9話 乳母の裏の顔
使用人たちの書類を見ると、やはりライザはマティアス様とイーサン様の乳母に違いなかった。二人の乳母を務めたライザは、きっとこの邸宅内でそれなりの信頼を得ているはず。
これは、ライザについて詳しそうな人に話を聞く必要がありそうだ。ということで、私はジェロームを書斎に呼び出した。
「ジェラルド様のメインのお世話役はライザですよね?」
「はい、左様でございます」
「では、ライザをジェラルド様の世話係にすると言うのは、誰の発案ですか?」
「マティアス様です。ご自身の乳母だったので大丈夫だろうと。それにライザさんは、亡くなった大奥様の御実家から付いてきた侍女でしたから」
――マティアス様の発案だったのね。
しかも、よりにもよってお義母様の侍女だったなんて……。
私にとってのティナみたいな存在というわけね。
「マティアス様の発案だったんですね。なるほど……」
提出書類には、なぜか侍女の経歴が書かれていなかった。だが、この経歴がマティアス様の信用を得るのに、一役買っていたのだと窺える。
――書類で虚偽が判明したら処罰の対象と言ったのに、どうしてこの書いて損の無い経歴を書かなかったのかしら?
ライザの人物像が上手く捉えられないわ……。
それにそもそも、マティアス様やイーサン様と歳の離れたジェリーには、ジェリーの乳母がいたはずだ。その人はどこに行ったのだろうか。
こうして新たな疑問が湧き、私はジェロームに続けて訊ねた。
「ところで、ジェラルド様の元々の乳母はどうしたんですか?」
「彼女は授乳の役目が終わり、夫の実家の手伝いがしたいと職を辞しました。そのため、ライザさんが世話役を引き継いだのです」
授乳だけの役割を果たす乳母というのは、たまに聞く話だ。きっと、ライザがいたからその乳母も辞めやすかったのだろう。
面談の時は至って普通の人だと思っていたが、どうやら人によって態度を変えていたみたいだ。不覚にも見抜くことが出来なかった。
「奥様、どうかされましたか? っ……ライザさんに何か問題が?」
「ええ、かなりの問題です。至急、ライザを呼んできてくれますか?」
「――っ! はい、承知いたしました」
私の表情から、緊迫さを読み取ったのだろう。さすがジェローム、ヴァンロージアのこの広い屋敷を管理しているだけあって有能な執事だ。
そんなことを考えているうちに、ジェロームに連れられライザがやって来た。
「奥様、急に呼び出しとは何事でしょうか?」
堂々とした佇まいでハキハキと話をする彼女からは、まるでこの家の女主人のような圧さえ感じる。だが、そんな圧になど負けていられない。
「単刀直入に言います。ライザ、これ以上あなたをジェラルド様と一緒には居させられません。よって、世話役から解任します。ですが代わりに――」
……代わりに別の職務を与える。そう言おうとしたが、ライザがその言葉を遮った。
「突然何を仰るのですかっ……? 今まで私がジェラルド様の世話をしてきました。解任なんて聞き入れられません!」
そう言い始めたのを機に、ライザは「絶対に私がジェラルド様の世話役をする」と私に向かって捲し立て始めた。
正直、解雇すると言えば今のように怒ると思った。だからこそ、ジェリーの世話役を解任すると言っただけで、まさかここまで怒るとは思わなかった。
ライザについては、亡きお義母様やマティアス様の顔も立てるつもりで別の職務に就けようとした。
だが、別の職務に就けると言っても、彼女はジェリーの世話役をすると言い張っている。
そのうえ、説明しようにも喚いてこちらに喋る隙を与えようとしない。
――もうこれでは埒が明かないわ。
そう踏ん切りを付け、かなり語気を強め彼女の名を発した。
「ライザ……!」
驚いたのか、彼女は一瞬静まった。私はこの瞬間を逃す訳にはいかないと、すかさず言葉を続けた。
「普段あなたがジェラルド様にかける言葉を、マティアス様やイーサン様の前で言えますか?」
「――っ!」
ライザの目が泳いだ。
「言葉は刃、ペンは剣より強しと言います。私はこれ以上、あなたをジェラルド様に近付けたくありません」
無作法だとか、この際気にしていられない。なんせ、貴族らしく婉曲的に話しても伝わらないのだから。
そのため、はっきりと近付けたくないと彼女に告げてから、私は言葉を重ねた。
「あなたには別の職務を与えるので、そちらの仕事をしてください」
すると、自身の所業を私がすべて知っていると理解できたのだろう。突然ライザが豹変した。
「良いわ! 分かったわよ! お嬢様を殺した人間の世話役なんて、まっぴらごめんよ! マティアス様が帰ってきたら、あなたのこともめちゃくちゃに言ってやるわ!」
「どうぞお好きになさってください。しかし、雇用継続にあたって今の発言は聞き捨てなりません。訂正してください」
「は? 何を?」
「お義母様を殺した人間などこの家にはいません」
「何を言っているの? ジェラルド様こそ立派な人殺しじゃない! 私の大切なお嬢様を殺したのよ!?」
確かにジェリーの出産が原因で、お義母様が亡くなったとは聞いた。しかしだからと言って、ジェリーが人殺しかというとそれは絶対的に違う。
だが、自身の主に対する執愛がとんでもない彼女は、何を言ってもジェリーがお嬢様を殺したとしか認識できないだろう。どうやら、認識を改める気も無いらしい。
――もう別の職務も無理ね。
こんな状態の人をこの家で雇い続けるなんて、以ての外だわ。
マティアス様や亡きお義母様の顔を立てたかったけれど限界よ……。
「はあ……何を言っても無駄なようですね。あなたの考えは分かりました。私はこの家の女主人として、今日付であなたを解雇します」
「上等よ! だけど、あなたからじゃない、こっちから辞めてやる!」
「分かりました。では、依願退職ということですね」
「そうよ! ……っ私にこんなことして、マティアス様とイーサン様が許すわけないわ! 絶対に覚えておきなさい!」
そう言うと、ライザは怒った様子で部屋から出て行った。忘れたくても、こんなインパクトの強い人間を忘れられるわけないだろう。
――これで少しは、ジェリーの心にも平穏が訪れてくれるわよね。
さて、ジェリーの世話役を決めないと……。
善は急げだ。早速、使用人の書類を取り出し私は選別を始めた。すると、ある使用人に目がいった。
「ねえ、ティナ。ジェリーのお世話役に、このデイジーという使用人はどうかしら?」
「この方は平民出身では?」
「平民だけど、挨拶をしたとき一番温かみのある良い子だと感じたわ。それに、この使用人だけで面倒を見る訳じゃないもの」
そう言うと、ティナは使用人の選定に共感とともに賛成を示してくれた。そこで、私はティナにこれからの計画を伝えた。
「ねえ、ティナ。私、しばらくジェリーのガヴァネスのような役割をしようと思うの」
「お嬢さ……いえ、奥様が直接ですか!?」
「ええ、そうよ。あの子は勉強に興味があると思うの。だからガヴァネスを雇ってあげたいけれど、愛着に問題がある甘えたいざかりの五歳よ。……ガヴァネスに母代わりはさせられない。でも、その役割も兼ねたガヴァネスを、私なら出来るんじゃないかなって……」
ガヴァネスを雇うと、ジェリーはそのガヴァネスを、母のように慕う可能性が出てくる。しかし男児の場合、ガヴァネスが面倒を見る期間は僅かだ。
それらとジェリーのこれまでの環境を踏まえ考えると、ガヴァネスを雇うことはある意味酷かもしれないと思えた。すると、ティナも理解したのだろう。
「ふふっ……奥様らしいですね。私は大賛成です!」
そう言って、賛成してくれた。こうして今後の方向性が決まり、私は約束通りジェリーと一緒にディナーの席に着いた。
「ジェリー、明日から読み書きや算数の勉強をしてみない?」
やりたくもない人に、いきなり強制はしたくなかった。だから、まずは提案を受けるか受けないかの反応を見ることにした。
すると、彼の反応は予想通りだった。
「ちょっぴり……やってみたいかも」
「良かったわ。じゃあ、明日から私と一緒にやってみない?」
「えっ……リアと!? 他の人だったらちょっと怖かったけど、リアなら嬉しいっ……!」
私が教えるとは思っていなかったのだろう。ここまで喜んでくれたら、嬉しくなってくる。会って間もないとは思えない。
流石五歳児、慣れて心を開くまでの速さが大人とは全然違う。まあ個人差もあるだろうが、ジェリーはもともと適応力高めか、私と相性が良いタイプだったのだろう。
そんな彼に、新たな質問をしてみた。
「あと、演奏してみたい楽器とかあるかしら?」
「僕……ピアノ弾いてみたいっ……」
「良いわね! それも一緒にやってみましょうか!」
そう声をかけると、ジェリーはとても嬉しそうににっこりと笑った。すると、そのタイミングで近くにいたジェロームがコソッと話しかけてきた。
「しばらく使用していないので調律できておりません。ここらに調律師はいないので、弾けるのは半月から多く見積って一ヶ月後程度になるかと……」
このジェロームの表情に、ジェリーは少し不安を覚えたようだ。心配そうな顔をしてこちらを見つめている。
「どうしたの……?」
「ピアノのお医者さんが来られるのが、半月から一カ月先だって教えてくれたのよ。だから、ピアノが直ったら挑戦してみましょうね!」
「そうなんだ……。じゃあ僕、ちゃんと直るの待つよ!」
そう言いながら、ジェリーはふふふと嬉しそうに口を押えて笑っている。そんなジェリーに私は王都の情報を教えてあげた。
「ジェリー、ピアノが弾ける男性は王都ではモテモテなのよ?」
「うん……。でも僕はリアにモテたらそれでいいっ……」
「あら、ありがとう。じゃあ、素敵な演奏を楽しみにしてるわね!」
「うん! 僕、頑張るね!」
彼はやる気に満ち溢れた様子だ。初めて会ったときとは違い、目が爛々と輝いている。
こちらが彼の本当の姿だったのだろう。そんな彼を見て、私はホッと胸を撫で下ろした。
その一方で、子どもに縁のない私はこんなやり方で大丈夫なのだろうかと一抹の不安も抱えていた。