アナスタシウスの物語 (1)
旅をするルティのことを心配しつつも、今日のナーシャは別のことが気になってそわそわし、落ち着きなく屋敷の中をうろつく。
ちゃんと掃除もしたし、必要なものは買い揃えた――彼女たちを迎え入れる準備は、きちんとできていると思うのだが。
「そんなに悩まなくても。いまさら、遠慮する仲でもないんだし」
あれこれ心配し、不安がるナーシャに、ヒスイがため息を吐きながら言った。
いまはナーシャの家人となったオレークも、悩める主人の姿に笑っている。
「どうやら、到着されたようですな」
馬車の止まる音を聞きつけ、オレークが言った。すぐにナーシャが自分で出迎え、素早く開いた扉にユーリが目を丸くしていた。
「いらっしゃい。君たちが泊まるのに困らないだけの準備はしたつもりだけど……足りないものがあったら、遠慮なく言ってくれ」
「問題はない。ボクのほうでも持ってこさせた――エディに必要なものも」
ユーリがそう言えば、城の召使いたちがささーっと屋敷に入ってきて、ユーリとエディが滞在するのに必要な家具を配置していく。彼らはてきぱきと部屋を整えると、入ってきた時と同様にささーっと屋敷を出て行った……。
オレークは何もかも予想済みとばかりに彼らを案内した後は、何もなかったように振舞っている。ナーシャは、ぱちくりと目を瞬かせていた。
「乳母も連れてきているが、今日はオレークに世話を任せてみようと思う。構わないかな?」
「は――光栄なお役目。謹んでお引き受けさせていただきます」
ユーリは、エディの入ったバスケットをオレークに差し出す。
さすがにこれにはオレークも面食らっていたが、すやすやと眠るエディを見て、深々と頭を下げた。
それから、改めて眠るエディをじっと見つめる……オルキス王家の血を引く、大切な赤子を。
「うーむ……しかし、この屋敷はやはり殺風景だな。まるで世捨て人の住まいのようだ」
屋敷をぐるりと見まわし、ユーリが言った。
別に世捨て人になったつもりはないんだけど、とナーシャは苦笑する。ユーリは不敵に笑い、ナーシャを見た。
「そんなキミのために、今日は特別な贈り物も持ってきた」
じゃん、と取り出したのは、ユーリが描かれた肖像画。エディを腕に抱いており、誰が描いたのか、ナーシャには見覚えがあるような気がした。
「我が姫君の傑作のひとつだ。美しいボクと、愛らしいエディがいつでも好きなだけ眺められるよう、ルティが心を込めてキミのために描き上げた」
「ありがとう。素直に嬉しいよ」
絵を受け取りながら、本心からナーシャは感謝の気持ちを伝える。
一流の絵描きが描くものよりはちょっと拙いが、ルティが描いてくれた絵――それも、ユーリとエディの。
もしかしたら、いまのナーシャにとっては一番嬉しい品かもしれない。
「目が覚めて一番最初に見るものが、帝国至高の美……キミの一日が、さぞや素晴らしい始まりになることだろう」
「……魔除けにはなりそう」
うっとりと自己陶酔するユーリのことはさておき、厄除けの効果はありそうで、ヒスイが呟く。
ユーリを前にすると、悪いことのほうが逃げ出してしまう感じはある。縁起は良いかもしれない。たぶん。
「そんな素晴らしくも霊験あらたかな麗しいボクの絵が、いまならなんともう一枚ついてくる」
そう言って、本当にもう一枚肖像画を取り出す。え、とナーシャも困惑していた。
「えーっと……ありがとう。この絵はルティじゃないね?」
「分かるのか。キミの鑑定眼もなかなかのものだ」
鑑定士としての技術があるわけではないが、この絵の描き手にはナーシャも心当たりがある。
認めるのはちょっと悔しいが、ユーリの絵を描かせたら、やはり彼を超える人間はいないだろう。
単なるユーリの見た目だけでなく、内面からの輝きもよく描けている……描いた側が、彼女に相当な愛情を持っていないと不可能だ。
「絵の題材も、描き手の実力も素晴らしいものなのに、マティアスは部屋の片隅に保管したまま、正しい評価を得ようとしないんだ。だからボクがこの素晴らしさを教え広めるため、こうやって配って回っている――先日は、ベネディクトの誕生日にお得な三枚セットをプレゼントした」
「それは……」
さぞや嫌な顔をしたことだろう、ということが容易に想像できて、ナーシャは苦笑する。
一枚ぐらいなら仕える主君の肖像画だし、屋敷に飾っておいても良いと思っただろう。だが三枚は、有難迷惑と言うか……。
「その話を聞きつけたラファエルが、次の自分の誕生日にはスペシャルな五枚セットが欲しいと懇願してきたのだが、マティアスがボクに無断で保管場所を変えてしまって」
困ったなぁ、と言わんばかりにユーリが眉を八の字にする。
その様子に、もしかして、とナーシャは推測した――マティアスに無断で、彼の絵を配っていたのでは。
ユーリは埃をかぶらせておくべきなら身近な人に披露するほうが有意義だと思ったのだろうが、マティアスとしては大事にしていたつもりだったのかも。
ユーリとナーシャが二人で部屋に行ってしまうと、エディはオレークが世話をしていた。
ナーシャが息子とゆっくり過ごせるように連れてきたのもあるが、オレークがエディと接する機会を与えるためでもあった。
オレーク・カルロフにとっても、待望のオルキス王国の跡継ぎ……。
「エドゥアルト殿下は、ご両親のどちらに似ても美しく聡明な子になられることでしょうな」
自分を見てにこにこと笑うエディを見つめ、オレークが言った。ヒスイも、彼の化神のイタチと共にエディを眺めていた。
「耳の形がナーシャと一緒」
「オルキス王族特有のものですから。陛下や、ドロテア様も同じでした」
小さいけれど、やっぱり変わった形をしているエディの耳を、ヒスイがちょんちょんと突く。くすぐったそうに、エディはもぞもぞと動いた。
「エドゥアルト殿下のためにも、次の戦では必ずローヴァインを止める。とうに捨てた命だ……この御方の未来のために使えるのなら、これ以上の幸福はない」
「君たちっていつもそう」
エディを見つめて独りごちるオレークに、ヒスイが呆れたようにため息を吐く。
「オルキス人って、どうしてこう、死ぬことしか考えないんだろう。それは好きにすればいいんだけど、ナーシャを巻き込まないでほしい」
「おまえの言うことももっともだ」
オレークもドロテアも、失ったものがあまりにも大き過ぎて、それ以来、未来を得ようとはしなかった。
……また失う経験をしたくなかったから。
それが、若く、未来のあるナーシャに良くない影響を与えることは分かっていた。生き残った王国の希望――彼には明るい未来を見てほしいと望んではいたが、どうしても、自分たちでは彼の手本にはなれなかった。
オレークは、飾られたユーリの絵を見た。
この屋敷もそうだ。
ユーリの言うとおり、世捨て人のような有様――オレークたちの影響で、ナーシャもまた、失うことを恐れて何かを得ることを躊躇う傾向がある。
だから最低限の物しか持たない。この屋敷にも、無駄なものは置かない……生活するのに必要なものだけと限定して、人間らしさを広げてくれるようなものに関心を持たない。
強引なぐらいにナーシャに未来を与えようとするユーリこそ、ナーシャにとって誰よりも必要な存在だ。
「天青の紋章は、僕の妹に与えられるはずだった」
二人で一緒に寝台に横たわったまま、ユーリを抱き寄せ、彼女の左手を取ってナーシャが言った。
左手の甲でほのかに青く光る紋様を、ナーシャは指でなぞる。
「ユリウス二世がオルキスの王都を訪ねてきたあの時……僕は身重の母と一緒に、王家が所有する療養地に行っていた。実際に宿すのは十歳になってからだけど、オルキス王族は生まれた時にお守りとして紋章を与えられることになっていて、妹のために天青の紋章を、弟のために紅蓮の紋章が用意されていた」
紅蓮の紋章、とユーリが呟く。
いまはマティアスが宿している大紋章だ。そんなユーリの考えを読み取ったように、そう、とナーシャが相槌を打つ。
「生まれてきた子が女の子だったら、天青の紋章の宿主となり、叔母のもとで次期神殿長として育てられる。男の子だったら、紅蓮の紋章の宿主となって、オレーク……将軍のもとで、次期将軍として育てられる。すでに僕が王太子となっていたから、王家の習わし通り、そう決まっていたんだ」
お腹の子どもは母と共に命を落としてしまったから、どちらの紋章も不要になってしまったけれど。
天青の紋章を見つめたまま黙り込んでしまったナーシャに、ユーリが甘えるようにすり寄る。
ユーリの肩をぎゅっと抱いて、ナーシャは彼女の柔らかい金色の髪に顔を埋めた。
黄金の髪からは、太陽の香りがした。
ナーシャが迅雷の紋章――ヒスイの宿主となったのは七歳の時。
王都がユリウス二世率いる帝国軍によって陥落したと聞き……そのショックで命を落としてしまった母とも別れ、一人で帝国内へ逃亡すると決まった直後。
「君が僕の宿主?」
顕著した化神は極東の国の民族衣装を身に纏い、オルキスには珍しい容姿をしていた。
だが、父や叔母の化神もこういった出で立ちであったから、誰も驚かなかった。無事に大紋章を宿すことに成功して安堵している。
「名前は?」
「……ナーシャ……」
宿主だけは、沈み込んだ表情で、ヒスイのこともまともに見ようとしなかった。
「アナスタシウス殿下……我々はこれで」
神妙な面持ちで頭を下げる大人たち。小さく頷いて、泣き出すナーシャ。周りの大人たちも、ナーシャを慰めながらも涙を流していた。
「ヒスイ様」
女官の一人が、ヒスイに声をかけてくる。ナーシャの乳母で、今日まで我が子同然に愛情を注ぎ、育ててくれた女性。
もはや止まることのない涙を流したまま、乳母はヒスイに懇願する。
「どうか……どうか、ナーシャ様をよろしくお願いいたします。ナーシャ様をお守りできるのは、もうあなたさまお一人だけなのです――ナーシャ様、どうかご無事で」
そう言って乳母はナーシャと抱きしめ合い、ナーシャは声を殺して泣いていた。拭っても拭っても涙を消し去ることはできず、それでも、ヒスイだけを連れて彼らと別れた……。
「ローゼンハイム帝国の帝都……グランツローゼを目指すんだ……子どもの僕だけなら、見張りの目をかいくぐって国境を越えられるだろうから……」
道とも呼べぬ道を歩きながら、ナーシャがぽつりぽつりと自分の置かれた状況を説明する。
嗚咽まじりの拙い説明を整理していくと、つまり……。
「君が暮らしていたオルキス王国は、隣国のローゼンハイムの侵攻を受けて……ぶっちゃけると、敗けちゃったってことだね。国王である君の父親も死に、王都は陥落、国は滅亡したも同然。それで、王太子の君は帝国へと逃げ込むことにした――向こうも、よりにもよって敵国の中へ逃げ込むだろうとは思わないから、その盲点を突いて」
敗戦国の王太子だなんて、生かしておけるはずがない。その死を確実に見届けようと、帝国側も血眼になって探し回ることだろう。
それで、少しでも敵に見つかる可能性を下げるため、ナーシャは一人で越境することになった――七歳の子どもが、生き残れるはずがない。だからオルキス王国の慣例を破り、規定の年齢に達していないにもかかわらず、ナーシャは急きょ大紋章を宿すことになった。
化神がいれば、子ども一人でも何とかなるから。
「でも無謀過ぎない?敵国の中心地に子どもの君が一人だけって、やっぱり死にに行くようなものだよ」
「……叔母上は、グランツローゼに連行されたらしい」
まだしゃくり上げながら、ナーシャが言った。
その説明を聞いて、ヒスイはもう何も尋ねなかった。
叔母が生きている――それだけを頼りに、無謀な旅をする。旅の果てに、生きた叔母に会えるとも限らないのに。会えたところで、二人で生き残れるとも限らないのに。
だが、ナーシャにはもう、それ以外に道がないのだ。そして自分も。
絶望的な可能性にすがることしかできない宿主。そんな絶望の中で、彼を守るしかない化神。
これが、ナーシャとヒスイの物語の始まりであった。




