85話 別れの準備
お兄様とジェリーが初対面を迎えた。それから数分間、お兄様は目線に会わせるよう片膝を突いたまま、ジェリーに感謝の言葉を尽くし続けた。
そして、ようやく立ち上がるとジェリーを背にする形で、私に向き直り声をかけてきた。
「今日はジェラルドに挨拶できて良かった。エミリアも準備があるだろう。お兄様はそろそろ帰るよ。……っ改めて、今まで本当にすまな――」
「お兄様」
お兄様が謝ろうとするのを察し、私は慌てて黙らせるために自身の口元に人差し指を立てた。その行動に反射したように、お兄様は口を噤む。
その瞬間を逃さず、私はヒールを入れても私より背の高いお兄様の身長を死角として利用し、ジェリーから隠れるようにお兄様との距離を縮め囁いた。
「ジェリーの前でやめてちょうだい。……馬車まで一緒に行きましょう」
そう声をかけお兄様から一歩後退し、先程までの立ち位置に戻った。そのまま続けて、私はジェリーの隣に佇むカリス殿下に声をかけた。
「カリス殿下、兄を馬車まで送って来てもよろしいでしょうか?」
「ああ、行っておいで。ティナ嬢、念のためにエミリアの付き添いを頼めるかな?」
「はい、承知いたしました」
やる気満々のティナの返事により、改めてカリス殿下の許可が下った。そのため、私はお兄様とティナと共に部屋に出ようとした。
すると背後から、慌てたような声を出すジェリーの声が届いた。
「リア! 僕も一緒にお見送り――」
お見送りをしたいと言いかけたのだろう。しかし、その先はカリス殿下によって遮られた。
「ジェラルド。多分二人とも、今後のことについて軽く話したいことがあるんじゃないか? だから今回は、僕と一緒にここで見送ろうよ」
「えっ! そうなのっ! じゃあ、僕ここで殿下と一緒にお見送りするっ……」
「うん、そうしよう」
ジェリーは誤魔化せても、カリス殿下は何となく私の考えを察していたようだ。ジェリーが納得するよう上手く伝えると、カリス殿下は私と目を合わせニコッと微笑んできた。
――この人は、本当に空気を読む人ね。
遊び人と言われているなんて、信じられないわ。
となると……以前のコーネリアス殿下の話が引っ掛かるのよね……。
ふと以前のコーネリアス様の会話を思い出したが、今はそれどころではないと一旦思考をリセットさせる。
そして、私も殿下に軽く微笑み返し、お兄様とティナを連れ立ち廊下を歩き始めた。
「……お兄様。ジェリーの前で謝ろうとしたでしょう?」
「すまない。一人で馬車に向かうつもりだったから、最後にもう一度謝らなければと思ってつい……」
気持ちは分からなくも無いが、正直こういうときにもう少し気配りが出来る人になって欲しい。そんなことを思っていると、お兄様は更に言葉を続けた。
「カリス殿下がフォローしてくれて助かったよ。エミリアがヴァンロージアに行ってから、ほんとこんなことの連続だな」
「こんなことの連続って……一体どういう意味?」
サラッと告げられた発言に違和感を抱き、お兄様に訊ねる。すると、お兄様は光を集めたかのように美しいブロンドの前髪をかき上げ、何かを思い出すように視線を動かし口を開いた。
「いや、よくよく考えてみたんだよ。そしたら、加護かってくらい、カリス殿下と社交場で交流があった後は、困難を免れたと改めて思ってさ」
「例えばどんな話?」
「あの人の契約には乗らない方が良いらしいとか、その投資話は良くない噂があるらしいとか、あの人が俺と話したがってるとか、色々教えてくれたんだ!」
その話を聞き、何だかとんでもない予感がして、私は恐る恐るお兄様に訊ねた。
「それで、お兄様はその話を参考にして行動したのよね……?」
「まあ、エミリアの友人の話だし、辺境伯からも人の話をよく聞いておけって言われたからな」
「それでっ……?」
「ああ。そしたら、その契約に乗った貴族は犯罪関連で何人か没落したし、投資も詐欺だったらしいんだよ。話したい人ってのも、今は三方良しな商売関係だし……そうだ! 皆、エミリアをよく褒めてくれるんだぞ!」
そう言うと「カリス殿下は俺のラッキーパーソンだな!」なんて言いながら、お兄様は嬉しそうに笑った。
私はというと、そんなお兄様に呆れて、はっきりと現実を突きつけるように告げた。
「お兄様」
「ん? どうした?」
「どうしたじゃないでしょう。お兄様が今まで何とかできていたのは、お義父様だけじゃなくて、カリス殿下のおかげもあったのね!」
お義父様から人の話をよく聞いておけと言われ聞いたうえで、カリス殿下の話を採用し実行手段として取ったことは、お兄様の成長点だとは思う。それも著しいレベルだ。
しかし成長云々以前に、ブラッドリーの安定にはカリス殿下の貢献があったのだと知ってしまった。そんな私は、お兄様が馬車に乗る間際に、お兄様と向き合って告げた。
「お兄様、カリス殿下は運よく降ってきたラッキーパーソンなんかじゃないわ。偶然だと思う? 今までについてよく考えてみることね」
自分の胸に手を当ててよく考えろ。そんな思いで、お兄様の心の臓あたりを人差し指で三回突く。すると、お兄様は神妙な顔つきで自身の胸にそっと手を重ね、私の顔を見つめてきた。
「エミリアの反応からすると……俺はまだ考えが足りて無かったようだな。エミリアが帰ってくるまでに、これまでの事も調べ直してみる」
「ええ、そうしてちょうだい。でも……今日はありがとう。お兄様がマティアス様に言ってくれたこと、ちょっとスッキリしたわ」
「っ……! 大切な妹のために、当然のことを言ったまでだ。ただ……こんなことで礼を言わないでほしい。お兄様が悪かったんだ。これからはエミリアを傷付けぬ兄になると誓おう」
そう言うと、お兄様は私の隣に居たティナに声をかけた。
「ティナ。今の俺の発言の証人になってくれ。それと、エミリアが我慢していることがあるのなら、代わりに俺に教えて欲しい」
「っ……はい、承知いたしました」
お兄様の態度の変わりようにティナは驚いた様子を見せた。しかし、すぐに業務用の真顔になり、しっかりとお兄様の言葉に受け応えた。
そして、お兄様は別れのハグと言いながら三秒ほど一方的に私を抱き締めると、馬車に乗り込み嵐のように帰って行った。
その後、私はすぐにジェリーたちの元に戻り、明日ヴァンロージアに向かうことをジェリーに告げた。
その際、ジェリーは私の話を聞いて、決して動じた様子を見せなかった。離婚することになるという未来を、覚悟をしていたからだろう。
まだまだ子どもだと分かっている。それなのに、彼の精神的に成熟した一部に頼ってしまっている。
それにより、私の心の中で自身への呵責や歯がゆさが支配を始めた。
するとそんな中、カリス殿下がその支配を解くかのようなタイミングで声をかけてきた。
「僕がジェラルドと一緒にいるから、二人は明日の準備を今のうちにしておいで」
この一声により、私たちは一旦ジェリーと別れを告げた。そして、明日発つための支度をすべく、ティナと割り当てられた部屋へと戻った。
着の身着のままで来たため、荷物はほとんどといって良いほど無い。
しかし、円滑な引継ぎをするために作業計画を立てる等の下準備を進めた結果、思いのほか支度に時間を消費した。
気付けば、窓の外には数多の星が浮かぶ時間になっている。
――ティナを先に休ませておいて正解だったわね。
そんなことを思いながら、流石に疲れたと私も休むことにした。
しかし、今日のあまりにも衝撃的すぎる出来事を思い出し、横になってもなかなか眠ることが出来ない。
なんてそうこうしているうちに、私はほとんど睡眠をとれないまま朝を迎えることになってしまった。
◇◇◇
出発は早朝だったが、ジェリーとカリス殿下が見送りに来てくれた。
二人は気をつけて帰って来るようにと、旅立ちの常套句となる言葉をかけてくれた。その言葉に礼を告げ、私は馬車に乗り込み車窓から見送ってくれる二人を見つめた。
すると、ふと精悍な目つきで私を見つめる殿下と視線が交わった。
――帰ってきたら、カリス殿下には色々な意味で、改めてお礼を言わないと……。
初めてヴァンロージアに向かった時よりも、ずっと不安で複雑な感情が心を支配する。そんな気持ちを少しでも誤魔化そうと、私は意識を殿下に向けて静かに礼を返した。
すると、殿下は私の礼に一つの頷きを返してくれた。
言葉こそ聞こえない。しかしその頷きには、大丈夫……そんな励ましの意味があるような気がした私は、心に微かな灯がともったのを感じながら王都を発った。
◇◇◇
「こんなに早く着くなんて……陛下お抱えの魔法使いはレベルが違いますねっ……」
到着するなり、ティナが驚きの声を上げた。そんな反応をするのも無理はない。なんと、たったの三日で着いたのだ。その代償として多少の気持ち悪さはあるが、この速さで着けるのならどうってことない。
「じゃあ、降りましょうか」
ティナに声をかけ、二人でふぅっと深呼吸をして降車した。すると、こちらを凝視し固まる人影が前方に見えた。
「イーサン様っ……」
「エミリアさん? どうしてここに……!?」
反射的に彼の名を発した直後、イーサン様が私の名を告げる声が耳に届いた。かと思えば、それとほぼ同時に、酷く驚いた様子で彼は私たちの元へと駆け寄ってきた。
目の前までやって来た彼は、浅い呼吸で目を見開き驚いた顔をしている。しかし、彼には思慮の余裕があったようで、ティナが持っている数少ない手荷物に気付くと、それを流れるように掬い取り口を開いた。
「とりあえず二人とも中に入って。話を聞かせてほしい」
そう告げるイーサン様にはいつものような陽気さは無く、ただただ心配そうに、困惑を孕んだ翡翠の双眸を揺らめかせている。
すると、そんなイーサン様の背後から、聞き馴染んだ人物の声が飛んできた。
「奥様! お戻りになられたのですかっ……!?」
チャコールグレーの髪を靡かせながら、俊敏な動きでやって来る人物。この家の執事長であり、私がここに居るあいだ最も世話になったジェロームだった。
私が帰ってきた理由を分かっていないのであろうジェロームは、切望感を感じるような表情に、噛み締めるような笑みを浮かべている。彼のかけた眼鏡の奥にある瞳を見れば、薄らと涙ぐんでいることも分かる。
そんな彼の表情を見たら、自ずと罪悪感が込み上げてきた。彼らを裏切ってしまうような感覚が急速に襲って来たのだ。その影響で、自然と涙も込み上げそうになる。
だが、それに耐えるのが私のせめてもの贖罪だろう。そう思い込み、私は重ねた自身の手により死角となる指先に、爪を立て必死に平静を装った。
「っええ、一度戻ってきました。……あなたたちに大事なお話があるんです」
「えっ……お話、ですか?」
いつも笑顔だった私が笑みを浮かべていないからだろう。私の発言を聞くと、ジェロームは一瞬にして顔色を曇らせ、怪訝そうに訊ねてきた。
「奥様、いったいど――」
「奥様が帰っていらしたそうよ!」
「本当に!? お出迎えしないと!」
「待って、私も行くわ!」
「僕も行きます!」
「じゃあ、みんなで一緒に行こう!」
ジェロームが何かを喋りかけたが、室内から使用人たちの声が聞こえその声は遮られた。
恐らく今の声は、ケイトとポピー、そしてデイジーにデューク、レナルドたちの声だろう。聞いただけでも分かるその声に、思わず動揺してしまう。
すると、イーサン様はハッと顔色を変え、ジェロームに話しかけた。
「今からエミリアさんと団欒室に行く。その間、使用人たちがエミリアさんと接触しないよう、ジェロームは対処を頼む。それが終わり次第、ジェロームも団欒室に来てくれ」
「はい、承知しました」
「エミリアさん、ティナさん、少し遠回りだが裏から入ろう」
そう言うと、イーサン様は私たちが人目に触れないよう周囲に気を払いながら、私たちを団欒室へと誘った。それからしばらくし、対処を済ませたジェロームも合流した。
すると、イーサン様がすぐさま口を開いた。
「エミリアさん、ここに来た理由を教えてくれる? ジェラルドが一緒じゃないってことは、ただ帰ってきたってわけじゃないんだろう?」
「っ……はい」
――洞察力のあるイーサン様にはお見通しね。
特段隠し立てをする必要性も無い。そのため、私は張り裂けそうなほどに拍を刻む心臓を抱えながら、意を決し本題に踏み込んだ。
「結論から申します。……マティアス様と婚姻関係を解消することが決定しました」
「「っ……!」」
イーサン様とジェロームが同時に息を呑む声が耳に届く。だが、すぐにイーサン様は私に質問を投げかけてきた。
「それは兄上が言い出したこと? それともエミリアさんの願い?」
「私が直接陛下に申し入れをしました」
「陛下にっ……!?」
あまりに予想外といった様子で、イーサン様が驚きの声を上げる。そのため、私は今まで王都であった事の経緯を詳らかに二人に説明をした。
「……という次第です。ですので、王都に戻り次第、離婚が公的に承認されます」
マティアス様と私の間で起った王都での出来事について説明を終えると、ジェロームが声をかけてきた。
「なんとマティアス様はそのようなことをっ……。では、奥様はもうヴァンロージアを離れられるということですか……?」
「はい、そう言うことになります。っ……私は、ヴァンロージアのことが本当に大好きです。ここで皆さんとやりがいを感じながら過ごした日々も……。しかし、マティアス様との共存は不可能でした」
やるせなく不甲斐ない気持ちが込み上げる。
辛酸をなめたこともあったが、マティアス様以外の思い出はどれも良き思い出だ。
実はこうして再び戻ったことで、そのときの思い出が色濃く鮮明に脳裏を過ぎり、やっぱり私はこの領が好きなんだと痛感して心が苦しくなっていた。
――出来るならここを離れたくなかった。
初めて生きていて、心から楽しいと思えた。
初めて生き生きと過ごすことが出来た、そんな場所でも特別な場所でもあるもの。
離婚を望みこそしたが、ヴァンロージアを去ることに対する惜しさは感じる。未練だってたらたらだ。
すると、そんな私にジェロームがとんでも無い提案をしてきた。
「マティアス様は西の辺境へ行かれるんでしょう? 次期領主がイーサン様になるのであれば、エミリア様はイーサン様と再婚なさったら――」
「ジェローム、無理を言うな」
珍しく焦燥に駆られた様子のジェロームの暴走を窘めると、イーサン様はため息を吐き言葉を続けた。
「俺は別に良いよ。エミリアさんの人柄も分かってるしね。でも、そうじゃないんだ。やっぱり今回はそうしてはいけない」
そうだろ? というように、イーサン様は哀愁を漂わせ、苦々しい表情で肩を竦ませながら、目で合図を送ってくる。
そんなイーサン様に、私はどのような返しをしていいか分からず、とりあえず強張った苦笑いを返した。
すると彼はそんな私の返しに対し、悲しそうなのに安心したような、そんな不思議な表情を浮かべた。
その表情に私は微かな違和感を覚えた。彼の真意があまり伝わってこなかったからかもしれない。
ただ、本能的にその理由には触れないでおこうと思った私は、敢えてその違和感にそっと目を閉ざした。
その後、私たちは引継ぎ作業の計画についての話まで済ませた。そして説明が終わった頃合いを見計らい、私は引継ぎ以外のもう一つの目的を果たすべく、イーサン様にあるお願いをした。
「イーサン様、一つお願いがございます」
「お願い? いいよ、遠慮なく何でも言って」
「食後に使用人を、全員大広間に集めていただけないでしょうか?」
そう告げると、イーサン様は少しの間を置いて殊勝顔で訊ねてきた。
「分かった。集めよう。ただ……その理由を聞いても良い?」
「皆さんに対して私から直接、責任を果たしきれなかったことに対する謝罪をしたいんです」
訊かれた事に対し、正直な答えを返した。すると、イーサン様は捨てられた子犬のような顔になり、眉間に皺を寄せて口を開いた。
「そんな気がした。っ……エミリアさんが謝る必要はないんだよ? 本当は父上や兄上が謝るべきことなのにっ……」
「イーサン様ならそう言う気がしました。でも、私がしたいんです。せめてもの責任として謝罪を、そして今までお世話になったことに対してお礼を伝えたいんです」
今の私はきっと、イーサン様につられて泣き笑いのような表情をしていただろう。すると、イーサン様は天を仰ぐように目を閉じ「分かった……」と自身に言い聞かせるように独り言ちた。
そして、再び私に視線を向けると、今度は腹を括った様子で「手配しておくよ」と力強い返事をくれた。




