ついに自分の要望にぴったりの場所を探し出した。

 そこは住宅地の谷間にぽっかりと空いた隙間にある、砂場と、ブランコと、三段階しかないジャングルジムがあるだけの、小さな公園だった。

 その公園は僕より小さな子供達しか遊んでおらず、親に連れられてその子達が帰った後は人気のなくなるような場所だ。

 同級生にまとわりつかれる心配もない、おあつらえ向きの場所。

 僕は学校が終わると、勉強道具の入った手提げカバンを持ったまま、長い時間一人で、その公園で過ごした。

 何をするでもなくベンチに腰かけ、ぼんやりと公園の様子を眺め、隣接した家屋からかすかに聞こえてくる生活の音を、聞くとはなしに聞きながら。

 小さな子供――幼稚園ぐらいの――たちの親が不思議そうに僕を眺めたりする時には、ベンチをたってしばらく街を回り、その人達がいなくなってから再び公園に戻った。

 長い休みを目前にひかえた夏の日、歩けば汗はすぐに噴き出した。特に盆地であるこの水無瀬市の夏は茹だるようだった。

 汗だくの体で、夕闇が包み始める人のいない公園に戻ってきた僕は、がぶがぶと、砂漠を彷徨い歩いた人間のように、備え付けられた水道の水で喉を潤す。

 肩口の袖で、ぐいと口元を拭い、また同じベンチの同じ場所に腰掛け、時おり熱気をはらんだ風が、湿った砂場の砂を小さく巻き上げるのを眺める。

 ――平穏だった。

 夏の時間はゆっくりと降りる緞帳のように夜を連れて来る。それを予感するかのように公園のオレンジがかかった外灯が、ちかり、ちかりと数回瞬いた後、点灯した。

 闇に沈むという逃れえぬ約定を引き伸ばしたいのか、始夏の黄昏は日に日に長くなって行く。赤黒く不吉な夕陽の感触に、不意にえづくように心が揺れる時があれば、小さく口笛を吹いた。

 何度か聞いただけのジムノペディを。

 ゆっくりと空気に溶けていく不思議に心地よい旋律は、羽毛のように風に舞い、あるかけらは吹き冷まされて重みを増し、絹のごとく地に敷かれた。

 心が平穏を取り戻すと、公園の電灯にぶつかる小さな羽虫の音が耳に届くようになり――そして僕はゆっくりと立ち上がり、歩き出す。

 酒に酔った父の待つアパートへと向かうために、重い足を引きずるようにして。

 それが、幼い日の僕の、全てだった。


 やっとのことで見つけたその公園で過ごす日々は、結局そう長くはならなかった。

 体調が優れずに学校を休み、アパートで寝込んでいた数日の内に、公園が封鎖されてしまっていたからだ。

 やけに久しぶりに感じた学校からの帰り道、いつも通り公園に足を向けた僕が見たのは、工事現場で見かけるような巨大な青いビニールシートを周囲の金網に張り巡らされた公園の姿だった。

「君、ボク、ここには良く来るのかい?」

 公園に何が起こったのかもわからず、呆然と立ち尽くしているところに声をかけられ、僕ははっとして振り返った。

「ああ――ごめんな、驚かしちまったか。おじさんなぁ、おまわりさんなんだ」

 僕の目の前に、背広を着た壮年の、ひょろりと背の高い男が立っていた。

 男は自分が僕を見下ろしていることに気付いたのか、目線をあわせるようにすぐにしゃがみ込み、くたびれた背広の内ポケットから黒い手帳を取り出し、開いて見せる。

「『私はこういう者です』って見たことねぇかな? ほら、ドラマとかでよくやってるだろう。そんでこいつ、おじさん。どうだい男前に撮れてるだろう? へっへっへ」

 そこに貼られた写真と、自分の顔を交互に指差しつつ、男は笑った。年を経て重力に従順になり始めた目尻が、更に下にぐぐっと下がり、なんとも人の良さそうな顔になる。

「読めるかなぁ、おじさんの名前。これこう読むんだ“篠田幸平しのだ こうへい”」

 名前の欄に書かれた漢字を一字一字指差しながら、一音づつ区切るように男は言った。

「さっきも言ったけどよ、おじさん、おまわりさんやってんだ。おいおい・・・・・・そんなに緊張しなくていいさ、おまわりさんてなぁ“正義の味方”なんだからな」

 驚きから立ち直れず、体を硬直させた僕をリラックスさせるように、へへへと軽く笑って男――篠田刑事は、体をゆすってしゃがみ直す。

「なぁボク、名前は? 良くここに遊びにくるのかい? 学校は・・・・・・この辺だと“姫ノ宮”かな?」

 きた、と思った。

 僕が体を更に緊張させたのが分かったのか、篠田刑事は大げさに顔をしかめて、もう一度へへへと笑って見せた。

「そうだよなぁ・・・・・・いきなり話しかけられてあれこれ聞かれたりしたら、そりゃあびっくりもするわなぁ。おじさん、ただちょっとボクに話を聞きたいだけなんだ。ゆっくり、落ち着いてからでいいからよ、まずは名前、聞かせてくんないか」

 諭すように笑顔で語りかけてくる男を見ながら、僕はやっかいな事になったと内心嘆息していた。その後の展開が、容易に想像できたからだ。『どうして一人で遊んでいるのか?』『家はどこなのか?』『帰るなら、送ってあげようか?』

 とにかくこの場を早く離れたかったが、この公園で何か事件が起きたことは子供の僕にすら明白で、そんなことをすれば変に怪しまれかねない。

 必要のない面倒事を避けるためにも、僕はしばらく男の話に付き合う事にした。

茅野かやの・・・・・・みのるです」

 途切れ途切れの自己紹介にも、男は安心したように口元をほころばせた。

「そうかい・・・・・・良い名前だな、どう書くんだい」

 なんと説明したものかと逡巡する所へ――。

「学校の生徒手帳、ないかな? その方がわかりやすい。おじさん、漢字苦手なんだよ」

 思わず頷いた後、カバンを探りながら少し後悔した。なんだか男にいいように乗せられたきがしたからだ。

 差し出した生徒手帳を「ちょっと見せてな」と受け取った男は、それを見ながら、別の分厚い手帳を取り出してメモを取り、僕に返す。

 ちらりと見えた男の手帳の中には、難しい漢字の文章がびっしりと書き込まれていた。その中に“野犬?”“食い殺す”という文字が見えた気がして、僕は帰りのホームルームで担任が話していた事件を思い出した。

 なんでも市内の公園で幼稚園に通う少年が、野犬に襲われて死んだらしい。

『帰るときはなるべく一人にならないように』そんなことを言っていたように思う。ほとんど上の空で聞き流していたので分からないが、もしかしたらここが、その公園なのかもしれない。

「手帳ありがとな。それじゃあ実君。実君は、よくここに来るのかい?」

 男の声にぼんやりとした思索を打ち切り、僕は答えた。

「はい・・・・・・結構きます」

「そうかい、いつもは友達とくるのかい?」

「・・・・・・たまには」

 嘘だ。この公園に誰かと来たことなど、一度もない。

「一昨日はどうだい? 遊びに来たのかな」

「一昨日は――」

 一昨日は――。

「今日まで具合が、ちょっと悪くて」

 寝ていたんだ。

「来てません」

「そうかぁ・・・・・・じゃあなぁ、最近この辺りでおかしな事はなかったかい? なんでもいいんだ、思いついたことがあったら――」

 男はなにかを続けて話ていたが、ほとんど僕の耳には入って来なかった。

 男は僕に関係の無い人で――なにより警官だったから。

「ごめんなさい。わかりません」

 何事かを話終えた男に、僕はそう応えると頭を下げた。

「そう・・・・・・そうかい、ご協力、ありがとな」

 男はなにやら悲しそうな顔で、ポケットから今度は、赤いセルロイドの包装に包まれた大きな飴玉を取り出し、僕の手を取るとその上に乗せた。

「こいつはお礼だ」

 いきなりのことで少しびっくりしたが、素直にそれを受け取ることにした。子供に飴玉といういかにもなところが、大人というか警察らしいというか。

 そのあまりに“らしい”行動を、僕は警戒すべきだったのかも知れない。

「ありがとうござ――」

 言い終わるか終わらないかの内に、男は手を取ったまま、もう一方の手で飴玉を握った僕の腕のシャツを、一気にまくり上げた。

「夏でそんなに汗かいてるのに長袖で――実君・・・・・・この痣、どうしたい? 口の端っこと、そら、首ねっこのとこもよ。誰かとケンカでもしたかい?」

 年にそぐわぬ俊敏な動きに呆気にとられていた僕は、その言葉に我に返り、男の顔を見つめた。

 先ほどまでと変わらない、人の良さそうな笑顔の、目の光だけが違っている。

「子供同士のケンカじゃあ、こうはなんねぇだろうに。……なぁ実君、どうしたい?」

 ――まずい。

 僕は渾身の力を振り絞って男の手を振り払い、駆け出す。

「おい実君! どうしたってんだよ。おじさんなぁ、この辺にしばらくいるからよ! 何かあったら交番に来いよなぁ。おじさんの名前、覚えてるか? し、の、だ! しのだだぞ!」

 背中に当たる男の声に耳を貸さずに、僕は全力で走った。

 ただ闇雲に、どこへ向かっているのかも分からなかったが、僕は走り続けた。

 頼らない。

 ――警察なんて。

 息が切れて走れなくなった後も、僕は歩いた。男が追ってくる気配など初めからなかったが、とにかく少しでも、離れたかった。

 どれだけ時間がたっただろう。気が付けば、市街地の外れにある小高い丘の下に立っていた。

 我に返って辺りを見渡すと、見知った風景はどこにもない。不安になり、何かにすがるようにふと見上げた視界に、それは飛び込んで来た。

 草の生い茂る丘の頂上付近、無数の太い鉄骨が組み合わされ、天に突き出した鉄塔。

 その頂に巨大なドラム缶のような貯水タンクが、四方を金網に囲まれて鎮座している。

 ――給水塔。

 社会科の時間に写真でしか見たことが無かったが、これほどまでに大きいものだったとは。

 貯水タンクのある頂上から地に伸びる梯子を見た瞬間に、僕の中に理由のわからない衝動が湧き上がった。つい今しがたまで感じていた不安は、その衝動にあっさりと吹き飛んでいた。

 ――あの上からは。

 衝動が言葉の形をとるよりも早く、僕はここまでの疲れも忘れ、舗装すらされていない丘の上り坂を駆け上がった。

 ――何が見えるのだろう。

 近づいて行く程に、細部を露にしていく給水塔の外観は、それが打ち捨てられたものであることを容易に想像させた。だからそこに行けば、間違いなく一人になれる。

 そう思ったのだろうか。

 ――見てみたい。

 国語の授業中に教師が余談として話していた、この地方に伝わる民話を不意に思い出す。

 『水無瀬には色々な伝説が伝わっています。三啄鳥さんたくどりという巨大な怪鳥の昔話もその一つで――』

 その鳥が羽を休めるという、止り木のように見えたのか。

 ――早く。

 それとも、目に入れども改めて認識されることのない、幻のようなその佇まいに、憧れを抱いたのか。

 理由は判然としない――けれど。

 ――早く。

 全力疾走で幾度も足をもつれさせ、転びながらも、泥だらけになった体を引きずるようにして。

 そうして辿り着くだけの意味があるものだと、その時の僕には思えたのだ。

 果たして――それはきっと、正しかったのだと思う。

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