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ココロ  作者: はやしひとみ
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第一章 8

 




    第一章 8




「これで作れるもの、あるか?」

 俺の質問に、こころは顎に指を当てて十秒程度、考える。

「うーん。確か棚に赤ワインあったよね? ちょっと時間かかっちゃうけど、ビーフシチューはどう?」

「お、いいね」

 こころの作るビーフシチューを想像して、頬がニヤける。そんな俺の反応に、こころも満足そうな表情を浮かべた。ああ、こころが元気だと俺も嬉しくなる。久しぶりに見た笑うこころの姿に、俺の心は大いに癒された。

 何だか無償にこころに触れたくなって、俺は華奢なこころを背中から両腕で抱きしめる。そんな俺の行動を受け止めてくれるこころ。首筋で大きく息を吸うと、安心するこころの匂いが鼻腔をくすぐった。

「ふふ、満明さんの甘えん坊」

「……うん」

 愛しのこころ。病気をしていても俺の愛するこころに違いない。元気のないこころ。それでも俺は心が好きだ。だけど本音を言ってしまうと、本当は身も心も元気なこころが愛おしい。そう思ってしまうのは贅沢なことだろうか。こころが辛いと思うなら、その病気を治したいと思う。俺は腕の中のこころを感じながら、改めて心からそう思った。




 それから、こころは調子のいい時と悪い時を交互に繰り返した。調子のいい時は、一日中動き回り、家事をこなして元気そうに振舞う。その表情も晴れやかだ。しかし調子の悪い時は寝室から一切、出てこない。おそらく布団で寝ているかごろごろしているだけなのだが、あまりに長いことそうしているので、俺も放っておいていいものか悩ましい。

 たまに寝室へ食事や飲み物を持っていく。こころは何も食べなくても問題ないことは分かっていたが、一緒に暮らす上で人なりの生活をして欲しいという俺の願望から、これまではしっかり食事を摂っていた。しかし今は、こころは食べ物を全く口にしない。精神的に食べられない、という意味なんだろうと思ったが、それでいいものか、これも悩ましい。

 夜になり、夕食の弁当を食べ終えリビングで缶ビールを飲んでいると、寝室の方から大きな音、おそらく壁を蹴ったような音が聞こえてきた。十中八九、犯人はこころだと思い、寝室へ向かう。今日は朝から一度も、部屋から出ていないようだった。

 部屋へ入ると、こころは布団へ入ったまま、しとしとと泣いていた。暗いままの部屋が気になり、電気を点ける。

「どうした、こころ。何で泣いてるんだ?」

「……ふ……ヒック」

 ベッドの上でごろんと寝返りを打ち、俺に背を向け壁を向くこころ。今は俺はお呼びでないらしい。

「はあ……」

 つい、ため息が漏れる。鬱ってどういう病気なんだろう。調べても俺には当人の辛さが分からない。どういう風に辛いのか、どうして泣くのか、どうしてベッドから出ようとしないのか、どうして喋らないのか、全く理解が出来ずにいた。これまでは家の中を歩き回りこなしていた家事を全くしない、ベッドから動かないというのは、きっとこころにとってそれは辛い事だろうと思い、出来るだけこころに寄り添いたいと感じた。鬱という病気について調べた中に、下手に本人を責めてはいけない、と書いてあった。何もせず寝ているだけに見えても実はそうじゃないのかも知れない。俺には分からないことなので、ふさぎ込むこころを責めないよう心掛けた。

 朝、俺は簡単な朝ごはんを作り、自分の分は食べて、こころの分の皿にはラップをかけて、仕事へ出かける準備をする。小さなメモを残すことを忘れない。「おはよう。食べれそうなら食べて」そう書いておけば分かるだろうと思い、俺はそのまま出社した。

 以前は毎朝、玄関でこころが見送ってくれたものだが、ここ二ヶ月間、それはなくなっていた。寂しい、と正直思うが、それも仕方がないと思うようにしていた。悪いのは病気であって、こころではない。こころがそうしたくないのであれば、無理強いはしたくないというものだ。

 定時過ぎに会社を出て、今夜の夕食用に弁当ひとつとつまみ用の総菜をスーパーで買い、帰途につく。……まるで一人暮らしの男の買い物だと思ったのは、心に留めておく。

 家の玄関に入ると、予想していた通り、部屋の電気は点いていない。朝、リビングのテーブルに用意しておいたこころの為の朝食も、俺がラップをかけて置いておいたままになっている。メモの位置も変わっていないので、おそらくこころは見ていないのだろう。

 朝作った目玉焼きを今食べるには、常温保管はかなり気が引けた。仕方なく、俺は皿の上のものを生ごみへ捨てる。食パンは明日の朝でもいいかもしれないと思い、冷蔵庫へ入れた。

 仕事から帰ってきて、本当は真っ先にこころの様子を見に行きたい。しかし俺はそれを我慢していた。一日中働いて帰ってきた人間が、身体は健康なのに一日中布団の中で何もしていない子に帰ってすぐに話しかけるというのは、その子にとっては負担ではないか、と考えた為だ。こころの気持ちを汲む意味合いで、俺は敢えて彼女に話しかけすぎないよう心掛けた。本当は以前のように、夕食の席で今日あった出来事をこころに面白おかしく話したいが、それも今は我慢だ。

 夕飯の弁当を食べ、シャワーを浴びてビールを飲む。つまみの総菜はもう食べ慣れたものだが、本音を言えばこころの手料理の方がうまい。

 早く元気にならないかな。

 鬱を治すには何が有効的なのだろう、と思い至り、またスマホで調べる。気分転換になるものがあると良い、という答えを得た。

 気分転換。それは部屋から一歩も出られないこころにとっては喉から手が出る程に必要なことかも知れない。

「猫でも飼ってみるか……?」

 元気な頃のこころはよく、俺に猫の画像を見せたものだ。可愛い猫の画像をインターネットで漁るのがこころの趣味でもあった。俺が仕事で外出していてこころが家に一人の時、猫の世話をすることで癒されたり気分転換になれば良いなと思う。

 そうは言っても勝手に猫を買ってくるわけにもいかない。俺もするが、主に世話をするのはこころになるだろうと思う。本人の同意は必要だと思い、俺は寝室のドアをノックした。

「こころ、入るよ」

 俺の家だが、寝室は既にこころの私室のようになっている。俺は調子の悪いこころと一緒に寝ることに気が引けて、ここ数ヶ月はリビングのソファーで寝ることにしていた。

 部屋の中から返事はない。俺はそっと、寝室へ入る。中は暗いままだったので電気を点けた。

「起きてる?」

「……ん」

 小さな声でも応えてくれたことが嬉しい。こころとのコミュニケーションはどんな小さな会話でも今は嬉しかった。

 俺はベッドの横にしゃがみ込む。視線の高さをこころと合わせた。

 こころはベッドに横になったまま、動かない。無表情だが、しかし目は開いているので起きてはいた。

「なあ、提案なんだけど、こころ猫好きだよな」

「……」

「猫、飼いたいと思わないか?」

「……猫?」

 その単語に興味が沸いたのか、こころが少しだけ頭を動かしてこちらを見た。表情は変わらない。

「一緒にペットショップに行って……は、できないか。俺が写真撮ってくるから、その中から飼いたい猫を選べばいい。な、猫飼おうよ」

 思いついた言葉を俺は一生懸命、こころに投げる。猫ならば絶対にこころの癒しになる事を確信していた。

 こころの反応を見る。無表情だった瞳に少しの光が見えた気がした。しかしそれはすぐにまた、曇ってしまう。一瞬だけ嬉しそうに瞬きをしたかと思うと、こころはすぐに表情を元に戻してしまった。

「……ダメだよ」

「どうして」

 俺は半ば早口になりながら、苛立ちを隠さずに問いかける。無意識の言動だった。

「……今の私にお世話ができると思えない。満明さんのお世話もできないのに」

 小さな声で、淡々と言うこころ。その内容に俺は咄嗟に返す言葉が出てこなかった。

 俺のことはこころにとって「お世話」なのか。その論点は今は置いておくとして、一拍置いて、俺はこころの説得を続ける。

「お世話なら俺も一緒にするよ。猫がいたら、こころがこの家に一人の時も寂しくないと思うんだ。気分転換にもなるだろ。今みたいに、一日中布団の中にいるより、猫の世話をしていた方が楽しいよ、きっと」

「……」

「こころ、聞いてる?」

 こころは俺と視線を合わせない。表情を忘れてしまったかのように、俺の後ろを見つめるばかりだ。

「……満明さんが飼いたいの? 私の為に無理に飼おうとしてるの? 私の為なら、いらない」

 図星だった。猫を飼いたいのは俺の為じゃない。俺の為だよ、と嘘をつくことも出来たが、それはしたくない。俺たちの暗黙のルールとして「嘘をつかない」というのがあった。それは付き合い始めた頃から、互いに気を付けていることだった。





 

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