101話 新しい季節と再会
気付けば季節は花津月の朔日。王妃様のお茶会に呼ばれた日から、二ヵ月ほどが経過していた。私はその間なんと、ケイリー嬢だけでなくブレア嬢やドロシー嬢、そしてヘレン嬢の三人とも交流を深めていた。
あんな解散の仕方で、なぜそんなことになったのか。そのきっかけは、お茶会後に届いた彼女らからの手紙だった。
なんでも三人はお茶会以降、ケイリー嬢の言葉を受け、自分たちが不敬罪にならないよう私があえて話を制止したと考え直したらしい。それであの時のことを謝りたいと、それぞれ謝罪の手紙を送ってきたのだ。
私としては、別にそのような意図で止めた訳では無い。だがそこは気にせず、その手紙を発端に三人と交流を始めてみた。その結果、思いがけず肯定的な人脈を広げることが出来たというわけだ。
そんなこともあって私はシーズン外にも関わらず、社交にお兄様の補佐や代理、王妃様に渡された連弾曲の練習といった仕事漬けの忙しない日々を過ごしていた。
◇◇◇
そして本日、私はとある場所にやって来ていた。
「いよいよ社交期が始まった感じがするわね」
隣にいるティナに声をかけると、豪奢な壁画や彫刻に釘付けになった彼女が、気もそぞろに肯定を示す。まあ、彼女がこんなになるのも無理はない。
右を見ても左を見ても、目に入るのは春らしく綺麗に着飾った人々。そんな空間に流れるのは、一流の楽団により奏でられる華々しい音楽。会場を彩る装飾の数々は、どれもこれもその道の一級品ばかり。
そう……ここは王城内の宴会場。
私たちは今、社交期の始まりを知らせるために毎年王太子妃が主催する、春の会合に来ているのだ。
まさに日常から離された異空間。そんな会場内を私もティナに釣られ、それとなく見回す。すると、会場内の雰囲気に圧倒されていたティナが、ハッと何かを思い出したように話しかけてきた。
「エミリア様がいて本当に良かったですね。このような日に、まさかあのアイザック様がお風邪を召されるとは……」
「ええ……本当に」
ティナに頷きを返しながら、本来出席するはずだったお兄様の赤らんだ顔を思い浮かべる。
お兄様が風邪をひくなんて、記憶上初めてのこと。本当なのかと、私は思わずお兄様の額に手の甲を添えた。するとしっかりと熱があったため、急遽私が代理で出席することになったのだ。
「アイザック様にエミリア様をよろしく頼むと任されました。しっかりその仕事を果たしますので、ご安心くださいね!」
胸を張りやる気満々のティナの言葉にきょとんとした直後、私はクスリと笑みを零す。
「ありがとうティナ。頼りにしてるわね」
「はい!」
やっぱり一番頼りになるのはティナだ。そう思いながら、私は和やかな気持ちで社交期の始まり迎えた。
◇◇◇
いざ会合が始まると、話題の中心は貴族たちの新規事業となった。非常に学びの多い内容ばかりで、私は重要な話を脳内で必死にメモしている。そんな折、ふと視界の端のあるモノに目が留まった。
――えっ……あのぺリース。
思わず視線が釘付けになる。それを着けているのは、この世にたった一人しか居ないはずだから……。
「エミリア様? どうなさい――」
「ティナ見て。あの方……イーサン様よね?」
遠目だから顔ははっきりと見えない。しかし彼が身に着けるそれは私が贈ったぺリースにそっくりで、とても見間違いとは思えない。
確かめるように、改めてティナと見つめる。そのときふと、彼がこちらを見たような気がした。
その瞬間、不躾に見すぎたと私はパッと目を逸らした。だがやはり気になり、彼を見かけた方角を一瞥してみる。すると、彼と私たちの距離は先程までよりも近付いていた。
――もしかして、こちらに来ているの?
そう思った数秒後、私は予想が当たっていたと悟る。彼はあっという間に私たちの目の前までやって来たのだ。そして、懐かしい笑顔で微笑みながら声をかけてきた。
「エミリアさん、ティナさん。久しぶりだね」
「イーサン様! お久しぶりです。このぺリース……」
こんな形で見ることになるとは思ってもみなかったそれを見て、思わず声を漏らす。イーサン様の端整な顔によく映えるこのペリースは、元からある彼の魅力をさらに底上げしていた。さすがリラード縫製のデザインだ。
「素敵ですね。よくお似合いです」
「ありがとう。今日みたいな日にこそ着るべきだと思って着てみたんだ! さっきからよく褒められてる。エミリアさんのおかげだな」
彼はそう言って、明るく笑いかけてくれた。手紙で業務上のやり取りをしていたとはいえ、久しぶりの対面だとドギマギすると思った。だが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
その後、イーサン様は滅多にない機会だと、ヴァンロージアの現在についてあれこれ聞かせてくれた。領民のこと、使用人たちのこと、事業に関することなど、話せる範囲のことはすべて教えてくれたのだ。
私はこのイーサン様の話を聞いて、彼のおかげでヴァンロージアの領地経営が機能していると分かり、心底ホッとした。
決して彼の能力を疑っていたわけではない。ただ私の手を離れ、ずっと知らずにいたその先を知れたからこその安堵だ。だがそれと同時に、私の心には痛みにも近い切なさが込み上げた。
マティアス様が帰ってくるまでの、私の人生で最もやりがいと生きる楽しみを感じられたヴァンロージアでの輝かしい時間。その私の夢や希望とも言える時間は、今や過去になっていると痛感したからだ。
でもマティアス様と別れるため、この選択をしたのは私自身。そう心に言い聞かせ、名残惜しさを押し殺し、私は笑顔のままイーサン様と別れた。
「……以前よりもずっと頼もしくなられておりましたね」
ティナが感慨深そうに彼の背姿を目で追う。
「彼がいるなら、ヴァンロージアは安泰ね」
意識的に明るいトーンでティナに言葉を返す。だが私の顔を見つめるその目からは、うら悲しさが見え隠れしていた。
――やっぱり……ずっと一緒だったから分かるわよね。
でも、ティナにはこんな顔をさせたくないわ。
「ティナ、私は大丈夫よ」
毅然とした態度で、ティナに声をかける。すると彼女も色々と察したのだろう。即座に気分を切り替えるように、ある提案をしてきた。
「大丈夫なら良かったです。……さあエミリア様、お次はどちらに行かれます? ドノヴァン侯爵夫人に挨拶に行かれますか?」
「ええ、そうしましょう」
ちょうど同じ考えだったこともあり、ティナの案に賛成する。そして今いる場所から移動しようとしたところ、ふと隣で集まっていた御夫人の声が耳に届いた。
「カリス殿下のお話、お聞きになりましたか?」
特定の名前が耳に飛び込み、思わず進み出した足が止まる。すると話の続きを促す声が聞こえた直後、最初に語り出した夫人の少し潜めた声が耳に届いた。
「どうやら、カリス殿下とハヴェル家のクララ嬢が蜜月関係らしいですわよ」
クララ嬢。その名前を聞き、一瞬身体が硬直する。
あのお茶会以降、彼女とは交流を持っていない。そのため彼女の動向は詳しく分からないが、その噂が流れる理由にはこれといった見当がつかない。お茶会時点では、明らかに蜜月関係ではないと知っているからだ。
――きっと皆まさかと思うわよね。
そう思いながら、無作法は承知で耳を傾ける。しかし、現実は予想外の答えばかりだった。
「私も伺いましたわ」
「私も娘から聞きましたよ」
「ええっ、やっぱり本当ですの!? 私もちょうど先日伺いましたわよ?」
御夫人はすり合わせをするように、各々の知っている情報を口々に語る。そしてとうとう最後まで、この噂を否定する人は誰一人として現れなかった。
突然、指先から氷が侵食して身体が凍てつくような感覚に襲われる。
自分で言うのもなんだが、カリス殿下は未だに熱い恋文を私に送ってきている。クララ嬢と逢瀬を重ねる時間もないだろうし、彼と彼女が蜜月関係だなんてとても思えない。
それなのに、夫人たちの中にその噂を否定する人はいない。その現実を目の当たりにし、途端に言いようのないざわめきが心を走る。
――そんなわけないわよね?
こんなありえない話、きっとすぐに嘘だったと分かるはずよ。
これ以上ここにいると、なんだか気持ちがおかしくなりそうだ。
そう思った私は纏わる不快を振り切るべく、話の続きは聞かずに、ドノヴァン侯爵夫人の元へ向かった。
◇◇◇
「実りある会になって良かったですね」
ティナはそう告げると嬉しそうに私の顔を覗き込む。そんなティナの言葉に、私は笑顔で合槌を打った。
一時動揺する場面もあり、私は落ち着かない気分になっていた。だがその後、ドノヴァン侯爵夫人に挨拶に行ったことでその気分は一新された。なんと彼女は私に、それは素晴らしい人脈を紹介してくれたのだ。
「最後に王立学校の教授陣に会えるだなんて思っても見なかったわ。本当に幸運よ!」
ドノヴァン侯爵夫人には今度お礼をしなればならない。そう考えている私の心は今、豊かさと麗らかな気持ちで満たされていた。するとそんな私に、嬉しそうに頬を緩ませたティナが声をかけてきた。
「エミリア様の嬉しそうな顔が見られたことが何よりです。では、そろそろお暇しましょうか」
「そうね。混み合う前に早く――」
出ましょうか。そう答える直前、一際身綺麗な使用人の女性が私たちの目の前に現れた。そして彼女は上品で柔らかな笑みを浮かべると、軽く目を伏せて口を開いた。
「エミリア・ブラッドリー嬢でございますね。コーネリアス殿下がお呼びです。殿下の執務室までご案内に参りました」
――殿下が私に……?
何の用事かしら?
訳が分からず、私はティナと顔を見合わせ頭を傾げる。だが、言われた通りその女性について行くと、そこには笑顔で私たちを出迎えるコーネリアス殿下の姿があった。
「よく来たな。突然すまない。ちょっと伝えておきたいことがあって呼んだんだ」
「伝えること、ですか……? いったいどういったことでしょうか?」
思い当たることが無く殿下に訊ねる。すると殿下はうんと一度頷き口を開いた。
「実は王立学校の寄付金の集まりが良くて、経営に余裕が出来たんだ。そこで他の人より寄付額が多かった者に、寄付金の用途の案を募っているから、考えておいて欲しいと伝えたくてね」
「っ……! そういうことでしたか」
「ああ。人が多い場所では話しづらかったから、簡単な話だがこうしてわざわざ呼び出した。面倒をかけてすまない」
そう言うと、殿下は少し申し訳なさそうに目を細めた。だが、大勢の前で王太子である彼に声をかけられるよりよっぽどマシだと、慌てて言葉を返した。
「いいえ、どうかお気になさらず。承知しました。期日はいつごろでしょうか?」
そう声をかけると、彼はパッと晴れやかな笑みを浮かべた。
「期日は特に設けるつもりは無い。思いついたら、どんな方法でも良いから伝えてくれ。伝言でもいいし、直接ここに来ても良い」
「そ、それはちょっと……」
「ふっ、冗談だ。別にそれでも問題無いが、エミリア嬢の好きな方法で連絡するといい」
「はい、承知いたしました。それでは考えてみますね」
そう答えると、殿下は元気に「ああ、そうしてくれ」という言葉を返した。そして同室内に居た使用人の男性に声をかけると、私とティナを馬車まで送るよう手配をしてくれた。
「シエナが君とお茶をしたいと言っていた。彼女が誘ったら、ぜひ参加してやってほしい」
「もちろんです。楽しみにしておりますね。それでは失礼いたします」
そう告げて殿下と別れた私は、ティナと共に寡黙な殿下の直属であろう使用人の男性に付いて歩いた。その間、私はつい先日ジェリーから届いた手紙を思い出していた。
ジェリーには入学祝いのハンカチを贈った時、二カ月に一回、そして互いの誕生日に手紙を送ると約束した。するとジェリーは入学した記念にも送りたかったと、学校から手紙を送ってくれたのだ。
王立学校はもともと大聖堂だった建物を使っている。何でも、平民が教育を受けられる機関を作ることに甚く感銘を受けた司祭様が、大聖堂を寄贈したのだ。
だからだろう。そのジェリーから届いた手紙には【ステンドグラスがとっても綺麗だから、リアと一緒にみたいな。】と可愛らしいことが書かれていた。そのほかにも、勉強は楽しいし、先生たちも質問したらいくらでも付き合ってくれるから、学校に通って良かったと書かれていた。
そんな手紙を一人心で思い出し、つい口元を緩める。するとその時、突然前方から神々しい女性が歩いて来た。かと思えば、その女性は私を見つけるなり光の速さで距離を詰め、私の両手を掴んできた。
「シエナ妃からあなたがコーネリアスに呼ばれたって聞いて、探しに来たのよ! 無事に会えてよかったわ!」
「王妃様!? ど、どうなさったのですか? こんな恐れおお――」
「気にしないで! それより、あなたにお願いがあって来たの!」
お願いとはいったい何だろうか。デジャブを感じながら、私は素直に訊ねた。
「私に出来ることでしたら、何なりと……」
そう告げると、王妃様は美しい黄金の髪を靡かせながら輝かんばかりの笑顔を浮かべた。
「あなたにこのあいだ連弾譜を渡したでしょう? 演奏してほしいの!」
「今からですか? 王妃様と演奏できるのでしょうか……?」
「それも良いけれど、もっと適任がいるのよ! ほんと半刻ほど前に帰ってきたのっ……一時的にだけれど」
帰ってきたとは誰のことを言っているのだろうか。興奮した王妃様の様子から、それなりの人物であることは察せられる。
――もしかして、セルジュ……とか?
いやいや、違うだろう。そんな突っ込みを自分で入れながら、私は王妃様のお願いを了承し「待たせてるから」という彼女に導かれるまま足を進めた。
◇◇◇
「開けてちょうだい」
ピアノルームまでやって来ると、王妃様が部屋の前の使用人に声をかけた。すると、無駄な動き無く使用人たちが指示通りに扉を開く。
その瞬間、室内にいる人物が目に入った私は驚きのあまりヒュッと息を呑んだ。そして、存在を確かめるかのようにその人物の名を声に出した。
「カリス……殿下?」
「えっ、エミリアっ……!?」