41話 堪忍袋の緒が切れる
書斎に向かう時間は、いつもの倍長く感じた。だが、歩いて行けばいずれ着くもので、私たちはとうとう書斎に到着した。
そして、書斎に入って向き合うなり、怒りに目を吊り上げたマティアス様が口を開いた。
「何であれだけ頼んだのに、約束を守ってくれなかったんだ!」
「そのようなつもりでは――」
「言い訳は聞きたくない! 結局は約束を破っているじゃないか! それに、俺はお前を妻と認めてないと何度も言ってるのにまだ分からないのか!」
初めてお前と言われた。それに、人の意見には一切耳を傾けず、自分の言いたいことばかりを押し付けてくる。しかも、怒りに任せて言葉をぶつけてくる。
……もう限界だった。
「あなたは――」
「何だ!?」
「あなたは自分ばかり被害者面をするけれど、私の気持ちは考えたことは……?」
そう言うと、相変わらず憤怒の表情を浮かべてはいるが、少し目を見開き口を閉ざした。そんな彼を見て、私は普段から溜まりに溜まっていた感情を抑えることが出来なかった。
「他の人には優しいのに、私に対しては酷い態度。謝っても結局いつも元通りで、自分のことばかり! 私には心が無いとでも思っているんですか? 私にだって心はあるんですっ……」
マティアス様の気持ちも考え、いつもは我慢していた言葉を、冷えた手でギュッと拳を作り勇気を出してぶつけた。
しかしそんな私に、彼は冷たく厳しい声で言葉を返して来た。
「心がどうした。人の心は何も気にしていないじゃないか。他の人のように俺に優しく接してもらえるという考えが、そもそも甘い。これだから王都の女は嫌いなんだっ……」
吐き捨てるように言うと、彼は険しい顔をした。だが、急にシニカルな笑みを浮かべ、嘲るように言葉を続けた。
「それに、すべてをすっ飛ばして結婚するくらいだ。俺がどんなに冷たく当たっても笑っているし、なぜかは知らんが、少なからず俺に好意があったんだろう。だが、俺はお前を絶対好きになんてならない! はっ……残念だったな?」
そう言うと、彼は酷く皮肉を込めた乾いた笑いをかけてきた。
そんな彼を見て、私の堪忍袋の緒は完全に切れ、傲慢な彼をジッと見つめて言葉を返した。
「あなたのような人と結婚しなければならなかった事情が、私にあったとは考えないんですか?」
「何?」
「私はあなたが好きで結婚したわけではありません。勘違いも甚だしいっ……」
そう言うと、彼は愕然とした顔をした。かと思えば、急速的にこめかみに青筋が立ち、怒りの形相が完成した。
いつもの私だったら、今の彼は怖いなんて言葉じゃ済ませられないだろう。だが、今の私は違う。
ここまで言ったらもうすべてぶつけてしまえと思い、はっきりと彼に言葉をぶつけた。
「あなたが妻と認めるのは絶世の美女ですか? それとも、あなたが好き合える女性ですか?」
そう訊ねると、彼は地を這うような怒りを込めた低い声で言葉をぶつけてきた。
「何が言いたいっ……」
「今のあなたは人として最低です。対話を求めても、いっさい対話をしてくれない。一方的に怒りだけをぶつけてくる。謝罪もパフォーマンス。少なくとも、今のそんなあなたを好きになるような女性は、この世に存在しないと断言できます」
泣くつもりは無いのに、生理的な現象として涙が出てきそうになってしまう。だが、彼の前で泣くようなことだけはしたくなかった。
だから、私はグッと溢れそうな涙を堪え、彼の目をキッと怒りを込めて見つめた。そして、彼が面食らった顔をした瞬間を逃すことなく、言葉を続けた。
「自分は夫として当たり前のように受け入れられる存在で、自分が妻と認めるかどうかで全てが決定するとでも? 私があなたに嫁ぎたくて嫁いできたと思っているんですか?」
「は……? どういう……」
そう声を漏らした彼だったが、ふと我に返った様子になり、心底憎しみを込めたような目を向け反論してきた。
「――っ! 嫁ぎたくなければ、嫁いで来なかったら良かっただけじゃないか! 頼んでも無いのに、勝手に来たのはそっちだ! 妻になりたくて嫁いできたお前が悪いんだろ! 自業自得だ!」
確かに私は、ブラッドリー領の民のため、そしてお父様の遺言を守るために嫁いできた。
だからこそ、少しでも私が妻でマシだったとマティアス様に思ってもらえるよう、必死にヴァンロージアの領地経営と屋敷の切り盛りを頑張った。
それに、領主から見た個人は大勢の民の一人。しかし、民にとっては唯一の領主。そんな立場の人に嫁いだからには、私にはブラッドリー領だけでなくヴァンロージアも責任持って守る使命があるのだと、必死に試行錯誤してきたつもりだ。
嫁いできたころは十七歳で、まだ前も後ろも右も左も分からない状態だった。
でも、こうして私なりに必死に領地のため、今まで頑張ってきたのだ。
つらいと感じる日もあったが、私が弱っては駄目だと、ずっと踏ん張ってきたのだ。
それなのに、こんな言われようという現実に直面し、もうマティアス様を受け止めきれなかった。そして、私はマティアス様に泣き声を必死に堪えた、悲鳴のような叫びをぶつけた。
「私だってなりたくてあなたの妻になったわけじゃない……! 思い上がりもいい加減にして! あなたが好きですって? 冗談じゃないっ……あなたなんて大っ嫌いよ!」
そう言い残し、私は書斎から飛び出した。
「おくさ――」
書斎の外にいたジェロームが、私の姿を確認した瞬間声をかけてきた。だが、今の私には誰かと会話するほどの余裕が無かった。
「今冷静じゃないんです。ごめんなさいっ……」
そう言い残し、私は扉の前にいたジェロームやティナに背を向け、部屋へと一直線に走って行った。
こんなに周りの目を気にすること無く走ったのはいつぶりだろうか。
貴族令嬢として生きてきて、今までこんなに走ったことは無かったかもしれない。
それほどまでにただひたすらに部屋へと向かい走った私は、部屋の扉を開け入り扉を閉めた瞬間、足が縺れそのまま床へと崩れ落ちた。
すると、後ろから走る私を追って来たティナが、扉をドンドンと叩きながら話しかけてきた。
「奥様っ……。エミリア様っ……!」
その必死な声を聞き、私は綻びかけた糸が切れぬよう自身を奮い立たせて、何とか立ち上がり扉を開けた。
「エミリア様っ……! 大丈夫ですか!?」
そう言いながら私と向かい合った瞬間、ティナは一瞬息を呑んだ。そして、途端に鬼のような形相になり口を開いた。
「もう我慢できない! エミリア様! 私あの男に今から――」
怨恨籠った様子で激憤するティナを見て、私は声を重ねた。
「いいのっ……ティナ。もうやめて。あの人には何を言っても、その思いの一ミリも伝わらないし届かないわっ……」
「それでもっ……!」
「あなたには申し訳ないけれど、言うだけ無駄よ。……っ……ごめんね、ティナ。一人にしてくれる? 少し……っ一人になりたいの」
もうそろそろ限界が来そうで、ティナに告げた。すると、ティナは悲痛と苦しみに染まった顔になりながらも、目に涙を溜め名残惜しそうに部屋から出て行った。
そして、ティナが完全に出て行って扉が閉まり鍵をかけた瞬間、最後の一本残った糸が千切れたように、堪えていた涙がドッと溢れてきた。
「……っ……うぅ……ううっ……」
扉の前だというのに、足の力が抜けその場に再びへたり込み、これまで耐えていた分の涙までもが一緒に溢れてきた。
切なさや苦しさ、やるせなさやもどかしさに全身を蝕まれるような感覚に襲われながら、必死に声を押し殺しながら涙を流した。
――私はどうしたら良かったの?
これからどうすれば良いの……?
そんな不安や先の見えない闇に囚われ、私の心は迷子になってしまった。
次話は、部屋に取り残されてからのマティアス視点です。




