87話 万感交到る〈カリス視点〉
エミリアには傷付いてほしくない。彼女には、常に幸せでいてほしい。
そう願っていたからこそ、離婚の承認が決定したことには心底安堵した。
本当だったら、エミリアにはこんな形で離婚なんて経験はしてほしくなかった。いくら僕がエミリアに想いがあるからといって、彼女のこんな不幸は望んでいなかった。
そう思いながらも、今回のことで僕は僅かな希望を感じていた。
彼女が僕と結婚できる世界線が出来たのだと……。
――って、そんな都合良くいくわけないよな……。
兄上のことがあって、貴族たちからは真人間とは程遠い存在だと思われている。その現実が、僕を嘲るように妨げる高い壁となって目の前を昏くしていく。
「……殿下……カリス殿下?」
「あっ……ごめんな、ジェラルド。どうした?」
エミリアがヴァンロージアに行き、そのあいだ僕はジェラルドの世話をしている。今はジェラルドの気晴らしのため、ピアノルームにやって来ていた。
そして、ジェラルドの演奏を聴いていたのだが、耳に入ってくる音色から、ついエミリアを連想して意識が他に向いてしまっていた。
――ジェラルドと一緒なんだから、しっかりしなきゃいけないだろ。
ジェラルドの声掛けで我に返った自身に、心で叱責する。すると、そんな僕を心配そうに覗き込む二つの翡翠が、不思議そうな声を出した。
「カリス殿下、ノックの音がしたよ?」
「あっ……教えてくれてありがとう。ちょっと見てくるな」
そう告げれば、ジェラルドはふふっと笑いながら、僕に愛嬌たっぷりの笑顔を向けてくれた。一番辛いときだろうに、こうやって笑うところはエミリアそっくりだと思う。
だから、そんなジェラルドの頭を軽く撫で、そのまま扉へと向かった。
「っ! ジュリアス……? どうしてここに?」
そこには、いつものケラケラと笑っているジュリアスではなく、神妙な面持ちをした別人のような兄がいた。
「コーネリアス兄上が、カリスのことを呼んでいる。……俺には何の話かは分からない。が、とりあえず王太子宮の談話室で待ってるそうだ」
「僕に話? 分かった……。じゃあ、ジェラルドのことを頼んでも良いか?」
「ああ、そのつもりだ。任せてくれ」
そう言うと、ジュリアスは気合を入れろとばかりに、僕の胸に拳を押し付け、即座に表情を切り替え室内へと入った。
「ジェラルド! カリスは呼び出しがあったから、戻ってくるまで俺と過ごしてくれるか?」
「ジュリアス殿下っ……!」
キャッキャとはしゃぐ二人の声が背後から聞こえる。そのため、僕は二人が居る方へと向き直り、二人に軽く手を振り兄上の元へと向かった。
◇◇◇
「来たな。そこに座ってくれ」
コーネリアス兄上は、僕が来るなり席に座るよう促した。兄上の表情を見れば、いつものような厳しさがどこか緩和しているような気がする。
――気のせいだろうか?
何かいつもと雰囲気が違うような……?
敵意を感じないという例えがぴったりかもしれない。そんな兄上に戸惑いながら、僕は呼び出した理由を訊ねた。
「ジュリアスから兄上がお呼びと聞きました。用件は何でしょうか?」
「忙しいだろうから、端的に話そう」
そう言うと、兄上は少し緊張した様子を纏いフッと息を吐いた。そして、僕の目をジッと見つめると質問を投げかけてきた。
「一昨日、父上と私が話をしていたのは知っているだろう?」
「はい」
「実は、この国の展望に関する話をしていたんだ。そこで、私は父上に三つのことを提唱した。一つは、貴族と平民の両者が通える学校を王都に作るということ。二つは、女性も領主権が持てるようにするということ。そして最後の一つは、西の辺境次第で国の在り方を変えるかもしれないということだ」
「っ……! なぜそれを僕に言うのですか?」
心当たり気にかかる言葉が多い提案に、思わず動揺する。
すると、兄上は口をキュッと引き延ばした後、意を決したように口を開いた。
「このあいだの舞踏会でエミリア夫人と話をしたんだ。そこで、この三つがこれから国の展望になると考えた」
そう告げる兄上は、どこか悲し気な顔をしている。かと思えば、兄上はおもむろに敬意を表すかのように、指先を揃えて自身の胸に右手を置いた。
そして、衝撃的な一言を発した。
「カリス、すまなかったっ……。私の弱さがお前を苦しめてしまった。王子としての評判を落とさざるを得ない状況にしたこと、お前に愛を手放させたこともっ……。謝りきれるものではないのは承知だが、どうか謝らせてくれ……」
――兄上は何を言っているんだ……?
愛を手放させたって、エミリアのこと……だよな?
「兄上は……すべて知っていたんですか?」
「すべてではないが……っああ、だいたいのことは把握している」
「っ! なぜっ、なぜ今なのですかっ……」
エミリアが結婚する前だったらっ……。そう思い、やるせない気持ちが込み上げてくる。そのため、思わず兄上に堪えきれなかった感情の一部をぶつけた。
「すまないっ……。だが、どれだけ遅くともきちんとお前に謝りたかった。お前が受けた苦しみに対し、謝罪したかったんだ」
「……自己満足ですか?」
「っ! ああ、そう思われても仕方ない。ただ、少しだけでも償わせてほしい。今言った提唱案も、その贖罪の一部だ」
そう言われ、ふと兄上の提唱案を思い返す。そして、ふと気付いた。
「エミリアからの提案なのですか?」
「ある意味そうとも言える。舞踏会の日にエミリア夫人と話をして、彼女の置かれた状況や考えを知り、次期国王としてこの案を提唱したんだ」
その言葉と共に姿勢を戻した兄上は、真剣な面持ちで言葉を続けた。
「私がお前にこんなことを言うのは図々しいとは分かってる。だが……どうかお前の力を貸してほしい。これからの国の未来のためには、お前が必要なんだっ……」
いつも冷たく、誰も近付けないというような兄上が、初めて僕に棘の無い姿を見せた。
この人のせいで、エミリアとの未来は寸断されたんだぞ。
そう思うが、今の兄上を見ると、発言の切実さと偽りなき真意が伝わってくる。
――人生は常に未来しかない。
そこで、兄上を拒絶することは果たして正しいのだろうか……?
都合よくまた裏切られるかもしれない。だが、裏切られなかったら、これからは僕自身を周りから誤解されない生き方が出来るかもしれない。
その二つについて心の天秤にかけると、後者の方が重みを持ち傾いた。
許せるか……。そう問われると、答えは否だ。しかし、これからの兄上との関係次第ではその答えは変わって来るだろう。
エミリアだって、アイザック卿と和解をした。僕も、一度は兄上と関係の修復を試みたって良いんじゃないか。
心の中には、いまだに葛藤が渦巻いている。平静でなんていられない。だが、一縷の望みをかけるように、兄上に返事を返した。
「分かりました。僕だって、兄上と争いたいわけではないです。ただ……今はまだ許せない感情が勝っています。ですが、国の未来のためとあらば、兄上に協力しましょう」
「ああ、っすまない。ありがとうっ……」
謝るのか感謝するのか、どちらかはっきりしてほしいものだ。そう思いながら、瞳に薄らと涙を浮かべる兄上を見て、激動の心を抱えながら、その後も兄上の話に耳を傾けた。
その中で、兄上は僕やジュリアスに対する不当な態度を取った理由を説明した。僕からのどんな質問に対しても、詳らかな答えを返してきた。
その時間は、きつく結ばれ酷く絡まった糸を、丹念に時間をかけて解すかのような時間だった。
そして最後に、兄上の提唱案に関する具体的な構想と、父上にした説明を聞いたところで、この日はお開きとなった。
気分はどうか。そう聞かれたら、万感交到るとしか言いようがない。
嬉しいような、でも嬉しいかと聞かれたら違うと言いたくなる。
泣きたいようで、でも涙は出てこない。解放されたようで、解放されたとも感じない。
甘くて苦い、そんな風にも感じる。とにかく、そんなとりとめのない感情が兄上と別れて以降も、僕の心をグルグルとかき乱していた。
◇◇◇
「ジュリアスとは楽しい時間が過ごせたか?」
部屋に戻り、僕を出迎えてくれたジェラルドに訊ねる。それに対し、ジェラルドは穏やかな笑みで「うん!」と頷いた。
すると、扉の奥からジェラルドに付随するように声が加わった。
「だよな! ジェラルドとはメロディーのフィーリングが合うんだ」
ジュリアスのその言葉を聞き、パッとピアノの譜面台に目を向けると、手書きの五線譜が視界に入った。どうやら、二人で作曲していたようだ。
なんて思っていると、ジュリアスが椅子から立ち上がり、扉の近くに立っている僕の元へと歩み寄ってきた。
「じゃあ、俺は戻る。ジェラルド、カリスにも聴かせてやってよ。また来るからな」
そう言うと、ジュリアスは手をひらひらと振りながら、そのまま部屋を出て行った。そのため、僕は去り行くジュリアスからジェラルドに視線を戻した。
「ジェラルド、どんな大作が出来たんだ?」
気分を切り替えようと、思わず大げさに訊ねた。すると「大作じゃないけど……」とモジモジしながら、ジェラルドは五線譜に並んだ音符通りに音を奏で始めた。
――綺麗だが、少し哀愁を感じるメロディーだな。
短調だからそう思うのだろうか?
明るい曲かと思いきや、ほの昏さを感じる曲調に不意を突かれた気持ちになる。そして、演奏が終わり、美しい音色に賛辞の言葉をかけながら、その理由を訊ねることにした。
「どうして短調の曲にしてみようと思ったんだ?」
直球で言うと、ジェラルドは少し発言を躊躇う様子を見せた。そして、笑顔を真顔に変え質問の答えを返した。
「ジュリアス殿下が、俺が書くから今の気持ちを譜面に落とし込んで弾いてみたら? って言ってくれたんだ。それで、この音でこんなリズムやテンポの気分でって言ったらこうなったんだ」
そこまで言うと、ジェラルドは本音を漏らすようにぼそっと独り言ちた。
「リアが心配なんだ」
「っ……大丈夫。心配いらないよ。僕がいるから安心してくれ」
ジェラルドの暗さの理由が分かり、反射で答えた。そんな僕の顔をジェラルドはジッと見つめると、更に言葉を続けた。
「リアの事、僕たちが離れた後も守ってくれるの……?」
「ああ。当然だよ」
「そっか……良かった。じゃあさ、僕に出来ることって何かあるかな?」
純真無垢でつぶらな瞳が向けられる。それは、エミリアに対するジェラルドの心からの純粋な思いやりのように感じ、僕はそれに対する誠実な答えを返した。
「ジェラルドが元気で優しい子になったら、エミリアはそれだけで喜ぶと思うよ」
「本当?」
「ああ、本当だ」
「じゃあ、僕もっといっぱい食べて元気になる。あと、賢さもあった方が良いよね……。もっと勉強もするし、リアに曲を贈れるくらいピアノも頑張る!」
実に健気なジェラルドの言動に、思わずいたいけさを感じて頬が緩む。
幼いながらに、実年齢よりも高い知能を持っているからこそ、ある意味、同年代の子どもよりつらい部分も多いはずだ。
だが、そこを乗り越え向上しようとするジェラルドは、きっと立派な人格者へと成長するだろう。そう思いながら、僕はジェラルドに声をかけた。
「ああ、ぜひ頑張ってくれ。僕も全力で頑張るよ。男同士の誓いだ」
そう言って、ジェラルドに拳を突き出した。その拳を見て、ジェラルドはきょとんとしたがすぐにハッと閃いた様子を見せ、僕の拳に小さな拳を突き合わせた。
そんな出来事から約三日後、エミリアから明日王城に到着する予定だという手紙が届いた。