第一章 9
第一章 9
以前のこころなら、こんな時もっと前向きな考え方をしたものだ。表情も変えずに淡々と喋るこころを、俺は知らない。鬱という病気はこころをこんなにも変えてしまうものなのだろうか。それでもこの子は俺の好きなこころであることに変わりはない。こころが病気で辛い思いをしているなら、出来る限り寄り添いたいと思う。
猫の説得を諦め、俺は立ち上がる。ベッドに横になったままのこころを見下ろした。
「こころ、シャワー浴びてきたら? 気分変わるよ」
「……うん」
答えはするものの、こころは全く動かない。
「動けない?」
「……うん」
一瞬前と全く同じこころの声。視線も全く動かない。
「連れて行ってあげようか?」
抱えてバスルームまで連れて行こうかと思い、こころを抱き上げようと手を出す。触れようとした時、その場でこころが身じろいだ。
「やめて……」
それまでこちら側を向いていたこころは、寝返りを打って壁の方を向き、俺に背を向けてしまった。拒絶されたことが寂しいと思う反面、もうこの態度にも慣れてしまった。分かっている、いけないのはこころではなく、病気の方だ。
俺は何も言わずに部屋を出る。
「はあ」
リビングに戻るとため息が漏れた。こころの事を一日中、いや一年中考えている。理由もなく塞ぎ込むこころを見ていると、俺まで気が滅入る思いだ。俺自身にも気分転換が必要かもしれない。
少し出かけようか。時計を見ると二十一時を少し回った頃だ。最近はこころの手料理が食べられずスーパーの総菜で済ませていた。少しくらい、贅沢をしてもいいかもしれない。既に夕食は済ませていたが、居酒屋にでも飲みに行きたい気分になり、支度する。
こころに声を掛けるか悩んだが、何も言わずに家を出た。
俺が入社して間もない頃、当時は上司でなくただの先輩だった柳下さんが、顧客先を訪問した帰りに連れて行ってくれた割烹居酒屋がある。
「あそこなら確か、電車で二駅くらいだったよな」
呟き、俺は足取り軽く最寄り駅へ向かう。行くのは四年ぶりだが、全く知らない店に入るより幾分か気が楽だ。
数年ぶりの居酒屋は、俺を緊張させた。勇気を出して店に入ると、左側にカウンター、右側が小上がりのテーブル席になっている。店内は小ぢんまりとしていたが、数人の客が楽しそうに酒を飲んでいた。
「いらっしゃい。好きな席へどうぞ」
店主らしき料理人の男性がカウンターの内側から話しかけてくれる。そういえばこんな内装だったと当時の事を思い出しがなら、俺は小上がりのテーブル席へついた。
家で缶ビールを開けていたので、同じビールにするのも何だかつまらない。ここは日本酒にしようと思い、適当な銘柄を選んで注文した。料理はお任せで、適当につまみになりそうな小鉢をお願いする。出てきたのは、レンコンのきんぴらともずく、それと茗荷の和え物だ。特別、豪勢というわけでもないが、何だか落ち着く。
手酌で徳利から猪口へ日本酒を注ぎ、一気に飲む。日本酒の味など殆ど知らなかったが、飲めなくはない。むしろ旨いと思った。気づけば一合なんてあっという間に飲み終わっていた。
「すみません。同じ日本酒をもう一合お願いします」
「はいよ」
頼んだところで、別の男性客が店に入ってきた。……あれ、知ってる人だ。誰だっけ……。
いつの間にかかなり酔っているのか、すぐには誰だったか思い出せない。その男性客も俺に気付き、話しかけてきた。
「あれ、天津満明? こんな所で会うの珍しいな、一人か?」
入り口から俺の席へ真っ直ぐと近づいて来る男性客。
「……はい」
この、人をフルネームで呼び捨てにする知り合いには覚えがある。会社の上司の柳下さんだ。柳下さんも一人なのか、彼は靴を脱ぐと勝手に俺の席の向かい側へ腰かけた。
「天津は何飲んでるの?」
「日本酒です……」
酔った俺の手元のお猪口を見て「ふーん」と相槌を打ち、柳下さんはカウンターの向こう側の店主に話しかける。
「大将、いつものお願いします!」
「はいよ」
常連客なのか、柳下さんの注文は言わなくても通じるようだ。
出てきたのは種類の違う日本酒の徳利が二つだった。柳下さんは俺のお猪口に日本酒を注いでくれると、自分のそれには手酌で注いだ。何も言わずに一口、日本酒に口を付けると、柳下さんは「おっ」と小さく声を漏らして俺を見た。
「辛口の芳醇か。いいね、うまいの飲んでるじゃん」
正直、日本酒の味の事は全く分からないが、なんとなく気に入ったこの酒を、俺も煽る。小さな猪口に酒がなくなったので、気にせず手酌で継ぎ足した。
「で? 会社の付き合いには参加しないが、一人でなら居酒屋にも行くってか?」
「え……」
そもそも俺は居酒屋などまず来なかった。酒が飲みたければ家でこころと一緒に飲む。一人で飲む酒が美味しいとは思っていなかった。
「対して酒も強くないくせに、今夜はどんな風の吹き回しだ?」
「俺が酒に弱いの、何で知ってるんですか」
「そりゃお前、新人の頃はよく飲みに行った仲だろ~」
ああなるほど、と思う。こころが甦る前は会社の付き合いにも参加していたのを思い出す。
「何があった? 愚痴でも何でも聞いてやるぞ」
「……」
柳下さんは半分表情をニヤつかせながら、俺を見る。俺は半分酔った頭でそんな優しいことを言う柳下さんを見つめた。
「……こころが……」
この時、俺は自身の中に詰め込んでいた感情をこの人に聞いて欲しいと思った。酒に酔っていたせいかもしれない。これまで誰にもその存在を明かさなかったこころの事を、誰かに懺悔したくなっていた。
「彼女と同棲してるらしいことは何となく知ってたが、そのこころちゃんが実は死人って、そんなことあり得るのかよ!?」
一通りの出来事を話すと、柳下さんが大きな声で驚く。にわかには信じ難い話に、酔っ払いの戯言だと思うだろうか。
「……いやまあ、百歩譲ってお前の話を信じよう。それで、こころちゃんは今も布団に包まって泣いてるってのか?」
「はい」
「お前、それほったらかしてこんな所で飲んでていいのかよ!?」
柳下さんは声を荒げて怒ったように眉根を吊り上げる。その反応に、俺は正直な反応を返す。
「……はあ」
柳下さんの言葉は正論すぎて、ため息が漏れた。分かっている、彼女を、こころを独り残して自分は何をしているのか、と。しかし俺自身ももう限界なんだ。おそらく心の病の鬱であるこころにどう接していいのかが分からない。こころにも俺自身にも、心の休息が必要だと思う。
その事を言うと、柳下さんも納得したようで、必要以上に俺を責めたりはしなかった。
「ただなあ、可哀想なのはこころちゃんだろ。そのブラックピエロってのはよくわからないが、こころちゃんは結果、お前の身勝手で甦らせられたんだろ?」
「……はい」
「だったら、お前が責任を取るべきだ」
人差し指で俺を指さし、柳下さんは言い切る。また眉根を吊り上げ、大真面目に俺を責めた。
「責任?」
「そう、責任。こころちゃんの心の病気を治すよう努力して、彼女に寄り添い続けるべきだ。例えお前自身が身を滅ぼそうともな」
「責任……」
その単語に、丸まっていた背中が伸びる。そうだ、確かにその通りかもしれない。こころは俺の我儘で甦らせたのであって、それはこころの意志ではなかったはずだ。
甦って四年弱、こころは幸せだっただろうか。俺はこころと居られて幸せだった。同じようにこころも幸せを感じてくれていただろうか。幸せじゃなかったから、鬱になったのだろうか。考えても答えが出ないことばかりが脳裏に堂々巡りするように繰り返す。柳下さんと別れて居酒屋を出てから、俺はそんなことばかりを考えていた。
「……鬱の治療って薬を飲む以外でどうしたらいいんだっけ」
それはもう何度もスマホやパソコンで検索した内容だった。家に向かって歩きながら、スマホを取り出し再び検索する。
精神科医だという人のホームページに情報があった。深呼吸をする、運動をする、日光を浴びる、野菜や果物を摂る、肉よりは魚を摂った方がいい、話を聞いてあげる、楽しい事や好きな事を考えるといい、ハードルの低い事からする。そんな治療法を学び、こころと一緒に試そうと思う。こころひとりで出来ないなら、俺が一緒にやればいいんだ。