50.魅了されたステファン(4)
「お馬鹿さんね、そっちじゃないわよ」
ダイアナの声は反響がかかって、二重三重に聞こえた。それは頭に直接入ってきて、思考を奪い、脳内の何かを痺れさせる。
シャイナはぶんぶんと頭を振った。
ダイアナを見ると、彼女はにいっと笑う。
その歯には、青緑色のマウスピースのようなものが付いていた。
「セイレーンの声帯、歯に直接付けたんですか」
「そうよ」
ぐわくぐわんとその声が響いて聞こえる。
本来なら、屋外で、波の音に紛れて届くセイレーンの声が、閉めきられた室内で使われているせいか威力が強い。
「ふふ、私は素人だもの、これの力の調節なんて出来ないの。このままだと魅了した途端、廃人みたいになるから、扇子で調節してたのよ。さあ、こっちに来なさいエスカリオット、出来れば自我は残したかったけれど、あなたなら、例え操り人形になったとしても、きっと美しいわ」
ダイアナがエスカリオットに呼び掛ける。
シャイナは、はっとしてエスカリオットを見た。
シャイナは本来魅了が効きにくいウェアウルフで、先ほどのステファンの攻撃に備えて防御魔法を張った状態でダイアナの声を受けている。
そのシャイナでさえ、頭が痺れたようになっているのだ。
防御魔法なしで、シャイナより近くでダイアナの声を聞き、おまけに名前まで呼ばれたエスカリオットが耐えられるとは思えなかった。
エスカリオットは俯いていて、その表情は見えないが、ぎこちない足取りでダイアナの方へと近付く。
シャイナの脳裏に、ステファンの呆けて口元だけ緩んでいた顔が過る。
嫌だ。
ダメだ。
シャイナは凍りついた。
「いい子ね、エスカリオット」
ダイアナが再び、エスカリオットを呼ぶ。
「エスカリオットさん!」
シャイナも呼ぶが、エスカリオットのぎこちない動きは止まらない。
そんな、どうしよう、私のせいだ。
絶対に扇子だと思っていたのに、違った。
私のせいだ。
カッコいい義手をつけた私の黒豹なのに。
最近はすっかり口数も増えた私の黒豹なのに。
よく笑うようにもなった私の黒豹なのに。
毎朝、美味しいコーヒーを淹れてくれる私の黒豹なのに。
料理もして、狼の私を優しく撫でてくれる私の黒豹なのに。
キャロットケーキを作ってくれる私の黒豹なのに。
何よりも強い私の黒豹なのに。
私にだけ、甘い目をしてくれる私の黒豹なのに。
あれは、私の黒豹なのに。
嫌だ、絶対に渡すものか。
「あら、なあに、その目付き。あなた魅了が効かないのね」
シャイナの様子に気が付いたダイアナの声が、遠くで微かに聞こえた気がした。
「まあいいわ、エスカリオット、私のためにその女を殺しなさい」
エスカリオットへの命令も、とても小さく聞こえる。
シャイナの視界が真っ赤に染まった時、エスカリオットがダイアナの首へと義手の左手を伸ばした。
バチッと音がする。
シャイナはすぐに状況を飲み込めなかった。
真っ赤な視界の中、ダイアナが意識を失って崩れ落ちた。
「…………?」
その横で、エスカリオットが無表情にそれを見ていて、何度か煩わしそうに頭を振っている。
崩れ落ちたダイアナはぴくりとも動かない。
「あれ?……エスカリオットさん?」
あれ?魅了は?
驚くシャイナを無視して、エスカリオットは少しぎこちないながらも迷いなく、倒れたダイアナのドレスを破きだした。
「エ、エスカリオットさん?」
驚愕するシャイナ。
何だこれは?意識を失わせて、好きなようにする的な?
えっ????
魅了ってそういう効果じゃなくない??
相手の支配下に置かれるんだよね?
相手を支配下に置くんじゃないよね?
エスカリオットともなれば、魅了の効き方も違うんだろうか。
どうしよう、止めるべき?
止めるべきだよね?
混乱するシャイナを尻目に、エスカリオットは破ったドレスの切れ端でダイアナにまず猿ぐつわを咬ませた。
「…………ん?」
その後も黙々とドレスを破り、それでダイアナの手足を拘束して、床に転がす。
どう見てもいつものエスカリオットだ。
シャイナの視界が元に戻る。
「エスカリオットさん、魅了は?」
「かかってない、心配するな」
「本当に?」
「ああ」
「ダイアナ嬢は?」
「左手の電撃で失神させた」
シャイナが冷静に改めてダイアナを見ると、白目を向いて泡を吹いていた。
「え?でも、魅了は?」
シャイナはエスカリオットの側まで行くと、その存在を確かめるように、ぺたぺたと腕やお腹に触れる。
「最初に名前を呼ばれた時に身の危険を感じたから、自身に意識を保てる程度の電撃をかけ続けた。痛みで正気を保つのは精神系の魔法対応の初歩だ」
「それは……痛かったですね」
「痛みより痺れが厄介だった」
ああ、それで動きがぎこちなかったんだ、とシャイナは安堵する。
ぺたぺたとエスカリオットに触りながら、エスカリオットが正気な事にほっとしたせいで、じんわりと涙が出てきた。
「シャイナ、泣くな」
そっと涙が拭われる。
優しくされるとますます涙が溢れた。
エスカリオットのシャツを握りしめて、シャイナは泣いた。
一瞬、本気でエスカリオットを取られると思ったのだ。しかもエスカリオットの自由が奪われる形で。怖くて目の前が真っ暗だった。
「うう、ひっ、よかったです、エスカリオットさん。最初の呼び掛けで落ちなくて、本当によかった、ぐすっ」
あの状況で通常の人なら、一度目の呼び掛けでダイアナの虜だっただろう。
もしエスカリオットがダイアナの命に従ってシャイナに向かってきていたら、上手く対処出来た自信はない。
「魅了の効き方には個人差があるからな、加えて、既に囚われている者には効きにくい」
エスカリオットがそっとシャイナを抱き締める。
「ぐすっ、既に囚われているとは?」
「俺は既に、白い狐の虜だ」
ぽんぽんと背中を優しく叩かれた。
「………おおかみですう」
シャイナは小さく抗議して、自身もエスカリオットの背中に腕を回してぎゅっとしながら、しばらく、ぐすぐすと泣いた。




