83話 審判
「先程の発言を訂正してください」
「なぜだ? 事実だろう?」
「事実ではありません。私は誰かに売られたり買われたりした覚えはないです」
「だが、利害関係があっただろう?」
「当然でしょう。私とあなたは恋愛結婚ではなく、政略結婚ですよ? しかし、それは売買とは訳が違います。即刻訂正してください」
私の発言を聞くと、マティアス様の顔はどんどん険しさを増していく。それにより、昨日の恐怖が蘇り込み上げてくるが、私は負けじと彼から視線を外さなかった。
そのときだった。突然、ジッと私たちの話を黙って聞いていた陛下が口を開いた。
「分かった。そこまでにしておきなさい。どうやら、これ以上の話し合いは無駄なようだ」
そう言うと、陛下はおもむろに玉座から立ち上がった。そして、私たちの方へと歩み寄ると、こちらに顔を向けた。
「夫人、そなたの願い通り離婚の承認を下そう。……して、辺境伯」
「なぜですか!? へ、陛下、お待ちくだ――」
マティアス様の焦った声は、陛下の耳にも届いているだろう。しかし、陛下は本気で聞こえていないかのような素振りで、流れるように私からお義父様へと視線を移して言葉を続けた。
「そなたも離婚に同意するな?」
「無論でございます。エミリア、本当に今まですまなかったっ……」
陛下への返事と共に私に謝罪の意を示したお義父様の表情には、怒りや憂い、悔やみや嘆きが集約されている。
マティアス様はというと、陛下は自分の言葉に聞く耳を持たないと悟ったからか、今度はお義父様に対象を変え、焦燥と怒りをぶつけ始めた。
「待ってください。それでは、私の次期領主権はどうなるのですか!?」
「エミリアと離婚するお前に、そんな権利があるわけないだろう。そのうえ、不敬罪まで犯したんだ。そんなお前に領主など任せるものか。それに今聞くことか!? 恥を知れっ……」
そう言い返すと、流石に怒りが堪えきれなかったのか、お義父様は暴走気味のマティアス様を黙らせるため、鳩尾に肘で一発食らわせた。
だが、マティアス様にとっては人生の一大事だったのだろう。痛みを耐え忍ぶように荒い呼吸をしながらも、めげずに反論を始めた。
「今回の不敬罪は過失です。あんなの見たら誰だって、不倫だと勘違いするに決まって――」
何が何でも自分の罪を軽くしたいというマティアス様の意図が透けて見える。そんな耳にタコが出来そうなほど聞き慣れた言い訳を聞いていると、突然カリス殿下がマティアス様の発言を遮るように質問を投げかけた。
「では、マティアス卿はマーロン夫人と不倫をしていたという訳でしょうか?」
「はっ……?」
マティアス様が虚を衝かれたように、声を漏らした。だが、声こそ漏らさないものの、驚いたのはマティアス様だけではない。
私も含め、カリス殿下以外のその場にいる誰もが、驚いた顔で殿下とマティアス様の顔を見比べて始めた。
「それはどういうことですか!?」
フリーズから解けたように、食い入る形でお義父様が殿下に問いただす。すると、殿下は飄々としていながらも冷徹さを滲ませ、お義父様の質問に答えるというよりも、マティアス様に指摘するかのような言葉を続けた。
「舞踏会後の夜更けに、マーロン夫人と二人きりで逢っていましたよね? 辺境伯邸での私と彼女の関係を不倫だと評するならば、そちらの密会の方がよほど不倫ですよ」
言い終えたその言葉を聞くなり、お義父様はこめかみや額に青筋を浮き上がらせた。そして、怒りの表象かのごとく顔を真っ赤に染め上げ、マティアス様に思い切り張り手を食らわせた。
その勢いは凄まじく、バチンとまるで落雷のように強烈な音が室内に響いた。
マティアス様の顔を見やれば、張り手を食らった側の頬の皮下に、ほんのりと滲み始めた血が確認できる。
この一連のやり取りを目の当たりにし、私の心には急速的に不快感が込み上げた。お兄様に至っては、目も当てられないとでも言いたげに、持ち前の端正な顔に嫌悪感を滲ませている。
一方、当の本人は怪我の度合いなど気にしていられなかったのだろう。痛みなど感じていないかのように慌てた様子で、「その言い方には語弊がある。誤解だっ!」と弁明を始めた。
だが、そんな弁明をお義父様が許すはずもない。マティアス様が新たな弁明を述べるたびに、更に張り手を食らわせた。
……とても見ていられない光景である。そのため、私は一歩踏み出しお義父様に声をかけた。
「そんなに殴っても、何も変わることはありません。決してマティアス様のためという訳ではありませんが、手を出すのはおやめください」
そう声をかけると、お義父様は我に返ったようにハッとこちらに振り返った。かと思えば、光のような速さで私の前に膝を突き、お義父様は土下座するように頭を垂れた。
「自制の念が足りず、すまない。……エミリアっ。大事な一生の中で、こんな大馬鹿者に出会わせて本当に申し訳ないことをしたっ……」
口元を震わせながらそう告げると、お義父様はスッと立ち上がり、今度は陛下の眼前に跪いて口を開いた。
「陛下、私の息子は想像を絶する愚かな人間でした。その責任として、マティアスを廃嫡いたします」
「父上何を――」
「黙れ! お前に決定権など無いっ……!」
厳めしい顔で叫び返したお義父様は、懇願するかのように陛下を見上げた。すると、陛下は宥めるようにお義父様に声をかけた。
「辺境伯、いつもの冷静さはどうした。節度を弁えて少しは落ち着け」
「大変申し訳ございませんっ……」
こうした陛下の言葉があったからだろう。焦燥感こそ消しきれなかったようだが、お義父様はある程度の落ち着きを取り戻した。
それを確認した後、陛下は改まった様子で口を開いた。
「マティアス卿、夫人が要求した離婚を承認するに足る理由は、そなたにあったようだな。ただし、この事態を招いた一端、そなたらの結婚を承認した私にもある。よって、不敬罪に関しては私ではなく、当事者であるカリス本人に判断の全権を委ねる」
そう告げると、陛下はカリス殿下に視線を向けた。すると、その言葉に即座に反応したカリス殿下は「権限を授かりましたので……」と言いながら、お義父様に声をかけた。
「辺境伯」
「はい、殿下」
「マティアス卿を廃嫡する必要はございません」
「なぜっ……!?」
「不敬罪が関連した廃嫡となれば、家門内の事情で廃嫡になった場合と違い、他の兄弟の足を引っ張ることになります」
殿下の言葉にハッとした表情になったお義父様は、すぐに考え込むように難しい顔になった。一方、殿下は私の方を一瞥すると、安心しろと言うように軽く頷きを見せた。
――こう言えば、お義父様も廃嫡はしないはずよ。
イーサン様とジェリーのことを慮ってくれたのね。
二人を最大限巻き込みたくない私の気持ちを汲んだ殿下が、考え巡らせた気遣いを感じ、思わず安堵で目に涙が滲みそうになる。
だが、「その代わり……」と続ける殿下に気付き、私はその発言に注力するように耳を傾けた。
「マティアス卿には、西の辺境に行ってもらいましょう。陛下もお認めくださいますか?」
全権限を委ねると言っても、軍指揮官レベルの人を辺境に送るとなれば、話が変わってくると思ったのだろう。念のための確認といった様子で、カリス殿下は陛下に訊ねた。
すると、陛下は顔色一つ変えることなく、冷静な様子で言葉を紡いだ。
「ああ、認めよう。軍人としてのマティアス卿は、この国の三本指には入る。牢獄に居るよりも、戦場に居る方が良いだろう。戦地の活躍次第で、不敬罪も不問にしたら良い」
そう告げると、陛下は私に声をかけてきた。
「夫人はそれで良いか?」
――離婚が成立して、ジェリーやイーサン様、そしてヴァンロージアに害が及ばないなら、これ以上願うことは無いわ。
胸に手を当て皆の顔を思い返しながら、私はマティアス様を横目に一瞥した。すると、何も無いただ一点を見つめたまま、力なくその場に立ち尽くす彼の姿が目に入った。
きっとマティアス様にとっても、廃嫡にならずに済み、かつヴァンロージアにも迷惑を及ぼすことの無いという殿下の降した判断は、妥協点だったに違いない。
そのため、マティアス様も大人しくなったのだろうと察し、私は今のうちに急げとばかりに陛下の質問へと返答した。
「殿下や陛下の御心のままに。私は問題ございません」
「それならよろしい。では、そなたの問題は解決したな」
「はい。陛下、申し遅れてしまいましたが、離婚承認の要求を飲んで下さり、誠に有難う存じます」
本当やっとここまで来た。達成感や苦しさといった複雑な感情が渦巻く心で、私は陛下に礼をした。すると、陛下は「それなら、今から承認のサインをしよう」と言葉を続けた。
本当ならばずっと待っていた瞬間。だが、そのタイミングが今という訳にはいかない。
そう考えた私はバッと顔を上げ、使用人を呼び出そうとしていた陛下に声をかけた。
「陛下、承認は少しお待ちいただけないでしょうか!?」
慌てる気持ちが先行し、言葉足らずだった私の発言を不審に思ったのだろう。陛下は訝しげな様子で鋭い眼光をこちらに向け、眉を顰めた。
「離婚の要求をしたのは夫人であろう。なぜ待つ必要がある?」
厳格な陛下が纏うオーラに圧倒され、思わず恐怖心が込み上げてくる。だが、私は正当な理由があるのだと言い聞かせ、理路整然を意識し陛下に説明を始めた。
「私はヴァンロージアで領主代理の仕事をしております。そのため、一度ヴァンロージアに行き、業務の引継ぎ作業をしなければなりません。その作業の内、婚姻関係を継続している状態の方が円滑に進むものが多数ございます。ですので、離婚の承認に関しましては、引継ぎが完了した後にお願いしたく存じます」
――一時期でもヴァンロージアの女主人を担ったのだから、立つ鳥跡を濁さずで、最後の後処理はきちんとしないと。
いくら離婚したくても、こちらを優先することは絶対よ。
そうでなきゃ、これまで私に仕えてくれた皆や領民たちに申し訳が立たないわ。
それに、荒らすだけ荒らして、無責任に逃げた状態になるのは、私の矜恃が許さないもの……。
そんな想いを抱えながら、陛下が返してくる言葉を待った。
長いようで短い時間。そんな数秒が経ち、少し間を置いた陛下は鋭い眼光を円くし、言葉を返してきた。
「確かに夫人の意見はもっともだ。分かった。責任をもって、引継ぎを行いなさい。そして、夫人がヴァンロージアから戻り次第、離婚を承認しよう。マティアス卿は夫人がヴァンロージアに居る間、王都に留まるように。……話は終わりだな」
そう言うと、陛下は壁のように気配を殺していた、陛下直属であろう使用人に声をかけた。
「客人を馬車まで見送ってくれ」
この言葉を合図に、使用人は無駄のない所作で歩み寄ると、茫然と佇むマティアス様に「ご案内します」と声をかけた。
すると、何か亡霊にでも取りつかれたかのようなマティアス様は、使用人に逆らう事など一切無く、謁見の間からお義父様と共に立ち去った。
まだ一暴れするのではないかと身構えていただけに、呆気なさすら感じてしまう。
ただ、この部屋を出る間際の彼は、何か考え事に囚われているようにもとれた。そのことに、嵐の前の静けさなのではないかと、思わず胸に不安が過ぎる。
しかし、今にも崩れそうな程に危うげな彼の背を眺めた私は、同時に別れの色も感じ取っていた。
果たして、マティアスは大人しいままでいられるでしょうか……。
 




