1話 結婚なんてしたくない
「……エミリア、私の最後の頼みだ。カレン辺境伯の長男のマティアス卿と結婚してくれ」
まるで、血の通わぬ人形のように青白い顔で、お父様は息も絶え絶えにそう呟いた。
今のお父様には、威風堂々とした以前のような面影はもう無い。いつどうなってもおかしくない、そう思ってしまう程に衰弱している。
よくよくお父様の顔を見てみると、病気のせいだけではなく加齢により顔の皺が増えている。
どうしてこうなる前に、気付けなかったのだろうか。
ずっと元気なままでいてくれるなんて、思っていたのだろうか……。
「……っ私はまだ結婚することはできません。そんな最後の頼みだなんて――」
――言わないで。
そう言おうとしたが、お父様はその続きを言わせてはくれなかった。
「エミリア……もう私は長くない。分かるだろう? エミリアの無事を見果たしたいんだ」
「然るべき日までお父様が生きていてくだされば、問題ないじゃないですかっ……」
「……無理なんだ」
こんな弱音を吐くお父様は初めてで、涙が勝手に溢れてくる。そんな私を見て、お父様は震える手をゆっくりと伸ばし、不慣れな手つきで私の涙を拭い言葉を続けた。
「アイザックは頼りないし、正直領主に向いていない。それに、同じ妹でもビオラばかりを贔屓する。……私が死んだら、もうエミリアを誰も守ってやれない」
悔しそうな声で絞り出されたその声に、心臓を鷲掴みにされたような感覚になった。
――こんな時まで、私の心配だなんて……。
アイザックお兄様は、私にも妹としては接してくれる。
しかし、誕生日が一緒で母が亡くなった時にビオラが一番幼かったということもあってか、お兄様は同じ妹でもビオラを特別可愛がり、とにかく贔屓する。
また、ビオラは飛び抜けた美貌を持っており、そのうえ常に愛嬌が漂っている。
そのため、デビュタントの日から社交界の花として持て囃され始めた。そしてそれ以来、お兄様のビオラに対する寵愛と贔屓はより強くなった。
「お父様に守られなくても大丈夫なくらい強くなります。だから……グスッ……その分お父様も生きてくださいっ……」
私の涙を拭うお父様の手に自身の手を重ねた。すると、お父様の手の温もりがじんわりと伝い、ますます涙が溢れてくる。
だが、そんな切なる思いを吐露した私に対し、お父様は冷徹に自身の意を貫いた。
「領民を領主の死で混乱させたくない。カレン辺境伯なら、そんな混乱を鎮圧してくれる。それに、カレン家にならエミリアのことを安心して任せられる」
そう言うと、お父様は一呼吸置いた。かと思うと、強い意志の籠った視線で私の目を射抜き言葉を続けた。
「これは、ブラッドリー侯爵領を守るための結婚でもあるんだ」
「――っ!」
「エミリア……もう私はそろそろ限界だ。もって一月も無いだろう。お願いだから、この頼みを呑んでくれっ……」
生命の滾りを感じさせるようなお父様の目で見つめられ、ふと元気だった若かりし頃のお父様を思い出した。
そして、お父様の久しぶりに生気の籠った哀願に圧され、私はとうとう首を横に振ることが出来なかった。
……その後は、今後の予定を聞き私は自室へと戻った。
◇◇◇
「先ほど旦那様とは、どのようなお話をされていたのですか?」
そう声をかけてきたのは、侍女のティナだ。私の涙の跡に気付き、心配してくれたのだろう。
「……カレン辺境伯の令息と結婚をしてくれと言われたの。要するに、いわゆる政略結婚よ」
「カレン辺境伯と言えば、旦那様の御盟友ですよね? ですが、ご令息は今辺境の軍営拠点にいるはずでは?」
「ええ、そのはずよ。とりあえず、明日カレン辺境伯がこの家にいらっしゃるらしいの。そこで詳しい話をするみたい」
あまりにも事態が急展開過ぎて、心が追い付かない。そのせいか、ついため息が漏れ出てしまう。
ティナはそんな私を心配して、寝る前の時間だったためハーブティーを淹れてくれた。だが、そのハーブティーを飲んでも気持ちが落ち着くことは無かった。
「お嬢様、私はどこまででもお嬢様に付いて行きますからね」
そう言葉を残し、後ろ髪を引かれるような表情のままティナは部屋を後にした。
――結婚なんてしたくないわ……。
しかもどんな相手かも知らないうえ、辺境だなんて……。
お父様の最後の頼みと言われ泣く泣く受けたが、自ら望んだ訳ではなく不安もいっぱいだ。
だが、お父様が亡くなるまでに結婚をしなかった場合、お父様の死後、カレン辺境伯からの支援を受けることは難しい。
ならば、支援を受けなくても良いようにしたら良いだけじゃないか。
そう思いたいが、次期領主となるアイザックお兄様に問題がある。お兄様は、ビオラ以外の人間の言うことに耳を傾けようとしないのだ。
もちろん、ビオラの発言がまともであれば問題ない。しかし、蝶よ花よと育てられお父様と私以外に注意も否定もされたことの無いビオラは、とんでもないことを言いかねず、お兄様もその意見を呑みかねない。
しかもお兄様は妹可愛さに、自身やビオラを諫める人々に怒りを向ける可能性がある。
そうなれば、忠臣から見放された我がブラッドリー家が、内部から崩壊していくことは想像に難くない。
またそれに追随し、領民が不安に晒される生活を送りかねないことも明白だ。
そう考えると、お兄様に助言や提言をできて尚且つ支援をしてくれる存在というのは、喉から手が出るほど欲しい。そんな人物こそが、正しくカレン辺境伯だった。
ただ、カレン辺境伯からブラッドリー家が支援を受けるには、私がカレン家のマティアス卿と結婚する他ない。
――私に力があればどれだけ良かったか。
結婚なんて嫌だけど、領民を守るにはそれしか道が無いだなんて……。
心の中はモヤがかかり、葛藤ばかりがグルグルと渦巻く。
――何で私はこんな状況なのに、アイザックお兄様とビオラは自由気ままに過ごしているのかしら……。
同じ家門の兄妹なんじゃないの……?
私には自由なんて何も無い、全部しわ寄せばかりよ……。
でも結婚なんて所詮、家と家の結び付きのためにするもの。娘の私に結婚相手を選択する権利なんて、元から無かった。
これまで私が誰かに恋焦がれたり、恋に夢見たりしなかったのは、心のどこかで結婚というものを諦めていたからだろう。
だからこそ、お父様の最後の願いを聞き入れられたのだけれど……。
「はあ……本当はやっぱり結婚なんてしたくないわ」
そう呟く声が、私以外誰もいない空間に静かに響いた。