第一章 7
第一章 7
二十時過ぎになって、俺はやっと残業を終えた。急いで帰ろうと思い、乱暴にスマホなどの荷物を通勤鞄へ入れる。
「あー、くそ、残業なんていつぶりだ? 早く帰らないと」
タイムカードを切って出口へ向かう。オフィスには俺の他にはもう誰もいない。出入口の壁の電気のスイッチを切って廊下へ出た。俺は足早にビルの出口へ向かう。
一階に着いたエレベーターを降りた所で、柳下さんが壁にもたれ掛かり立っていた。
「おっ、天津。終わったか」
柳下さんは俺に気付き、柔らかい態度で話しかけてくる。急いでいる俺は少し煩わしく感じながらもそれを隠して対応した。
「柳下さん。まさか、俺が終わるのを待ってたんですか?」
「まあな。書類は出来上がったのか? チェックもしたんだろうな?」
柳下さんはさっき、定時頃に俺に話しかけてきた同じ人物とは思えないほど優しい目つきで問いかけてくる。上司として、部下を心配してくれていたのかもしれないと思った。
「はい。今日はすみませんでした」
俺は自身の仕事のミスを上司に謝る。深く頭を下げると、柳下さんは壁に寄りかかっていた身体を起こし、俺に向き直った。
「過ぎたことは良い。それより、腹減ってるだろ。奢ってやるから付き合え。もちろん、行くだろ」
ああ……、と思う。俺は今、出来るだけ早くこころの待つ家に帰りたい。
「何だよ、また早く帰りたいってか?」
視線を泳がせた俺の心情を察したのか、柳下さんが先に俺の答えを言う。左手首の腕時計を確認すると、時刻は二十時十五分を回っていた。
「……すみません、早く帰らないといけないんです。昼休憩の時なら行けますので、また誘って頂けますか」
早口でそこまで言うと、柳下さんは急に興味を失くしたように俺に背を向ける。そのまま後ろ手に手を振った。
「はいはい、それじゃお疲れさん」
怒っているような声ではないことに安堵を覚え、俺は自動ドアの向こうに歩いて行ってしまった上司を見送った。
俺も早く帰ろう。柳下さんの通った自動ドアを通り、最寄り駅へ向かって半ば走り出しそうな程、気持ちが急ぎながら、歩く。会社から最寄り駅まで急げば五分。電車移動が一時間と十五分程度。駅から家までが急げば七分といった計算だ。
歩きながら、俺はこころのスマートフォンに電話をかける。十回以上コールしてもこころは電話に出ない。俺の部屋で、あの狭い部屋で、こころが独りでどうしているかがとても気がかりだ。
今夜は夕飯を作ってくれているだろうか。それとも調子が悪くてベッドに横になっているかな。残業が確定になった定時頃、こころのスマホに連絡を入れておいたのは見ただろうか。残業で遅くなると知ってくれていれば良いなと思う。
駅のホームで電車を待つ数分の間に、もう一度こころに電話をかける。何度コールしても、こころは電話に出てはくれなかった。
「こころ……」
マンションの家に着いたのは会社を出てから一時間半経過した頃だった。俺は、慌てて小走りになっていた息を家の前で整える。大きく深呼吸をして、部屋のドアの鍵を開けた。
「……ただいまー」
玄関は勿論、奥のリビングの電気も消えている。普段ならリビングの明かりがこころの存在を教えてくれていたが、今夜はそうはいかないようだ。こころはどうしているのだろうか。
リビングへ入り、電気を点ける。そう広くもないリビングとキッチンを見回すも、そこにこころの姿はなかった。とすると、残りはひと部屋しかない、寝室だ。俺の家は1LDKという間取りで独り暮らし用だった。念のためトイレとバスルームも確認するが、やはりそこにもこころは居ない。
リビングに通勤鞄を置き、俺はスーツのまま廊下へ出る。寝室に入り黙って明かりを点けた。ベッドの上で毛布がこんもりと盛り上がっていて、こころの存在を教えてくれた。
「こころ、ただいま」
そっと、控え目な声でこころに話しかける。毛布に包まったこころにそっと手を添えると、毛布の中でこころが動くのが分かる。こころはもぞもぞと動き、顔だけを毛布から出した。
「……満明さん……」
震えるこころの声。その顔を見て俺は目を少しだけ見開いた。こころは泣いていた。かなり前から泣いていたのか、目が赤く腫れている。表情を崩し口を結んで、また涙を零す。たまに鼻をすすり大きく息を吐く姿は、ちょっと泣いた程度ではない。かなり大泣きしていたようだった。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
こんな時、女の子が目の前で泣いている時、俺はどうしたら良いのか分からない。それでも何か原因があるのかと思い、聞いてみる。ベッドの端に腰かけ、身体をこころの方へ向けてこころに寄り添った。出来るだけ優しくしたくて、咎める様な言い方をしないよう心掛けた。
「ヒック、う、ううん、何も……何もない」
止めどなく涙を流しながら、こころは途切れ途切れに小さく声を振り絞るように言う。泣いている時は喋るのが辛いかもしれないと、ここで初めて俺は気が付いた。しかし放っておくわけにもいかず、俺は次の言葉を探す。
「何もないことはないだろう。何かあるから、泣いてるんだろ?」
「……」
こころは黙ってしまった。そして、まるで俺を拒絶するかのように、再び毛布に包まって顔を隠してしまった。今は何も聞かれたくないということなのか、俺は途方に暮れる。こころが辛いときに何もできない自分がもどかしい。
それにしても、こころは一体どうしたんだろうか。ここ最近のこころは、変だ。
「こころ、今日は何か食べたか?」
このまま部屋を出ていくのも気が引けて、俺は気がかりだったことを問いかける。こころを責めているわけではないことを伝えたくて、出来るだけ優しい声音を心掛けた。しかしそんな俺の気づかいも空しく、こころからの返答はない。
「夕飯は俺が何とかするから、落ち着いたら一緒に食べよう、な?」
少し待つも、また返事をしないこころ。それどころか、毛布の中のこころから、より一層大きなすすり泣きの声が聞こえてきた。……まるで俺が泣かしているみたいだ。
心の中でため息を漏らし、立ち上がる。こころが泣く理由が分からない。俺が原因なんだろうか。もしもその理由が俺ならば、悪いところがあるなら直したいと思う。それもこころが教えてくれないと俺も直しようがない。
リビングへ戻ると、俺はスーツのジャケットを脱いでバスルームへ向かう。きっと今夜もこころは風呂に入らない。俺一人なら、浴槽に湯を溜める必要もないだろうと思い、俺は軽くシャワーを浴びることにした。
日曜日の昼十四時頃、リビングのソファーに座り一人で映画を観ていると、こころが二十四時間ぶりくらいに寝室から出てきた。その格好はパジャマ姿だが、表情はとても晴れやかに見える。
「満明さん、おはよう」
花のような笑顔を浮かべてそう言うと、こころは俺の隣へ座る。そして甘えるように、俺の腕に抱き着き頬を摺り寄せた。
「お、おう、おはよう。どうした?」
こころの行動に少しの驚きと、大きな嬉しさを感じながら、俺は動揺を隠して話しかける。もう朝という時間でもないが、今日は調子が良いのだろうか。
こころは医者にかかることができない。住民票は死んだことになっているし、もちろん保険証もないからだ。
同じ家に居るのに話す機会を作れず、どこか久しぶりに接する、俺とこころ。こころのその症状からどうやら鬱ではないかと仮説を立て、俺はこころに無理をさせないよう、構いたくても我慢して構いすぎないよう、心掛けて接していた。鬱という心の病について調べた結果だ。
だけど毎日、誰よりも近くにいたこころと丸一日以上会話をしなかっただけで、何だか距離が離れてしまったように感じられた。
「ふふ、満明さんがお腹を空かせてるんじゃないかと思って」
こころは俺の見慣れた可愛らしい微笑みを浮かべる。ああ、やっぱり俺はこころの笑顔が好きだ。いつも我慢している分、今日は沢山構ってもいいだろうか。
「お、何か作ってくれるの?」
「うん、何がいい?」
ここ最近ではあまり料理をしなくなったこころの提案は俺のテンションを上げた。立ち上がり、二人でキッチンの冷蔵庫へ向かう。こころが開けた冷蔵庫の中を二人して覗き込んだ。
しかしそこにはあまり多くの食材はない。こころが料理をしないので、俺は以前ほど沢山の買い置きをしないようにしていた。入っているのは、ゆうべ買った三割引きの総菜や弁当、缶ビールなどのアルコール類、冷凍庫には元気だった頃のこころが仕込んだと思われる肉類やなんかが入っていた。野菜は……大根、玉ねぎ、ジャガイモなどの日持ちするものしか入っていない。