31話 鬱憤と謝罪
――やってしまった……。
つい感情的になり、マティアス様に書類を思い切り押し付けてしまった。その出来事を思い出し、私は部屋に戻って悶々としていた。
「ティナ……どうしましょう。私、あんなことお兄様にもしたこと無いのに、よりによってマティアス様にしてしまうだなんて……」
マティアス様の困惑した表情が脳裏に浮かび、何とも言えぬ不安感が押し寄せる。
そのため、私はその不安感を少しでも減らしたくてティナに気持ちを吐露すると、ティナは私の弱気な言葉をばっさりと切り捨てた。
「気にする必要なんて無いです。あれくらいでグチグチ言ってくるくらいなら、相当小さい男ですよ。奥様は何も悪くありません。むしろ、もっと言ってやっても良かったんです」
そう言うと、ティナはより語気を強め、怒りに震えた様子で言葉を続けた。
「皆には優しいのに、よりによって一番大切にすべき奥様にだけ酷い態度だなんて許せません! まさか、カレン辺境伯のご令息が、こんな横柄で礼儀知らずな人だとは思ってもみませんでした!」
「……ティナ、それは言い過ぎよ。言葉には気を付けて」
「いえ、言い過ぎではないです。私はあくまで事実を述べているだけです。はあ……とにかく、奥様は優しすぎるんです! その優しさを、何でいつもご自身に向けてくれないんですか?」
「別に私は普通にしているだけよ。ずっと昔からこうだし、優しすぎると言われても私には分からないわ……」
そう言葉を返すと、ティナはもどかし気な様子を見せ、私に何かを訴えることはせず、マティアス様をこれでもかとこき下ろし始めた。
このティナの発言は、誰かに聞かれた場合、主人に対する不敬として罰されかねないため、先ほど一度注意をした。
しかし、ティナも抱えきれない鬱憤が溜まっているのだろう。
そう考え、誰にも話を聞かれないこの部屋の中だけならと、私はもうティナの発言を止めはしなかった。
すると、結婚相手がジェラルド様だった方がずっと良かったなんて言い出したから、思わず苦笑してしまった。ある意味、分からなくも無かったからだ。
その後、ディナーを食べにダイニングに行ったが、マティアス様はいなかった。そして、次の日の朝食の席にも、マティアス様はいなかった。
――同じ家で暮らしているのに、こんなに会わないなんて有り得るの?
ジェロームからは色々と聞いたけれど……。
ああ、何だか胃が痛いわ。
そんなことを思いながら、朝食を食べ終わり部屋に戻った。それから十五分ほど経った頃だった。突然、部屋の扉がノックされた。
「ジェラルド様とデイジーでしょうか?」
ティナが小声で私に話しかけながら扉を開けると、そこにはなんとマティアス様が立っていた。
――えっ……マティアス様……?
幻ではなくて?
あまりにも予想外の人物だったため、驚きのあまり固まってしまった。こうして、硬直したままマティアス様に釘付けになっていると、突然彼が口を動かした。
「今……時間は良いだろうか?」
その声を聞き、私の意識はすぐに現実へと引き戻された。そして、質問に頷きを返しマティアス様を部屋の中に入れ、私たちは対面になる形で向き合うように座った。
マティアス様がこの部屋にいるなんて不思議な感覚がする。何だか現実じゃないみたいだ。
そんなことを思っていると、マティアス様がおもむろに口を開いた。
「昨日あなたに渡された書類に目を通したうえで、全部調べた。……あなたには悪いことをした。っすまなかった」
「えっ……」
まさか突然謝られるなんて思いもよらなかった。そのため、私は間抜けな声を漏らしてしまったが、マティアス様はそんな私に構わず話を続けた。
「使用人の解雇理由を見たが……不適切な対応ではなかった。あと、ここに来てからのあなたのことをジェロームたちから聞いた。あなたは領民たちのために献身的に尽くしてくれていたようだ。……ジェラルドの件に関しても、籠絡だなんて言って悪かった。きちんと教育をしてくれていたようだ。礼を言う」
そう言うと、彼は意外にも頭を下げた。いかにも軍人らしい下げ方だなと、そんなことを思った。すると、彼はティータイムの件についても話を始めた。
「昨日ティータイムに誘ってくれたのも、ジェロームの提案だと分かった。それに、ここに来てから、ティータイムや茶会などをする暇も無かったと聞いた。勝手に決めつけ、怒鳴って悪かった……」
そう言う彼の顔はどこか疲れており、何だか本当に罪悪感を抱いているような感覚がした。そのため、私はそんな彼に言葉をかけた。
「ご理解いただけて良かったです。誤解が解けたようで安心いたしました」
「ああ、すまなかった……」
その言葉を聞きホッとして、思わず笑みが零れた。
すると、彼はガバッと立ち上がり「忙しい時間にすまなかった」と言い、おもむろに扉側に歩き始めた。
マティアス様と離縁したら、私は本当に立場が無くなってしまう。
爵位関係はすべてお兄様が引き継いだうえ、私が困っても寵愛を受けているビオラほどの助けは期待できない。
仮に私が出戻りでもしたら、ビオラやブラッドリー家に傷が付くと責められることも考えられる。
社交界でも干されること待ったなしだ。
――もう、私を助けてくれる存在はこの世に誰もいない。
それを分かっているからこそ、お父様は死ぬ前に私を結婚させたのよ。
今の関係を何とか修復しないと。
そう考え、私は出て行こうとするマティアス様に後ろから声をかけた。
「マティアス様!」
その声に反応し、彼の足が止まった。そして、ゆっくりと振り返った彼に、私は言葉を続けた。
「ジェラルド様が本日はディナーを一緒に食べられるんです。マティアス様も、今日は一緒にディナーを食べましょう」
そう言うと、マティアス様はほんの少し眉間に皺を寄せ、呟くように言葉を返した。
「分かった……そうしよう」
「良かったです!」
来てくれないかもしれないと思ったが、来てくれるとの返答が来たため安心した。すると、そんな私に向かい、彼は少し強めの口調で声を放った。
「言っておくが、ジェラルドのためだからなっ……」
そう言ったかと思えば、彼はそのまま振り返ることなく部屋から出て行った。
――謝ってはくれたけれど、最後はもうちょっと言い方ってものがあったんじゃないかしら?
でもまあ……これがきっとマティアス様なのよね。
少しの喜びと安定さと残念さを感じながら、昨日のティナの言葉を思い出し、私はこっそりため息をついた。
だがすぐに気持ちを切り替えて、私は今日の活動を始めた。




