74話 怒りの覚醒
「マティアス様……」
振り返ると、王城に行っているはずのマティアス様がいた。まさか、こんなに早く帰って来るとは思ってもいなかった。
「はっ……。今までよく隠し通せたものだ。それにしても、二人がこんな関係とは思わなかったよ」
嘲笑交じりにそう言い放つと、マティアス様はフッと息を吐いた。直後、途端に人格が切り替わったかのごとく、マティアス様の表情から怒りが表出された。
「堂々と配偶者の別邸で不倫とは良い度胸じゃないか。やはり、お前も王都の女と一緒だったか。愚かにも騙されてしまった」
――不倫だなんて、それは誤解よっ……!
マティアス様は私とカリス殿下を見て、完全に不倫だと勘違いしている。この誤解は、何が何でも解いておかなければならない。
「違います。私と殿下は不倫関係ではございません」
そうはっきりと否定した。しかし、私のこの言葉を聞くなり、マティアス様はハッと呆れたように鼻で笑った。そして、蔑むような視線をこちらに向けて言葉を放った。
「俺という夫がいながら、他の男と密室にいるのにか?」
そう言うと、マティアス様は部屋の中へと足を踏み入れ、長い足を生かしてあっという間に私の目の前にやって来た。
すると、そんなマティアス様と私の間にカリス殿下がスッと身を滑らせ、柔和な声色で彼に声をかけた。
「マティアス卿。私たちはそのような誤解をされぬよう、きちんと扉は開けておりましたよ? 密室ではありません」
「そんなの詭弁でしょう」
ドスの利いた声を出し、鋭い眼光で睨みつけるマティアス様。その態度は、自身が仕える国の王子に向けているとは到底思えぬものだった。
すると、そんな様子を見かねて、ある人物が口を開いた。
「横から失礼いたします。私も共にお二人とおりました。二人は一切不倫の罪を犯していないと、私、ティナ・パイムが証言いたします」
その言葉に、マティアス様の片眉が上がった。そして、顔を動かすことなく目だけでティナの姿を捉えると、彼は吐き捨てるようにティナに告げた。
「お前はエミリアの身内だろう。不倫現場も見て見ぬふりするはずだ。忠誠心が強い分、お前はエミリアよりも信用ならん。口を出すな」
「なっ……。マティアス様、そのような言――」
誤解を解こうとしてくれているティナに対して、あまりにも侮った態度を見せるマティアス様。そんな彼の態度に腸が煮えくり返り言い返そうとしたが、それを後ろ隣りにいたティナが、私の服を引っ張り遮った。
「ティナっ……」
あまりの悔しさに、どうして止めるのかとティナに視線を向ける。すると、ゆるゆると首を横に振るだけのティナがそこにいた。
そのティナの姿を捉えた瞬間、頭がすっと冷めた。
一方、そんなティナの姿にマティアス様は満足したのだろう。フッと笑いを漏らしたかと思えば、今度は殿下に向かって話しかけた。
「知ってましたか? 殿下はエミリアにとって、具合が悪かったはずなのに、愉しく踊るほどの相手なんですよ?」
突如として放たれた言葉に、カリス殿下は驚いた表情を見せる。そして、マティアス様はそんな殿下の表情を見て、シニカルな笑みを浮かべた。
きっと、マティアス様は私がテラスに行きたいと言ったのを、具合が悪かったからだと思っているのだろう。しかし事実は、マティアス様と離れるだけの口実だった。
――まさか、こうしてそのことを引き出してくるだなんて。
誤解も加速するわけだわ。
何と言葉を返すのが、マティアス様への正解になるのかしら……。
そう考えていると、明らかに動揺を見せているカリス殿下が、慌てた様子で口を開いた。
「それは知らなかったです。立場上、断れなかったのでしょう。マティアス卿の許可もあったので、大丈夫だと思っておりました。それは申し訳――」
「いいや、さっきの話し方からして断れないとは思えないですね」
そう言い放ったマティアス様の顔からは、呆れ笑いも消えた。そして、怒りだけを滲ませた彼は、そのまま言葉を続けた。
「それに、私は妻さえ良ければとエミリアに判断を一任したので、すべてエミリアの意思です。シレっと巻き込まないでください」
言われてみれば、確かにマティアス様がどうぞ踊ってやってくれという言い方をしたのではない。確かに私に判断を委ねていた。
となれば、やはりマティアス様の誤解を解くことは、私自身でないと不可能だろう。
そう思い、私は昨日の誤解を解こうと、マティアス様に説明を試みた。
「私はマティアス様に少々休憩したいとは言いましたが、それは具合が悪いとは別物です。そして、断らなかったのは、まだ踊れると判断したからです。だから、どうかごかーー」
「言い訳するな!」
事実だけを告げたのに、憤怒の籠った声で一喝された。思わず、怖さで身体が強張る。
だが、マティアス様はそんな私の様子を一切気にすることなく、再び殿下に言葉を続けた。
「はあ……。昨日の殿下を見て、そんな人じゃないと思ったばかりなのに、俺の目も鈍ったものです」
「だから違うとっ――」
カリス殿下がいい加減にしろという様子で、マティアス様に言い返そうとしている。
しかし、マティアス様はあろうことか、王子であるカリス殿下の言葉を無視し、今度は私に向けて言葉を放った。
「それで、エミリア。お前は、どうやってこの不倫の罪を償う気だ?」
「先程から言っておりますが、私は不倫をしておりません」
「していないという証拠もないだろう」
「扉も開けておりましたし、ティナも居りました」
「それは証明にならないと言っただろう! この女の証言は何一つ信用ならん!」
その言葉は、私の中のマティアス様への怒りを加速させた。怖いなんて思いは消え、言い返してやりたい気持ちが出てくる。
しかし、今はティナへの無礼に焦点を当てるべき場面では無い。そのため、ティナに関する怒りは一時的に押し殺すことにし、淡々とマティアス様に今言うべき言葉を告げた。
「そう言われても、証明手段がありません。かといって、私も嘘の罪を認められません」
――いったいどうしたら……。
そんな思いを抱きながら、私は目の前のマティアス様へと真っ直ぐに視線を注いだ。すると、彼は私を見やるなり愉し気な笑みを浮かべた。
その奇妙過ぎる彼の反応に嫌な予感しかしない。
何を言われるのだろうかと、彼が発する言葉を待つ間に緊張が走る。
そんな中、子どものように愉し気な笑みを浮かべた彼が、ついにその口を開いた。
「そうかそうか。では、この国の第三王子が、辺境を守り抜いた男の妻を誑し込もうとしたと噂を流そう」
「何を考えているんですかっ……」
――絶対に駄目よ。
カリス殿下は巻き込んではいけない。
守らなくてはっ……。
「マティアス様。お願いですから、そのようなことはおやめください」
何が何でも止めなければならない。その想い一つでマティアス様にやめるよう言うと、彼は白けたとでもいうように顔を歪めた。
「そんなにやめてほしければ、せめて自供を認めてもらう程度の犠牲を払うべきなんじゃないか?」
とても嫌そうに言い放つマティアス様。すると、そんな彼にカリス殿下が訊ねた。
「その犠牲とは何ですか?」
「殿下には関係ございません。これは、私と妻の家の問題ですので」
「っ……私も居たんだ。関係無いわけない」
「いやいや、お気になさらず。悪いのはすべて妻ですので」
「それは違うっ!」
今日初めて、カリス殿下が大きな声を出した。そのことに少し驚いたのか、余裕をかましていたマティアス様も、思わずといった様子で少し目を見開いた。
だが、彼はそれ以外に動じる様子を見せず、何事も無かったように気を取り直して言葉を返した。
「いいえ。青いあなたには分からないでしょうが、妻は既婚者です。あなたから誘われたとしても、断らなかった妻が悪いんです」
完全に、私たちが不倫関係だと決めつけている。まさに、聞く耳をもたないという言葉がぴったりだ。
――私自身でマティアス様が納得する方法を編み出すのは不可能よ。
彼の言いなりになる気はないけれど、とりあえず聞き出してみるしかないわ。
そう思い至り、何か言いたげなカリス殿下が言葉を発する前に、私はマティアス様に問いかけた。
「あなたは私が何をしたら満足するのですか? 私の言い分を認めてくださるんでしょうか?」
そう訊ねると、マティアス様は人差し指の甲を顎に置き、考え事をするように目線を斜め上に向けた。
そして直後、何かを思いついたであろうマティアス様が口を開いた。
「そうだな……。一糸纏わぬ姿で領地を一周でもしてみたらどうだ?」
「は……?」
信じられない言葉に、思わず口から声が零れ落ちた。怒りで手がわなわなと震えてくる。
だが、マティアス様はそんな私を気にも留めずに、おかしな発言を続ける。
「そうすれば、お前はもう皆の前に顔を出せないし、不倫の心配も一切無くなるだろう。父上には怒られるだろうが、まあ何だかんだ時間薬で許してくれるだろう」
――何を言っているの……?
本気でそんなことを考えているの?
嘘みたいな彼の発言を聞き、現実ではないのかもしれないという思いさえ湧いてくる。そんな中、彼はなお好き勝手に言葉を放つ。
「俺に信じてほしいんだろう? お前がそこまでしたなら、不倫しておらず、純潔で清い身体だと信じてやろう。嘘だとしてもだ。どんなに酷い嘘も隠していることがあっても、すべて俺が赦してやる」
妻には謂れの無い不倫の罪を着せて、何度誤解を解こうとしても聞く耳を持たず責め立ててくるマティアス様。
しかも、私の尊厳をめちゃくちゃにして、自分が優位に立とうとしているのが手に取るように分かる。
そして、そんな彼が現在もなお想い続ける女性は、不倫という不倫を重ね、稀代の悪女と言われるミア・オルティス。
もう許せなかった。
「お前のその恥辱の対価として、すべてを許し、お前を俺の妻として一生大切にし、何不自由ない生活を保障しよう」
「マティ――」
怒り顔のカリス殿下が声を発した。しかし、私はそんなカリス殿下の言葉を手で制し、マティアス様へと歩み寄り、口を開いた。
「あなた、ミア・オルティスを愛しているんですよね?」
憎悪と怒りをこれでもかと込めた視線を向け、そう彼に告げた。
お読みくださりありがとうございます!
活動報告にて書籍化に関する情報を更新しました。
ご興味がある方がいましたら、ぜひ見ていただけますと幸いです。




