2話 世界最強の購入(2)
闘技場を出てシャイナは後ろを振り返った。
たった今自分が買った世界最強の奴隷、エスカリオットが付いて来ている。
エスカリオットはシャイナに付き従うというよりは、道案内をさせているというように悠然と歩いてくる。
左腕がないのによく悠然と歩けるな、と感心する。あったものが無くなってバランスは取りにくい筈なのにそんな様子は全く感じさせない。
「エスカリオットさん、でよろしいですか?あなたの主人となったシャイナです」
「…………」
スルーだ。でも、こっちをちらりと見てはくれた。
意思の疎通が出来る予感である。
「こう見えて凄い魔法使いなんで逃げようとか思わないでくださいね。痛い目みるのはあなたですからね。」
見てくれたし、ちょっとびくびくしながらも続ける。
「…………」
スルーだ。
エスカリオットは無言でシャイナを見下ろす。
「沈黙は肯定ととりますよ。では、エスカリオットさんとお呼びしますね。血塗れの貴方を連れ歩く訳には行かないので、ここからは移動の魔方陣で帰ろうと思います。これくらいの距離なら問題なく帰れるはずです。知ってますか?移動の魔方陣。」
「…………」
「では知ってる体でいきますよ。」
シャイナはさっとズックより羊皮紙に書かれた魔方陣を取り出した。
「移動の扉よ、開け。」
決められた言葉を紡ぐと羊皮紙の魔方陣が光り、浮かび上がった後、大きくなってシャイナの足元に展開する。
魔方陣から出る薄紫色の光がシャイナを包む。
シャイナはエスカリオットに魔方陣に入るように声をかけようとするが、声をかける前にエスカリオットはすっと魔方陣に入ってきた。
無言の肯定通り、移動の魔方陣をちゃんと知っているようだ。
しかも自ら入って来てくれた。
シャイナはほっとした。
良かった。
さっきから一言も発しないし大分舐められているようだから、もしかしたら入って来てくれないかもと不安だったのだ。
シャイナは安堵しながら、魔方陣の光りと歪みに身を委ねた。
数秒後、シャイナとエスカリオットは王都の職人街にあるシャイナの薬草店の住居部分に立っていた。
足元には羊皮紙に書かれていたものと同じ魔方陣が床に直接描かれていて、薄く光っている。
シャイナ達が降り立って少しすると光は収まった。
移動の魔方陣は、ある地点に予め描かれた魔方陣へ、外で同じ魔方陣を描くことで移動出来るものだ。移動距離が長くなると誤差が出て変な場所に行ってしまったりするので万能ではないが、近距離をこうして帰ってくるのには非常に便利だ。
我が家に降り立ち、変わりがないか見回す。
異常はない、いつもの我が家だ。
シャイナの家は、元々は複数店が入っていた建物を一棟買ったので広い。1階が店と作業場で、2階が住居部分になっている。3階は倉庫だ。
2階の住居にはゆったりしたダイニングにキッチンがあり、奥にはシャイナの寝室とそれに続いて広い浴室がある。元々は隠れ家的な高級ブティックが入っていてので床は全て大理石仕様だ。
シャイナとエスカリオットはそのダイニングの隅に降り立っていた。
「さて、ではエスカリオットさん。まずはその肩の傷を治しますね」
シャイナはエスカリオットを見上げて言った。
「…………」
「屈んでもらえますか?」
その言葉に無言で屈んでくれる。
初めて命令を聞いてくれた、傷は治してもらいたいみたいだ。
うむうむ、すぐに治してあげよう。
エスカリオットが屈んだ事で、薄汚れて窶れているがそれでも美しい顔が間近にきてちょっとドキドキしてしまう。
シャイナはふるふると首を振って雑念を追いやると、エスカリオットの肩口に手を翳した。
「彼のものの傷を癒せ」
ぱあっと肩口が光り、傷が癒えていく。むき出しだった傷がふさがり新しい皮膚がそこを覆った。
エスカリオットが初めてちょっと目に光りを宿して自分の肩口を見ている。
「えへへ、凄いでしょ。これの凄さと早さ分かります?治癒魔法は得意なんですよ。私のAランク、ほぼこれです」
「小娘のくせにやるな」
エスカリオットは立ち上がると、やっぱりシャイナを見下ろしながら初めて口をきいた。
低くてよく通る声だ。
「しゃべった!よかった!しゃべれるんですね!」
口をきいてくれてすごく嬉しい。今の治癒で主と認めてくれたのだろうか?
そしていい声だ。
「…………」
「あ、黙った。今のはエスカリオットさんなりのお礼ですか?」
「…………」
「沈黙は肯定なのでお礼と受け取りますよ」
そう言っても否定されなかった。
お礼でいいみたいだ。
ちゃんとお礼も言える人なのだとほっとする。
「さ、傷も塞いだしエスカリオットさんはお風呂に入ってください。気付いてますかね?凄い臭いです。何日も洗ってませんよね。血と泥も落としてもらわないと困ります。家の中ですからね」
「…………」
「お風呂」
「1人で入った事がない」
ニヤリと笑いながらエスカリオットが言った。
「笑った……良い兆候ですね。私に慣れてきてくれましたね。1人で入った事ない訳がないでしょう」
「貴族だったからな」
「奴隷生活5年とゼントさんから聞いてますよ」
「剣闘士奴隷の時は臭いがひどくなると適当に水をかけられて洗われていた。だから洗ってくれご主人様」
エスカリオットがニヤニヤする。
「えっ!?」
洗ってくれ、という言葉にシャイナは一瞬動揺し、でもすぐに冷静になった。
これは……完全に揶揄われている。
シャイナは今度はむっとした。きっ、とエスカリオットを強い眼差しで見据える。
貴族様のくせに叩き上げの魔法使いをなめないでほしい。
受けて立って全身洗ってやろうか、とも思ったが、ふと、もしかしたらこれは甘えているのでは?という考えが過る。
ほら、子供が大人にわざと憎らしい態度を取ってどこまで許されるか試してくるあれだ。
許してくれる優しい大人にだけするやつだ。
そういう事なら大人の余裕の態度をとらなくては。
「仕方ありませんね。では頭は私が洗ってあげます。エスカリオットさんは甘えたさんですね」
シャイナは大袈裟にため息をつくと、やれやれという感じで言った。
「お風呂こっちですよ。寝室通らないと行けないので、出来るだけ泥を落とさないように来てくださいね」
シャイナが歩きだすと、エスカリオットは肩を竦めてから付いてきた。
エスカリオットが背後から付いてくる気配にシャイナは胸を撫で下ろす。
さっきは全身洗ってやろうか、と決意はしたがこちらはまだまだうら若い乙女なのだ、そんな事態にならなくて良かった。
広々とした寝室を通り、浴室へと向かう。
寝室にはダブルサイズのベッドが1つと書き物机が1つ、そして隅には1週間前に馴染みの武具店で購入した大型の魔物用の檻が置いてある。大人の男性でも余裕で入れる大きさのものだ。
1週間前に納品してもらった時はその異様な存在感にうなされたりしたがすぐに慣れて、シャイナにとっては今や寝室の風景の一部だ。
寝室からやはり広々とした浴室に入る。
こちらを買って改装した際に、部屋数を減らして1つ1つの部屋を広くしてもらったから浴室もずいぶん広い。
曇りガラスの丸い窓があって日中は灯りをつけなくても十分に明るい浴室には猫足のバスタブが鎮座し、床には細かなターコイズブルーのタイルが張ってある。
自慢の浴室だ。自慢する人はいないが。
蛇口を捻ってお湯をバスタブへと貯める。市販されているお湯を出す魔道具にシャイナが少し細工して薬湯が出るようにしてあるので、そのお湯は少し緑色がかって独特の匂いがしている。
「今日は疲労回復とリラックス効果のある薬湯を入れてます。後ろを向いてますので、服を脱いでタオルを巻いてから浸かってください」
エスカリオットにタオルを渡して後ろを向く。
耳を澄ましていると服を脱いでいる気配がしてやがてざぶりとお湯に浸かった音がした。
今回の命令にも素直に従ってくれた。
シャイナはほくほくしながらエスカリオットの頭を丁寧に洗ってあげる。
たらいにお湯を貯めて、ごわごわべたべたの絡まった黒髪を浸けると、脂とか埃とか土とか小さな虫の死骸なんかがあっという間に浮かんできた。
お湯を変えて何度か頭全体を浸ける。虫の死骸が浮いてこなくなった辺りで毛先の絡まりをゆっくり解す。
お湯の濁りが一段落してからシャンプーで髪の毛を洗う。最初はべしゃべしゃするだけで全く泡立たない。
あまりに汚れすぎていて泡立たないのだ。
「これ一体いつから洗ってないんですか?」
「さあな」
気持ち良さそうに目を瞑っているエスカリオットから意外にも返事が返ってきた。
お風呂がお気に召しているようだ。
髪をオールバックにしてバスタブのへりに頭を預け、長く黒い睫毛で頬に影を作りながら目を瞑るエスカリオットは美しい。
すっと通った鼻筋に薄い唇、少し削げた頬、眉毛から生え際までの額の完成されたライン、全てがまるで彫刻のように整っている。
綺麗……。
シャイナは手を動かしながらじっくりと彫刻を観賞した。
バスタブのお湯もすぐに濁ったので、蛇口は捻ったままでお湯を掛け流しにしている。濁ったお湯はバスタブから溢れてタイル張りの床を流れ排水溝へと吸い込まれていく。
髪の毛は3回シャンプーをすると、3回目でようやく泡立ってきた。
やれやれ。
「あと1回シャンプーして終わりにしますね」
「ああ」
なんと、エスカリオットが素直に相槌をうってくれる。
お風呂に入れてあげて良かった。
4回目のシャンプーを終え、泡を流す頃には床を流れるお湯も濁らなくなっていた。
シャイナはお湯を止める。
「このままもう少し浸かりますか?」
「そうする」
目を瞑ったままでエスカリオットが言う。
「じゃあ着替えを出しておくので、終わったらそれを着てダイニングへ来てください。エスカリオットさんのここでのお仕事について説明しますので」
「分かった」
おおー、エスカリオットとの会話が成立している。お風呂マジック。
お風呂、好きなのかな、いろんな薬湯あるから試させてあげようかな。
大きな黒豹を手懐けているようで楽しい。
シャイナはうきうきと薬湯の種類について思いを馳せながら浴室を後にした。