30話 パラダイムシフト〈マティアス視点〉
――あいつの足音か……?
いや、まさかな。
あれだけ言って、来ることは無いだろう。
仕事を再開して数分が経ったころ、あの女に似た足音がした。
だが気のせいだろう。そう思っていたが、またも扉のノック音が部屋に響いた。そしてその直後、扉の外からエミリアと言う名乗りが聞こえた。
――何でまた戻ってきたんだ?
何か用があって戻ってきたということは何となく分かる。
早くこの場から去ってもらうため、入口で用を済ませよう。そう考え、俺は執務室の扉を開けた。
「どうしてまた来た。何の用だ」
そう言うと、目の前の女は持っていた書類を、予想外の力で思い切り俺の胸に押し付けてきた。
その衝撃に驚き、反射的にその書類を受け取ると女は書類から手を離し、真剣そのものの表情で俺に訴えかけてきた。
「これが解雇理由についてまとめた書類です。不明な点はすべてジェロームが説明してくれます。私は清廉潔白に家の切り盛りをしてきたつもりです。私を糾弾したいなら、せめてこの内容を確認してから糾弾してください。私は遊びでここに来たわけではありません。勝手に偏見や先入観で決めつけないでくださいっ……」
そう言うと、女は俺を射貫くようにキッと強い視線を向けてきた。この視線に俺は、既視感を覚えた。
……この目に対し、俺は抗う術を知らない。
そして、気付けば俺は「分かった……」と、そう言葉を漏らしていた。
女が去った後、俺は女から受け取った報告書をすぐに読むことにした。すると、その報告書には、綺麗な字で一人ずつ事細かに解雇理由についての詳細が綴られていた。
こうして読み進めて行くたび、ある思いが募っていった。
――もしこの内容が本当だとしたら、クビにしたことも理解できる……。
俺は、あの女を不当に責めたということか?
そう思った瞬間、女に言われた一言が頭を過ぎった。
『勝手に偏見や先入観で決めつけないでくださいっ……』
この言葉を思い出し、頭から血が引くような感覚がした。すると、俺が粗方の報告書を読み終えたと察したのだろう。隣にいたジェロームが口を開いた。
「マティアス様、先ほど奥様にお茶を誘ったことをお怒りになられておりましたよね?」
「っああ……」
「実は、私が奥様に、マティアス様をティータイムに誘ったら良いのではと提案をしたのです」
「なに……!?」
「奥様は非常にお忙しいので、ジェラルド坊ちゃま以外とはティータイムをなさいません。ここに来られてから、奥様は遊ぶ暇などありませんでした。手紙はお読みになられましたか?」
そう言われ、俺は半年以上前に届いた手紙の内容を脳内から引き出した。
「ああ、読んだ」
「でしたら、奥様のお忙しさもお判りになるでしょう」
そう言われ、俺は何も言い返す言葉が無かった。
あいつの決めつけるなといった言葉が、頭に響く。目の前で言われているかのように、脳内で再生される。
だが……どうしても疑いたくなる。
あいつが悪くない人間だと認めたくない。もし認めたら、妻として認めるのと同義だと思ってしまう。
認めたら、あいつらを裏切ることになってしまう。
でも、真実は一つしかない。解雇された当事者に話を聞いて、あの女、エミリアが悪くないのなら謝るしかない。
そう腹を括り、俺は厳しい視線のジェロームを後にし、聞き込みをするために街へと出向いた。
◇◇◇
「あっ! マティアス様がいらっしゃったわ!」
「皆! マティアス様が帰ってきたぞ!」
「おかえりなさい、マティアス様!」
俺の姿を見つけるなり、領民たちが俺の元へと集まってきた。元気そうな皆を見て安心していると、その中に元使用人を数人発見した。
そのため、俺は急いでそのうちの一人に声をかけた。すると、店に招待すると言われ、俺はその使用人の店にやって来た。
「立派な店だな」
「ははっ、ありがとうございます」
この使用人の名は、マーク。彼は素行自体は悪くなかったが、あの女に不信を募らせたため解雇したとジェロームが教えてくれた。
――色々と確かめてみる価値は十分に有るだろう。
そう考え、俺は情報を探ってみることにした。
「ところで、どうしてこうして働くことにしたんだ?」
そう言うと、マークは気難し気な顔をして、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「マティアス様。何を言ってもお許しくださるでしょうか?」
「……っああ、分かった。こちらが訊いたんだ。今回は何を言っても見逃そう」
そう告げると、マークは安心した様子で喋り始めた。
「実は、若奥様がまだ十七歳だと聞いて不信感があったんです。しかもやって来ていきなり、門地や経歴についてまとめた書類を提出しろと、使用人に対して指示を出されたんです。それで、十七の少女が何を偉そうにって……。それに、今までちゃんと働いてきたのに疑われているようで、反発して書類を提出しなかったんです……」
そう言うと、マークは一呼吸置いた。そして、話を続けた。
「若奥様は使用人たちに暇を出す際、退職金を払ってくださいました。それも、月給の十倍の金額です。しかも最低が月給の十倍で、私にはあなたは今まできちんと働いていたという評価があるという内容の直筆の手紙と共に、十倍よりも多い金額を支払ってくださいました」
そう言うと、マークは少し待っていてくれと言い二階に上がった。そして、上からドタバタと音が聞こえてきたかと思うと、急いで階段を降りてきて、俺に手紙を差し出してきた。
その差し出された手紙を見ると、解雇理由をまとめた書類と同じ美しい文字が綴られていた。
――これは……。
つい手紙を見て固まってしまった。するとそんな俺に、マークは先程までとは打って変わり、声を震わせながら話を続けた。
「辞めた時は、大金が入ってラッキーくらいに思っていたんです。それで、やってみたかった店をやってみようとしました。でも、今後の生活や家族のことを考えたら、いくら大金とはいえ、店を出すには少し心許ない額でした。それで、店を出すことは諦めかけていたんです」
――確かに、店が上手くいかなかったら、せっかく金が手に入ったのに負債を抱えることになってしまうだろう。
それなら、店を出さない方が賢明かもしれない……。
でも現に、マークはこうして店を出している。ということは、出店を諦めなかったということだ。その心境の変化にはいったい何があったのだろうか。
そう思っていると、マークはより一層声を震わせ話を続けた。
「ですがある日、若奥様が様々な補助金や助成金の制度を新設したんです。そこで私は、事業計画書と申請書を提出して、店舗開業の補助金申請をしたんです。元々私は若奥様を裏切った身なので、どの面下げて申請しているんだって話なんですが……」
そこまで言われて、何となく察した。そんなマークの話に、俺は集中して耳を傾けた。
「ですが、若奥様は俺の行いを反映することなく、複数人で厳正に審査して、私に補助金を支給してくださいました。そして店を開業したら、想像以上に繁盛しました。他の補助金をもらった店も繁盛しています。そこで、私は若奥様の洞察力は間違いなかったのだと気付きました」
そう言うと、苦し気な表情をしたマークは声を絞り出すように話し続けた。
「若奥様を穿った目で見た私が間違っていました。考えてみれば使用人に対しても敬語で話していましたし、偉そうなところも一切ありませんでした。今は店があるからこうなって良かったと思っています。だけど、あの人の元でなら、使用人でも問題なかったと思っています」
その言葉を聞き、俺はすべての常識がひっくり返されたような感覚に陥った。
――他の領なら、使用人の不敬として罰に問われてもおかしくない。
私刑を下す人間もいるだろう。
それなのに、あいつは見捨てきらずに、ちゃんと領民の一人として守ってくれたのか……?
ジェロームから聞ききれなかった出来事を知り、あまりの衝撃に言葉が出ない。するとそんな俺に、マークは軽く涙を拭って笑いながら声をかけてきた。
「街の皆、若奥様が大好きなんです。マティアス様、本当に素晴らしい方を迎えられましたね。これで、ヴァンロージアも安泰だと皆喜んでおります!」
まさかここまでの影響力を有しているとは思っていなかった。そうなるほどに、家の切り盛りをしてくれていたのだと痛感した。
帰還してから、王への報告書の仕事が立て込み過ぎて、元々はジェロームに委任していた領地に関する仕事の書類に目を通せていない。
だが、それ見ずとも彼女がヴァンロージアのために献身してくれていたのだということは、痛いほどに伝わってきた。遊ぶために来ただなんて、勢いでも言った俺が馬鹿だった。
――勝手に決めつけて責め立て、きつい態度を取って悪かったと謝ろう。
妻とは認める気は一切無いが、今回の件に関してはすべて俺が悪かったと認めざるを得ん……。
こうして、重要な情報を入手し、俺は急いで屋敷へと戻った。そして、俺が居ない間に彼女がやっていたという領地経営に関する資料に目を通し始めた。
その作業が終わった頃には、時計の針は両針ともてっぺんを過ぎていた。……もう訪問して良い時間じゃない。
そのため、どうやって謝るかを考えながら、俺は長い夜を明かした。
大変お待たせしました。
次話から、視点がエミリアに戻ります(*^ ^*)




