104話 不朽の地より愛をこめて
「エミリア、今日はぜひこれを着てくれないか?」
次の日、約束の時間にやって来たカリス殿下は私に純白のマントを差し出してきた。
見るだけでも滑らかな肌触りだと分かる生地には、ふわっふわのファーが付いている。見るからにとても暖かそうだ。
「私が着てもよろしいんでしょうか?」
「もちろん! だって、エミリアに着てもらうために用意したんだよ?」
愛でるような眼差しでマントに視線を滑らせ、そのまま殿下は私と目を見合わせる。そして一歩私に歩み寄ると、マントを広げて私の肩から下を全身一包みにした。
「白うさぎみたいで可愛いな」
私の姿を見て、殿下がそう独り言ちる。
「殿下っ……。からかわないでください」
「からかってないよ。だって……ふふっ、本当に可愛いから」
上擦る私の声と相対するように、殿下は愉しそうな声を返してくる。そして私の表情を見ると、フッと目を細め優しく声をかけてきた。
「どう? 暖かい?」
「はい……暖かいです。ありがとうございます」
「それなら良かったよ」
殿下はとろけるような笑顔でそう告げると、満足そうに私を見つめてきた。
果たして今日、私は心臓が持つのだろうか……。
そんな思いを抱えながら、私はカリス殿下のエスコートにより用意された馬車へと乗り込んだ。
◇◇◇
馬車に乗り込むまでの少しの距離で、頬に冬の寒さが突き刺さる。年端月らしく、昼過ぎでも随分と冷え込んでいる。
「殿下、今日はどちらに行かれるのですか?」
馬車に乗り込み、目の前に座った殿下に訊ねる。
「前にエミリアが見たいと言っていた景色が見られる場所だよ」
ワクワクとした笑顔を覗かせる殿下の答えに、私は首を傾げた。どのような景色を見たいと言ったのか、まったく心当たりがないのだ。
殿下のことだから、私と誰かの発言を勘違いしていることはまず無いだろう。だからこそ、なおさら私は頭を悩ませた。
「エミリア。もしかして覚えてない?」
「えっ……」
カリス殿下に痛いところを突かれ、申し訳ない気持ちで思わず目を伏せる。そのとき、ふと前方から笑い声が聞こえてきた。
「殿下……?」
顔を上げて、クスクスと笑みを浮かべるその人を見つめる。すると、殿下は瞳を交差させ屈託のない笑みを浮かべた。
「ふふっ……忘れていても問題ないよ。思い出させてあげるから。楽しみにしててね」
そう言うと殿下は「困った顔も可愛らしすぎるな」と続け、羞恥に身悶える私を楽しそうに眺めていた。
◇◇◇
二十分ほど馬車に揺られたところで、私たちは目的地であろう場所に到着した。馬車の扉が開くと、頬を掠めるように冬の風が吹き抜ける。
「エミリア、気を付けて降りてね」
先に降りたカリス殿下がそう言いながら、地面に視線を落とす。見ると、地面には雪が積もっていた。
だが太陽が南中してから二時間ほどが経っているうえ、今日は雲一つない晴天ということもあり、薄らと広がった銀世界は雪解けを始めていた。
「ありがとうございます」
礼を告げながら、カリス殿下の補助を受け馬車から降りる。ちょうどそのとき、ティナが乗っている後続の馬車が停車した。
すると、ティナは御者の補助を受けながら降車するなり、慌てた様子で私に駆け寄ってきた。
「エミリア様、こちらを忘れておりました」
ティナはそう言うと、ミトン型のもこもことした手袋を差し出した。その手袋を持つティナは素手のままで、寒さのせいか指先が赤くなっている。
「ありがとう。でも、これはティナが着けてちょうだい」
「どうしてですか? それでは、エミリア様のお手が――」
「私はこのマントで手を覆えるから大丈夫よ」
私はマントの袖口に手を引っ込め、ティナの目の前でくるりと回って見せた。どこから見ても大丈夫だと証明するためだ。
そんな私の行動を見て、ティナは安心したのだろう。「ありがとうございます」という言葉とともにクスリと笑みを零すと、持ってきた手袋を自身の手にきちんとはめた。
すると、私たちの様子を隣で見ていたカリス殿下が、ふとティナに声をかけた。
「今日は寒いから二十分くらいで戻って来るよ。これを持っていると良い」
カリス殿下はそう言うと、おもむろに服の側面に手を突っ込んだ。そして、そこからあるモノを取り出しティナに差し出した。
「温石だよ。これでだいぶ暖まると思う。毛布も載せてあるから、必要なら御者に声をかけてくれ。じゃあ、身体が冷え込む前に行ってくるよ」
「ありがとうございます! では、私はこちらで待機しておりますので、お二人ともお気をつけていってらっしゃいませ」
ティナは布でくるまれた温石を手に口元を綻ばせながら、私とカリス殿下に見送りの言葉をかけた。
一方の私はカリス殿下に導かれるまま、霧氷や樹氷に覆われた森の中へと足を進めていった。
「カリス殿下がご着用の服は、ポケットが付いているのですね! 温石を取り出すまで、まったく気づきませんでした」
「ああ、これはリラード縫製の服なんだ。ジュリアスとジェナ妃の結婚のお祝いとして、ついでに僕たちにも献上されたんだよ」
そう言うと、左隣にいるカリス殿下は「パッと見ても分からないよね」なんて言いながら、右手をポケットに入れて見せてくれた。でも、手袋をしているからとすぐにその手は取り出した。
「リラード縫製は画期的なデザインを考えますね」
「利便性があるよね。特にジェナ様が気に入っていたよ」
その名前を聞き、私はティナと昨日考えた作戦実行も兼ねて、カリス殿下に質問を投げかけた。
「ジェナ妃と言えば、ジュリアス殿下との結婚生活はどのようなご様子ですか?」
「あの二人の様子?」
私の質問を受けると、カリス殿下はきょとんとした顔をした。だがすぐに破顔すると、それは穏やかな表情で微笑んだ。
「もうびっくりするくらい、ジュリアスがぞっこんだよ。会うたびジェナジェナって、もうジェナ様の事しか話さないくらいだ。幸いなことに、ジェナ様もジュリアスを好いてくれているみたいだ」
カリス殿下は感慨深げに目を伏せる。そして、ホッと安心したような表情になり続けた。
「ジェナ様はシエラ様とも仲が良いし、さっぱりとしていい人だよ。ジュリアスがそんな人と幸せになれて良かった……」
確かコーネリアス殿下の話では、カリス殿下だけではなくジュリアス殿下も抑圧された環境下にいるようだった。
そんなジュリアス殿下がとうとう幸せを手に入れた。このことはカリス殿下にとって相当嬉しいことだったのだろうと思うと、胸が暖かくなった。
そのときだった。
「さあ、エミリア。そろそろ到着するんだけど……ちょっと目を閉じてくれる?」
カリス殿下が足を止め、私に向き直りそう声をかけてくる。そのため、私は殿下の意向を汲み取り素直に目を閉じた。
「よし。じゃあ、僕にゆっくりついて来てね」
そう告げると、殿下は正面から私の両手を握った。そして誘導が始まり一分ほどが経過したところで、殿下が声をかけてきた。
「今、エミリアの後ろにベンチがあるんだ。そのまま座ってくれるか?」
「は、はいっ……」
ここまでして、いったいどんな景色を見られるというのだろうか。そう思いながらベンチに腰を掛けると、私の右隣にカリス殿下も腰を掛けるような感覚が伝わった。
「殿下……開けてもいいですか?」
「いいよ。開けてみて」
殿下のこの言葉を聞き、私はゆっくりと目を開けた。その途端、散乱した光が差し込み目が眩む。だが、徐々に光に目が慣れてくると、そこには別世界のような絶景が広がった。
エメラルドやサファイアを溶かし込んだかのように輝きを放つ湖。その湖を取り囲む、彫刻のような霧氷や樹氷。大聖堂のパイプオルガンのように荘厳で神聖な雰囲気を放つ氷柱たち。
この光景はまるで――
「不朽の……再会の地ですか?」
広がるその光景は、不朽で最後主人公がヒロインと再会する場所の描写をそのまま再現していた。
――本の中の景色が、こうして生で見られるだなんてっ……!
「どうかな? 見たい景色だっただろう。思い出した?」
たしかに以前、チラっと殿下にこんな景色を実際に見てみたいと話していた記憶が蘇る。
だが何より、この景色はジェリーとの約束を思い出す景色だったこともあり、私は喜びを噛み締めるように満面の笑みを殿下に向けた。
「はいっ、思い出しました。殿下……ありがとうございますっ……」
感極まった状態で、殿下に感謝を伝える。すると殿下は、感動に浸る私にフッと微笑みかけた。
だがその直後、殿下は表情を曇らせた。どこか緊張しているような、思い詰めたような表情にも見える。
――どうしたのかしら?
そう思った瞬間、殿下は隣に座る私の方へ少し向き直るような姿勢をとった。そして逡巡の後、重々しげに口を開いた。
「あのさ……エミリア。間が悪いのは承知なんだけど、実は君に聞きたいことがあるんだ」
「はい、どうされましたか?」
「ここ最近、社交界で僕の噂がいろいろ広がっているだろう?」
「ええ、そうですね」
人気者になるのも大変なことだと思いながら、相槌を打つ。
すると殿下は驚いたように目を見開いた。その表情からは、明らかに動揺が滲み出ている。
「でん――」
「他の女性と僕の間で立っている噂の内容も知っているのか……?」
どこか茫然としたような表情の殿下に問われ、一瞬視線を彷徨わせてしまう。だが、私はそのまま知っていることを答えた。
「ええ、カリス殿下がクララ嬢と蜜月関係だと伺いました」
疑っていないから安心してほしいという気持ちで、笑顔を添えて重い空気にならないようサラッと告げた。
するとその瞬間、カリス殿下の表情はより一層の翳りを見せた。直後、彼は膝上でギュッと拳を握り締め、ゆっくりと口を開いた。
「……まったく気にしていないのか? 一応、エミリアは僕が君を好いていると知っているだろう?」
カリス殿下はそう告げると、泣きそうな顔で言葉を続けた。
「エミリアは……僕にまったく興味が無いから噂のことも気にしてないの? エミリアにとって、僕はその程度だった?」
その言葉を聞き、私は非常に焦った。カリス殿下は何か相当大きな勘違いをしているに違いない。これは弁明しないと、おかしなことになってしまう。
「殿下、それは――」
「って……ごめん。僕の気持ちの押し付けなのに、エミリアに対してこんな――」
「殿下!」
勝手に自己完結しようと謝り出した殿下を黙らせるため強く呼びかけると、殿下は驚いた様子で口を閉ざした。
「殿下、それは誤解です」
「誤解だって? 何が誤解なんだ? エミリアは僕が誰とどんな噂が立っても、全然気にしてないじゃないか。変に僕に気を遣わなくて良いよ。ごめん、今まで迷惑かけ――」
「違うって言ってるじゃない!」
思考回路が負のモードに陥った殿下は、まるで雷を受けたかのような顔で私を見つめてきた。
「エミ、リア……?」
「私があの噂を真に受けるとお思いですか? あなたの愛は、そんなにも軽いものだったのですか?」
「えっ……。そ、そんなわけない! 僕はエミリアがこの世で一番大切でっ……」
「そうでしょう? だから気にしなかったんですよ。嘘だと分かっているから。そもそも、あの噂にいちいち反応していたら、嫉妬で私の身は持ちませんよっ……」
「嫉妬って…え……」
私の発言を上手く呑み込めないのか、カリス殿下は現実を受け入れられないというような表情で、ただただ私の目をジッと見つめてくる。
そんな表情を見て、私は目頭に熱が集まるのを感じながら彼に優しく微笑みかけた。
「本当はあなたの誕生日に伝えようと思っていましたが、今ここで伝えます」
――ああ、ティナとの計画は総崩れね。
でも、これでいいのよ。
そう腹を括り、私はカリス殿下への想いを口にした。
「殿下、私はあなたが好きです。あなたのその人に優しいところや、心安らぐ時間を過ごせるところが好きです」
ほんのりと滲む視界に捉えたカリス殿下の左手を手にとる。そして、その左手を両手で包み込み、私の思いの丈を告げた。
「あなたが私にくれる愛を、私もあなたに返したい。そう思えるほど、いつの間にか私も殿下を愛していたようです」
周りの寒さなんて感じない程、緊張で身体が熱くなり心臓がドクドクと脈を打つ。殿下から返事が返ってくるまでの時間が、とても長く感じられる。
するとそんな私の耳に、震える声が届いた。
「エミリアが、僕を好き……?」
自問自答するかのような声に、私は「はい」と言葉を返す。すると殿下はかつてないほどに赤面し、右手で顔半分を覆い何やら考えこむようなしぐさを見せる。
だがすぐに手を外すと、眦を真っ赤に染め上げたつぶらな瞳が私の瞳を見つめて告げた。
「エミリア、ちょっと待って。ごめんっ……僕から言わせてほしい」
殿下はその言葉の後、ベンチに腰掛けた私の前に跪いた。そして、胸を詰まらせたような顔で口を開いた。
「もう二度と君を手放したりしない。僕のすべてを君に捧げる。僕が君も、君が大切にしたいものもすべて守ると、今ここに誓うよ」
そう告げると、彼は流れるように自身の手袋を外し、私の左手の薬指にそっと口づけを落とした。跪いた彼が再び私に向けた熱を孕んだ視線は、私の瞳を心ごと射貫く。
そしてついに、その言葉が彼の口から放たれた。
「エミリア、僕と結婚してくれる?」
「はいっ……喜んで。私もあなたと結婚したいですっ……」
涙を堪えるように、うんうんと頷きながら言葉を紡ぐ。すると、カリス殿下はその答えを聞くなり満面の笑みを浮かべ、今までの制約から解き放たれたかのように、私をギュッと強く抱き締めてきた。
「エミリアっ……ありがとうっ……。ずっと待っていてくれて、本当にありがとうっ……。今が人生で一番嬉しいよ! 幸せ過ぎてどうにかなりそうだっ……」
肩口で喋っている彼は、恐らく泣いているのだと思う。だから私はそんな彼の背中に手を回し、優しく背中をさすりながら声をかけた。
「これからは、二人で幸せになりましょうね」
そう告げると、殿下は「ああ」と嬉し泣きのような声で答えた。
それからしばらくし、殿下は私の身体から腕を解いた。そしてベンチに腰掛けた私の隣に座ると、顔を覗き込んで甘い声で囁いた。
「エミリア、愛してる」
彼は顔を近付けながら、私の目にかかる前髪をそっと流して耳にかける。そして、そのまま私の唇に優しく穏やかな口づけを落とした。
この初めての感触に、私の心には恍惚とした喜びが生まれる。一方のカリス殿下はそっと顔を離すと、火照りで頭をクラクラとさせた私の表情を見て、心の底から愛おしいというような笑みを見せた。
そして今度は、沈むようにゆったりとした口づけを落とし、寒さなんて感じないほど彼は私の心を甘く蕩かしていった。
◇◇◇
想いが通じ合ってから数分後、日の傾きによる影が生じたことで私たちはハッと我に返った。そして、私は取り繕いようがないほど赤らんだ頬を携え、殿下と元来た道を歩いていた。
「エミリア、さっき手が冷たかった。やっぱりティナ嬢のためにやせ我慢をしていたんだろう?」
そう言うと殿下は私の右手を掴み、自身が着けていた右手の手袋を私に嵌めさせた。男性用のサイズのため指先にゆとりがあり、ほんの少し心がときめく。
だが、左手は素手のままだ。殿下はいったい何を考えているのだろうか。
そう思っていると、殿下はふふんと自慢げな笑みを浮かべ、私の左手を右手で繋いだ。かと思えば、その繋いだ手を丸ごと右ポケットに突っ込んだ。
「こうしたら、二人とも暖かいだろ?」
当たり前のようにそう告げると、殿下は無邪気に微笑みかけてきた。その笑顔一つで、平常に戻りつつあった私の頬は左手の温もりとともに、再び熱を取り戻した。
そんな折、殿下は何かを思い出したような表情をして訊ねてきた。
「今しか聞けないと思うから訊くんだけどさ、噂を聞いて何で僕のことを疑わなかったの?」
「ふふっ、疑う余地なんて無いくらい殿下が私に想いを伝えてくださったからですよ」
まだ気になっていたのねと内心で思いながら、殿下に笑顔で言葉を返す。するとその途端、殿下は感極まった表情で私を見つめた。
「殿下?」
「信じてくれたのかっ……。そうだよ。僕はエミリアしか見えてない。好きだ……エミリア。愛してる!」
その言葉と連動し、殿下が私と繋ぐ手の力を少し強める。そして、間髪入れず慌てたように言葉を加えた。
「そうだ。ちなみにだけど、昨日クララ嬢との噂を払拭してきたんだ」
「えっ、どうやってですか?」
「実は昨日、ガードナー公爵の夜会に招待されて参加したんだ。そこで、クララ嬢本人と皆の目の前でただの知り合いだって断言したよ。だから噂については安心してほしい」
その言葉に、私は自分でも驚くほど靄が晴れたような気持ちになった。気にはしていないけれど、はっきりしてくれたことが嬉しかったのだ。
そのため、私はその嬉しさを伝えようと、自身の右手をカリス殿下の右腕に添えた。そして殿下の顔を覗き込み「はっきりさせてくれてありがとう」と伝えた。
すると先程までの余裕はどこへやら。殿下はプシューと耳を真っ赤に染め上げ、終始身悶えながら馬車までの道を辿った。
そんなこんなで私とカリス殿下は、ティナが待つ馬車に戻ってきた。しかし最後、そこで事件が起こった。
何と私とカリス殿下のプロポーズの話を聞いた途端、ティナがそのまま失神してしまったのだ。
結果としては、衝撃を受けすぎて脳がびっくりしたことが理由とのことだった。
だがこうしてティナが突然倒れたことで、私とカリス殿下はまた別の意味のドキドキとした時間を過ごすことになった。