102話 この想いの名を教えて
本当に……殿下だわ。
忙しく領地を巡回しているはずの人が、どうしてここにいるのだろうか。そう驚かざるを得ない。
一方、カリス殿下も私が来ると知らされていなかったのだろう。私を見て目を見開き驚いた反応を示すと、彼は私の隣にいた王妃様に視線を移した。
「母上、どうしてエミリア嬢をこちらに?」
「連弾は一人で出来るものではないでしょう?」
「えっ……」
つまりきっと、こうだ。王妃様は私とカリス殿下に連弾曲を弾かせようとされている。それで、カリス殿下をこのピアノルームに待機させて私を探しに来られていた。
――でもどうしてカリス殿下なのかしら?
彼は各地を転々としていて、私がもらった連弾曲を弾けるはずがない。だというのに、王妃様は私たちに連弾させようとなさる。
正直初見で弾ける楽譜とは思えないのだが……いったいどうなっているのだろうか?
私は困惑の瞳をカリス殿下に向ける。でも返ってくるのは、私と同じく困惑した紺碧の瞳だった。
そんな時、ふと私の右手を誰かが握る感触がした。
「王妃様?」
「さあ、中に入りましょう。楽譜は用意してあるから安心してちょうだい」
そういう問題ではない。
そう思うが私に王妃様の暴走は止められず、あれよあれよという間にピアノ椅子に座らされてしまう。
目の前の譜面台を見れば、私をイメージして作ったという大層すぎるタイトル――『栄光』その文字と目が合う。
――何度も思うけれど、どうしてこのタイトルなのかしら?
セルジュはいったい何を想って、このタイトルをつけたのか。そう思っていると、左隣からキシリと音が聞こえた。途端に、私の意識はタイトルから隣に座る人物へと移った。
「エミリア、こうして会うつもりは無かったんだ。母上が無理を言ってごめん」
カリス殿下は座るなり、私に謝罪の言葉を述べてきた。だが今の私にそんな言葉は届かない。
あの恋文を送ってきた張本人が目の前にいるのだと、その考えが脳内を占拠したのだ。だから反応に遅れた。
「……ア……エミリア?」
「は、はいっ!」
「エミリア、大丈夫? 調子が悪いんじゃ……」
「いえ! 絶好調なのでまったく問題ございません!」
「そ、そうか? なら良いんだけど……」
やってしまった……。
若干引かれているように感じ、穴があったら入りたいと顔を伏せる。そのときだった。
「困るな……」
「えっ……」
押し付けられたように低い彼の声が耳に届き、心臓がビクリと震える。その声が苛立ちを表しているように感じたからだ。
恥ずかしいなんて言っていられない。そんな思いで、おそるおそる彼の顔へと視線を上げる。その瞬間、私の心の緊迫は一気に緩んだ。
耳の付け根まで真っ赤にした彼がそこにいたからだ。
だが逆に、私はどう声をかけたら良いかと悩む。ふとそのとき、あからさまに頬を染め上げた彼が、周りには聞こえない程の声量でポツリと呟いた。
「そんな顔されたら、余計好きになる……」
好きという言葉で、生理的現象とばかりに彼の顔の熱が私に伝播するのを感じる。するとちょうど、幸か不幸か後方から澄みきった美声が聞こえてきた。
「二人の良いタイミングで始めてちょうだいね」
王妃様の声が聞こえる後方に視線を向けると、ご丁寧にページ―ターナーまで配置されていることに気付く。譜めくりをどうするかはこれで解決だ……って、そうではない。
カリス殿下と私のあいだに流れる、この何とも言えぬ生温い雰囲気をどうにかしなければ。そのためには、一刻も早く演奏し終えるしかないだろう。
「カリス殿下……私はいつでも大丈夫です」
さきほどの発言は聞こえていなかった。そう思わせんばかりの態度で伝える。すると彼は何か察したのだろう。言葉だけは正常な返事をした。
「僕も準備は出来た。じゃあ……弾こうか」
「はい。お願いいたします」
応えるように相槌を打ったカリス殿下が、鍵盤に手を置く。そしてアンダンテの旋律を殿下が奏で始めたことで、美しい音楽が部屋中に流れ始めた。
連弾曲というのは、他人と息を合わせて奏でるもの。そのため、本来は何回も何回も二人で練習を重ねなければならない。そうして、素晴らしい一曲を二人で完成させるのだ。
だからこそ、一人でしか練習していなかった私はこの曲の連弾を甘く見ていたと、今更になって気付く。
――この曲、距離が……。
触れそうで触れない。何とも絶妙な距離で互いの手が近付き、一瞬でも気を抜けば互いの指が絡まり合ってしまいそうになる。
しかも問題はそれだけじゃない。必要な鍵盤を抑えるため、どうしてもカリス殿下と肩同士が触れ合わざるを得ない場面があるのだ。
楽譜をもらった当初は嬉しかったが、今はちょっぴりセルジュが恨めしい。
連弾の相手が男の人というだけで緊張してしまう。だというのに、その相手はよりによって私に好意を抱いているというカリス殿下。意識をしない方が無理だ。
しかし私の心情は変わり始めた。奏でていた旋律に徐々に情熱が灯り始めたのだ。
それにつれ、私たちの手の距離がどんどん離れていく。だがその一方で、重厚でありながらも重苦しさを感じさせない、荘厳で力強い音色が完成した。
――この二つの旋律が合わさると、こんな曲になるのねっ……!
二人で作り上げた、まさに『栄光』というタイトルに相応しい旋律に、思わず高揚を覚える。そのころには、私の集中はすべて演奏に注がれていた。
そしてクライマックスにかけて華々しさが最高潮に達し、最後は穏やかな旋律が流れこの曲は幕を閉じた。
「まあまあまあ! なんて素敵な曲なのかしら!」
なんという達成感。
そんな壮大な旋律の余韻に浸っていると、後方にいた王妃様が拍手をしながら歩み寄ってきた。そして私たちの座る椅子の右側まで来ると、極上の笑みを浮かべた。
「作曲させたかいがあったわ! 本当に素晴らしい演奏よ! 二人ともありがとうっ……!」
心の底から感動したように薄らと目に涙を浮かべる王妃様。隣に佇むティナも、賛同するように溌溂な笑みを浮かべうんうんと頷く。
そんな二人を見ると、何だか私の頬も自然と緩んでくる。だがその瞬間、王妃様が突然ハッと驚いた顔をした。
「そうだわ! エミリア嬢、本当は帰ろうとしていたのでしょう?」
「は、はい……」
――ずいぶんと唐突ね……。
どうしてそんなことを聞かれるのかしら?
結構天然なところがある王妃様は、意外と何を考えているのか掴めない。質問の意図を汲み取り切れず、脳内に疑問符を浮かべてしまう。
するとそんな私を他所に、王妃様はパーっと顔を輝かせて私の背後の人物に声をかけた。
「カリス。エミリア嬢を馬車まで送ってさしあげてちょうだい」
「えっ……。恐れながら王妃様っ……お疲れの殿下にそのようなことを――」
「疲れてないから大丈夫だよ」
王妃様の手配を断ろうとした私の声を、カリス殿下が遮る。そこで初めて後ろに振り返ると、ゆったりと優しい笑みを浮かべた彼と目が合った。
「エミリア、気にしないで。母上のわがままに付き合わせてしまったんだ。むしろ送らせてほしい」
「それは――」
「駄目か?」
きゅるると捨てられた子猫のような瞳で見つめられて誰が断れようか。
結局その後、王妃様の更なるごり押しもあり、私はカリス殿下に馬車乗り場まで送ってもらうことになった。
それからすぐ、王妃様に見送られ三人で廊下を歩いているとカリス殿下がある提案をした。
「馬車までちょっと遠回りをしてもいいか?」
「遠回りですか……?」
もしかしたら、まだ会合に出席していた貴族たちが残っているかもしれない。だから遠回りの提案をしたのだろうか? それなら私も大賛成だ。
「はい、大丈夫ですよ」
そう言葉を返せば、カリス殿下は良かったと破顔した。久しぶりに見る彼はどこか前よりも大人びているように感じ、なぜかその笑顔が妙に心に残った。
◇◇◇
「ここは初めて通るよね?」
遠回りをしようとカリス殿下は案内したのは、王城内の裏道だった。閑散としているここは、人通りが多い場所とは違い地面の凹凸が少し目立つ。
ちなみにティナは馬車の手配をすると申し出て、正規のルートで馬車乗り場へと向かった。そのためここにいるのは、私とカリス殿下の二人きりだ。
さきほど一緒に演奏をしたとはいえ、こうして二人だけでいると妙に落ち着かない。手紙の件もあり、今までのように私から話かけることも躊躇われる。
どうしたものか。そう思っていると、隣を歩くカリス殿下が口を開いた。
「母上のお茶会に出たんだろう? どうだった?」
彼なりに心配しての質問だろう。だがその話を聞いた途端、頭に浮かんだのはクララ嬢とカリス殿下の噂だった。
でも、その話を彼にできるわけが無い。そんな私はクララ嬢との噂には一切何も触れず、無難に、普通な答えを返した。
「実りあるお茶会で、とても楽しませていただきましたよ。新たな交友関係も出来たんです」
「……そうか。エミリアが楽しかったなら良かったな!」
――今の間は何かしら?
いつも即答する彼にしては珍しい間だと気になり、殿下に顔を向ける。すると、こちらを見ながら凛々しく微笑む殿下が目に映った。
改めて見ると、殿下は本当に綺麗な顔をしている。そう思ったときだった。
「キャッ!」
彼の顔に見とれ、間抜けなことに地面の凸凹で躓いてしまった。
それから間もなく、小さな悲鳴を上げた私の顔面は、トスっ……と何かに埋もれた。それと同時に背中に温かい何かが触れる。
――え?
今、私って……。
どのような状況なのか。何となく察して、脳内が焦げ付きそうな程の羞恥心が身体中を駆け上がる。
恐る恐る顔を上げてみる。すると案の定、そこには転びそうな私を正面から抱き留め、少し焦った様子のカリス殿下の顔があった。
「ご、ごめんなさいっ……。カリス殿下にこんな――」
「なんで謝るんだ? エミリアも無事だし、助けられたのが僕で良かった。気にしないで」
彼の胸元から慌てて飛び退く私に、彼は落ち着いた口調で声をかけてくる。だがそれが、なおさら私の恥ずかしさに拍車をかけた。
「まさかカリス殿下の前で、また転びそうになるだなんて……」
もう隠れてしまいたい。なんでカリス殿下の前に限って、毎回ドジをやらかすのだろうか。
目を伏せて顔を逸らし、頬の赤らみを隠そうと右手の甲を口元に添える。
するとそのとき、私の左手がそっと温かい何かに包まれた。見れば、カリス殿下の右手だった。
「で、殿下っ……?」
「こうしたら安心だろ?」
「えっ……と……」
男性と手を繋ぐのは初めてで、緊張して声が窄む。
でも確かに手を繋いだ方が安心だろうし、殿下にもこれ以上の迷惑をかけずに済む。
そう思った私は、それ以上は何も言わずコクンと小さく首を縦に振った。その直後、私の左手を握る彼の右手にギュッと力が籠められた。
◇◇◇
とくとくと高鳴る鼓動を必死に抑えながら、二人で一歩また一歩と歩みを進める。そんな折、ふと殿下が独り言ちるように呟いた。
「ちょっとずるかったかな」
「何が……ずるいのですか?」
ずるいという言葉が引っ掛かり、殿下に質問してみる。すると殿下は足を止め、私と目線を合わせるように身体を軽く屈めた。
「安心もそうだけど……口実がほしかったんだ」
殿下はそう告げると、握った私の手を軽く持ち上げ、いたずらな微笑みを浮かべた。そして何事も無かったように、再び足を進めた。
いったい今のは何だったのか。自分でもおかしなほどに、心臓がバクバクと脈打ち始める。またこんな雰囲気になったら、私の心臓はいつかきっと壊れてしまうだろう。
どうしたら、この変な空気を取り払えるのか。そのことに必死に思考を巡らせ、私はあることを思いつきカリス殿下に訊ねてみた。
「そ、そういえば殿下。初見なのに、どうしてあの曲が弾けたのですか?」
我ながら良い話の持って行き方だったと、ひっそり思う。するとそんな私に、彼は思いもよらぬ言葉を返した。
「えっ、初見じゃないよ」
「えっ?」
「お前用に作ってやったって、ジュリアスが送って来たんだよ。何が何でも絶対に弾けるようになっとけって手紙と一緒にね」
いや、ちょっと待って欲しい。今、ジュリアス殿下が作ったと言ったの?
理解が追い付かず混乱する。だがカリス殿下は止まることなく更に言葉を続けた。
「むしろ、僕も同じことを思ってたんだ。エミリアはどうして弾けるんだろうって……」
そう言うと、彼は心底不思議だというような表情を向けてきた。本当に知らないの……? ここは一度、確かめるしかあるまい。
「ジュリアス殿下が作曲なさったんですか?」
「うん」
「私は王妃様から、セルジュが作曲したものだとお伺いしていたのですが……」
ひょっとすると何かの勘違いかもしれない。そう思い訊ねたのだが、私の言葉を聞いたカリス殿下は明らかにすべてを察した表情に切り替わった。そして、衝撃的なことを告げた。
「ああ……そう言うことか。実はセルジュはジュリアスなんだ。僕たちだけの秘密だよ」
「そうだったんですね……って、ええ!? セルジュが、ジュ、ジュリアス殿下なのですかっ……?」
カリス殿下がサラッと告げた秘密に心底驚く。だがそれと同時に、すべて納得がいった。
王妃様がセルジュに作曲させたことも、カリス殿下に楽譜が届いたことも、セルジュがジュリアス殿下なら造作もないことだ。
すべてのパズルが嵌まった。そんな気持ちになり、珍しく興奮した私は反射的に思ったままを口にした。
「ジュリアス殿下にこのような才能があったのですね! 本当に素晴らしいです! どの曲も素敵で大好きな曲ばかりなんですっ……!」
これまでセルジュが作曲した音楽は、一通り覚えるくらいには気に入っている。それに、招待された演奏会で流れる曲も、たいていセルジュの曲が一番のお気に入りになる。
意外と私はセルジュのファンだったのね、なんて改めて思いながら、さらにセルジュもといジュリアス様の称賛を口にする。
すると突然、ずっと黙っていたカリス殿下が口を開いた。
「……そんなにジュリアスが好きなの?」
「えっ! いえいえっ、私が好きなのはジュリアス様というよりセルジュで――」
「そうか。エミリアはセルジュのことが大好きなんだな」
大好きを強調しながら拗ねたような物言いをする殿下。その言葉を受け、私はどうしたものかと軽く目を伏せて地面に視線を彷徨わせる。
すると突然、カリス殿下が歩みを止めた。その直後、堪えきれないというようなフッという笑い声とともに、優しい彼の声が頭上から降ってきた。
「なんてね。困らせてごめん。あまりにもエミリアがジュリアスを褒めるから、ちょっと……嫉妬した」
素直に嫉妬を認めて謝られ、動揺で心臓が締め付けられる。もしそれを狙ったのだとしたら、彼の作戦は大成功だ。
「ねえ、エミリア。僕が送った手紙読んでくれた?」
「はい……。拝見いたしました」
「その手紙に、直接会って続きを言わせてって書いていたのを覚えてる?」
「っ……はい」
「そっか。じゃあ、今言わせてもらおうか」
カリス殿下はそう言うなり私の正面に回ると、それぞれの手で私の両手を掬い上げた。
その手から彼の熱が伝う。彼と向かい合ったことで、私の心臓はこれまでにない速さで鼓動する。
「エミリア」
「っ……」
「会いたかった……。本当は会った瞬間、エミリアのことを抱き締めたかった」
掬い上げられた私の両手に、痛くない程度の力が加わる。その瞬間、指先から彼のトクントクンという平常時より早い律動を感じた。
「離れているあいだ君が恋しくたまらなかった。会えて嬉しい……。エミリアのことが心から好きだって、再会して痛いほど分かったよ」
愛情たっぷりの笑みを浮かべそう告げる彼の表情からは、恋しくて恋しくて堪らない、そんな感情が惜しみなく滲み出ている。
彼は私の心臓を止めるつもりなのだろうか? それだけのことをしているというのに、彼は更に容赦なく言葉を続けた。
「好きだよエミリア、愛してる」
「っ……!」
「だけど……ごめん。僕にはまだ乗り越えるべき課題がある。ただ、君のことを愛する気持ちは誰にも負けない。エミリア……本当に好きなんだ。一年と待たせるつもりは無い。どうか、待っていてくれないか?」
切愛の情を孕む彼の瞳に射貫かれ、愛の言葉を降り注がれる。それだけで、私はもう限界だった。
それからのことは良く覚えていない。
言葉の意味を飲み込むようにからくり仕掛けの人形のごとく、ひたすら頷いていたような気がする。
そして気付けば再び彼と手を繋ぎ直し、ティナの待つ馬車の方へと歩き出していた。
◇◇◇
「ちょうど来られて良かったです! エミリアさ――」
私たちを視界に捉えたティナが手を振りながら駆け寄ってきた。そして目の前に来た彼女は、ある一点を見つめてその口を閉ざした。かと思えば、これでもかというほど嬉しそうに、にやにやと口元を綻ばせた。
……あ。
にやけの理由に気付いた途端、私は慌ててカリス殿下と繋いだ手をバッと離す。目の前のティナはそんな私に、ああ残念……と言わんばかりの表情を向けてきた。
「ティナ、お待たせ」
「もう少し待たせても良かったんですよ?」
「何を言っているのっ……」
からかうティナに言い返しても、ティナは面白そうに笑っている。だがやり過ぎたと思ったのだろう。ティナはにやけるのをやめて、いつも通りの明るい笑顔に戻った。
「……エミリア様、帰りましょうか」
「ええ、そうしま――」
「ちょっとエミリアに言いたいことがある。ティナ嬢、先に馬車に乗って待っていてくれないか?」
ずっと無言だったカリス殿下が突然口を開き、ティナはきょとんと驚いた顔になる。だけどすぐに状況を察したのか、ティナはにんまりと笑うと、それは軽い足取りで馬車の中に飛び乗った。
――こういうとき、本当に楽しそうにするんだからっ……。
そんなことを思いながら、閉められた馬車の扉を一瞥する。
「カリス殿下、お話とは?」
視線をカリス殿下に移しながら声をかける。すると、私の左手に視線を落とした彼が視界に映った。
その瞳はどこか傷付いているようで。
どうして? そう思った私はふと、さきほどカリス殿下の手を少し乱暴に払ったことに気が付いた。
「あっ……カリス殿下。ご、ごめんなさい。ティナに見られたのが恥ずかしくてついっ……」
あなたが嫌で振り払ったわけではない。そう伝えたくて、咄嗟にカリス殿下の右手を両手で握る。カリス殿下はそんな私を見て、眦を赤く染め上げフッと切なげに微笑んだ。
「エミリア」
私の名を呼ぶその声は甘美な熱を孕んでいる。
そのことに気付くと同時に、殿下は私が握った自身の右手で私の右手を包み込んだ。そして、私のその手をそっと胸元へと引き寄せた。
「君ってたまに本当にずるいよね……。分かる? 僕、エミリアといるだけでこんなにドキドキしてるんだよ」
そう言うと、もっと分からせてやると言わんばかりに、カリス殿下がより強い力で私の手を胸元に押し付けた。
彼の鍛えられた身体越しに、平常時よりもだいぶ早い鼓動を感じる。
……今の私の鼓動と酷く似通ったものだ。
「あの殿下……」
「ん? どうした?」
「は、恥ずかしいので……」
自分でも信じられないくらいのか細い声が出た。カリス殿下の鼓動が恋の高鳴りとするのなら、私のこの逸る鼓動の正体はいったい何なのだろうか。
それを考えるだけで頭がおかしくなりそう。だというのに、殿下はなかなか手を離してはくれない。
そんなに長い時間では無いはずなのに、堪らない恥ずかしさを感じ勝手に目元が潤んでくる。
“もう十分分かった”そんな言葉にならない想いを込めて、彼を見上げる。
すると、一見余裕がありそうな笑みを浮かべながらも、瞳の奥に滾りを見せる彼の姿を視界に捉えた。
思わず、息を呑む。
「ああ、ごめん」
時を止める魔法を解くかのようにポツリと呟くと、ようやくカリス殿下は手を放してくれる。
だけどすぐ、殿下は私の耳元にそっと口元を寄せ囁いた。
「エミリアも僕と一緒だったら良いな。その表情、期待しても良いか?」
低く甘い吐息を耳に感じ、脳内がチカチカと危険信号を出す。慌てて耳元に手を持って行くと、身体を引いたカリス殿下は飄々とした笑み浮かべた。
ただ、その瞳はさきほどの滾りとは違い、真剣そのものになっている。
期待しても良いか……。
その言葉の後に向けられる視線は、一心に注がれる彼の想いのようで。考えれば考えるほど握る拳に力が籠る。
――私は……。
「今は答えなくて良いよ。その日が来たら教えてほしい。これ以上は……ティナ嬢を待たせすぎだな」
思いつめる私を見兼ねたのだろうか。カリス殿下はその言葉の後、私の様子を確認しながらおもむろに馬車の扉をノックした。その音に合わせて、何も知らないティナが扉を開ける。
「ティナ嬢、待たせたね。話は終わったよ」
彼はティナにそう告げると、エスコートするようにそっと手を差し伸べ、私を馬車の中に乗せた。そして何事も無かったように、あっけらかんとした様子で手を振ってきた。
「じゃあね、エミリア。ティナ嬢、エミリアをよろしく頼む」
ティナは何も分からないと言った様子で、私とカリス殿下を見比べる。しかしすぐに「承知しました」という言葉を返した。
この言葉を聞き、カリス殿下は満足そうな笑みを浮かべる。そしてその姿を最後に、私たちは王城を後にすることになった。
酷く乱された心は、カリス殿下のことでいっぱいだ。今私の心を占めるこの感情は、何という名前が付くのだろうか?
――私はカリス殿下のことが好きなの?
これが、好きという感情……?
未知の感情が私を心身ともに支配する。
そんな私はこの日以来、カリス殿下に抱く自身の感情について、しばらく思い悩む日々を過ごすことになった。