107話 あなただから
フリーデンアイト大公妃になってからの生活は、まるでヴァンロージアに居た頃のやりがいを取り戻したかのような日々だった。
結婚してから一年半ほどが経つが、その間に私はフリーデンアイトの領地改革に奔走した。
まず、ヴァンロージア以外の管轄領地域の民たちの識字率の上昇に取り組んだ。すると、ヴァンロージアでの経験が上手くいかされ、他地域でもこの一年で識字率を上げることが出来た。
とはいえ本来であれば、ヴァンロージアの経験が生かされたとしても、フリーデンアイトという広域で一斉に識字率を上げることは難しい。
ではなぜ、そのことが可能になったのか? それは、ヴァンレという領のとある植物の存在が大きい。
実は、ヴァンレは土地が乾燥気味でまた寒冷地ということもあり、作物の実りが悪いという問題があった。その問題に、ヴァンレの領主は相当頭を悩ませていた。
そんなときに、カリス殿下が例の領地巡回に来たという。また殿下はそのとき相談を受けて、領地にちらほらと生えているリナムは、服を作る繊維として使えると助言したという。
その助言を聞き、領主はさっそくリナムを畑一面に植えた。その花々が咲き誇り一年近くが経った頃、私たちが結婚して大公妃になったというわけだ。
だがそのとき、ヴァンレの領主は更に頭を悩ませていた。
確かにリナムを植えたことで領地に入る金は増えた。しかし、リナムの繊維は夏に使われることが多く売り上げが年間を通し上下落するため、経営に不安を感じていたのだ。
そこで私はその話を聞き、リナムの別の使い道を提示した。それが、リナムの繊維を用いて紙を作るということだ。
服を作るほど膨大な量がいるわけでもない。また安価に作れるうえ年中通して需要がある紙ならば、その問題を解決できると思ったのだ。
また、リナムで作る紙であれば羊皮紙などと違い再生紙を作ることも出来る。そう考えその案で対策を講じた結果、平民たちも紙を使いやすい環境が整った。それに伴い、識字率が上昇したのだ。
他にもこの一年半ほどで変わったことがある。フリーデンアイトの気候や風景が人々に受け、貴族たちが観光地として来るようになったのだ。
その理由は恐らく、クリムゾンクローバーの花が魅せる色鮮やかな景観だろう。
以前私がヴァンロージアにいたとき、緑肥としてクローバーを植えたところ生産性が上がった。そのことをブラッドリーに出戻ったときに農民に話したところ、ヴァンロージアの方面の地域の気候ならば、クリムゾンクローバーを植える方が良いと言われたのだ。
何でも説明を聞いてみると、クリムゾンクローバーは蜜源になるらしい。そのため、はちみつを生産できるという情報を仕入れた。しかも、クリムゾンクローバーは食べることが出来るという。
そんなことがあり、試しにフリーデンアイトの協力を得られた農民の畑にクリムゾンクローバーを植えた。すると、次期の農作物やはちみつの生産性が上がった。そのうえ、緑肥や食料としても活躍した。
その他にも、観光に来る人々に愛される景観を演出するなど素晴らしい役割を果たすことになり、クリムゾンクローバーはさまざまな改革のきっかけを作り出した。
こうして私はこの一年仕事に専念し、着実に領地の改革を進めていった。だけど、この改革は私の力だけで成し遂げたわけではない。
フリーデンアイトがこのように発展していった理由、それはともに取り組み、乗り越え、支え合える彼がいたからこそだ。
「エミリア」
名前を呼ばれ顔を上げると、甘い笑顔を見せるその人と目が合う。
「カリス様、どうなさいましたか?」
議会に出席しているはずの彼が、なぜか書斎の扉から顔を覗かせていた。そのことに驚きながらも、私は椅子から立ち上がり彼の元へと歩み寄る。
「ずいぶんと早く議会が終わったのですね?」
彼につられるように頬を緩ませながら、手を引き部屋の中に引き入れる。
「ああ、今日は確認作業のような内容だったからね」
カリス様はそう答えると、私の頬にキスをした。そして、そのまま抱き着いてきた。
「エミリア……会いたかったよ」
「ほんの二時間前に会ったじゃないですか」
「エミリアに会えない二時間は、ほんのなんて時間じゃないよ!」
彼は身体を引き、衝撃を受けたような顔で私を見つめる。そんな彼に、私は思わず笑みを零す。
「ふふっ、カリス様は可愛らしいお方ですね」
「かっこいいの方が嬉しいんだけど……」
私の言葉に少し不服そうに拗ねた顔をするカリス様。そんな表情豊かな彼を見ていると、愛おしさが込み上げる。
「エミリア、言ってみてごらん? 僕はかっこいいだろ?」
「はい、可愛らしいです」
ちょっと意地悪だろうか。そう思いながら答えると、カリス様は腰に手を当てて首をゆるゆると横に振りながら、はぁ……とため息を吐いた。
でも彼は私と目を合わせると、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。そして、私を正面から抱き締めると肩口に顔を埋めた。
「いいよ、僕は君の可愛い夫。だからちゃんと可愛がるんだよ?」
いじらしい様子でそう告げると、カリス様は顔を上げおでこが突き合いそうな体勢で私の顔を覗き込んだ。……そろそろ悪戯はやめてあげよう。
「もちろんですよ」
そう言葉を返し、彼が閉じ込めるように囲った腕の中で背伸びをして、そのまま私はそっと彼の唇に口づけた。
「エミリア!? ずるいよ……可愛すぎだっ……」
カリス様は顔を真っ赤に染め上げると、何とか息ができるほどの強く熱い抱擁をしてきた。そして腕の中からやっと私を解放したかと思えば、からかった仕返しとばかりに大量のキスの雨を降らせた。
それからしばらくし、ようやく口づけを終えたカリス様がピンピンとした様子で、息も絶え絶えな私に声をかけてきた。
「そうだ、エミリア。実は君にプレゼントがあるんだよ。今から少し時間はあるか?」
今日は何かの記念日でもないし、プレゼントの見当がまったくつかない。
――何かしら?
そんな疑問を抱きながらも、私はカリス様に大丈夫だと伝える。すると、彼は場所を移そうと言い、手を引いて私をピアノルームへと連れて来た。
「カリス様、どうしてここに――」
「今日はね、僕たちが結婚してから五百日が経つんだよ。だから、エミリアに贈る曲を作ったんだ」
五百日なんてまったく考えていなくて、ちょっとごめんなさい。
そんなことを思っていると、カリス様はワクワクとした様子で特等席だと言いながら私を椅子に座らせた。そして、自身もピアノ椅子に腰を掛けた。
「エミリアへの愛をこめて……」
そう言って笑みを浮かべながら私を見つめた彼は、鍵盤に視線を戻すと表情を引き締め真剣な面持ちになった。
元より両親譲りの端麗な美貌を備えた彼が見せたその表情に、私は心の中でひっそりときめく。そのような中、カリス様による演奏が始まった。
最初に聞こえたゆったりとした音色は、すぐにロマンティックを醸し出した。演奏するにつれ、和やかな笑みを携える彼に思わず心惹かれる。
流れる曲は全体を通して幻想的で、これでもかというほどたくさんの愛が詰められているようなメロディーだった。
「エミリア、喜んで……くれた?」
演奏が終わり、カリス様がこちらを見てうっとりとしていた私に声をかける。その表情はどこか自信なさげだ。どうしてそんな表情をするのだろうか。
「カリス様」
「うん……」
「私の表情を見たら分かるでしょう?」
「えっ……」
立ち上がり目の前まで歩み寄ると、カリス様がハッと顔を上げる。そこですかさず、私は彼に更なる声をかけた。
「あなたが夫の私は、この世で一番の幸せ者ですね。ありがとうございます」
そう告げながら、カリス様が座る椅子の余白に浅く腰を掛ける。そして、私は横に座る彼の顔を覗き込み笑顔で続けた。
「カリス様、愛しております」
いつも思っている。その気持ちを改めて言葉にする。
するとカリス様は心打たれたように目を見開くと、嬉しさを噛み締めるような無邪気な笑みを浮かべた。
その笑顔を見るだけで、私はとても幸せな気持ちになれた。彼と結婚することが出来て良かったと、心からそう思った。