10話 満月の夜に(1)
満月の夜当日の朝、シャイナは若干の二日酔いで重たい頭を抱えながら起きた。
頭は重いが、夢で優しく笑うエスカリオットを見たので気分はいい。
どういう夢だったのだろう。筋は全く覚えていないが、あの笑顔を思い出すとニマニマしてしまう。
昨日は1杯目の酒を飲み終わった辺りから記憶が曖昧だ。でもエスカリオットに手を引かれて何とか歩いて帰ってきたような気がするし、風呂も入ったような気はする。
今朝、自分のベッドで寝巻きを着て寝ていたという事はそうなのだろう。
ダイニングへ行くとエスカリオットはソファでまだ眠っていた。
シャイナは起こさないようにそうっと朝食の準備にかかる。
昨夜の久しぶりの外食とお酒で胃が疲れているので、優しいスープとパンだけにする。
細葱をみじん切りにして、とき卵と鶏肉の欠片を加えてスープを作り、ライ麦入りのパンを温めた。
スープの匂いでエスカリオットが目を覚ましたようだ。
「おはようございます、エスカリオットさん」
むくりと起き上がったエスカリオットにシャイナが声をかけると、こくりと頷かれた。
エスカリオットは使っていた毛布をきちんと畳むと、寝起きの気だるい色気を纏ったままでキッチンにやって来た。
キッチンでそんな色気を振り撒かれるとドキドキしてしまう。
「どうしました?」
「コーヒーを淹れる」
「あ、そ、そうでしたか。では私は食卓を準備しますね」
ドキドキしてどもってしまった。
朝食を並べて座って待っているとコーヒーがやって来て、2人で食べ始める。
「エスカリオットさん、今晩がいよいよ満月です」
「…………」
「狼への獣化が始まるのは、月が南中する時刻なので真夜中近くだと思われます」
「夜になったら王都の外れにでも行くのか?」
「へ?いやいや、行きませんよそんな開けた所。狼の私には騎士道精神なんてないので、目の前に手強そうなエスカリオットさんがいたら一目散に撒いて適当な人里の非力な住民を襲うでしょう」
「そういうものか」
「そういうものです。私の寝室に結界を張って出れないようにするのでそこで捕縛してもらえたら、と考えています。さすがに部屋より大きくはならないと思いますので」
「分かった」
「なので本日エスカリオットさんはお昼寝して、夜はしっかり起きてられるようにしてください」
普段のエスカリオットは夕食後、風呂に入るとすぐ寝てしまうのだ。
「ふむ」
エスカリオットは頷いてから、ニヤリと笑った。
「夜はシャイナの望み通り縛ってやろう。俺の趣味ではないが」
ごほっっ。
コーヒーが変な所に入る。
「ごほっ、ごほっ、エスカリオットさんっ、そういう言い方、げほっ、違いますよ!狼の捕縛です!捕らえるやつです!」
むせながら抗議するシャイナを無視して、エスカリオットは優雅に朝食を食べた。
朝食の後、エスカリオットはシャイナに室内で簡単な筋力トレーニングをしても良いか、と聞いてきた。
一昨日、シャイナの黒炎の蛇とヒトカゲと闘って、腕が鈍っていると感じたらしい。
シャイナが部屋に害がないなら構わない旨伝えると早速シャツを脱いで腕立て伏せを始めた。
「わっ、エスカリオットさん。シャツを脱ぐ必要ありますか?」
眼福ものの上半身が突如現れてシャイナは焦る。
「汗で濡れる」
「あの、上半身裸はちょっと……」
「俺の裸くらい何度も見てるだろう」
「いや、まあ、見てますけどね。あれは初期の緊急事態で見ただけであって、こういう日常で見るのはまた違いますよ。目のやり場に困ります」
「すぐに慣れる」
「ええー」
「この肉体もお前の所有だシャイナ。自分の体だと思えばいい」
「いや、それは無理ですよ」
とりあえずシャイナは出来るだけエスカリオットの方を見ないようにする。
エスカリオットは義手の左手1本での腕立て伏せをやり出した。
「シャイナ、この義手は鍛える意味はあるのか?」
左手1本での腕立て伏せをしながらエスカリオットが聞いてきた。
「その義手はエスカリオットさんの体の状態に合わせて強度を勝手に調整するので鍛える意味自体はないですけど、使い込む事は良い事なのでいつもと同じように鍛練してください」
「ふむ、分かった」
エスカリオットは腕立て伏せを続けた。
左手が終わると右手1本で同じようにやりだす。
ぽた、ぽた、とエスカリオットの汗が床に落ちる。
少し荒い息遣いも聞こえてきて、シャイナは見ないようにしていても、どうしてもエスカリオットの裸体とそれが躍動する様を想像してしまって赤面した。
これは……何だかすごく居心地が悪い。
「エスカリオットさあん、ダメです。貴方すごい色気なんですよ。無理です。同じ部屋で筋トレは止めましょう。私の寝室使ってにしてください」
シャイナは音をあげて、エスカリオットに寝室に移ってもらった。
***
その夜、いつも通り昼から薬草店で働いて夕飯を済ませ風呂にも入ってからシャイナは寝巻き姿で寝室にエスカリオットと居た。
何だかドキドキしてしまいそうなシチュエーションではあるが、月はそろそろ天高く昇り詰めそうでシャイナはそれ所ではない。
さっきから心臓の鼓動が大きいのは、エスカリオットと2人で寝室に居るせいではなさそうだ。
どくん!
心臓が大きく脈打つ度に自分の体がふわりと実体が無くなるような感覚がする。
とても久しぶりの獣化の感覚に身を任せるのが怖い。
私、どれくらい大きな狼になるんだろう。
自分の両手を見てみる。
まだ人間の手だ。
どくん!
やっぱり狂暴なのかな?
シャイナは血に飢えた恐ろしく大きな狼を想像してみる。しかも炎を扱うのだ。
エスカリオットが簡単にやられるとは考えにくいが、振り切って周辺を襲ったらと思うと怖い。
寝室に結界は張ってあるが、自分のかけた結界だから狼の私は解けるかもしれない……。
そう考え付いてしまってシャイナは震えた。
グスタフさんやエイダさんや店の常連さんやギルドの顔馴染みを襲ったらどうしよう。
た、食べたりしないよね?
「シャイナ」
名前を呼ばれてシャイナはびくっとした。
いつの間にかエスカリオットが側に来ている。
「エスカリオットさん」
「…………」
エスカリオットは無言でそっとシャイナの手を握った。
「お、狼って、人を食べたりするでしょうか?」
「……羊の方が好きだと思うが。」
「この辺りに羊は居ません。」
「お前は今、腹は空いてないだろう。」
「……確かに。」
エスカリオットが握ったシャイナの手を親指ですりすりと撫でてくれる。
「私、エスカリオットさんより強かったらどうしましょう」
「シャイナ、俺より強い奴なぞいない」
「本当に?」
「本当だ」
「すごい自信ですね」
「ああ、お前が買ったのは世界最強の奴隷だ」
「でも私だって、実はSランクの魔法使いです」
「そのお前が付けてくれた義手もある。電撃は狼にも効くだろう」
「あ、そうでしたね。電撃もあるんだった。それは流石に効く筈です」
「出来れば苦しませずに自由だけ奪いたいが、難しければ使う事になると思う」
「遠慮してたら負けますよ、エスカリオットさん、今の私の可憐な姿に絆されちゃダメです」
シャイナの言葉にエスカリオットはほんの少し笑い、少し調子が戻って来たな、と言った。
「あまり怯えるな。獣化前の精神状態は狼になった時にある程度影響するだろうから、落ち着いていろ。怯えて牙を向くお前に剣は向けづらい」
「ううっ、エスカリオットさんは良い人ですね」
緊張と恐怖が緩んでシャイナはポロポロと泣いた。
エスカリオットとはまだ出会って数日なのに、ずいぶんと心を許している事に自分でもびっくりする。
「シャイナ、泣くな」
「泣かせたのはエスカリオットさんですう」
そう言って涙を拭いていると、心臓がまた脈打った。
どくん!
「あ」
シャイナは自分の体がぱあっと光るのを感じた。目の前が真っ白になって何も見えなくなる。
シャイナの寝巻きがぱさりと床に落ちた。
お読みいただきありがとうございます。
あと3話くらいの予定です。




