第一章 6
第一章 6
「……」
こころの料理を一口食べて、俺は箸を止める。つい眉間に皺が寄ってしまった。
「どうかした?」
一緒に食事をする時はよく俺の様子を見ているこころが、きょとんとして声を出す。
ただの野菜炒めなのに明らかに、甘い。おそらく調理の行程で塩と砂糖を間違えたのであろうことが俺にも分かる。実は、俺は甘いものがあまり得意ではない。しかもこの甘さは……。
「ゴホ……ごめん」
慌てて席を立ち、トイレへ向かう。それだけ今日の料理は甘すぎた。
「満明さ~ん、ごめんなさーい……」
「いや、ごめん、俺こそごめん」
家のトイレを出た時、外で待っていたこころに申し訳なさそうに謝られ、俺も謝る。毎日料理を作ってもらう立場として、吐いたのは悪かったと思うからだ。
「でも、こころにしては珍しいな。砂糖と塩を間違えるなんて」
「……気を付けます」
「いや、そんなに気にするほどの事でもないよ」
しょぼくれて俯くこころに、あっけらかんと笑ってみせる。だけどその内心では、こころのことが心配でならなかった。
ここ最近のこころは、らしくないミスが多かった。同棲を始めたばかりの頃はたまにあったが、最近ではしないミスが目立つ。例えば色物のシャツと白いシャツを一緒に洗濯して色移りさせたり、ポケットに入っていたポケットティッシュを一緒に洗濯器に入れてしまったり。他にも、味噌汁に入れたジャガイモが生だったり、ただの野菜炒めが今度は異様に塩辛かったり。最近のこころにしてはあまり考えづらいミスの数々だ。
「なあ、こころ。何か悩みでもあるのか?」
休日のある日、二人きりの部屋でこころに問いかける。それは俺にとって少し勇気のいることだった。
「悩み……そんなのないよ。満明さんには良くしてもらってるし、なんだか申し訳ないくらい。私はこの家を出られないから」
いつもの笑顔はなかった。代わりに、こころは淡々と話す。
こころはこの家から外には出ない。それは死人であるこころが実は生きていた、ということを外部に知られない為の対策だった。こころが甦った頃に二人で話し合って決めた内容だが、それはこころには酷なことだと、俺も思ってはいる。
どう言葉を掛けていいのか分からず黙っていると、こころが先に口を開く。
「大丈夫。この家の中が私の全てだよ」
「……」
いつものように微笑むこころ。俺にはその笑顔がどこか力ないものに感じられた。
やっぱり、家の中でしか動けない、生きられないというのは苦痛なのかもしれない。こころの気が晴れればと思い、あらゆるものを買い与えてきたが、それでは足りなかったのだろうか。
「欲しい物があったら言って。何でも買ってくる」
「……うん、ありがとう」
こころはまた、いつもの笑みを俺にくれる。俺を安心させようとしてくれる。こころが笑ってくれれば俺も安心だ。いや、そうじゃない、本当にそれでいいのか。愛する相手、こころの笑顔が見られるのはそりゃ嬉しいが、そんな単純な事でもない気がする。こころの心を俺は見図れずにいた。
平日の夕方、いつものように家に帰ると、こころは寝室のベッドで布団に包まっていた。この時間にこころがキッチンに居ないなんて珍しい。一瞬、具合でも悪いのかと思ったが、こころは体調を崩すことはない。死人であるこころは怪我をしても血が出ないように、病気になることもなかった。
「こころ?」
控え目にベッドの上のこころを呼ぶと、布団に包まった大きな塊がビクッと跳ねる。もそもそと動き、顔だけを布団から出した。
「……おかえりなさい」
力なくそう言うこころの表情は青白い。まるで体調でも悪いのではと思えるほどだった。
「具合でも悪いのか。熱は計った?」
具合が悪くないことは分かっていたが、あえてそう聞く。それはこころを普通の人間として扱いたい、俺のエゴかもしれない。
「お粥でも作ろうか?」
「いらない。何も食べたくないの」
「そうか。欲しくなったら起きてくればいい」
「……うん」
こころの頭を優しく撫で、俺は部屋を出る。いつも家の仕事をこなしてくれるこころだ、たまには休息があってもいいだろう。
こころの体調はすぐに良くなると思っていたが、しかし俺のその考えは甘かった。毎日、俺が仕事から帰る頃には夕食を用意してくれていたこころが、ここ数週間、たまにしかそれをしなくなった。調子の良い日は笑顔も見せてくれるが、以前ほど笑わなくなった。調子の悪い時は決まってベッドで横になっていた。
どうしちゃったんだよ、こころ。もしかしたらこころは俺と暮らしていて幸せじゃないのかも知れないと思った。
いいや、俺と幸せになるんだろ。ここ数年間、幸せだったじゃないか。こころが俺の家にやってきてくれて、俺はこれ以上嬉しいことはないと思ったんだ。こころと生きる幸せを噛みしめていたんだ。幸せは、俺一人では成り立たない。こころも一緒に幸せじゃなきゃ、意味がないんだ。こころの幸せが俺の幸せなんだ。
これまで毎朝、俺を玄関で見送ってくれたこころの姿は、今日もない。俺はベッドの中で塞ぎ込むこころに柔らかい声で話しかけて出社する。
「じゃあ、行ってくるね、こころ。無理して家事しなくていいからね」
「……いってらっしゃい」
力のない声で言いながら、こころはこちらを見ようとはしない。昨日と同じ会話を交わし、俺は後ろ髪引かれる思いで部屋を出る。布団にこもったまま俺を見ようともしないこころの態度が、どこか寂しかった。
「どうした天津満明、元気がないな」
自分のデスクで昼休憩をしている最中、上司の柳下さんが話しかけてきた。その態度はどこか喜んでいるようにも見える。
「なんですか。柳下さんは嬉しそうですね」
不機嫌さを隠さず、俺はそれでも柳下さんを無視できない。
「いやあ、天津もついに、彼女の手作り弁当じゃなくなったんだなあって思って」
「……」
確かに、ここ最近の昼食はこころの手作り弁当でなく、適当に買ったコンビニ弁当で済ませている。
こころの調子が戻るまでは仕方ないと思い、彼女に負担をかけない為だ。
「で、いつ彼女と別れたんだ?」
「別れてません」
「またまたあ。強がらなくたっていいだろ」
「別れてませんって。休憩中に話しかけてくるのやめてもらえませんか」
「仕事の話でもなし、別にいいだろ」
明らかに俺をからかう為に話しかけてきたことが分かり、気分を害する。昼食くらいゆっくり食べたいものだ。
「はあ」
ため息を漏らさずにはいられない。改めて食べかけのコンビニ弁当を見て、また小さなため息が漏れた。
こころは今頃、どうしているだろうか。まだベッドでうずくまってっているかな。腕時計の針は十二時半を差していた。こころの様子を見に帰りたいところだが、残りの休憩時間では不可能だ。少しの苛立ちを覚えつつ、俺は残りの弁当を食べきった。
「おい天津。お前何してんだ」
「え?」
終業時間間近になって、柳下さんが書類を持って俺のデスクにやってくる。先ほどとは違い、何故か怒っているようだ。
「これ、見直してみろ」
渡されたのは、ついさっき自分で仕上げた報告書だ。これは先程、俺が「完成書類」として上司にチェックをお願いしたものだった。言われた通り、上から順に目を通す。
「うわ……すみません。すぐやり直します」
簡単なミスがあちこちに見えた。一か所、簡単なミスでは済まされない部分もある。柳下さんが気付いたので良かったものの、このまま上に上げていたら大問題になったかもしれない。自分の仕事でこうもミスが多いのは新人の時以来ではないだろうか。
「今日中に再提出な」
「はい」
時計は定時の五分前を差している。今日は早く帰れそうにない。