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ココロ  作者: はやしひとみ
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第一章 4

 



    第一章    4




 心臓の真上に位置するそれは、大きさで言えば縦七~八センチ、横五センチ程度だろうか。心臓の真上、胸の中央やや左側に位置している。黒い模様の痣だが、これは見ようによっては入れ墨に見えなくもないと思い、他者に見せたことはない。生まれつきではない。親もこの痣の事を知らない。唯一、こころだけがこの痣の存在を知っていた。

「満明さん、着替えのパジャマ、ここに置いておくわね」

 ふと、バスルームの扉越しにこころの明るい声がする。急に聞こえた声に、俺の鼓動が跳ねた。扉の向こうにこころが居る。

「あ、ああ、ありがとう」

 平静を装いそう言うと、こころは脱衣所から出ていく。遠ざかるこころの気配に、少しの安堵を覚えた。

 よかった、こころの声が明るかった。もう手の傷の事は気にしていないのかもしれない。そのことにも少し安心し、俺はやっと身体を洗い始めた。




 大き目の紙袋を手に、俺はマンションの家に帰って来る。後ろ手にドアの鍵を閉め、廊下を通りリビングへ向かった。

 会社が休みの土曜日の昼間。俺はこころに新しい服を買ってやりたくて、出かけていた。こころが好きそうな細かい花柄のワンピースと、少し大人っぽいデザインのスカート、それとかなり緊張したが女性物の下着を買って来た。

「ただいまー」

 リビングのドアを開けてそう言うと、ソファーに座りテレビを観ていたこころがパッと振り向く。俺を見て微笑むこころが愛おしい。何をして欲しいわけじゃない、こころが俺と一緒に居てくれることこそが、俺は嬉しかった。

「あれ、満明さん、早かったのね」

「うん。ちょっと買い物してきただけだから」

「買い物?」

 話しながら、俺は紙袋を持ってこころに近寄る。そんな俺の持つ紙袋に気付いたこころが、立ち上がり目を瞬かせた。女性向けのブランドの紙袋だと気づいたんだろう。

「これ、こころにあげる。新しい服」

 袋をそのままこころに渡す。こころは驚きの表情を浮かべ、俺の顔と袋を交互に見た。

「えっ、いいの? この袋、私の好きなブランド……安くないのに」

 袋を受け取り、戸惑いながらも口角を上げて嬉しそうにするこころに、俺も満足する。ああ、買ってきて良かった。これでこころが着たい服のレパートリーがひとつ増えるというものだ。家から出ないこころが退屈しないよう、俺はそれなりに気を使っていた。

 そう、こころは俺の家から絶対に出ない。食材の買い出しもしない、オシャレの為のショッピングもしない、友達とランチもしないし、ゴミ捨てさえ俺の役目。こころは俺の家の扉を決して出ないように生活している。理由は、俺たちが同棲を始める直前、ちょうどその頃に起こった事が始まりだった。それを語るには、今から六年近く前、俺たちが付き合い初めたばかりの頃まで遡る必要がある。




 当時大学四年生の俺は、就職先も既に決まって、あとは卒論を提出すれば卒業できる、という気楽な時期だった。一歳年下のこころを紹介されたのは、そんな時だ。俺はひと目でこころを可愛いと思った。俺が道端の雑草なら、こころは大切に育てられたガーベラのように可憐だった。こころは華奢でころころ笑い、よく喋る。その明るい性格は俺の好みのドストレートを突いた。大学の食堂でたまたま一緒になった時、「一緒に食べましょう」と声を掛けてくれたのもこころだ。緊張してうまく話せない俺を見下すわけでもなく、会話でうまくリードしてくれるこころは正に、俺の理想そのものだった。こころに恋に落ちるまで時間はいらなかった。

 友達の勧めでダメ元でこころを食事に誘うと、断られると思っていたのに誘いを受けてくれて。その初デートの日の帰り道、薄暗い夕暮れ時、そんなつもりはなかったのに流れで告白していた。告白なんて人生で初めてした俺の緊張は相当伝わっていただろう。俺の告白らしからぬ告白を聞いていたはずのこころは、きょとんとした瞳を俺に向け、言った。

「いいよ。天津先輩がいいなら、私も付き合いたい」

 言って、こころは俺にはにかむような笑顔を向けてくれた。その時のこころの周りに白い花が咲いて見えたことは、俺だけの秘密だ。

それから、こころとは色んな場所へ遊びにいった。卒業し就職したら忙しくなって遊べない、そんな概念があった俺は、休みが合う度にこころと出かけたがった。ショッピングモール、水族館、動物園、遊園地、海、山へバーベキュー、アスレチックへも行った。こころと行く場所はどこも輝いていて、楽しかった。

 その後、俺が就職しても、こころとの関係は変わらず、俺たちは恋人だった。この幸せがずっと続くものだと、俺は無意識にそう、思ってしまっていた。

 こころが大学を卒業する、少し前。突然、こころが体調の不調を訴えた。しかし大したことはないと、いつも通りの笑顔を俺に向けるその姿は、俺を安堵させた。だがその翌日、こころは大学病院へと搬送された。

 死因は心筋梗塞だそうだ。俺が病院へ駆けつけた時、こころは集中治療室で手当てを受けていた。何もできない俺に、こころは眠ったまま、何も言うことなく、息を引き取った。

 二十二歳という若さで死んでしまったこころ。何を恨んでいいのかさえわからない。こころを奪ったのは誰だ。こころの何がいけなかったんだ。俺に何ができた。俺は何をするべきだった。こころを遊びに連れ出したことがいけなかったのか。こころを返せ。こころが恋しい。こころが愛しい。こころを返せ。こころを返せ。返せ。返せ……。

 何ヶ月も考えていた。こころの死を受け入れられない自分。愛する人を取り戻したい渇望。こころの居場所を探した。誰もいない自分の部屋で、ふさぎ込むように俺は毎日、こころを探さずにはいられなかった。

 会社へはきちんと出勤した。仕事のミスが目立ち、上司に毎日のように怒られた。それでも、部屋で独りでこころを想って泣いているよりはマシかと思い、出勤はした。怠い身体を引きずり出社する。身体が動くうちは、働いていた方がいいと思った。

 しかしこころは俺の胸に居座っている。何をしていてもこころを忘れることはない。仕事がない日はこころとの思い出を求めて出かけてみたりもした。二人で行った場所はどこもカップルや家族で賑わっていた。俺以外の人間は皆、笑顔。それが俺を孤独にする。こころとの思い出は、俺を独りにするばかりだ。

 それは一年経っても変わらない。死んだこころが、ずっと俺の心に巣くっていた。

 大学時代の友人がたまに俺に連絡をくれる。こころとの思い出は大学にもたくさんあった。俺はつい、その思い出を求めて自ら彼らに話しかけた。「あの頃は楽しかった」「懐かしい」そんな会話の隅に、腫物に触ってはいけないというように置かれたこころの存在。率先してこころに触れようとする俺を、友人達は避ける。「その会話はしたくない」「しない方がお前の為だろ」、そんな感情が手に取るように伝わってきたものだ。

 こころのご両親とは葬式で一度会ったことがあった。しかしそれ以降、連絡を取れずにいた。こころの親なら俺の気持ちを分かってくれる気はしていたが、ご両親に「娘さんの恋人です」と自分から会いに行く勇気は俺にはなかった。

 こころの居場所はどこだ。何でこころはここに居ないんだ。あんなに近くで笑っていたこころが恋しい。こころはどこにいるんだ。そんな堂々巡りの考えが毎日、俺の脳裏を支配していく。

 ある時、気が付いた。

「そうか、こころは俺の心臓にいるのか」




 社会人生活が始まって二年目の夏のことだった。その日も俺は定時で会社を出ると真っ直ぐ家に帰り、電気もつけずに寝室のベッドの上でスマートフォンをいじっていた。画面にはこころの写真が写っている。水族館で鰯の群れの水槽の前で微笑むこころ。動物園で象を背景に笑うこころ。アスレチックで必死に縄の梯子を登るこころ。どれも俺自身が撮ったこころの写真だ。何枚もある写真はそれ以上増えることはないが、俺の寂しい心を和らげてくれる。





 

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