第一章 1
はじめまして、はやしひとみと申します。
1年前に書いた純文学の小説です。
深い考察を重ねて1年掛けて作った作品です。
最後まで飽きないような内容を心掛けましたが、面白いと思って頂けますように…。
どうぞ、はやしワールドをお楽しみくださいませ!
(※更新は不定期ですが、できるだけ期間を空けないよう心掛けます※)
第一章 1
知っているか、「愛」というものを。「愛」とは何かを知っているか。俺は知っている。俺は「愛」というものを知っている。夢の中の話ではない、俺には愛する女性がいる。俺は愛しいという感情を知っている。人を愛するという感情を知っている。全ては「こころ」が俺に教えてくれた。
愛しいこころ。こころの事を俺はいっときも忘れることはない。無論、こころも俺を愛してくれている。俺はそう言い切れる程、こころを信じている。
俺の生活はこころを中心に回っている。朝は一緒に起床し、こころが作ってくれた料理を食べる。こころが食器を洗っている間に俺は出勤の準備をする。俺が会社へ出かける時、こころは必ず玄関で俺を見送ってくれるのも嬉しい。あの「いってらっしゃい」の笑顔、えくぼを浮かべて微笑む姿は俺の朝の癒しだ。会社を出ると、俺は出来るだけ早くこころの待つ家に帰る。大抵は夕食の準備をしているこころは、よくキッチンで「おかえり」と言葉をくれる。それから二人で夕食を食べ、夜の時間をまったりと過ごす。俺が買った本や雑誌を読んだり、一緒に映画やドラマを観たりもする。
会社で仕事中の俺は毎日のそんな平凡な幸せを思い出しながら、オフィスに用意されている自分のデスクでパソコンの画面を見て、乱暴にキーを打つ。ああ、早くこころの待つあの家に帰りたい。こころに会えない時間はいつもそうだ。俺はいつ何時でもこころを求めている。
この感情を抱くのは決まって平日の出勤日、それも定時まであと一時間という、帰宅時刻までのカウントダウン開始と同時に始まる。退社まであと一時間、時計の針があと一回りで帰れると思うと、つい気持ちが急いでしまうんだ。
俺は東京の商社でサラリーマンをしていた。特別、興味のある仕事でもないが、こころを養っていくのに必要なので、この仕事を続けている。
ああ、早くこころの顔が見たい。こころの「おかえり」が聞きたい。俺はデスクの側面に置いている通勤鞄から私用のスマートフォンを取り出す。待ち受け画面は勿論、こころの写真で、二年程前に家で俺が自分で撮ったものだ。彼女はいつも俺のスマホの中で微笑んでくれている。
そんなこころの写真を眺めながら、考える。あの部屋で今日は何をして過ごしているだろう。狭い俺の部屋で退屈していないだろうか。昨日、買って渡した新しい本を読んでいるだろうか。もしくは、リビングのソファーに座ってテレビでも見ているかもしれない。一昨日、借りたDVDはもう観ただろうか。
今日、最後に会ったこころは玄関でいつものように「いってらっしゃい」と言って俺に微笑んでくれていた。あの笑顔が、あの夏の太陽を受けて輝く向日葵のようなこころの笑顔が恋しい。
ああ、早く帰りたい。
こころはよく笑う。声を上げて笑うことは少ないが、俺にはその華奢な身体で満面の笑顔を、よく見せてくれていた。あのこころの笑顔を守りたい。いや、絶対に守らなくてはならない。それは俺の永遠ともいえる課題だ。
今日はこころに何を買って帰ろうか。こころが喜びそうな何かを買って渡してやりたい。こころの喜ぶ顔が見たい。
左手首に嵌めた腕時計を見る。定時まで、あと十分だ。
愛しいこころの事を想えば気分は明るい。しかしあと十分が俺を悩ませた。今日中に片付けなければならない仕事は既に済ませている。だからこそ、あと十分が長く感じられた。
そう広くはないオフィスでひとり、大きな音を立ててパソコンのキーを打つ。早く定時にならないかなあ。
自慢ではないが俺の仕事効率は良い方だと思う。定時に帰る為、こころが家で独りで居る時間を減らす為、絶対に仕事を遅らせたりはしない主義だ。
再び腕時計を確認する。あと七分。
「おーおー、相変わらず今日もイラついてんなあ、天津満明」
呼ばれた声に俺は時計から顔を上げ、座ったまま声の主を見上げる。俺のデスクに近づき話しかけてきたのは上司の柳下さんだ。彼は俺より四歳年上で、リーダー職をしていて俺の直属の上司にあたる。入社当時から俺を勝手にフルネームで呼び捨てにする、失礼な奴だと思った。
俺は内心でため息を漏らす。この柳下さんの明るくて人懐っこい性格は、俺は苦手だ。同性と慣れ合いたいとも思わない俺は適当に視線を外す。
「いい加減、その定時近くなるにつれて機嫌悪くなるの、治らないのか?」
俺の機嫌が悪いのは柳下さんには関係がない、そう思い俺は言葉を返す。
「あなたに関係ないでしょう」
ああ、早く帰りたい。その気持ちがまた強くなる。
残業が当たり前の風潮のあるこの会社で、俺は定時で帰る事に重きを置いている。同僚の間でも「あいつはとにかく早く帰る」と思われているのも知っている。他の人間が残業していようが、俺は俺の仕事をしっかり終わらせているので問題ないだろうと思っていた。
どうやら業務とは関係のない柳下さんとの会話に付き合う義務はない。俺は煩わしさを隠さず、パソコンの画面に向き直る。もう話しかけないで欲しいものだ。
そんな俺の態度に本人は何を思ったのか、柳下さんは少しの間を置いて、また話しかけてくる。
「お前んち、ペット飼ってたっけ?」
「……飼ってません」
「じゃあ何で毎日毎日、そんな早く帰りたいわけ?」
その言葉に、俺は無意識に柳下さんを見上げた。
「何?」
「いえ……」
早く帰りたい理由は、こころを独りにしたくないという俺の考えだ。しかし柳下さんにこころの事を話すのは気が引けた。いや、相手が柳下さんじゃなくても俺はこころと同棲していることを誰にも、それこそ親にも言っていない。他者にその事実を知られるのが怖かった。
黙っていると、急に柳下さんが俺の肩を抱き寄せる。腕を回して肩を捕まれ、俺は単純に驚いた。
「なあ天津」
柳下さんは俺に顔を近づけ眉間に皺を寄せて、声のトーンを落とした。
「今日も早く帰りたいだろうが、たまには飲み会に付き合え」
「……え……」
声を潜めて何を言うのかと少しばかり構えたが、それは取り越し苦労だったようだ。柳下さんのその言葉は意外でもなんでもなかった。俺は引き寄せられた身体を丁重に引きはがし、スーツのジャケットの襟を整える。飲み会の誘いに対する俺の答えはいつだって決まっている。
「申し訳ありませんが……」
「お前、全く参加しないよなあ、こういうの。付き合い悪いって社内で噂になってるぞ」
俺の分かり切った断りの言葉を柳下さんは遮って話す。イスに座ったままの俺を柳下さんは見下ろすようにして立ち、腕組みをした。
「噂、ですか」
そんなのもどうでもいい、というのが俺の意見だ。大企業ほど社員の数も多くないこの会社で、他者が俺を何と言おうと、俺自身には何の支障もない。こころが笑顔で暮らしていけるだけの金を稼ぐ。俺がこの会社に居るのはその為だけだ。社内で噂などされたところで、痛くも何ともなかった。
そもそも俺は会社の付き合いというものに参加したことがない。俺の中でこころの存在が大きすぎて、そんな下らないものに時間を割かれるのを大いに嫌っていた。それでもこころと同棲を始める前の入社直後は参加したものだが、同棲を始めてからは一度も、ここ三~四年は飲み会どころか個人的にも外で飲んだ事はない。
腕時計を見ると、既に定時を三分程過ぎていた。
「あ、定時になったんで、お先に失礼します」
出しっぱなしになっていたスマホを通勤鞄へ仕舞い、それを持って立ち上がる。俺はさっさとオフィスの出口へ向かった。背中で「おい、待て」と柳下さんの声がするが、気にしない。もう勤務外だ。
「お疲れ様でした」
タイムカードを切り、会社の人間に挨拶だけして俺は会社を後にした。
さて、今日もスーパーへ寄ってから帰らなくてはならない。家で待つこころの為に、食材の買い出しをする必要がある。確か今日は、昼間にこころから「キャベツと大葉が欲しい」と連絡が入っていた。スーパーなどの買い出しは毎日、俺の役目だった。