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ココロ  作者: はやしひとみ
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第一章 11

 




    第一章    11




「……」

 そういえば、酔った勢いでこころの事を話してしまった事を思い出す。俺はかなり後悔しながら、視線を逸らした。

「いえ、別件です」

「まあ何でもいいが、もう早まったマネはするなよ」

「……はい」

 俺はバツが悪い気分で項垂れた。




 この日も定時に上がり、最寄りのスーパーで買い物をして、家に帰って来る。こころはどうしているだろうかと考えながら、鍵を開けて部屋のドアをくぐる。電気は点いていない。

 俺は買ったものが入った袋を持ったまま、通勤鞄をリビングへ置いて寝室へ向かう。ノックをして入ると、寝室は暗いままだ。

「こころ、帰ったよ」

 そっと声を掛けながら電気を点ける。こころはベッドで横になり、腹まで布団を掛けて壁の方を向いていた。顔が見えない。寝ているか起きているかさえ分からない。

「こころ、カットフルーツ買ってきたよ、一緒に食べよう」

「……いらない」

 答えが返ってきた。起きているようだ。

「ケーキもあるよ、苺のショートケーキ。こころ好きだっただろ?」

 ケーキは俺が苦手なこともあり、滅多に買わない。俺の中で無意識に省いていた選択肢を増やし、これはこころの為を思って用意した。

「……」

「夕飯にホッケを焼くから、たまには一緒に飲もう。この間、飲んで美味しかった日本酒を買ってきたんだ」

「……」

 買い物袋から次々と買ったものを出して見せるも、こころはそれに気づかない。もしくは袋を漁る音で気づいているだろうか。しかしこころは壁の方を向いたまま、全く興味を示そうとしなかった。

「こころ、何なら食べる? 食べたくないなんて言わずにさ、食べたら美味しいよ」

「……」

 やはり興味を示してはくれないのか。俺は気分を変えて、別の話をする。

「そうだ、さっき俺、上司に怒られてさ、会社の屋上で」

「……」

「考え事してたらいつの間にかフェンスの外側に立ってて、それを上司に見られて、自殺でもするんじゃないかって思ったんだな、その上司が凄い形相で俺を掴むんだよ。はは、ちょっと笑えた……」

 って、何を話しているんだ、俺は。自殺しかけた話なんて面白くも何ともないだろ。

 しかしそんな話にも、こころは全く興味を示さない。一体どんな事なら興味を持つんだ、どんな事なら笑ってくれるんだ、こころ。

「……はあ」

 俺は肩を落として、ベッドの横に尻をつけて座り込んだ。正直なところ、もうお手上げだ。

「こころ、死にたいって言ってたよな」

「……」

「俺が死ねば、こころも死ねる。……一緒に死ぬか」

「……えっ?」

 その言葉にこころがゆっくりと身体を倒して振り向く。その表情は少し驚いていた。

「俺を殺してくれるか、こころ?」

 半ば本気で俺は言う。眉根を下ろして笑っていない俺の表情に、こころは瞳を見開いて、言葉に困っているようだった。

「いや、それは酷だよな。だったら俺が自分で死ねば……」

「そんなのダメ!」

 久しぶりに聞く、こころの大きな声だった。こころは起き上がりこちらに態勢を向け、俺の前で、ベッドの上で両手を突く。

「死なないで、私みたいに死なないで、満明さんには生きていて欲しいの」

 こころの瞳から小さな涙が落ちる。何粒も落ちる。その雫がシーツを濡らすのを見て、ああ俺のせいで泣かせてしまった、と思いながら俺は言葉を探す。

「でも、このままじゃこころが辛いだけだろ」

「辛くない、満明さんが死ぬことより辛くない」

 座り込む俺からベッドの上のこころの表情が見える。こころは無表情でなく、眉間に皺を寄せ顔をぐしゃっと歪めて俯いていた。

「……そっか」

 どうしようもないことを言ってしまった、と俺の胸に後悔が浮かぶ。俺は未だ泣くこころの頭を撫でることしかできなかった。

 答えは出ないままだ。塞ぎ込むこころの為になることを考えて提案実行しても、不発に終わることが俺を責めた。




 翌朝、いつものようにリビングのソファーで毛布を掛けて寝ていた俺を起こしたのは、こころだ。こころはキッチンに立ち、料理をしていた。珍しくパジャマから私服に着替え、エプロン姿で立つ後ろ姿は実に懐かしい。

「……こころ、どうしたの」

 もう何ヶ月もこころがキッチンに立つ姿を見ていなかった。俺はその意外な行動に、つい率直な疑問を投げてしまった。

 俺の声に気付いたこころが、振り向く。

「あ、おはよう満明さん。朝ご飯、食べるでしょ?」

 満面の笑顔とはいかないが、こころが微笑みを浮かべる。どこか不器用な笑みのようにも見えたが、それは昨日までのこころを思えば仕方のない部分かもしれない。

「食べる」

 そりゃ食べるよ、こころが作ってくれる食事はいつぶりだろう。嬉しくて、嬉しくて、俺は顔を洗うことさえ忘れてパジャマのままテーブルの俺の席へ座る。テーブルにはまだ何も用意されていなかった。そんな俺の行動を不思議に思ったのか、こころがまた振り向いた。

「あれ、もう食べる? まだお米も炊けてないし、お魚も焼けてないの、もうちょっと待ってー」

「うん、待ってる」

 こころの半ば困ったような表情を見つめて、俺は短く答える。こころの一挙一動を見逃さないよう、この嬉しい光景を胸に仕舞うようにこころを見つめた。

 まるで具合が悪くなる前のこころに戻ったかのようなこころの後ろ姿。しかし、今朝は一体どうしたというのだろうか。

「今日は調子いいの?」

 嬉しさが先行し、俺は何とも無しに問いかける。こころは振り向くことなく、少しだけ間を置いて「うん」と小さな声で答えた。気のせいだろうか、少し前の声よりも心なしか元気がない気がした。

 こころの炊いた白米と、こころの作ったネギと豆腐の味噌汁、こころの焼いた紅鮭、こころの作った卵焼きを全て食べ終え、俺は上機嫌で仕事先に出かける準備をする。こころは本当に調子が良いようで、出かける俺を玄関まで見送りに来てくれた。

「じゃあ、いってきます」

 玄関の一段下がった場所からこころを振り向く。こころの着ている私服は数年前に俺が買ってきたもので、本人のお気に入りでもある。上は薄いピンクのレースの服に、下は色の濃い紺のパンツ。とてもこころに似合っている。

 俺は意識的にこころに笑ってみせる。微笑みながら、こころを手招きした。こころに触れたくて、こころとキスをしたくて、俺は唇を寄せて視線と行動でその意思を伝える。するとこころは一歩二歩と俺に近寄り、唇へ、こころから触れるだけのキスをしてくれた。それはこころが病気になってから初めてのキスだった。

 こころは鬱だ。鬱のこころも愛しているが、こころが辛いのは嫌だと思う。できればこころにはいつものほほんと笑っていて欲しい。そんな日常が、俺は好きだ。

「いってらっしゃい、満明さん」

 なんともない、いつものセリフ。そんな些細な言葉が今は極上に嬉しい。

 こころはあの頃のように微笑みを見せてくれながら、俺を見送る。数ヶ月ぶりの「キス」と「いってらっしゃい」は俺の胸にやる気を沸かせてくれる。頑張って仕事をして、こころの為に金を稼ごうと思えるじゃないか。愛しのこころに見送られ、俺は上機嫌で出社した。

 それから数日間、こころはよく料理をした。毎食ではないし、俺の弁当を作るまでは出来ないにしても、それは喜ばしいことだ。俺が仕事をしている間、気が向けば洗濯をしてくれるし、簡単な掃除もしているようだった。

 こころが少しでも元気なのは、俺も嬉しい。料理や家事をしてくれるからじゃない、こころが元気でいてくれることこそが、俺にも元気をくれる。辛そうなこころを見ていて俺も辛くなるように、こころが元気なら俺にも元気を貰えるというものだ。

「ただいまー、帰ったよー」

 ここ最近では、仕事から帰ればリビングの電気が点いているのが普通になってきていた。しかし、今日は違った。今夜は調子が悪いのか、と思い俺はリビングの明かりを点ける。買ってきたスーパーの袋をテーブルへ置き、真っ先に寝室へ向かった。

「こころ、ただいまー」

 部屋の電気を点けると、ベッドの上にこころが居ない。ベッドの掛布団はキレイに掛けられ、こころが意図的に整えたのが分かる。

「どこ行ったんだろ」

 部屋を出て洗面所やトイレを見るも、明かりが点いていない所にこころも居ない。広くない家のどこを探しても、それこそクローゼットの中まで確認したが、そこにこころの姿はなかった。

「こころ……まさか、外に出てる?」

 リビングに戻り、俺は立ったまま考え込む。しかしあれほど、ベランダでさえ外に出る事を躊躇うこころが一人で外出するとは考えにくかった。

「外には出てないよ」

「!?」

 突然、男の声がした。咄嗟にその声を振り向くと、見覚えのある男……ブラックピエロがリビングのソファーにドカッと座ってこちらを見上げていた。

「うわっ、びっくりした!」

 相変わらずその格好は真っ黒で、黒いシャツに黒いズボンという、目立つ姿をしている。俺の大きな声にも彼は驚かず、こちらに鋭い視線を向けていた。

「急に現れないでくれ、驚くだろう」

 二度目ともなればこいつの存在も既に納得している。しかし何故、今ここにブラックピエロが現れたのか。嫌な予感がした。

「……こころのこと、何か知ってるのか?」

「知ってるよ」

 彼は真顔で俺を睨み上げる。その表情はまるで俺を責めるようにも取れた。

「俺はこころちゃんの気持ちを尊重した。彼女を消した」

 ドクン、と鼓動が大きく鳴る。

「消した……? こころを?」

 理解するまで十数秒の時間を要した。

 こころを消した、それはつまり、こころはもうこの世に居ないという事か。俺の背から何か冷たいものが這い上がってくる。

「なんで……、な、なんて事するんだ!」

 俺は手足を動かし、ソファーにふんぞり返るように座るブラックピエロの襟元を掴み上げる。彼は俺のすることを咎めることなく、ただ黙って脱力するようにしていた。その反応が更に俺の怒りを買う。

「返せ、こころを返せ! 俺のこころを返してくれ!」

 しかし何を言っても彼は何も答えない。俺の感情がただ、そこにあるだけだった。

 俺の目に涙が浮かぶ。掴んでいた彼の襟元を離し、その場にへたり込む。

きっと何を言ってももうこころは戻ってこない。重い感情が俺の胸を占拠する。

 ブラックピエロはいつの間にか、音もなく姿を消していた。

「あああああ……」

 声にできない感情が、こころを亡くしたあの頃のような感情が、一気に押し寄せてくる。

 彼は言った、「こころの気持ちを尊重した」と。消えることは、俺の側から居なくなることは、こころの望みだったのだろうか。あんなに愛していた、愛し合っていたはずなのに。愛しいこころ、どうして俺の前から消えたのだろう。俺に問題があったのだろうか。

 考えても答えは出ない。しかし考えずにはいられない。

 最近は病状も良くなっていたんじゃないのか? こころの病気……鬱になったこころは辛そうだった。身体は元気でも心が辛かったんだろうと思う。その事をもっと俺が、一番こころの近くにいた俺が理解してあげられていれば良かったのにと思う。もっと他に出来る事があったんじゃないか、もっとこころに寄り添ってあげらたんじゃないか、そんな後悔が次々と脳裏に浮かぶ。彼女の考えていることが分からず、困り果てたのは事実だ。だけどそんな中でも他に出来る事、例えばベッドで横になるこころを無理やりにでも起こして陽の光に当てるとか、例えば寝るきりのこころを起こしてフルーツを食べさせてあげたりも出来たかもしれない。例えば仕事のない日には一日中寝室で一緒に居て、どんな些細な内容でもいいから話を聞いてやれたかもしれない。もしくは、病気になった原因が「外に出かけられない」事だとしたら、マスクとメガネをかけて帽子を被ったりと、こころに変装をさせれば出かけることも出来たんじゃないか。そうすれば一緒にスーパーで買い物をしたりも出来た。四年間もの長い間、この狭い家の中で過ごしていたこころが、不便だ。

 次々と浮かぶ悔いがあまりにも多いことに、俺は絶望する。こころが居なくなってしまった今となってはもう、それらを実行することさえ叶わない。

 こうなってみると、正直なところ荷が降りたのかもしれない。唐突にそんな考えが浮かぶ。病気のこころは、精神科医でも何でもない俺には抱えきれなかった。医者にかかれず薬も飲めないこころの病を治療するには、難しすぎた。

 こうなって良かったのかもしれない。




 


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