63話 救世主
「お姉様、やっと声をかけられたわ!」
昔からよく知るその声が、酷く耳に刺さった。
そして、その声の主は駆け寄ってくるなり、マティアス様がいる方とは逆側の私の腕に、ギュッと抱きついてきた。
「ビオラっ……」
「エミリア。ビオラだけじゃなくて、お兄様もいるんだぞ?」
この美しい兄を忘れるなとつけ加えながら、ビオラの後方からアイザックお兄様も歩み寄ってきた。
「お兄様……」
マティアス様と二人きりだった気まずさが、一気に二人の空気に呑まれた。もはや、茫然とするしかないほどだ。
するとそんな中、お兄様がハッと柳眉を顰めた。かと思えば、途端に悲壮感漂う表情になり、私の頬に大きな右手を滑らせた。
「エミリア……」
「いっ、いきなり何――」
「なぜこんなにも顔色が悪いんだ……? もともとビオラほど良かったわけではないが、これはっ……」
その言葉ともに、お兄様は頬に軽く親指を滑らし「どうしてだ? クマまで……」と呟いた。
言い方にはいろいろ思うところがある。だが、確かにその通りだと納得する自分もいた。
コーネリアス殿下のクマを見て、自分と重ねてしまうくらいだ。否定はできない。
――とはいえ、下手なことは言えないわ。
何と言い訳しよう。そう必死に頭を巡らせていると、幸か不幸か、ビオラが閃いたというように口を開いた。
「お姉様は、昔からよく遅くまで勉強してたから、きっと今日も夜更かししちゃったのよ。ねえ、そうでしょ? お姉様!」
「なんだ、そうだったのか。それなら良かった! ビオラは冴えてるな!」
そう言うと、お兄様は私の頬からパッと手を離し、私の答えを聞くでもなく、ビオラと二人で顔を見合わせて笑い合った。
それから間もなく、ビオラが嬉しそうな表情で話しかけてきた。
「それはそうと! 隣の方……私のお義兄様でしょう!? お姉様っ、紹介してちょうだい?」
ほんの少し背が高いビオラが、頭を傾け私の顔を覗き込んできた。
そんなビオラに気圧されるがままマティアス様を見ると、ビオラたちに圧倒され、目が点になった彼がそこにいた。
――マティアス様を夫として紹介するなんて……。
でも夫という事実は変わらないものね。
今この状況で、マティアス様のことを夫とは言いたくない。だが、公的な事実として彼は夫。言わざるを得なかった。
「……マティアス様よ」
二人はお義父様もといカレン辺境伯と交流があるから、具体的な説明はいらないだろう。そう考え、名前だけを伝えた。
すると、真っ先に反応を示したのはお兄様だった。
「マティアス卿だな。エミリアの兄のアイザックだ。エミリアが世話になっている。我が妹ながら可愛らしい子なんだ。これからも、どうか良く面倒を見てやってくれ」
――……この人誰?
本当にお兄様?
自身の目も耳も何もかもが疑わしい。
そう思うほどの発言をした当人は、笑顔でマティアス様に歩み寄り、握手を求めて手を差し出した。
「ああ、エミリアは任された。お義兄様……と言っても年は同じだな。これからよろしく頼む」
そう言って、マティアス様がお兄様の差し出した手を握り、熱い握手を交わした。そのとき、ふっと私の腕が解放される感覚がした。
直後、ふわっと甘い香りがあたりを包み込み、私たちの耳にはカナリアのように透き通った美しい声が聞こえてきた。
「挨拶が遅れて申し訳ございません。初めましてお目にかかります。ビオラと申します」
私とマティアス様の目の前に移動したビオラが、かつて私が教えた通りの一礼をした。そして、顔を上げると社交の花と言われるだけある笑顔で、ニコッとマティアス様に微笑みかけた。
――マティアス様は王都の女が嫌いな様子だったわ。
ビオラには当たりがキツいんじゃ……。
心配になり、即座にマティアス様の様子を窺った。しかし、その想いがただの杞憂に過ぎなかったということを、私は酷く痛感することになった。
「ビオラ嬢だな。これからよろしく頼む」
……マティアス様が、満面の笑みで笑っていたのだ。
私には一度も向けたことが無いその笑顔。その表情をビオラに向けているという事実に直面し、身体がスーッと冷めていくのが分かった。
それと同時に、以前彼に言われた言葉を思い出した。
『妻だと言うが、どうせ嫁いでくるのなら、あんな辺鄙な戦地にまで届くほど美女と名高い、あなたの妹の方が良かったよ!』
別に、マティアス様に好かれたり特別な存在だと思われたりしたいわけではない。
ただ、今のマティアス様の表情と以前かけられた言葉を思い出し、ただただ酷く胸が痛んだ。もう泣きそうだ。
本人はなんてこと無いように笑っただけかもしれないが、私にとってビオラに向けた彼の笑顔はあまりにも罪だった。
一方、そんな私の心情に気付くはずのない人たちは、楽し気に話を始めた。まずは、ビオラからだった。
「お姉様ったら、お義兄様がこんなにかっこいい人なら早く教えてよ! かっこいいから秘密にしてたの!?」
そう言われても、もう何も返す気力も無かった。すると、ビオラは別に私の答えを聞く気は無かったように、マティアス様に歩み寄った。
かと思えば、あろうことか私と反対側のマティアス様の腕にしがみつき、マティアス様の顔を覗き込んで話しかけ始めた。
「そうだお義兄様! せっかくだから、一緒に私と踊りましょう? ね? こんなにかっこいい人と踊れるだなんて、ドキドキしちゃうわ〜」
断られることなんて考えていない口ぶりだ。そして、そんなビオラに踊ろうと提案されたマティアス様の顔を見ると、彼は満更でもなさそうにビオラに微笑みを注いでいた。
そのことに気付いた時、私の口は勝手に動いていた。
「……踊ってきてください」
「えっ……」
予定よりも、低い声が出てしまった。すると、マティアス様は存在を思い出したかのように、ハッと私に視線を向けてきた。
だから、私は聞こえなかったのかと、今度はもう少し声を明るくすることを意識し、マティアス様に作り笑顔で繰り返した。
「踊ってきてください」
「いや、今日はもうエミリアとだけ……」
「どうぞ、私のことはお気になさらず」
有無を言わせないとばかりに、マティアス様の言葉に被せた。すると、ビオラは許可をもらったとばかりに「ほらほら早く!」と言って、マティアス様を急き立て始めた。
お兄様はというと、ビオラの心変わりに憂い、もうビオラ以外何も見ていないというような状態になっている。
しかし、そんな状況でもなおマティアス様は「エミリアを一人にするわけには……」と言い、後ろめたそうな不安を纏った表情を向けてきた。
――どうして私を気遣うかのような態度をとるの?
今まで散々だったくせに、何でこういう時に限って……。
それに、待望のビオラとのダンスじゃないっ……。
傷付いたような、憂いや罪悪を帯びたような、そんな表情をしたマティアス様と対峙するたびに、自身の心が黒く塗りつぶされるような感覚になる。まるで、自身がどんどん酷い人間になっているようだ。
それに、ビオラとアイザックお兄様もいるからか、周囲の目がどんどんこちらに集まってきていることも肌で感じる。だからこそ、私の心が汚れていく様を人々に見られているような気分になった。
――助けて……。
叶わないと思いながらも、思わず願った。
その瞬間、私の真横に人が立つ感覚がした。
音も無く背後からやってきた人物が誰か分からず、緊張で心臓が強く脈打つ。そんな状態で横を向き見上げると、思わぬ人物が視界に映った。
「っ! カリス殿下……」
どうして? という言葉が口を衝いて出かけた。だが、その前にカリス殿下がマティアス様に話しかけた。
「失礼、会話が聞こえてきましたので……。マティアス卿。よろしければ、私がエミリア様をダンスにお誘いしても?」
想定外の人物の登場に、その場にいる全員が固まった。すると、カリス殿下は再度マティアス様に話しかけた。
「マティアス卿」
「っ! はい」
「よろしいでしょうか?」
「あ……はい。妻さえ良ければ」
その言葉を確認すると、カリス殿下は一度口元をキュッと引き締めた。そして、私に向き直ると、手を差し出し口を開いた。
「エミリア様、どうかあなたと踊る機会を私にお与えください」
差し出されたその手は、このうえ無いよすがだった。そして、私はそのよすがに自身の手を軽く重ねた。
「……っはい。その栄誉、謹んでお受けいたします」
「それは良かった! では、行きましょうか」
そう言うと、カリス殿下はマティアス様やお兄様たちに礼をし、無駄のない所作で私をあっという間にダンスフロアへと連れ出してくれた。おかげで、私の心は一気に緊張から解き放たれた。
ただ、その過程で一つだけ気にかかることが出来た。
――カリス殿下はマティアス様の前だから、気を遣って私に敬語だったのよね?
でも、どうして……結婚式のことを思い出すのかしら?
理由は分からない。だが、なぜか今のカリス殿下を見ていると、胸の奥底にしまい込んだはずの結婚式の記憶が掘り返されるような、そんな感覚がした。




