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77話 真実一路

 バチンという音が部屋に響く。それと同時に、掌にビリビリと痺れが広がり、ジンジンと熱を持った痛みが走る。

 そんな中、何が起こっているのか理解していない様子のマティアス様に告げた。



「本当はこんなこと、したくなかったっ……。でも、あなたには言葉が通じないんでしょう?」

「エミ、リア……?」



 まるで雷に撃たれたかのように驚いた顔をしたマティアス様が、私の名を口から零した。と、ちょうどその瞬間、ドタドタとけたたましい足音が廊下から聞こえてきた。



 その足音は、一直線にこの部屋に向かっているかのように大きくなっていく。そしてついに、私たちの居る部屋の前で足音が止まった。直後、半開きになっていた入り口の扉が勢いよく全開にされると同時に、咆哮のような声が部屋中に響き渡った。



「……ルドに言われてきてみればっ。マティアス、お前っ……!」



 怒鳴り声とともに、憤怒に染まったお義父様が室内に足を踏み入れ、一直線にマティアス様へと向かう。一方マティアス様はというと、お義父様を認識した途端、喉が塞がり何も言うことが出来ないという様子になって、顔から色を失った。



 だが、お義父様はそんなマティアス様に容赦はしなかった。マティアス様の胸倉を掴み引っ張ったかと思えば、そのままマティアス様を廊下へと投げ出したのだ。



 とてつもない轟音が聞こえ、思わず呆気に取られる。だが、私はフッと我に返った。マティアス様を心配したからではない。先ほどのお義父様が発言の一部に、不穏さを感じ取ったからだ。



――今、もしかしてジェラルドと言ったの?

 自室に戻ったのなら、絶対にここの音は聞こえないはずなのにっ……。



 ジェリーの名前が聞こえたような気がして、思わず心が戦慄く。



 しかし、今は不確かな事実を追求するよりも、出来るだけ早く国王陛下と話を付ける方が賢明だと判断した。

 そのため、カリス殿下とともに廊下に向かい、マティアス様に怒鳴ろうとしていたお義父様に声をかけた。



「お義父様」

「エミリア、今は話を聞けそうにない。それよりもこいつに――」

「私の我慢が足りず申し訳ございません」



 話を聞く余裕を失ったお義父様を強制的に黙らせるべく、私は深く頭を下げた。すると、頭上から狼狽したお義父様の声が聞こえてきた。



「何をしている! エミリアは何も悪くないじゃないかっ……! 頭をあげてくれ!」



 そう言われたが、私はそのままの体勢を維持し、お義父様に言葉を続けた。



「貴方のご令息の妻の役目を担うには私の技量が足りず、限界の情を禁じ得ませんでした。……今から王城に行き、陛下に離婚承認要求の申し出をして参ります」



 そう告げ、私はようやく頭を上げた。すると、茫然とした表情で私を見つめるお義父様と目が合った。

 その瞬間、マティアス様のときには感じなかった罪悪感が、微かに胸を過ぎった。だが、暗澹たる面持ちになったお義父様の脇を抜け、私は玄関を目指して歩み始めた。



 ところが、数歩足を進めた後、私の足は石のように固まってしまった。廊下の先に、ある人物の姿を捉えたからだ。



「っジェリー、どうして……」



 居るはずの無い人物が現れ、なぜここに居るのかと血の気が引く。それと同時に、ジェリーをここに置いて行くという事実が表象化され、心が痛み激しく乱される。

 と、そんな私の耳に、背後から叫ぶマティアス様の声が届いた。



「エミリア……。ジェラルドだって、お前のことを姉や母親のように慕ってる。そんなジェラルドを、お前は見捨てるのか? 可哀想だとは、思わないのか!?」

「っ……!」



 完全に否定しきれない、むしろ他者からはそう捉えられてもおかしくないと思った。彼が放ったそんな毒の矢のごとき言葉は、私の心に命中した。



――ここで泣いては駄目よ。

 マティアス様の策略じゃないっ……。

 ジェリーの前だけでは体裁を守ろうとする人だったのに、もうそれさえもしなくなってしまったのね。



 悲しみに打ちひしがれながらも、必死に唇を噛み締め、胸が詰まり思わず溢れそうになる涙を耐える。

 するとそのとき、目の前に居たジェリーが憤激を漲らせたように頬を火照らせ、こちらに向かって廊下を駆けだした。

 そして、マティアス様の前にやって来るなり、激情をぶつけるように言葉を発した。



「僕は可哀想なんかじゃない! 勝手に決めつけないでよ……!」



 そう告げると、ジェリーは膝を突き、床に座り込んだままのマティアス様の胸板をポカポカと叩き始めた。すると、されるがまま叩かれ続けているマティアス様が、とんでもないことを宣った。



「エミリアは、お前のことがどうでもいいから出て行くんだよ。こんなに可愛いお前を捨てる。それが現実だ!」

「違っ――」



――捨てるわけじゃないわ……!

 ジェリーは私にとって、家族以上に大切な存在なのにっ……。

 なんて酷い植え付けをするのっ……!



 そう言い返したいが、離婚したらジェリーと離れることは事実。つまり、こちらにそのようなつもりは無くても、捨てたと思われたらそれまでなのだ。



 それに反論したら、自棄になりなりふり構わなくなった今のマティアス様は、今以上に酷い発言をするであろうことは想像に難くない。よって、ジェリーの前で下手に言い返すことは悪手と判断し、私は必死にグッと言葉を堪え、違うと念を送るようにジェリーを見つめた。



 そんな視線の先のジェリーは、叩く手を止めて目を大きく見開き、マティアス様の言葉に酷く驚いた様子を見せている。その光景を見て、胸が締め付けられ視界が滲んだ。



 そのため、思わず溢れかけたその涙を抑えようと、咄嗟に自身の左手で顔を覆おうとした。するとその瞬間、ジェリーがスクっと立ち上がった。かと思えば、ギュッと顔を歪め、ひときわ大きな声で叫んだ。



「違う! お兄様の嘘つき! リアは僕のこと、誰よりも大事に思ってるもん!」

「「っ!」」

「僕がリアに出て行ってって言ったんだ!」



 そう言うと、ジェリーは息を呑んでいる私の方へと向き直り、声量を下げて声をかけてきた。



「リア……出て行ってよ」

「えっ……」



 予想外の言葉に、自身の意思とは関係なく声が漏れてしまう。溢れそうだった涙も、驚きのあまりスッと引っ込んだ。

 だが、ジェリーはそんな私の様子を気にする素振りを見せず、早足で私の目の前へと歩いて来た。



 その次の瞬間、ジェリーは俯いたまま私の右手を両手で握りしめた。そして、グッと顔を上げると、今にも零れ落ちそうな涙を目いっぱいに浮かべ、私に向かって怒り声にも似た声で叫んだ。



「いいから早く出て行って!」



 その言葉の後、ジェリーは掴んだ私の右手を力いっぱい引っ張り始めた。出会った頃からはとても想像出来ないほどの力強さに、思わずよろけてしまう。

 だが、ジェリーはそんな私に気付きながらも、引っ張る力を弱めなかった。



 その理由は簡単だ。ジェリーはこの場から私のことを、必死に逃がそうとしてくれているのだ。

 自分が悪者になってでも、私をマティアス様から引き離したい。そんな彼の想いが手に取るように分かり、罪悪感で胸が押し潰されそうになる。



――このままジェリーを悪者にして去るわけにはいかないわ。

 ジェリーには、これ以上傷付く思いなんてさせたくない!

 どうにか一緒に連れて行けないかしらっ……。



 そう思った瞬間、すぐそばに居たカリス殿下が、早口ながらも冷静な様子で話しかけてきた。



「エミリア。ジェラルドも一緒に王城へ連れて行こう。下手にここに残したら危険だ」

「はいっ……」



 まさかのカリス殿下からの提案に、救われた気持ちで返事を返す。すると、カリス殿下は私を引っ張るジェリーの両脇に背後から手を滑らせ、いとも簡単にジェリーをひょいと持ち上げた。

 その隙に、私は爆発寸前の様子のお義父様に声をかけた。



「お義父様……いえ、カレン辺境伯」

「っ!」



 お義父様ではなく爵号で呼びかけ直したところ、お義父様は息を呑みギュッときつく拳を握りしめ、まるで銷魂したかのように表情を翳らせた。

 そんなお義父様に、私は言葉を続けた。



「ジェリーにきちんと説明したいので、一緒に連れて行ってもよろしいでしょうか?」

「ああ、っ本当に済まない。……そうしてくれ」



 その言葉を聞き、軽く胸を撫で下ろした。すると、背後からカリス殿下が声をかけてきた。



「エミリア、ジェラルドと先に行ってくれ。後から追いかける」

「はい。ですが、ティナも一緒に……」



 そう言いティナに視線を向けると、ティナはゆるゆると首を振り口を開いた。



「私はカレン辺境伯に今回の件について詳らかに報告をするので、ここに残ります」



 そう言うと、ジェリーに見放され放心状態になっているマティアス様を、冷ややかな目で睨みつけた。

 そのティナの意思は固かったため、報告が終わり次第、カリス殿下が私の元へと来られるよう手配するということになった。



 こうして、私はジェリーと手を繋ぎ直し、一緒に馬車へと乗り込み王城へと向かった。



 ◇◇◇



 エミリアとジェラルドの姿が見えなくなったことを確認し、口を開いた。



「辺境伯」

「はい」

「ご令息は不敬罪ですよ。私を侮辱し、何度も殴ろうとしました。まあ、それはどうでも良いこと……。問題はエミリアへの態度です。きっと離婚は承認されるとご理解ください」

「っはい。承知いたしました。大変申し訳ございません」



 軍人らしい礼節ある完璧な礼が、こんなところで生かされてほしくはなかった。そんなことを思いながら、マティアス卿を尻目に見たところ、目が合った彼が悔しそうな顔で呟いた。



「俺と離婚したら、エミリアが困りますよっ……」



 その言葉を聞いた途端、辺境伯は再びマティアス卿を殴ろうとした。しかし、それを制止して、僕はマティアス卿に訊ねた。



「どう困るんでしょうか?」

「父上が関与できなくなったら、ブラッドリー領は混乱する。それをエミリアは恐れているし、望んでいないはずです」



 その言葉に、僕は苛立ちを感じた。そのことを分かった上で、エミリアを離婚と言って脅したということを、まざまざと認識させられたからだ。



 だが、ここでマティアス卿と僕の間にこれ以上の問題が起こったら、先に行ったエミリアが困るだろう。そう考え、僕は極めて冷静にマティアス卿の言葉に返答した。



「ヴァンロージアで鍛えられたエミリアが居るんです。その心配はいらないでしょう」



 そう告げると、マティアス卿は混乱した表情になりながら、更に言葉を続けた。



「仮にそうだとして、エミリアは出産経験もないままの離婚だから嫁の貰い手もいない。少なくとも、良い家柄の同年代の男は結婚できないはずです。そうなったら女として悲惨な――」



 先程から、妙に未練たらしい話し方をするマティアス卿に怒りが募る。それに、エミリアを悲惨な目に遭わせる根源が何を言うのかと、頭が沸騰しそうになる。



――もう黙ってもらおう。



 そう判断し、僕は彼の言葉を遮りはっきりと告げた。



「ご安心ください。そのときは、私が責任をもって彼女と結婚いたします」



 そう告げると、マティアス卿だけでなくカレン辺境伯も、魂が抜け落ちたかのように唖然とした顔で僕を見つめてきた。

 しかし、辺境伯はすぐに我に返り、その精悍な顔立ちを険しいものへと変えた。そして、何か考えるように少しの間を置いたかと思えば、身体ごと僕に向き直り片膝を床に突いた。



「辺境伯、何を――」

「エミリアが平和に生きられるよう、どうかご助力のほどよろしくお願いいたしますっ……」



 そう言うと、辺境伯はその姿勢のまま目線を上げ、切願と真剣さを孕んだ眼差しで僕を射貫いた。

 その瞳を受け、僕は辺境伯に「約束します」そう言葉を返し、エミリアたちを追いかける形で王城へと向かった。

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