86話 築かれていた絆
イーサン様は約束通り、使用人たちを大広間へ集める手配をしてくれた。
「イーサン様がお呼び出しだそうだけれど、いったいどうしたのかしら?」
「いつも挨拶してくれるのに、帰って来てからまだ一度も奥様の顔を見てないんです。何か関係あるんでしょうかね……。誰か奥様とお会いになりましたか?」
「俺もまだ顔を見てないんだよ。ジェローム様も集まる理由を教えてくれないしよ……」
「あら、見て。ビアンカまで呼ばれてるみたいよ?」
「本当だわっ……。ねえ、これってなんだか……奥様が来た日のこと思い出さない?」
大広間に呼び出された使用人たちが、思い思いに喋る声が聞こえる。一人が口を開くごとに、つられた他の声が加わり始める。
その結果、普段の静粛な大広間では聞き慣れない人々のざわめきが、一瞬にしてその場に広まった。
――皆、何かがおかしいと察しているのね。
いつもマナーを守る人達が騒ぐのも無理はないわ。
それにこの声音……。
耳に届く声をよくよく聞き分けると、ただただ純粋に疑問を呈するものと、不安を感じているようなものの二種類の声音を感じる。
聞き間違いでなければ、後者は私がヴァンロージアにやって来る前から働いている使用人たちの声のようだ。
先程、私が来た日のことを思い出すというような声も聞こえてきた。
思い返してみれば、こうして大広間に全使用人を集めるのは、私がここに初めて来た日以来だ。となれば、そのときのことを知る彼らが不安そうな反応を示すのは無理もないだろう。
「奥様、全使用人が揃いました」
「っ……ありがとうございます」
舞台の準備は整った。緊張で全身が強張り震えそうだし、胸も痛いくらいに早鐘を打っている。
しかし、もう後には引けない。誠実に、皆と向き合うのみだ。
そう意を決し、隣室に待機していた私は大広間へと足を踏み入れた。背筋を伸ばし、毅然とした態度を装う。そうして歩みを進めれば、私の存在に気付いた使用人たちは、即座にその口を閉ざした。
大広間はこの家で最も床面積が広い。ゆえに、私は皆が見渡せる、そして皆からも私が見える大広間の上座まで進んだところで足を止め、使用人たちが集まるホール側へと向き直った。
――ここからまたこんな景色を見ることになるだなんて……。
だけど、あのときはこんな悲しさは無かったわ。
初めて会った時、ここから見える人は誰一人知らない人たちだった。
しかし、今は違う。
ここにいる人たちの名前は全員分かるし、声だって容易に脳内で再生できる。それくらいには親交を深めていたのだ。
見渡す景色の中で、ビアンカやナヴィ、デイジーやクロードが目に留まる。それと同時に、彼ら一人一人との思い出が、脳内を駆け巡る。
使用人たちとの交流の間に培い築き上げた関係性に、自ら終止符を打つことになるなんて思ってもみなかった。
――ああ、マティアス様が帰ってくるまでのあの頃に戻りたい……。
なんて、元は部外者の私にとって都合が良過ぎる願いを脳裏に浮かべながら、それは叶わぬ夢だと現実を直視し、私はようやく口を開いた。
「皆さん、集まってくださりありがとうございます。実は、私がイーサン様に頼み、皆さんを集めていただきました」
静かな水面に石を落とし広がる波紋のように、私の言葉により使用人たちの表情に、なお一層の緊張が広がる。そのことに気付きながらも、皆の目を順々に見つめながら、私は淡々と言葉を続ける。
「私は皆さんに、報告とそれに伴い謝罪しなければならないことがあります」
そう告げると、大広間には動揺が走りピリピリとした空気が流れ始めた。
答えを求めるかのような使用人たちの視線が、私の身体に穴が開きそうなほど突き刺さる。
そんな彼らの強い視線を受け止め、決定的な事実を伝えるべく言葉を続けた。
「私とマティアス様は離婚することになりました」
「「「「「えっ……」」」」」
「私が本日ヴァンロージアに戻った理由は、これまでの仕事の引継ぎ作業のためです。離婚のタイミングは、引継ぎ作業が終わり王都に戻った時になります」
何も隠すことなく、はっきりと彼らにありのままを伝えた。すると、ある人物が手を挙げた。メイドの中でもムードメーカー的な存在のカーラだった。
「はい、カーラ。何でしょうか?」
「奥様の離婚の原因は……もしかしてあの噂が関係しているのでしょうか?」
「噂……?」
聞き及ばぬ噂について訊ねられ、思わず戸惑う。すると、意図的かは分からないが、補足のようにカーラが発言を続けた。
「マティアス様が奥様をその……っ苛めていると。そのような噂を聞きました。私も実際に、奥様に対するマティアス様の酷い当たりを拝見したことがございます。もしやそれで――」
「カーラ、口を慎みなさい」
カーラは今にも泣き出しそうな顔で訊ねてきたが、ジェロームがそんなカーラを遮った。
すると、カーラは思いつめたような表情になり、悲愴のままに視線を床へと彷徨わせた。
そのとき、カーラにある人物が声をかけた。
「君が言っていることは概ね間違ってはいない。今回の離婚の原因は間違いなく、兄上だ。そして、この離婚は決定事項だ」
「イーサン様っ……」
「使用人だって、納得する説明や理由が欲しいんだ。それに、こういうのはきちんと明確にした方が良い」
小さく振り返り、私にだけ聴こえる声で告げるイーサン様。そんな彼の言葉は一理ある。そのため、納得を求める彼に応えるよう、私は小さく一つの頷きを返した。
そして、使用人たちは離婚の理由をある程度察知しているのだと判断し、話を本題に戻した。
「こうして皆さんを振り回す形になり、大変申し訳ございません。ですが、イーサン様の仰る通り、離婚は決定事項です」
そこまで告げ、私は次の言葉を続ける前に彼らの方へと一歩近づき、そのまま両膝を床に突いた。
皆に混乱をもたらしてしまったことに対する謝罪、そして、仕えてくれている使用人たちへせめてもの敬意を示すためだ。
だが、使用人たちはこのようなことをされると思っていなかったのだろう。両膝を突いた途端、どよめきが広間を走った。
だが、私はそのどよめきに動じることなく、彼らに誠心誠意の謝罪と感謝を告げるべく、言葉を続けた。
「私はマティアス様の妻として、ヴァンロージアの女主人を務めきる責を果たせなかった。本当に、ごめんなさいっ……」
「そんなことありません!」
「エミリアさんっ! 兄上が悪いんだから、そこまでして――」
ジェロームとイーサン様が私の言動に対し、慌てた様子で声をかけてくる。しかし、私はそんな彼らを視線で牽制し、ジェロームを含む使用人たちに向けて言葉を続けた。
「私が来たとき、皆さん本当は戸惑ったでしょう。でもあなた達は、そんな若輩者の私を迎え入れてくれた。その瞬間、どれだけ心が救われたか……っ本当に感謝してもしきれないです。私はもうこの家の人間では無くなるけれど、あなた達のことをずっと大切に思う。そのことを伝えたかったんです」
初めて来たあの日、私を蔑む人たちもいた。無視をしたり、誹謗中傷をしたり、はたまた水をかけようとして、私たちが困る姿を楽しもうとする人だっていた。
当時の皆の内心は、私には量りようもない。
ただ、ここに残ってくれている人は態度としては、始めから私のことをマティアス様の妻として迎え入れてくれた。それは、まぎれもない事実だ。
そのことに、あのとき私の心はどれだけ救われたことか……。
最低限、私を受け入れてくれている。そんな彼らの存在は、内心不安で仕方ない私の心を鼓舞してくれる存在だった。
それゆえ、彼らは私がヴァンロージアの女主人を務められた理由の一つであり、大切な存在になっていた。
ああ、この人たちのためにも女主人としての務めを果たそう、そう思い背筋だって伸びた。それなのに、そんな彼らを私が裏切り去ってしまう。
そんな感覚に呑まれそうになりながらも、私は捨てるわけでも裏切るわけでもないんだと自身に言い聞かせ、彼らに想いの丈を紡いだ。
「あなた達が私に託してくれた思いに応えられずごめんなさい。本当はあなた達のこと、ずっと見守り続けたかった。あなたたちや、このヴァンロージアの民たちが好きだからっ……」
目に込み上げるものを必死に堪え、毅然とした態度を貫こうと、使用人たち一人一人に視線を配る。瞳には、涙を流し号泣しているものや、悔しそうに歯を食いしばる使用人たち、当惑した様子で哀しみを浮かべる者たちが多数映る。
――こんな顔、本当はさせたくなかったっ……。
だからこそ、私が可哀想、辛そうに見られてはいけない。
本当に可哀想なのは、使用人たちの方だもの。
ただ……泣きたい気持ちは私も同じだった。
初めて自らが手掛けた領地の経営が実りを成した日の達成感。目に見えて領地が活性していく充実感。皆の笑顔や感謝の言葉。
どんなにつらいことや困難に直面しても、それらを糧に乗り越えてきた。
仕事内容も、決して楽しいものばかりではない。それでも、そこから得られる充足感は、確かに私の生きがいの一部になっていた。
今やヴァンロージアは、私にとって人生の大部分を占める存在になっていたのだ。
マティアス様の事さえなければ、ずっと一生ここで暮らしながら仕事をしたかった。
まだまだやりたいこともいっぱいあった。戦争も終わって、これからもっと発展させて行けるという段階だったのだ。
でも、これからの私はそのことに関わることはできない。離婚をすれば、私はただの部外者なのだ。
だからこそ、最後の最後で中途半端な馴れ合いはしてはいけない。
私はここを去る人間。皆はここに残る人間。そんな意志と託したい願いを込めて、私はギュッと奥歯を噛み締めた後、大きく息を吸い込んで深呼吸をし、皆に最後の言葉を贈った。
「あなたたちは強い人です。自分で考え、学び、生きる力がある。私が居なくなっても、あなたたちのその能力を以て、ヴァンロージアの繁栄に貢献していただきたいです。どうか、どうかっ……よろしくお願いいたしますっ……」
力みのあまり、最後は声が震えてしまった。それでも何とか言い切った後、私は皆に最敬礼をするため深々と頭を下げた。
そのとき、堪えきれなかった涙が一粒、床へと吸い込まれるように落ちて消えていった。
◇◇◇
使用人たちは、まるで葬送を済ませた後のような面持ちで大広間から退室した。
現在この部屋に残っているのは、ティナ、イーサン様、ジェロームと、私の四人だ。その中で、私はイーサン様に声をかけた。
「イーサン様、ありがとうございました」
「いや、礼は良いんだけど……エミリアさん。大丈夫?」
心の底から心配していることが伝わるイーサン様の訊ねに対し、私は気丈さを意識して大丈夫と返答をした。しかし、本当かと探るようなイーサン様の視線に耐えかね、私は強制的に話を逸らすことにした。
「あっ、イーサン様。引継ぎ資料があるので、お手数をお掛けしますが今から部屋まで来ていただいてもよろしいでしょうか?」
無理があったか……とも思ったが、この話の方向転換は無事成功した。そして、ティナやイーサン様と共に、私に割り当てられている部屋へと移動した。
――これはもしや……。
部屋に入ると、机の上に見慣れぬ二つの箱が置かれていた。
しかし、その箱の正体は何となく察せる。そして、私はどうしたものかと考えながら、その箱の外郭を指でなぞった。
すると、イーサン様が不思議そうな顔をしながら近付き訊ねてきた。
「この箱がどうかした? ……ん? これってリラード縫製の箱だよね?」
流石イーサン様、状況把握能力が高い。そんなことを思いながら、無駄になるのも悪いと結論付け、私は素直にイーサン様に話すことにした。
「実は、マティアス様とイーサン様が帰還したお祝いに、ウォルトさんに頼んでおいたものだったんです。届く前に私が王都に行ったから、渡すに渡せず……」
私の答えが予想外だったのだろう。イーサン様は目を真ん丸にし、申し訳なさそうに口を開いた。
「そう、だったんだ。ここまでしてくれていたのにこんなことに……っ本当にごめん。俺がもっと兄上を制御できていれば――」
「イーサン様は何も悪くありません。十分私のことを庇ってくれました。それに、マティアス様は私よりも六歳は歳上の立派な大人ですよ? イーサン様の制御が問題ではありませんので、どうかお気になさらないでください」
そう告げ、私はイーサン様に黒を基調とし赤の柄が入った方の箱を差し出した。
「イーサン様、こちらもらっていただけますか?」
「えっ……」
「流行があるモノですから、出来ればご着用いただけると嬉しいです」
手に取った箱を、躊躇の色を浮かべるイーサン様にシレっと押し出す。すると、イーサン様はその箱を受け取り、中身を取り出した。
「これは……ペリースか」
「はい。お会いしたことが無かった時に頼んだので、お二人を知っている人たちの意見を参考に作っていただきました」
「ありがとうっ……。ふっ、なかなか伊達で軍服が映えるデザインだね。ほんと俺好みだ……。エミリアさん、ありがとう」
感謝を告げるイーサン様は、泣きそうに顔をほころばせた。だが、その表情は次第に逡巡の翳りを見せ、イーサン様は困り顔で言葉を続けた。
「二人って言ってたよね。ってことはさ、こっちの箱は兄上の分かな?」
気まずそうに訊ねるイーサン様に私が返す答えはもちろん肯定だ。その反応に、イーサン様はやっぱりか……という反応を見せると、言いづらそうに口を開いた。
「これさ、俺が預かっていいかな?」
「イーサン様がですか?」
「ああ、いやっ、もちろん俺が着るとかじゃないよ! ただ、エミリアさんがブラッドリーに持って行きたくないだろうし、それだったら俺が――」
イーサン様が着るとは思っていないが、ワタワタと慌てた様子で説明する彼に、今度は私が泣きそうに笑いながら言葉を返した。
「では、お願いできますか?」
「っ! ああ。俺が預かっておくからね」
そう言うと、イーサン様は自身のぺリースを箱に戻し、その箱をマティアス様用のぺリースが入った箱の上に重ねた。
その後、私は本来の目的を果たすため、イーサン様に手持ちの資料を渡した。そして、イーサン様は優先順位が高い資料と、ぺリースの入った二つの箱を持って、部屋から出て行った。
持つのを手伝おうかと申し出たが、イーサン様は「大丈夫大丈夫!」と言い、私たちに早く休むよう告げて部屋から出て行った。
「はぁ……。エミリアさんが嫁いだのが、兄上じゃなくて俺だったら良かったのにっ……」
そう呟いた彼の声は誰もいない廊下に溶け消え、私の耳にも届くことは無かった。
こうして、ヴァンロージアに戻った日以来、私はイーサン様やジェロームと必死に引継ぎ作業を行った。そして、戻った日から五日経ち、ようやく引継ぎ作業が完了した。
それに応じ、私はすぐに帰宅の途に就くことになった。
そして次の日、ついに出立のときがやって来た。
驚くことに、使用人たちはなんと全員揃って私のことを見送りに来てくれた。そのうえ、ほとんどの使用人が別れを惜しむかのように涙を流してくれている。そんな彼らを見て、思わず感情が引っ張られそうになる。
――このままじゃ、最後に醜態を晒してしまう。
別れづらい状況だけは、作らないようにしないとっ……。
本当に名残惜しいけれど、もうそろそろ出ないといけないわね。
無様を晒すのは、貴族としての恥でもある。そのため、私はそのような事態を避けるべく馬車に乗り込もうとした。
そのとき、ある人物が私の元へと歩み寄ってきた。
「奥様、よろしければ最後に、こちらを受け取っていただけませんでしょうか?」
そう言ってきた人物は、意外なことにクロードだった。しかも、彼が差し出したものは、包装されており中身が分からない。
――かなり大きくて薄い板みたいね……。
絵か何かかしら?
表情こそ乏しいが、誰よりも真面目で実直な彼からのプレゼント。そのことを踏まえ、私は感謝の言葉と共に、素直にそれを受け取った。
そして、ティナと共に馬車に乗り込み、皆に見送られながらヴァンロージアを後にした。
「エミリア様、クロードからのプレゼントの中身は何でしょうか?」
「気になるわよね……。今開けてみる?」
そう訊ねると、不思議そうな顔をしたティナが賛同するようにうんと頷いた。そのため、狭い馬車の中、ティナと二人で協力しながら包装紙を開いた。
すると、糊止めされた包装紙の剥がれた部分から、額縁の裏側が現れた。
「やっぱり絵みたいね。どんな絵かしら?」
「ひっくり返してみましょう。いきますよ。せーの」
ティナの掛け声に合わせて、大きな額縁をひっくり返す。そして、ひっくり返した裏面の内容を理解した瞬間、私の目には一気に涙が込み上げてきた。
「こんな事をっ……?」
ひっくり返したそこには、大きな円いレースの周りに直筆らしき使用人たちの名前が、寄せ書きのように書き連ねられている。
そして、円いレースの上には、私がかつてジェリーと一緒に植えた花壇の花々が、まるで花束のように押し花にされていた。
こんな途中で逃げ出す形になった私に対し、ここまでしてくれる彼らの思いやりと献身を改めて知り、頬にツーっと涙が伝う。
それと同時に、私の身体は勝手に動き、ギュッとその贈り物を胸に抱え込むように抱き締めていた。
そして、彼らの想いに感極まり、私は憚ることなく枯れ果てるまで涙を流した。




