第一章 5
第一章 5
「……こころ」
囁いた、その時だった。俺以外、誰もいないはずのこの部屋で、ベッドに横になる俺の背後から、男の声がした。
「おにーさん、そんなにその子が恋しいの」
声に驚き俺は咄嗟に上半身を起こし振り向く。そこに居たのは、黒いシャツと黒いズボンを着た長身の若い男だ。
「う、うわあっ」
誰もいないはずの場所に知らない男が居ることに驚きを隠さず、俺はベッドの上で飛び起きた。ベッドの端に手をつき、壁に背中を付けると、もうそれ以上は逃げられない。長身の男はそんな俺の反応を少し楽しむように、話しかけてくる。
「こころちゃんって、可愛いよね」
「……っ」
部屋の中央で立ったまま俺のスマートフォンを覗き込むその仕草に、俺は慌てて画面の明かりを消した。俺のこころだ、誰に見せたいわけではない。
「だ、だ誰だ、お前。ひ、人んちだぞ」
恐怖に近い感情から声が震える。見た感じ、長身の男は幽霊ではなく実態があると見えて、俺は侵入経路を想像した。しかし窓も玄関の扉も、全て意識的に鍵をかけておいたはずだ。とすると俺の留守中に玄関から忍び込んでいて、どこかに潜んでいた可能性だ。しかし部屋に帰ってきた時、玄関の鍵を開けた記憶があるので元々鍵は閉まっていたはず。侵入した後、この男が内側から鍵をかけたとしたら……。しかしそんなことをする意味が俺には謎に思えた。
「あはは、おにーさん考えすぎ! 百面相、笑えるっ」
「っ!?」
なんだ、この男は。「チャラい」という言葉が浮かぶ。だがこの男の反応のお陰か、少しだけ緊張を解すことができた。
「お前、誰だよ」
「俺? 俺はねえ……死神? いやちょっと違うか。何だろうなあ、……ピエロとか?」
「はあ?」
自身の事をピエロという輩にまともな奴はいない。そう思えて、俺はついその場で大きな声を出してしまった。
「いや、ピエロもちょっと違うか、そんな明るい存在でもないしなあ」
何かぶつぶつと独り言を言っている男。怪しいことこの上ないが、どうすることも出来ず俺はただ様子を窺う。
「あ、分かった! 俺、ブラックピエロ。今決まった、うん、ブラックピエロって呼んで」
「……」
呼び方に関しては、今はどうでもいい。俺はこの男の正体が知りたかった。まずどうやってこの部屋に入ったのか、どこに潜んでいたのか、そして何故こころの名前を知っているのか……。
「で、じゃあ本題に入るけど。おにーさんさあ、こころちゃん、生き返らせたいと思ってるよね」
「……」
男の言葉に動揺した。こころを生き返らせたい、確かにそれは思っていた。しかしこころが、死んだ人間が生き返るはずはない。分かっている。分かっていても俺の心は無意識にこころを求めてしまっていた。
「こころは生き返るのか?」
生き返らないことを分かっていて、聞く。そうせずにはいられなかった。
「答えは? イエス? それともノー?」
長身の男は相変わらずの軽い態度で俺に問いかける。
こころを生き返らせたいかという質問。愚問だと思った。分かっている、こころは生き返らない。生き返るはずはない、分かっている。死んだ人間が生き返る事は決してないんだ。分かっている。
「……イエス」
唇が勝手に答えていた。冷房の効いた涼しい部屋で、変な汗が掌に滲む。
しかし答えてから思った。「叶わぬ望みだ」と。こんなにもこころを望む俺にそんな分かり切った質問を投げてくるこの男が一瞬、憎い。こころは戻ってはこない。分かっているんだ。
「オーケー、イエスね」
そう言うと、それまでニヤニヤと笑っていた男がふいに真顔になる。いや、暗闇でそんな気がしただけだ。
男が俺に向かって手を伸ばす。一歩、二歩と俺に近づき、男の手が俺のワイシャツに触れる。黙ってそうする男の手は、俺の心臓の上で止まった。
「ここに印をつけるよ。こころちゃんを生き返らせた証の、印」
胸元を触られ、やはりこの男に実態があるものだと今更ながらに理解する。しかしこの男が何を言っているのか、俺にはさっぱり意味が分からなかった。
「一度契約を交わしたら、一生消えないよ。その代わり、こころちゃんはおにーさんと同じ分だけ生きる。おにーさんが死ねばこころちゃんも死ぬ。それでもいい?」
それでもいいかと問われ、俺は戸惑う。言われた内容は正直、あまり理解できていなかった。ただ一つ、「こころは俺と同じ分だけ生きられる」という内容だけは理解できた。こころと一緒に居られるのなら……。あの頃の幸せが戻ってくるのなら……。
「……イエス」
細かいことは何も考えず、ただ頷いた。分かっている、こころは帰ってこない。死んだ人間を生き返らせることなど、できはしないんだ。分かっている。
「わかった。契約成立ね」
男はふっと表情を緩め、俺から一歩離れた。
「忘れないで、胸の印は契約を交わした証、一生消えないからね」
「ああ」
俺が頷いた時、長身の男の姿は既になかった。代わりにそれまで俺ひとりだったベッドの上に、他の誰かが横になっている。まさか。まさか。そんなはずはない、こころは死んだんだ、生き返るはずがない。こころであるはずがない。しかしこの華奢な輪郭は、もしかすると……。
ベッドから降り、俺は恐る恐る部屋の電気を点ける。俺のベッドに横たわっていたのは、一糸まとわぬ姿の……こころ本人だった。
「ん……」
眠っているのか、こころが寝返りをうつ。生きているんだ。
「そんな……本当に?」
こころが生き返るなど、にわかには信じられない。しかし目の前で眠るのは、紛れもなく、俺のよく知るこころだった。
「ブラックピエロ……か」
こころに掛布団を掛けてやりながら囁く。慌てて確認すると、俺の胸には大きな黒い印……痣が既に刻まれていた。
この日、仕事を終えて家に帰ると、こころがリビングの隅で壁の方を向いてうずくまっていた。
「こころ? どうしたんだ、そんな所で」
買って来た食材や通勤鞄をテーブルに置きながら話しかけても、返答がない。俺はスーツ姿のまま、こころに近寄る。
よく見ると、こころの背中が細かく震えていた。
「こころ?」
心配になりながら、そっとこころの肩を掴む。するとこころはハッとして顔を上げた。
「あ……満明さん。おかえりなさい」
うずくまっていた態勢を崩し、こころは俺を見上げて、ぎこちなく笑う。
「どうしたんだ。何か怖いことでもあったのか?」
「ううん、何でもない。……夕飯の支度、しなきゃね」
こころは気怠そうに立ち上がり、キッチンへ向かう。ついさっきまで丸めていた背中はしっかりと伸び、それはもう俺のよく知るこころの元気な姿に戻っていた。
何でもないなら良いのだが、何でもないはずがあるだろうか。人は何もなく、部屋の隅でうずくまるものだろうか。そんな行動をとるこころは初めてだ。俺の脳裏に少しの不安がこみ上げる。しかし本人がそれを、その理由を隠したいというなら、無理に探るのも気が引けた。この事実は胸に留めることにして、俺はこころを注意深く観察することにした。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
リビングのテーブルを囲い、俺たちは向かい合って座っている。今夜のメニューは大葉を使った野菜炒めだ。大葉はこころの好物だった。いつもと変わらない、夕食の風景。俺の好きなこころの料理は、今日もうまい。……ん? うまいか、これ。