持つ者の責任 (2)
「そのゴルトベルク公っていう赤ちゃんって、巻き戻り前の世界でどうなったの?」
フェルゼンと二人だけになった後、ルティはこっそり彼に質問した。
「前の時もサルダーニにあっさり完勝した帝国軍は、サルダーニ軍が拠点としていた城を制圧し、ゴルトベルク公を捕縛した。幼くとも皇位継承権を有し、後継者のいないユリウスにとって脅威であることも事実。処刑は免れたが、放置できぬ存在だ」
「……だから?」
嫌な予感しかしなくて、ルティは眉を寄せる。
「北方のプロプスト監獄へと送られた。身の回りの世話をするために乳母がつけられたが、五歳の時に乳母からも引き離され、その後、独房にて死に絶えているのを発見される――七歳だったそうだ」
そんな、とルティは青ざめた。
七歳……いまの自分と同い年。物心つく前には監獄に入ることになり、そのまま死ぬまで外の世界に出ることも叶わず。あまりにも悲し過ぎる生涯だ。
彼が何の罪を犯したわけでもない。王族に生まれたというだけで、そんな運命を辿ることになってしまった。
ルティがゴルトベルク公のことをまったく知らなかったのも納得だ。そんな悲惨な運命を辿ることになった赤子のことを、わざわざルティに教える人間がいるわけがない。
「お母様、今回も同じように命じるのかしら……?」
眠っているエディを、ちらりと見る。
いまのエディよりも少し大きいだろうが、それでもこの子と変わらない赤ん坊。顔を合わせたことすらない相手だけれど、胸が痛む。
「……ヴィルヘルミーナと共に、ユリウスを説得してみればどうだ」
赤子の行く末を案じて悲しむルティに、フェルゼンが言った。
ルティは顔を上げ、フェルゼンを見る。
「ユリウスはおまえとヴィルヘルミーナに甘い。それは周知の事実だ。おまえたちが赤子の命乞いをしたとしても、それを咎める者はいまい」
「そうかな。助けても大丈夫かな」
いまさらこんなことを言い出すのも、どうかとは思うのだが。
気軽に運命を変えて大丈夫なのか、最近、ルティは不安を感じるようになってきていた。
ユーリを助けたい。その想いはいまも変わっていない。
ただ……もう十分変わってきている。マティアス、ミーナ、ナーシャ――息子も生まれ、ユーリが孤独に追いやられる心配はずいぶん減ってきた。
これまでは良い方向に進んできたけれど、どこかで運命を変えた代償を支払うことになるのではないか。そんな気がしてならなくて、不安だった。
赤ちゃんはとても気の毒だと思うし、助けてもいいのなら助けてあげたいけれど。
それで、ユーリの運命が悪い方向に変わってしまったりしないだろうか。
「運命は変わり、おまえが知っているものからずいぶん変わった」
フェルゼンが言った。
「だから不安なのだろう。この先がどうなるのか、おまえは知らない。未知のものに足を踏み出すには、勇気が必要だ」
ルティは頷いた。
たぶん、フェルゼンの言う通り。自分が何よりも不安を感じているのは、この先のことを知らないからだ。
いままでは何が起きるか知っていたから、それに対して備えることができた。精神的な意味でも。
いまはもうそれが大きく変わってきて、分からない道へと踏み出すことが怖くなった。だから、そろそろ前と変わらない選択をしていてもいいのではないかと、そんな考えが脳裏をよぎってしまう。
「運命は変わったが、結末も変わったとは限らない。運命というものは……意図的に変えても、どこかでまた勝手に変わり、望まぬ結果へと帰結することもある。その時が来るまで、誰にも分からないままだ」
「……うん。私、その赤ちゃんを助けてもらえないか、お母様にお願いしてみる。ミーナにも話すわ。それでお母様の意思が覆せるかは分からないけれど」
「そうだな」
確かにユーリは妻のミーナや娘のルティに優しく、甘いが、皇帝としては別の顔を見せることもある。彼女たちの説得でも、ローゼンハイム帝の決定は覆せない時もあるだろう。
それは、フェルゼンも認めるしかなかった。
どうやってユーリを説得するか、ミーナと一緒にあれこれ考え、フェルゼンが尼僧院に到着してから二日後。ユーリもルティたちを迎えにやって来た。
……その腕に、赤ん坊を抱いて。
「この子の名前はヴォルフガング・エーデルトラウト・ゴルトベルク――ボクはヴォルフと呼んでいる」
眠ってばかりのエディと違い、七ヶ月のヴォルフは目をぱっちり開き、ユーリの腕からルティとミーナのことをじっと見つめていた。
ミーナが抱っこしようとすると、ヴォルフは不安そうに顔をしかめ、ユーリを見上げて泣き始める。
あら、とミーナは笑い、ルティはぱちぱちと目を瞬かせてミーナとユーリを交互に見た。
「人見知りしてるんですよ。ユーリ様のことが大好きみたい」
ユーリは苦笑いで赤ん坊を抱え直し、ヴォルフをあやした。
「ボクの魅力を理解するとは、なかなか賢い子だ。だが今回だけは、弱ったことになった」
フィーリッツ地方の国境から引き上げ、ルティたちのいる尼僧院に立ち寄ってから帝都グランツローゼへ帰る――その帰路の途中。
陣内に響き渡る泣き声に、ついにユーリも自分の天幕から出てきた。
「あの泣き方は空腹を訴えているのだろう。赤子用の食事は与えていないのか?」
通りがかりの兵に尋ねてみれば、兵士はバツの悪そうな表情で答える。
「食べることを拒否されまして……スプーンを差し出してみても、のけぞって嫌がるんです。口に放り込んでも、泣いて吐き出してしまう始末……」
兵士たちのほとんどは、赤子の扱いに慣れていない。
若い独身者も多いのだが、妻子持ちだっているはずなのに――妻に任せっぱなしにして自分は何もしなかったから、いざという時に困るのだとユーリは内心笑った。兵たるもの、日頃の備えが足りないのは感心しない。
というわけで、ゴルトベルク公の世話はナーシャが担当していた。生まれた時からユーリを見てきただけあって、ナーシャは赤子の世話にも慣れっこだ。
それでも、ナーシャもお手上げらしい。
「食事もしないし、牛の乳も飲んでくれないんだ。人見知りしてるみたい――無理もないけど」
疲れたように、ナーシャが大きなため息を吐く。
実際に疲れているのだろう。
バックハウス隊長と共に、兵を率いて最前線に出ていたのだ。戦が終わったら、休む間もなく赤ん坊の世話を担当することになってしまって。
一応交代時間はあるが、他の人間ではろくに泣き止ますこともできなくて、結局ナーシャが呼び戻される羽目に。
ユーリも苦笑いでため息を吐く。
「仕方がない。兵を労うのもボクに課せられた重大な使命だ。育児疲れでキミが倒れると困る。今夜はボクが見よう」
「でもユーリも疲れてるのに」
「心配ご無用。兵士たちの安眠のため――ひいてはローゼンハイムの民のためだ。皇帝たるボクが果たすべき使命と言われれば、完璧にこなしてみせるさ」
ゴルトベルク公もといヴォルフを連れ、ユーリは自分の天幕へ戻った。
牛の乳は拒否した赤ん坊も、ユーリのならば素直に飲み、あっという間に懐いた――おかげさまで、今度はユーリから引き離そうとすると泣き出してしまうようになり、そのままなし崩しにユーリが世話をすることになって。
ユーリがルティたちを迎えに行く頃には、完全に母親認定されてしまった。
……というような話を聞かされ、ミーナはクスクスと笑っていた。
「さすがはユーリ様です。ユーリ様の輝きがこの子の心を開かせ、強い信頼を勝ち取ったのですね」
「そうとも言える。だが、彼はゴルトベルク公の称号を持つ男だ。放置はできない。実際、今回の戦争にも彼が利用されている。自由にすれば、また良からぬ企みに利用されてしまうかもしれない」
「監視が必要であることは、私も同意見です」
ミーナが笑顔で頷く。
少しルティたちにも慣れてきて、自分をじっと見つめるヴォルフを見つめ返していたルティは、ミーナに視線を向けた。
なんだか彼女の言い方に、含みがあるような気がして。
「然るべき場所で、彼の動向は見張られるべきです。グランツローゼの城でしたら、良からぬ者がつけ入る隙もないことでしょう」
ルティは目を瞬かせて首を傾げたが、ユーリは彼女の言葉の意味をもう理解したらしい。苦笑いするユーリの顔を見て、ルティもそのことだけは分かった。
「この子を引き取るべきだと、キミはそう言いたいのかな」
「エディと年も近いですし、良い友達になれます。遠ざけてしまうよりは、手元に置いたほうが安心だと思うんです」
「とても良い案だわ」
すかさずルティも言った。
放置できない相手なら、いっそ自分たちで見守ればいい。監獄よりもずっと、そのほうが確実だし。
赤ん坊特有のぷっくりした頬をちょんちょんと突けば、ヴォルフが笑った。笑うと、やっぱりとても可愛い。
「またもや目的を果たせず、おめおめと戻ってくるとはな。何がプロだ――腕が落ちたのではないか。女子供相手と思って、侮ったのではないか」
青筋を立てて自分を叱責する男に対し、不甲斐ないことで、とサイは反論することなく愛想よく答える。ジェニスは聞いているのか聞いていないのか、飄々とした態度だ。
長いだけで特に意味のない説教が終わった後、肩を怒らせて去って行く男を見送り、サイは頭を掻いた。
宿主が理不尽に叱責されていたことが不愉快なのか、彼の化神である虎は不満そうに喉を鳴らしてサイにすり寄る。
「彼の言うことも一理あるから、耳が痛いねぇ。二度も失敗するなんて、腕が落ちたと言われても仕方がない」
「言わせておけ。ローゼンハイム帝の化神たちが駆け付けられる距離にあることは分かっていた。最初から撤退前提の作戦だ、それも分からん馬鹿どものたわ言をいちいち真面目に聞く必要もない」
枢機卿ローヴァインが吐き捨てるように言った。
「グランツローゼの城に閉じこもる、噂のマティアス・フォン・エルメンライヒの化神の実力を把握し、ついでに、新たに増えた化神の存在も確認。わしが頼んだ仕事はこなしておる。皇后と皇子、皇女の誘拐など現実的ではない話についてはどうでもよろしい」
いまさら、女子供を人質に取るなど、と善人ぶるつもりはない。必要であれば彼女たちを人質にすることも考える。
ただ、人質というのは取り扱いも厄介だし、勝算の十分ある戦では利用しないほうがいい。
それは、長年の勘から枢機卿も痛感していた。
だから、カリラ湖の城への潜入をサイたちに依頼した時、皇后たちを誘拐してこい、などと余計な追加を出したクレメンスには枢機卿も腹を立てた。
――机上の空論でしか物を考えられん馬鹿は黙っていろ。
「あのおじさんも、色々と焦ってるんでしょ。おたくを出し抜かないといけないから」
ジェニスはケラケラ笑って言った。
「小耳に挟んだけど、なんかまだ企んでるんだって?聖女、とかって聞いたけど」
「ユリウス二世の落胤を見つけたそうだ」
枢機卿の言葉に、おお、とジェニスはわざとらしいぐらい大げさに驚く。
「ローゼンハイム帝に、今度は謎の兄弟が登場するわけか。彼女も大変だ」
「皇帝なんてなるもんじゃないねぇ」
サイの口調には、いささか同情心も感じられた。
あくまで仕事で依頼されて関わった相手であって、恨みがあるわけではないから、遠くからこっそり応援はしておいてあげよう。




