第一章 3
第一章 3
「うん……」
まるで子どもにでもなった心境で、俺はこころをぎゅっと抱きしめた。こころの匂いを、こころの存在を、この身体に焼き付けるように、ぎゅっと。
「はいはい、じゃあ夕飯にしよ?」
「うん……」
エプロン姿のこころは可愛い。エプロンを外しても可愛い。「はいはい」って俺をあしらうこころも可愛い。こころの行動はすべて、俺を喜ばせる。好きだ。こころが好きだ。俺は改めてこころを愛していることを実感した。
「満明さーん? 離してー」
「うん……」
もっとずっとこころを抱きしめていたくて、こころの一番近くに居たくて、離すつもりもなく頷く。どうしよう、このまま時間が止まればいいのにと途方もないことを思う。この幸せが永遠と続きますように。
「いただきます」
俺がスーツから部屋着に着替えるのを待って落ち着いてから、俺たちは夕飯を食べる。こころの生姜焼きが待ち遠しくて堪らなかった。味噌汁をすする。豚肉の生姜焼きを一口、白米を一口。うん、うまい。
「その顔、安心した」
一緒にテーブルを囲んだ向かいの席で箸を持ちながら、ふとこころが歯を見せて笑う。
近頃のこころは、同棲を始める前の若い頃のように何でも活発にこなす、といった性格ではなくなって、落ち着いた表情で感情表現することが多くなっていた。
「うん?」
「満明さん、美味しい時、いっつも唇尖らせるの。気づいてなかった?」
「え……」
こころの落ち着いた声音が俺の癖を指摘する。それは気づいていなかった。そうか、俺は旨いものを食うと唇を尖らせていたのか……。俺は複雑な心境になり、箸を置いた。
「はいはい、片付かないから早く食べちゃって」
こころは微笑みを絶やさず、声だけそっけなく言う。
「あ、はい」
言われ、俺は別の意味で唇を尖らせて、しかし素直に頷いた。
俺とは真逆なこころの反応が面白い。俺の反応がどうであれ、こころの旨い飯を堪能するべく、俺はまた箸を取った。
夕飯の後はこころが食器の後片付けをする。その間俺はテレビを観たり本を読んだりと様々に過ごす。その後は場合によっては一緒に風呂に浸かることもあった。そんな新婚のような生活を、俺たちはもう三年以上も続けている。
「……ん~……」
一緒に寝室の布団に入ってから数十分した頃、こころが隣で寝返りを打った。一人暮らしの頃から変わらない、俺の狭いシングルベッドで、俺たちは一緒に寝ている。こころに不便をさせているのではと、前にダブルベッドを買おうと提案したが、こころは「この距離感がいい」と言って広いベッドを拒否した。それからはずっと、この狭いベッドが俺たちの寝床になっている。
「どうした、眠れない?」
少し顔だけを上げてこころの顔を覗き込むと、彼女はもぞもぞと動き顔をこちらに向ける。
「……お昼寝しちゃったから……満明さんも、まだ寝ないの?」
そう言いながら暗がりで見るこころの瞳は眠そうだ。パジャマ姿の眠そうなお姫様が可愛い。……いや、色っぽいといった方が俺の感情に合っているかもしれない。下半身の熱を勝手に感じながら、愛しいこころの温もりを求めた。
「満明さん?」
「ん、ちょっとだけ。しよ」
「……」
吐息交じりに囁くと、こころは俺の胸元に身体をうずめて、そっと頷いた。
パリーン、と何かが落ちてガラスが割れる音がする。リビングのソファーで本を読んでいた俺は、慌ててこころの居るキッチンを振り向いた。
「……ごめんなさい、何でもないから」
こころは眉間に皺を寄せて割れたコップを見つめ、小さくため息を漏らす。それは俺が以前買ってこころにプレゼントした花束を生けた大き目のグラスだった。花はもう枯れかけていて、まだ飾るのかと思っていた矢先のことだった。
こころはガラスを片付けようとしゃがみ込む。
ただコップを落としただけだ、心配ない。こころだって大人だ、割れたコップなど自分で片付けられる。そう思うのに、俺はどうしても心配でこころの様子を窺う。俺はこころの行動を見つめていた。
「……」
「ケガ、しないよう気を付けろよ」
「うん」
ささっと、割れたガラスのコップを片付けるこころ。その様子を横目で気にしながらも、俺は読んでいた本に視線を戻す。大丈夫そうだ。
「っ……」
ふいにこころが極小さな声を漏らす。キッチンから聞こえた小さな声を俺は聞き逃さなかった。本へ戻しかけていた視線を咄嗟に振り向くと、こころは右手をもう片方の手で押さえていた。
「おい、大丈夫か?」
本を置いて立ち上がり、こころの元へ行く。こころはその場でしゃがんで、表情なく右手を見つめていた。
「ガラスで切ったのか?」
「……ううん」
俺の問いかけに、こころは明らかな嘘をつく。そうして俺から見えないように右手を左手で覆った。
「見せて」
「切ってないから」
「じゃあ見せてみろって」
半ばイラつきを隠さず、俺はこころの右手を少し乱暴に取る。困ったような表情を浮かべたこころは、目を瞬かせて俺を見上げる。その一連の動作が俺には変に長く見えた。
こころの右手の人差し指の側面が、パックリと切れている。それを見た瞬間、俺は落胆した。
「あーあー、やっぱり切ってるじゃないか」
「……」
こころはすぐに手を引く。俺に見られたくなかったのだろう、こころは再び左手で傷を隠した。
傷ついたこころの指から、血は出ない。ガラスで少し切った程度の傷だろうが、例えどんなに深い傷だろうが、こころの肌から血が出ることはないことを、俺たちはよく知っていた。俺とこころの秘密の一つだ。
「手当てをしよう」
「いらない。知ってるでしょ、痛くもないから」
こころは冷めた声でそう言うと、立ち上がる。キッチンにあるビニール手袋を手にしてその場に戻ってくると、再びしゃがみ込み、今度こそささっとガラスを片付け落ちた花を一本ずつ拾う。枯れて床に落ちたバラの花びらが、こころから出ない血のように見えてならなかった。
その一部始終を見ていた立ったままの俺を邪魔だと言いたげに、こころが言葉を紡ぐ。
「どいて。まだ夕飯の片付けが残ってるの」
「あ、ああ」
血が出ないこころをどう励ましたらいいのかも分からず、俺は力なくリビングに戻る。ソファーに腰かけ、読みかけの本に手を伸ばした。
俺が手当てを提案したのは、こころを一人の人として、普通の人間として扱いたかったからだ。それは俺のエゴなのかもしれないと思いながらも、それを止める事はできない。止めてしまえば、こころを普通の人間として扱わなければ、俺たちの関係が崩れてしまうような気がして、できなかった。
このまま本の続きを読む気にもなれず、俺はそれをテーブルへ戻す。
「俺、風呂入ってくるわ」
そう言って立ち上がると、流しで食器洗いをしていたこころが振り向く。その表情は特別、感情を表してはいない。
「もう? お湯溜めてないよ」
しかしこころの声はいつも通りだった。
「シャワーだけでいい」
少しの会話が緊張する。そんな事を感じながら、俺は歩いてバスルームへ向かう。何て事はない、ただの日常会話だ。そう自身に言い聞かせ、俺は最後にこころの真顔の横顔をチラッと見て、部屋を出た。
シャワーのお湯を頭からかぶる。かなりぬるめに設定した温度が俺の身体に心地いい。水まではいかない程度のお湯。少し涼しい温度が、俺の熱くなった頭を冷やしてくれた。
「はあ」
ため息を漏らし、何ともなしに前を見る。浴室の鏡に映る自分の見慣れた姿に目がいった。短く切った黒い髪、一般的な顔、痩せすぎず太ってもいない体形。見て面白いものでもない俺の身体だが、一点だけ、どうしても目を向けてしまう部分がある。胸の痣だ。