第一章 10
第一章 10
柳下さんの言う通り、俺にはこころを甦らせた責任がある。一生、こころに寄り添う義務が俺にはあるんだ。
「スーパーってまだ開いてるかな?」
最寄り駅に着いて家路に向かっていた脚を止め、俺は最寄りのスーパーへ向かう。こころの為になる食材を、野菜や果物、魚を買おうと思い至った。簡単な調理なら俺にもできる。帰ったらまず、こころと一緒にフルーツでも食べようと思い、俺は買い物を済ませて足取り軽く、家路についた。
家に入ると、当たり前だが電気は点いていない。リビングのテーブルに買ってきた食材を適当に置き、俺はまず寝室へ向かう。こころはどうしているだろうか。
コンコン、とドアをノックし、こころに話しかける。
「こころ、ただいま」
そっと部屋へ入る。さっき俺が点けたままの電気はまだ点いていて、こころはベッドで布団を被って横になっている。動かないのを見ると寝ているのかもしれない。
「寝てる?」
小さく声を掛けるも、反応はない。きっと寝ているのだと思い、俺は内心で残念だと思いながらも、電気を消して部屋を出た。
翌朝になってもこころは起きてこない。たまに調子の良い時は朝から起きて、一緒にご飯を食べるこころ。今日は調子が悪いのか。
以前は調子が悪い時はそっとしておくのが良いと思いあまり構わないようにしていたが、今日の俺は違う。こころの話を聞いてあげたい、一緒に簡単な運動でもしようと提案もしたい。ベランダで日光を浴びれば少しは気持ちがいいかもしれない。色々なことを試したくて、寝室へ向かった。
「こころ、起きてる?」
部屋へ入ると、パジャマ姿のこころはベッドで仰向けになって天井を見上げていた。その表情は無表情で、何を考えているのか分からない。
「こころ、少し起きあがらないか?」
立ったままこころの顔を見下ろしながら覗き込んで、問いかける。出来るだけ強制はしないよう心掛けた。
「俺と一緒に体操でもしよう。身体を動かせば気分も良くなるよ」
「……」
話しかけても、こころの表情は変わらない。視線さえも天井を見つめて動かないままだ。そんなこころに少しの恐怖に似た感情を覚える。
「こころ、聞いてる?」
「……ん」
よかった、返事が返ってきた。返事と呼べるような受け答えではなかったかもしれないが、俺に対して声を出してくれた、そんな些細な事が今は嬉しい。
「体操が嫌なら、ちょっとベランダに出てみようよ、人は日光に当たると気持ちいいんだって」
「ベランダ?」
興味が沸いたのか、こころが天井から視線だけを俺に向ける。手ごたえあり、と見て俺は更に言葉を続ける。
「こころ、ずっと家から出れないけど、ベランダなら出ても良いと思うんだ。今の時間なら朝日が当たって太陽が気持ちいいよ」
「……でも、誰かに見られたらどうするの」
「少しくらい平気だって」
「……」
ほんの少し表情が明るくなったと思ったこころは、次の瞬間には表情を曇らせた。腹の位置で掛けていた布団を手繰り寄せると、頭までそれを被って向こうを向いてしまった。
「こころ……。じゃあ、フルーツでも食べるか?」
「いらない」
布団の中からくぐもった声がする。
「ヨーグルトは?」
「……」
「魚、鮭を買ったんだ、焼いて一緒に食べよう」
「……」
「こころー」
「……」
それ以上は何を言っても、こころは何も答えてくれなかった。俺はかなりしょぼくれながらも諦めて、部屋を出る。今日の気分転換作戦は失敗だったようだ。
それから数週間、俺は出来るだけこころに同じような気分転換方法を提案した。ベランダへ出る事はないが、ベッドの上で簡単なストレッチをすることは一度だけ成功した。こころの話を聞きたいと思い話しかけるも、こころが悩みを話してくれることはない。それは俺を信用していないせいなのか、それとも単純に話したくないだけなのか、俺にはわからないままだ。
「こころ、今夜は何が食べたい?」
「……いらない」
ベッドに横になって壁の方を向くこころ。
そもそも食事を摂らなくても死なないこころは、今は本当に何も食べない。俺としては一緒に食事を楽しみたいと思うのに、この気持ちは今のこころには伝わらないようだ。
「こころの好きな物を買ってくるからさ、たまには一緒に食べよう」
「……」
「そうだ、海鮮丼なんてどうだ? 刺身をたくさん買ってくるよ」
「……」
「それともウナギがいいか? ちょっと奮発して、国産のウナギにしてさ」
「……」
「こころ、聞いてる?」
「……たい」
「え、何?」
聞き返すも、少し待っても返事がない。聞こえた「〇〇たい」とは、つまり何かを「したい」という意味に取れた。こころからの、初めてではないがかなり久しぶりの、こころからの要望だと思った。
「こころ、何かしたいの? 何でも言ってよ、俺が叶えてあげる」
俺の心はかなり舞い上がっていたかもしれない。こころが自分の意思を伝えてくれるなんて、それだけで嬉しくて仕方がないんだ。病気で辛いこころが望む事ならばなんでもしてあげたいと俺は思う。こころと一緒に何でもいいから「何か」を分かち合いたい。
しかしそんな俺の内心とは裏腹に、こころの唇から信じられない言葉が飛び出す。
「死にたい」
小さな、極小さな声で、しかしこころははっきりと言った。それは俺にとって衝撃的な言葉だった。鬱の症状として自殺願望があることは知っている。だけど、いざ本人からその意思を聞くと、正直辛い。一番辛いのはこころだと分かっていても、聞きたい言葉ではない。
俺は咄嗟のことで動悸を覚えながらこころに話しかける。
「え、いや、そんなこと言うなよ」
俺の心に芽生えた一瞬前の嬉しさなどとうに消え果て、絶望に近い感情が胸を占めていく。あの頃のような、こころが死んで、こころの居ない世界を思い出してしまう。
「生きてれば楽しいことが沢山あるよ。だから死にたいなんて言うなよ」
向こうを向いたこころの頭に話しかけても、返事はない。こころ、お前は今どんな表情をして、どんな気持ちでそんなことを言うんだ。
「……」
「こころ、こっち向いて」
壁の方を向くこころの肩をゆする。こころは力なく、こちらに身体を倒した。見えた表情は無表情のまま、天井を眺める。
「こころ……」
そんなこころに、俺はそれ以上かける言葉が見つからなかった。
昼の休憩時間。自分のデスクでさっさと昼飯を食べ終え、俺は気分転換にと会社のビルの屋上へやって来た。
「死にたい、か」
こころのその言葉が頭から離れない。こころは元々死人だ。俺が死なない限り、こころも死ねない。逆に言えば、俺が死ねばこころも死ねる。死にたい、と言う彼女にとって生きることは拷問なのかもしれない、という考えが浮かぶ。
「俺が死ねば、こころは楽になれるのかな」
十一階建てのビルの屋上から、フェンス越しに道路を見下ろす。ひと思いに飛び降りたら、どうなるだろう。俺の部屋で、こころは苦しまずに死ねるだろうか。
責任、という単語がまた脳裏に浮かぶ。無責任にこころを甦らせた俺がいけないんだ。こころを救うには、俺が死ぬのが一番かもしれない。
「おいおいおい! 何してんだ、天津満明!」
ふと、背中から柳下さんの大声がする。彼は小走りで俺に近づき、腕を掴んでくる。
「まさか自殺でもする気じゃないだろうな!?」
「え……」
気づけば、俺は屋上のフェンスを越えて立っていた。
「勘弁しろよ、落ちたらシャレにならねーぞ」
「すみません。ちょっと考え事してました」
フェンスの外から中へ戻り、俺はコンクリートの床に尻をついて座り込む。柳下さんは立ったまま、俺を見下ろしていた。
「考え事って、こころちゃんの事か?」