第一章 2
第一章 2
家の最寄り駅から徒歩三分という立地の、もう通いなれたこのスーパーは、会社帰りに行くと丁度、晩御飯の安売りをする時間帯だ。三割引きのシールが貼られた総菜、菓子パン、弁当などの陳列を通り過ぎる。俺の目的は「食料」ではなく「食材」だ。食材を買って帰れば、こころが手料理をしてくれる。俺の好きな「こころの手料理」は最高のご馳走だ。
肉や野菜、晩酌用のアルコールを買い、ビニール袋を片手にスーパーを出ようとした所で、ふと花束が目に付いた。白や黄色の菊の花束は見慣れたもので、こころの為に買うには少々気が引ける。
「そうだ、駅の向こう側に確かあったよな」
少し遠回りになるが、俺は駅向こうの花屋を目指し、歩き出す。こころへの今日のプレゼントを思いつき、自然と笑みが漏れた。
こころは花が好きだ、という情報はない。だけど花が嫌いな女性も少ないと思う。こんな俺でも花は心を癒してくれるものだと知っていた。
「……」
いざ沢山の花を前にすると、俺は悩み始める。こころは何の花が好きだっただろうか。色は。花の大きさは。一本、それとも花束がいいか。
「いや、ここは花束だろ」
一本はさすがに寂しい気がする。
「プレゼント用ですか?」
ふいに店員の若い女性が話しかけてきた。自分で考えてもわかりそうにないので、店員に相談する。
「女の子ってどんなのが好きなんですかね……」
軽い恥じらいを覚えつつ、勇気を出して聞いてみた。すると店員はにこやかな態度で対応してくれた。
「ご年齢はいくつくらいの方ですか?」
「……二十代半ばくらいかな……」
「若い女性の方でしたら、少し派手な色合いでもいいかもしれません。赤、ピンク、黄色、オレンジ、ブルーとか。ご予算に合わせてお作りすることもできますよ」
「あー、じゃあ三千円くらいで可愛らしい感じの花束をお願いできますか」
「かしこまりました」
優しそうな店員の態度に安堵し、ブーケを作ってもらっている間、しばらく店内の花々に視線を向ける。恋人の為に花を買うって緊張するんだな、と思った。
「もしかして彼女さんへのプレゼントですか?」
「え?」
店員の意外な言葉に内心で慌てる。
「ふふ……お客さん、なんだかそわそわされてるし、少しお顔が赤かったから、もしかしてって」
「あ、いえ、……まあ」
恥ずかしい。こころを思って花を選ぶ俺はそんな風に見えていたのか。でも、悪い気はしない。こころを想ってのことだからかもしれない。
「彼女さんへのプレゼントなら、赤いバラをお入れしましょうか?」
「バラ? どうして?」
「バラは入れる本数によって、伝えたい想いを表現できるんですよ。一本なら『一目ぼれ、あなたしかいない』、二本なら『この世界は二人だけ』、三本なら『愛しています』とか。本数を増やす毎に意味が変わるんです」
「へえ」
「面白いですよね」
こころにバラを贈るなんてこれまで考えたこともなかった。少しだけ花束に意味を持たせても面白いかもしれない。……そんなことをしたら、重いと思われるだろうか。いや、同棲している相手に重いも何もないかもしれない。よし、決めよう。
「じゃあ、赤いバラを二本、お願いします」
「二本ですね。じゃあ……バラがシックな感じになりすぎないようにガーベラやカスミソウも入れて……これとこれと……うん、こんな感じでいかがですか?」
店員が作ってくれた花束を見せてくる。……あ、いいかも。色とりどりで、深紅のバラの周りを大小様々な花が囲っていて、ふんわりしたこころの印象にも合っている。
「じゃあ、それで」
「かしこまりました、包装紙は何色にしましょう……」
細かいことは店員に任せる。三千円くらいの花束って結構大きいんだな、と思う。予想していた三倍くらい豪華な花束になった。
さて、帰ろう。スーパーのビニール袋と大きな花束を抱え、俺は帰路につく。外は既に暗くなっていた。きっとこころが俺の帰りを待っている。俺は半ば鼻歌でも歌い出しそうな明るい気分で、家路を急いだ。
――カチャン、と小さな音を立ててドアの鍵を開け、マンションの一室に入る。後ろ手にドアを閉め、再び鍵をかけた。玄関の明かりは暗い。しかし短い廊下の先にある扉の曇りガラスの向こうは明るく電気が点いている。こころが居るという証だ。
「ただいまー」
「あっ、おかえりなさい!」
廊下の向こうにある部屋、リビングからこころの声が聞こえる。夕飯を作っているのか、同時に美味しそうな匂いも漂っていた。仕事用の革靴を脱いで家に上がり、多い荷物を置くべくそのままの足でリビングへ向かう。
ドアを開けてリビングへ入ると、間繋がりになっているキッチンからジュージューと、フライパンで何かを焼いている音が耳に届いた。
テーブルに買ってきた食材と通勤鞄を置き、スーツのジャケットを脱いで椅子のヘリに掛ける。花束は手放さずに、こころに近づく。こころは俺に背を向けたまま料理をしていた。
「なーに作ってるの?」
こころの背中から、彼女を片手で抱きしめるようにして問いかける。ピクっと動くこころの肩がまた可愛らしい。
覗き込んだフライパンの中身は肉だった。生姜醤油の軽く焦げた匂いがたまらない。
「やった、俺の好きな生姜焼きだ」
「当たり。満明さんの好みの味になってるといいんだけど」
「こころが作る生姜焼きが俺の好みの味なんだって」
「はいはい」
言って、こころはフライパンの中の豚肉を持っていた箸で転がし炒める。
他人が聞けば恥ずかしいような会話も、二人だけならなんてことはない。今日もこころが待つこの家に帰ってこられた事に、幸せをかみしめた。
「手伝うよ」
「いいよ、休んでて……って、え、どうしたの、その花」
俺を振り向いたこころがやっと花束に気が付いた。俺は満面の笑みを浮かべて、こころに大きな花束を差し出した。
「こころへのプレゼント」
「えっ、私に? あ、ありがとう」
目を大きく見開いて、驚くこころ。頬を少し紅潮させて、口元が歯を見せて笑う。……ああ、この顔が見たかった。
「すごいね、綺麗。……あ、バラも入ってる。すごい豪華な花束だね」
こころは花束の中の花を一輪一輪、確認するようにして見る。花を手にするこころを見て、花を贈って良かったと思った。
「そのバラ、意味があるらしいよ」
俺はつい先ほど知った知識をひけらかす。
「へえ、どんな意味なの?」
「二本のバラは、『この世界は二人だけ』って意味だってさ」
「この世界は二人だけ……」
囁きながら、こころの表情が何かを考えるように少し下を向く。笑顔を消したその表情に、俺は心なしか不安を感じ、こころの顔を覗き込んだ。
「こころ?」
「それってまるで、私たちみたいね」
一瞬前とは違う、こころの落ち着いた声音。こころは花束の中のバラを見つめていた。
「だ、ろ」
深い意味はなくバラを買ったことを、俺は少しだけ後悔した。いくら愛し合っていても、「この世界に二人だけ」はやっぱり重かったかもしれない。こころの落ちてしまった心をどうにか上向きにできないかと、俺は無い知恵を絞って考える。こころの笑顔を取り戻したかった。
「そ、そうだ。このバラはさ、俺とこころなんだよ。こっちのよく咲いてる方がこころで、ちょっとつぼみなのが俺。この二人の周りをさ、この大きいのとか小さい白いのが、嬉しそうに咲いてるんだ」
「……なにそれ」
「う……だめ?」
笑顔になるどころか、こころは疑わしそうに俺を見る。さすがに苦し紛れだったか……。
その時、隣のコンロに置かれていた鍋が噴きこぼれた。
「あっ」
こころが慌てて手を伸ばしコンロの火を消す。ついでにフライパンの方の火も消した。
「……」
しまった。このちょっと失敗した感じの俺の心境はどうしよう。下手な事を言ってしまった事で気分が下がっていく。
「だめじゃないよ。ふふ、ありがとう」
まるで耳を垂れるようにしょぼくれていた俺を元気づけてくれるように、こころがまた笑みを零す。途端に俺の気分が上がる。こころの表情が、言葉が、俺を一喜一憂させてくれるのが嬉しくて、俺は「こころ~」と言いながらまた、今度は両手で彼女に抱き着いた。花束を持つこころが慌てて花束を落とさないよう、持ち替える。そんな仕草もこころは可愛い。
「もう。満明さんは甘えん坊だな」