103話 待ってなんかいられない
◆◆◆以下はカリス視点です。
春の会合の次の日、カリス殿下は王都を出発し領地の巡回を再開した。帰ってきたのは、どうやら本当にあの一瞬らしいということを、後日届いた手紙で知った。
こうしてまたカリス殿下が王都不在の期間が始まったのだが、その間も彼は相変わらず近況報告に加え恋文を送ってきた。好きだ、愛している、会いたい、ざっくりと言えばこのような内容だ。
今までの文面と大きな違いがあるわけではない。だが春の会合での出来事があっただけに、その手紙は今までとは比にならないほど、いともたやすく私の心を翻弄した。
しかも会合の日以降、カリス殿下の行動は手紙だけに留まらなくなっていた。仕事の合間を縫っては、早馬に乗りブラッドリー侯爵邸へ来るようになったのだ。
それも、待ってというばかりでなくその間にも愛情を直接示したいという、なんともカリス殿下らしい理由で。
そのため領地巡回を再開したものの、手紙や直接会うことを繰り返しながら、私たちはさらに交流を深めていった。
そして気付けば、カリス殿下と連弾をしたあの日から十カ月もの月日が流れていた。
◇◇◇
この十カ月の間に、ティセーリン王国にはビッグニュースが舞い降りた。なんと、第二王子であるジュリアス殿下が隣国の王女と結婚したのだ。いわゆる政略結婚である。
実は現在、ティセーリン王国は南西隣のネードニアと臨戦状態にある。すると半年ほど前、同じくネードニアと隣接し、またティセーリンとも国を隣とするルシレーナが、保護国にしてほしいとティセーリンに従属を申し出たのだ。
これはつまり、ティセーリン王国の統括地域が増えることを表していた。若干意味合いは異なるが、国土が拡大するという感覚でも差し支えないだろう。
それに対し、陛下は諸手を挙げて喜ぶような人ではなかった。
ネードニアとの臨戦状態が解除された後、ティセーリンに対しルシレーナの民が従属への不満を示す可能性を考え、逆に新たな諍いが生まれるのではないかと懸念したのだ。
そのため、陛下は一度従属を拒否した。だがルシレーナ王室は、保護国にしてほしいとティセーリンに強い嘆願を続けた。
そして両国で交渉を続け、その解決策として出たものが、ティセーリンの王子とルシレーナの王女を結婚させるという案だった。そうしておくことが、ルシレーナの民を無下に扱うことは無いという証明になると考えたらしい。
だが、この婚姻には問題があった。どの王子とルシレーナの王女ジェナ様を結婚させるかという問題だ。
ジェナ王女は、非常に明るく聡明な方だと聞き及んでいる。慈愛に満ちた王女様だと、ルシレーナの国民から愛されているとも聞いた。
だがそんな彼女の年齢は、ジュリアス殿下やカリス殿下よりも年上の三十二歳。この国の未婚の貴族女性の婚姻適齢期は優に超えており、決して若いという年齢では無かった。
王女自身もそのことを懸念していたようで、こんな私と結婚する王子が可哀想だと言い出してしまう始末。そのため、当初は婚姻の話は無くなるかと思われた。
しかし、そうは言ってもこの結婚は二国の未来に関わる重大事案。
そのため、ジェナ王女の申し訳ないという思いは一度無視して、高位貴族や両国の高官たちを総動員し、結婚に関する話し合いが執り行われた。
結果として、結婚案は採択された。だが、その決まり方がすごかった。なんと当事者であるジュリアス殿下本人が、自らを結婚相手にと手を挙げたのだ。
『彼女さえ良ければ、私が結婚いたしましょう。年上だからと、何の問題がありましょうか? 人が良ければそれだけで十分です』
顔も知らない彼女に対し、彼は何の躊躇いなくそう言い切ったという。それにより事はとんとん拍子に進み、二人は結婚に至ったという訳だ。
当時、その話し合いにはお兄様も領主として参加していた。お兄様はその日以来しばらく、ジュリアス殿下のあの漢気には惚れたと絶賛していた。
私もその話を聞き、ジュリアス殿下の男前な性格に人として惚れた。同じ政略結婚でもこんなに違うのかと、かつての夫を思い出したからだ。
ちなみにマティアス様は現在、西の辺境で副指揮官をしている。ヴァンロージアの辺境で、かつてイーサン様がしていた役職だ。
なんでも、西の国境を守るグロチェスター辺境伯の元で精神を鍛え直しているらしい。……と、三カ月前に行われたジュリアス殿下とジェナ妃の結婚式で再会した、カレン辺境伯から教えてもらった。
奇しくも私は辺境伯と話したことで、ヴァンロージアのために働いていた日々に対し、より思いを馳せるようになった。
私が自ら手掛けたことも多く、最後まで見守りたい、そう思えるほどヴァンロージアは特別な場所だった。それだけに未練が残り、記憶が触発されたのだ。
そしてこの未練の情こそが、私だけが過去に縋り前に進めていないような気持ちにさせていると気付き、私はそれらの雑念を消そうとこの直近三カ月は特に仕事に没頭した。
だがそれは、仕事以外の部分を疎かにすることに繋がっていた。そして今日ついに、私はあることをティナに詰められていた。
「エミリア様。なぜなのですか?」
いつもより少し低いその声が、私の耳奥を震わせる。
「なぜって言われても……」
言い淀む私の言葉にティナはもどかしいとばかりの表情で、首をゆるゆると横に振る。その直後、咎めるような視線を向けながら言葉を放った。
「どうしてカリス殿下に問いたださないのですか!?」
そう言うと、ティナはプンプンと怒りながら、見えるはずのない王城の方へと目を向け、キッと睨み付けた。
「ティナ、落ち着きましょう」
宥めるように、歯がゆそうな態度のティナに声をかける。すると、ティナは信じられないとでも言いたげな目を私に向けた。
「落ち着いてなんていられません。怒って当然ですよ! だって他のご令嬢と違って、クララ嬢との噂だけは続いているじゃないですか! こんなのおかしいです!」
「っ……」
そう。私が今ティナに詰められている内容。それは、カリス殿下とクララ嬢が蜜月関係にあるというものについてだった。
実はジュリアス殿下が結婚してからというもの、カリス殿下のイメージが遊び人から有能な王子に変わりつつあることもあり、皆が一気にカリス殿下を狙い始めた。まさにカリス殿下の大争奪戦状態だ。
そのなかで何としてもカリス殿下と結婚しようと、彼と一緒に出掛けたと言い出す人や、交際中だと嘘をつく人たちも現れた。
そのためこの十カ月、私は実際にカリス殿下とデキているという女性を何十人も見ることになった。この三カ月なんかは、特に酷い有様だ。
ただ彼女らの話は、数日も経てば嘘だと見抜かれていた。嘘だと分かりやすすぎたからだ。
でも唯一、皆が信じている噂がある。それこそが、クララ嬢とカリス殿下が蜜月関係だという噂だ。
この噂の発端は、恐らく彼女の言動にあると思う。彼女は付き合っていないと確信的な言葉は口にしない。その代わり困り顔になり、さあどうでしょうね? と、のらりくらりで言葉を濁すのだ。
その効果はとてつもなく、今や貴族の半数以上はこの噂を信じている状態。だからこそ、ティナはどうしてこの噂だけは続くのかと苛立っているのだ。
しかも、この噂を知りながらも私は仕事に没頭して放置している状態。その様子こそが、ティナの今回の怒りの引き金となった。
――とは言ってもね……。
実のところ、私はカリス殿下とクララ嬢の関係を微塵も疑っていない。
この十カ月のあいだ、カリス殿下は時間を見つけては必ず、早馬で私の元まで会いに来てくれているからだ。それは雨だろうが風が強かろうが、雪が降ろうが暑い日の晴れ間だろうが関係ない。隙が出来たら来る、それくらいの感覚だ。
しかも邸に来たとき、カリス殿下は惜しみないほどの愛の言葉をかけてくる。アプローチの域を超えていると思えるほどだ。
でもこの行動こそが、カリス殿下たちの関係を疑う気持ちを払拭していた。
だがティナは、私たちの会話の全容を知らない。だからだろう。私の鈍い反応にじれったさを感じるような口調で言葉を続けた。
「エミリア様……。……っカリス殿下のことが好きなんでしょう?」
直接的な表現をぶつけられ、思わず息が詰まる。だが、ティナは間髪入れずさらに言葉を重ねる。
「好きな人が他の人と噂されていて、何とも思わないんですか?」
その言葉を聞いた途端、ティナが私の抱える想いを確信とともに知っていたのだと気付く。私は自身のカリス殿下に対するこの想いを、今まで誰かの前で口にしたことは無い。
だが、まさしくティナの言う通り。
私はカリス殿下のことが好きになっていた。十カ月という長い月日をかけてようやく自覚したばかりだった。
――もうここまで分かっているのなら、ティナ相手に隠す必要はないね。
「なんとも思わない訳ではないわ。確かに良い気はしないし、引っ掛かりはするわよ」
「でしたらっ……!」
正直な想いを吐露すると、ティナは驚いたように目を見開いた。かと思えば、苛立ったような表情が今にも泣き出してしまいそうな表情へと変わった。
「もしかして……離婚歴があるから殿下に相応しくないと、わざと無視しているんですか? 殿下に逃げ道を作るためですか……?」
ティナの心配そうな瞳が私の心に突き刺さる。すべて見抜かれここまで心配させてしまうとは、なんて不甲斐ない主だろうか。
私は慌てて立ち上がり、ティナに駆け寄った。そして、そっと彼女の右手を両手で握り締めて声をかけた。
「ティナ。確かに……その考えはあったわ」
「そんなっ……気にしないで良いんですよ! エミリア様は――」
「ええ、分かってる。あなたがずっとそう言ってくれていたもの。だから私も気にしないことにしたの」
そう告げて、私はこの件に対する自身の想いを、今一度ティナに告げることにした。
「カリス殿下は良い人よ。貴族だろうが平民だろうが、分け隔てなく助ける話をよく聞くでしょう?」
「はい。それがどうされたのですか?」
「……そういう人なのよ。噂の発端のクララ嬢を助けた話も、当たり前の事をしただけ。彼にとってはそれで終わりなの」
そこまで言うと、ティナの荒立った気性は少し落ち着きを取り戻した。そしてティナはキュッと口を結んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「これ以上、エミリア様に傷付いてほしくないんです」
「うん……ありがとう、ティナ」
「この噂が嘘か本当かが問題なのではなく、少しでもエミリア様が嫌な思いをする状況が嫌なんです」
ティナはギュッと顔を歪め、思いの丈を訴えかけるように私を見つめてくる。その表情を見て、私はついに腹を括ることにした。
「……もうこれ以上、ティナに心配をかけることは出来ないわね」
「エミリア様?」
私の心の変化を察知したのだろう。ティナが不思議そうに名を呼び掛けてくる。そんな彼女に、私は心に定めた決意を口にした。
「もうはっきりさせるわ。私はカリス殿下が好きよ。彼は待ってほしいと言っていたけれどもう待たない。来月のカリス殿下の誕生日に、私から彼に告白するわ」
「エ、エミリア様からですか!?」
「ええ、そうよ。だってよくよく考えたら、私から告白しては駄目とカリス殿下に言われていないもの」
カリス殿下は私に待ってくれと言っている。だからもしプロポーズをしてくれたならば、それを受ける気でいた。しかし、その待ち時間がティナを苦しめることになるのならもう待ってはいられない。
いつもどんな時でも、ずっと私を支え続けてきてくれたティナを安心させたい。そんな思いで彼女に微笑みかけると、ティナは私を見ながらパチパチと何度も瞬きを繰り返した。そして、うわ言のように声を漏らした。
「エミリア様って……ときどきすっごくねじが外れますね」
「それって褒め言葉なの?」
「はい! 最大の褒め言葉です!」
そう答えを返すと、ティナは太陽の光を受けたオキザリスのように花開くような笑顔を見せた。そしていつもの、いや、いつも以上に明るい声をかけてきた。
「明日は殿下とお出かけなさる日ですよね? 絶対にそのとき、誕生日周りの予定を伺っておかないと……。エミリア様、自然に聞き出す方法を今から一緒に考えましょう!」
「ええ、お願い!」
告白すると言い切ったものの、内心ではすごく不安だし緊張でどうにかなりそうだ。そのため、私は飛びつくようにティナの提案に乗り、二人で明日の計画を立てることにした。
◆◆◆
最近、僕には悩みがある。
僕と関係があると噂を流す令嬢が現れたのだ。しかもそれは一人ではない。何人もだ。
なんていい迷惑だ。エミリアがそれで僕のことを嫌いになったらどう責任を取るんだ。噂を知った当初は、そんな怒りを抱えていた。
でも最近、もっと大変なことに気付いた。僕のこの噂を知っているであろうエミリアが、まったく動じる様子を見せないのだ。
僕のことを恋愛的な意味で好きじゃないから動じないのだろうか。僕のことを気にもかけていないのだろうか。
そんな不安に駆られるが、問題はそれだけでは無かった。
最近のエミリアは、僕のことを好きなんじゃないかと錯覚させるほど、表情豊かに笑うようになったのだ。それは可愛い真っ赤な顔を見せる時もある。
僕がこんなにも好きで好きでたまらないエミリアは、僕が他の令嬢から好かれていても気にする素振りすら見せない。
なのに、エミリアは僕のことを好いてくれていると錯覚しそうな態度を見せる時もある。だけど、決して好きと言葉にしてくれたことは無い。
――エミリア……何を考えているんだ?
実は父上からの指示だった領地巡回は、つい先日終了した。そのため、僕はいつでもエミリアにプロポーズ出来る段階になった。
だがこの悩みが、僕がエミリアにプロポーズするタイミングを迷わせていた。
◇◇◇
そんなある日、コーネリアス兄上を通してシエラ妃からあるお願いを頼まれた。話を聞くと、シエラ妃の友人の父親が開く夜会に行ってほしいという話だった。
なんでも、貴族の話題になっている僕が行くことで、夜会に箔が付くかららしい。
前までは馬鹿にしていたのに、よく回転する手だな。そう思いながら主催者を確認すると、そこにはガードナー公爵の名があった。
その瞬間、僕の脳裏にエミリアとの会話や手紙のやりとりが過ぎった。
――ガードナー公爵の娘と言えば……エミリアの友人のケイリー嬢じゃないか。
そうと気付いたとき、僕は既に行くと即決していた。エミリアの友人に対し、僕の印象を良くしておいた方が賢明だと考えたのだ。
そして夜会当日、会場に入ると僕の周りには何人もの貴族たちが集まってきた。興味深い話をする者もいるが、内容のほとんどは僕に取り入ろうとするものばかり。そんな相手との話は、対応していると直ぐに疲れが出てくる。
エミリアの友人に僕の印象を上げるため、またシエラ妃の顔を立てるための出席だから後悔はない。だが僕はそんな人物の存在により、到着早々、疲労と退屈を感じる時間を過ごしていた。
するとそのとき、退屈の方がまだましだと思えるような声が聞こえてきた。
「カ、カリス殿下っ……ごきげんよう」
声をかけられ、そちらに目を向ける。その瞬間、僕の心に怒りの炎が灯った。僕と蜜月関係という噂を流す張本人が現れたのだ。それも、のこのこ自分から。
周りも僕らを見て面白がっているのだろう。
「あら? クララ嬢!?」
「え!? このような場で二人が居合わせるなんて初めてでは!?」
「もしや、今日何か発表が……?」
遠巻きの貴族たちが、ニヤつきとともに好き勝手に話す声が聞こえてくる。本当に不快極まりない。だがそれよりも、もっと不快な声が再び耳に届いた。
「カリス殿下にお会いできて嬉しいです!」
跳ねるような声が、僕の心を苛立たせる。何のつもりで話しかけてきているんだ? そう言いたくなるが、エミリアの友人の面子を立てるためにも僕は態度に出すのを堪える。
そのときだった。
「あら、クララ嬢。ごきげんよう」
突然、溌溂とした女性の声が耳に届いた。見れば、エミリアの友人のケイリー嬢だった。そう把握したところで、彼女は続けて僕に声をかけてきた。
「カリス殿下、クララ嬢と仲がよろしいので?」
この質問を投げかけられた瞬間、僕はケイリー嬢に心から感謝した。今日ここに来て良かった。そう心の底から思いながら、僕は笑顔で彼女の質問に返答した。
「彼女とはただの知り合いですよ。領地訪問で一回会ったきりですので……知り合いと名乗るのも彼女に対して失礼かもしれません」
僕がそう答えた途端、僕たちの会話が聞こえていた周囲の貴族たちから小さなどよめきが聞こえた。
目の前にいるクララ嬢に目を落とせば、両手で拳を作り、真っ赤にした顔を軽く下に向けてプルプルと震える姿が映る。
そんな中、ケイリー嬢だけは一切動じることなく口を開いた。
「左様でしたか。殿下はご令嬢へのお気遣いも完璧ですのね」
そう言うと、彼女は目を細め楽しそうに高笑いをした。その態度は、まるで僕の感情の代理のようだった。
こうして僕はケイリー嬢との挨拶を済ませた後、面倒な噂が払拭できた解放感に浸りながら会場を後にした。
そして、軽い足取りで馬車に乗り込み、明日会う約束をしているエミリアを想いながら王城までの帰路を辿った。