108話 甘い睦言
今しがた目を覚ました私は仰向けの状態で、わずかに重だるい身体をベッドと同化させていた。
――そろそろ起きないと……。
身体を起そうと布団の中で身を捩る。すると、頭の下に敷かれていた腕の存在に気付いた。顔からは想像できないほど意外にも逞しいその腕は、何回も見ているはずなのになかなか見慣れない。
――何だか前よりもちょっと鍛えられているような?
なんて思っていると、かすかな寝息が聞こえてきた。
そのため、一旦置き上がるのは止めて体勢はそのままに少し左に視線を上げてみる。すると、このうえなく気持ちよさそうな表情ですやすやと眠るカリス様の顔が視界に映った。
この私の前だけで見せてくれる、完全に気を許しきったような無防備でしどけない姿が、私の中にある彼へのたまらなく愛おしい想いを刺激する。
結婚したら次第に冷めると聞くが、私としては毎日好きが更新されている。だから、おしどり夫婦と言われるのだろうか?
そんな世間からの評判を思い出したそのとき、ふと昨日のお茶会での会話を思い出した。そして、ある記憶が脳内を過ぎった私は小さく息を吐いた。
昨日はケイリー様、ブレア様、ドロシー様、ヘレン様と私の五人が集まり、大公邸でお茶会をした。その中で、ブレア様がある声をかけてきたのだ。
『エミリア様とカリス殿下は本当におしどり夫婦そのものですね!』
ここまでは良かった。だが、その後に続いた言葉はその場をピシリと凍り付かせた。
『カリス殿下がクララ嬢と蜜月だと噂があったことが嘘のようですわ! 私、当時は噂の広まりようから、やはり彼女がカリス殿下と結婚するものだと思っておりましたもの』
この発言にはブレア嬢の幼馴染のドロシー嬢も焦り、敬称を忘れて『ブレア、なんてことを言うの!』と怒っていた。それに対し、ブレア嬢は飄々とした様子で答えた。
『エミリア様とカリス殿下がお似合いだからこそ、あの噂が有り得な過ぎて言えているんじゃない! そんなにも怒ること?』
少し不貞腐れたような態度を見せると、ブレア嬢はすぐに気を取り直し、最近結婚したヘレン様から惚気話を聞き出し始めた。それにヘレン様が乗って、クララ嬢の話は流れたのだが……。
――何だかモヤモヤするわね。
そんな気分で深呼吸をするように再び息を吐いた。すると、私の腰に回されたカリス様の左手が私をギュッと抱き寄せた。
――起きているの?
まるで起きているかのような動きをした彼に違和感を抱く。そこで起きているのか確かめようと、彼の目の前で手をヒラヒラと翳してみるが、反応は何も無かった。
そこで、私は腕枕になっている彼の右腕の肩に近い上腕部に頭をずらした。そして彼の腕を折り曲げ、自身の眼前に彼の右手を持ってきて、その手をにぎにぎと握った。だが、彼は起きない。
――本当に寝ているのね。
確認を終え、にぎにぎとしていた彼の温かい手を元の位置に戻す。そうすると、またお茶会で抱いたモヤモヤが蘇る。
まだ皆の中にカリス様といえばクララ嬢、そんな方程式のような記憶があるのかと思うと、何だか嫌な気持ちになるのだ。
もちろん皆、あの噂はクララ嬢の印象操作ということは分かっている。それに、私もカリス様を責めるなんて気持ちは当時から一切無い。
もう過去は過去なのだ。だけど今は――
「私の人なのに……」
そう独り言ち、カリス様がいる左側が正面に来るように寝返りを打つ。そして、眠っているカリス様の正面から抱き着き、彼の胸元に顔を埋めた。
すると途端に、カリス様の良い香りが私の身も心も包んだ。この彼の香りと温もり、それはいつでも私に安心感を与えてくれる。
かつて、自分にはこのような独占欲があるとは思っていなかった。それに、嫉妬をすることも無いと思っていた。恋することも無いと思っていたし、誰かをこんなにも愛するなんて思ってもみなかった。
だけど、その感情をカリス様が私に教えた。そしてカリス様は、私の中に生まれたそれらの感情のすべてを受け止めてくれる。
心を寄せられるとはこういうことを言うのだろうか? 今ではもう私の居場所は彼の元以外考えられない。
「カリス……」
彼の名前を小さく呟く。すると、私が顔を埋めた胸元から聞こえる鼓動が急に速くなった。そして、私は確信した。
「カリス様……やはり起きていらっしゃいますね?」
体勢はそのままに訊ねる。すると、頭上から「エミリア……おはよう」と聞こえてきた。
その瞬間、私は恥ずかしさのあまり飛び起きてベッドから脱出しようとした。だけど、それは実行できなかった。私を捉えて離さないとばかりに、彼が腕を回す方が早かったからだ。
「カリス様、いつからですかっ……?」
「エミリアがため息をついたとき、から?」
最初じゃないか。何なら、この人は私よりも先に起きていたのではないか?
そう思っていると、私の顔が眼前に来るように、カリス様は寝転がったまま私の身体を引き上げた。すると案の定、とろけるように甘い笑顔を浮かべた彼と目が合った。
「エミリア、そんな目で見ないでよ」
「無理です。だって、寝たふりをしていたんでしょう?」
そう言って、私は羞恥のあまり彼に咎めの眼差しを向けた。
だが、彼にとってこんな私の眼差し一つは、子猫の戯れも同然なのだろう。そんな目をするなと言いながら、その頬は緩みきっている。
そして、彼は興味津々といった面持ちである質問をしてきた。
「さっき、私の人なのにって言ってただろ? どうして突然そんな――」
「過去にあったあなたとクララ嬢の噂を久しぶりに耳にしたからです」
「えっ……」
カリス様は意味が分からないという面持ちで、表情を少し真面目なものにする。
しかし、私は朝からシリアスな空気は嫌だし、このことをぶり返したいわけではない。だからここは恥ずかしがらず、素直な気持ちを彼に伝えることにした。
「あなたとクララ嬢が未だに関連付けられているのに、少しモヤッとしたんです。だけど、あなたは私の人でしょう? だから、そう言ったんです」
よし、これでもう解決。そう思っていると、カリス様が突然私をガバッと抱き締めてきた。
「カ、カリス様!?」
「そうだ、僕は君の人だよ! 一生君だけの人だからね!」
「は、はい……。あの、そろそろ離し――」
「エミリア、本当に可愛いっ……。好きだ、愛している、結婚してくれ!」
「してますよ」
ちょっと変なことを言うから、冷静に答えた後に思わず笑ってしまう。それでもなお、彼の重い愛の言葉は続く。注がれ過ぎて、溺れそうなほどだ。
きっと私の中にある不安を払拭しようと思って、多量の愛の言葉をかけてくれるのだろう。普段とは明らかに違う。
だからこそ私もその気持ちを汲み取り、うんうんと彼に頷きを返す。
でも、もうそろそろ終わりにしてほしい。朝の支度がしたいのだ。
だが、彼は止めようにも「えっ、まだあるよ!」なんて言って、話を続ける。
そこで、私は強硬手段に出ることにした。
「カリス様」
「ん? どうし――」
チュッというリップ音が部屋に響く。それと同時に、私はカリス様の顎先を掬った指を引っ込め、呆然と固まる彼をよそにベッドから起き上がった。
「あなたは私を愛してる。私もあなたを愛してる。それが分かれば十分ですよ」
そう声をかけ、早く支度をしようとカリス様に促す。すると彼は「僕は今日何でも出来そうだ……」と独り言ちた後、桃色の頬に満面の笑みを浮かべた。