82話 兄の変化
その場の空気を掌握したかのようなお兄様に、誰もが息を呑む。そんな中、お兄様によるマティアス様への怒涛の口撃が始まった。
「エミリアが不倫するなど、なぜそんな愚かな勘違いをする? そうやって人を責める以前に、マティアス卿。あなたの言動は許されるのか?」
「そもそも俺は――」
「俺の可愛い妹をこんな酷い目に遭わせて、許されるわけないだろ」
訊ねたものの、お兄様は答えを望んでいる訳では無かったのだろう。自問自答とでもいうようにマティアス様の発言を遮ると、自身の主張を述べ表情の険しさを強めた。
美人は怒ると怖いと聞いた事があるが、まさにその言葉通り、今のお兄様はまるで氷の化身とも言えそうなほどの、冷酷な表情を見せていた。
そのあまりにも別人すぎるお兄様を見て、私は夢でも見ているんじゃないかと、自身の耳や目を疑ってしまいそうになる。そんな状況の中、お兄様はさらに言葉を重ねた。
「マティアス卿、貴方は領主になる、領主としての役割を務めることが、どれだけ大変なことか分かるか?」
まさかの質問である。よりにもよって、お兄様の口からその言葉が出るのかと、別の意味で再び自身の耳を疑いそうになってしまった。
すると、マティアス様もこのお兄様の発言に思うところがあったのだろう。彼は呆れた様子でハッと鼻で笑うと、私によく見せるシニカルな笑みを浮かべて口を開いた。
「自分の領の統治すらままならないくせに、よくそんなことが聞けるな? お前の方こそ分かって無いんじゃないのか?」
マティアス様の棘に塗れた言葉が、容赦なくお兄様に降り注ぐ。だが、お兄様はそんなマティアス様の挑発とも取れる言葉に乗ることなく、予想外のことを告げ始めた。
「ああ、そうだ。俺は分かっていなかった。だが、領主になって初めてその大変さが分かった。そして、俺は全然何も知らなかったんだと、自分は辺境伯が居なければ何もできない人間だと痛感した」
自信家のお兄様からは信じられない発言だ。私の知っているお兄様じゃない。そう思っていると、悔しそうな顔をしたお兄様が私の方へと振り返った。
そして、右手で私の手を引き、軽く手を添えるように私の右肩を抱くと、マティアス様に向かって訴えるかのように話を続けた。
「だが、縁もゆかりもない。そんな知らぬ土地で、エミリアは顔も知らぬ夫を待ちながら、領主としての仕事をこなしていたんだ。もちろん、領主夫人の仕事も並行してっ……」
私の肩に添えたお兄様の手に、グッと力が加わった。決して痛くはない。だが、このお兄様の言葉と腕に感じる力や温もりは、私の心を大きく揺さぶった。
――ヴァンロージアに向かうときのお兄様からは、想像も出来ない言葉だわ……。
いったい何がどうなっているの?
私はビオラじゃないのよ……?
困惑する私の耳には、更にお兄様の言葉が流れ込んでくる。
「俺は仕事のことが何も分からなくて、逃げたり弱音を吐いたりしてばかりだった。だがある日、辺境伯から説教されて、俺は考えや行動を改めた」
お義父様を見れば、説教を否定する様子はない。
……お義父様は、豪胆ながら規律に厳しい軍人そのもの。だからこそ、享楽に耽ったぬるま湯生活をしていたお兄様のテコ入れのために、かなりきつめの説教をしたはずだ。
それこそ、説教の中でも特に厳しい説教だったはず……。
――ブラッドリーのために、お義父様はかなり尽力してくれていた。
とはいえ、お兄様が言動を改めるほどの効果があるなんて……。
いったいどんな説教をしたの?
当然のごとく湧いてくる疑問だった。すると、その疑問を解き明かすように、お兄様の口からその答えが飛び出した。
「お前は仕事から逃げてばかりだが、エミリアはこれを全部一人でやっていると言われたんだ。普通無理だろう。俺はそう思ったよ。だが、エミリアはそれ以外のこともしていると言われたんだ。……信じられなかった」
そう告げると、お兄様は瞳を微かに潤ませ私の顔を覗き込んできた。もの言いたげに顰められた眉からは、切なさすら感じ取られる。
だが、キュッと口元を引き締めたお兄様は、すぐにマティアス様へと視線を戻した。そして、左手で作った拳を自身の胸くらいの高さに上げると、言葉と合わせて指を一本ずつ弾き出した。
「領地経営、家計の管理、使用人の管理、領内の視察、そして義弟のガヴァネス……」
そう言うと、解放されたすべての指を、お兄様は小指側から順にゆっくりと折り畳み、再びギュッと堅い拳を作った。
そんなお兄様の表情には、明らかに憤怒の情が窺える。
――まさか殴るんじゃっ……。
昨日のマティアス様を思い出し、不安が過ぎる。しかし、お兄様が作った拳をゆっくりと下ろしたことで、一瞬にしてその不安は消えた。
またこの一連の行動により、アイザックお兄様は絶対に暴力だけは振るわない、という点が変わっていなかったのだと、思わずホッとして僅かに気が緩んだ。
刹那、殴らなかった代わりとばかりに、お兄様の鮮烈な怒号が耳を劈いた。
「これだけのことをしているエミリアが、不倫なんてする暇があるかっ……!!!!!!!! この可愛らしい顔に、過労の身体症状が出ているくらいだぞ!? 疑いの余地すらない話だ……!」
そう叫ぶや否や、お兄様は今まで堪えていた感情を溢れさせるかのように、抱いた私の肩から手を放して、マティアス様を詰め始めた。
「あの舞踏会の日、卿はどんなつもりで俺と会話をしていたんだ? エミリアは任されたって、どんなつもりで言ったんだ!?」
「あのときは、本気でエミリアと夫婦としてやっていく気があった! だがエミリアが、カリス殿下と白い結婚と言いながら二人で話を――」
「エミリアがそんなことを考えるほど追い詰めた卿には、非が無いとでも? それに、二人でとやけに強調するが、ティナも同席していたと聞いたぞ。不倫の当て擦りも大概にしろっ……」
マティアス様が何かを言い返せば、それ以上にお兄様が言い返す。そのためか、予想外に弁の立つお兄様に対し、マティアス様が劣勢に追い込まれつつあった。
しかし、マティアス様も言われっぱなしという性格ではない。図鑑に載っている豹のような目付きでお兄様を睨みつけると、攻撃的な一言を放った。
「もともとは、お前が無能だからエミリアが嫁いできたんだ! 俺を加害者のように責め立てるが、お前こそ真の加害者だろうがっ……! エミリアは無能なお前のために、父上の助力を得る目的で売られた女なんだよ!」
「なっ……」
先程まで獅子奮迅の喋りでマティアス様を圧倒していたお兄様だったが、あまりに酷すぎる彼の発言のせいでその勢いは途絶えてしまった。そのまま目を見開き、口をパクパクとしながら浅い呼吸のみを漏らしている。
一方、お兄様をそんな状態にした元凶はと言うと、片眉を上げてしてやったりという顔をしている。その顔を見て、私の心は着火した。
――人のことを何だと思っているの?
お兄様を痛めつける発言のつもりでしょうけど、今の言い方は私に対する侮辱でもあるわっ……。
自棄で出た発言だろうが何だろうが、絶対に許さない。
込み上げる怒りのあまり噛み締めた奥歯は、今にも割れそうだ。脳の血管が切れそうなくらい、頭に熱が上がっていくのが自分でも分かる。
そんな私の視界の端には、マティアス様に迫り行くお義父様が映る。
しかし、今にも襲い掛かりそうなお義父様を、私は視線で制した。そして、本能のままマティアス様の眼前へと足を運び詰め寄った。
彼にとっては、子猫の睨みにしか見えないかもしれない。だが、絶対に目を逸らしてなるものかと、怒りが伝わるよう、私は彼を睨み上げ告げた。




