夜中の遭遇戦 (2)
「化神の気配だ。猛スピードでこちらに迫ってきている」
セレスはユーリを守るようにそばに寄り、強く警戒する。ヒスイも武器に手を伸ばし、こちらに接近する化神のいる方向をじっと見つめた。フェルゼンも、さりげなくユーリに近づいて武器を握る。
緊張する天幕内に、ワン、というちょっと甲高い犬の鳴き声が。
「……ペル?」
ユーリは急いで天幕を出た。
外は真っ暗で、松明の灯りだけが頼り。兵士たちは、どこから犬の鳴き声が聞こえてくるのか、不思議そうな表情であたりを見回している。
犬は吠えながら兵士たちの足もとを素早く駆け抜け、ユーリのもとへとやって来た。
しかしユーリの姿を見つけるとすぐに身を翻し、ちらっと振り返る。
「――セレス、ペルと共にカリラ湖の城へ向かってくれ」
ユーリが言い、全員の視線が彼女に集中した。
一瞬だけセレスは驚いていたが、分かった、と頷きペルと共に駆け出す。二人の姿はあっという間に夜闇の中へ消えていき、それを見送って大きくため息を吐いた後、ユーリはナーシャを見た。
「ナーシャ。隊を率いてカリラ湖の城へ急行してほしい。すぐ動ける部下だけでいい――ルティたちの無事を確認して、場合によってはここへ連れてきてくれ」
ナーシャも頷き、自分の部下たちのもとへ向かう。それから、ユーリはグライスナー参謀を見た。
「ナーシャ不在の間の編成を頼む。それと、近くの尼僧院に遣いを送ってくれないか。訪問するには非常識な時間だ。彼女たちにはくれぐれも丁重に謝罪しておいてくれ」
グライスナー参謀もユーリの命を受けてすぐに動き、ユーリは一人となった。
大きくため息を吐くと、息は白く染まっている……。
ふわりと、ユーリの身体に大きな厚手のマントがかけられた。
「薄着をし過ぎだ。おまえの体調はまだ万全ではないのだから、もっと気を付けろ」
振り返ってみれば、フェルゼンがそばに立っていた。
ああ、とユーリは笑う。
「ありがとう――キミの言うとおりだな。ボクの輝きが失せるような軽率な真似は、控えなくては……天幕に戻る。キミに付き添いを任せよう」
無論だ、とフェルゼンは答え、自分の天幕へと戻るユーリに付き添った。
セレスとナーシャ、ヒスイが不在になるのなら、自分がユーリの護衛につく必要がある。
――思いもかけぬ方向で、運命が大きく変わってきている。
ユーリがナーシャの子を生んだことで、サルダーニとの戦争に参加するコンディションが変わり、少し帝国軍側の風向きが悪くなった。
その代わりにナーシャが参戦しており、敗北することはないだろうが……ユーリ個人に、何か起こる可能性はある。
だから用心し、ユーリから目を離さないようにしていた。まさか……ルティのほうに、変化が起きるとは。
ペルはルティの化神。無邪気な性格をしているが、宿主を守る使命があることは自覚しているらしい。いつも大好きなルティのそばについている。
そんなペルが、ルティと離れてまでユーリを追いかけてきた。その理由は考えるまでもない。
天幕に入ったユーリは、うろうろと歩き回っている。心ここにあらずといった様子だ。
外では――兵士たちの前では、我が子を想って不安がることもできない。皇帝の狼狽した姿など、兵を大きく動揺させるだけ。
ようやく母親としてルティたちの身を案じることができるようになったユーリを、そっと抱き寄せた。
「大丈夫だ。カリラ湖の城にはエルメンライヒとシャンフがいる。命がけで彼女たちを守るだろう――おまえたちの子だ。そう簡単に運命に屈するはずはない」
フェルゼンの励ましに、ユーリはかすかに笑った。
この時期にサルダーニが軍を出動させたことを、フェルゼンも内心訝しんでいた。
後継者争いが始まり、帝国はエンデニル教団と険悪な関係になり、ディートリヒは離反した――化神持ちの紋章使いであるナーシャは健在だ。
ナーシャの存在は無視できない重要な要因だと思うのだが、それでもサルダーニが動く運命は変わらなかった。
それはなぜなのか……もしかしたら、今回はローゼンハイム帝と戦う以外の思惑があったのかも……。
先を走るペルについて一階へ降りて、今度は外へ通じる扉へ向かう。
……外に出なくちゃいけないのに、ペルは扉のある方へ向かっていない気がする。何かから逃げているようにも感じる。
廊下を、特に意味もなくあちこち曲がっているような。
でも、エディを抱っこして走るルティには、それを確かめている余裕もなかった。とにかく必死で走る。自分の後ろから、ミーナを抱きかかえたセレスが走っている――彼女はさすがに余裕だ。たぶん。振り返ってセレスを見ることもできない。
――セレスは、何度も後ろを確かめていた。
「ペル!ルティはもう限界だ――止まれ!」
セレスがそう叫んだとほぼ同時に、ルティの頭の上を何かが飛び越えて行った。大きくて……獣の吐息らしきものも感じる。
大きな獣はルティたちの前に着地し、獣の背には男が乗っていた。
「追いかけっこはそろそろ終わりにしましょうか。初めまして――皇后ヴィルヘルミーナ様。そちらはローゼンハイム帝のご息女リーゼロッテ様と、ご子息エドゥアルト様」
男は非常に愛想よく、丁寧に挨拶する。異国人のようだが、とても流ちょうな帝国語だ。
男のそばで、白く大きな虎がこちらをじっと見つめている。セレスも虎と男を睨み、警戒心を露わにしていた。
「お三方を連れてくるよう言いつかりましてね。手荒な真似はしたくありません。大人しく、一緒に来ていただけませんか。私は快楽殺人者ではないので、女性や子どもを無闇に傷つけたくはないのですよ」
どうぞ、と促すように男は虎の背を指す。セレスが進み出てルティの隣に並ぶ――それは感心しませんねえ、と男が笑った。
「いくら貴女でも、ご婦人に幼子……乳飲み子まで守りながらでは、とてもまともに戦えないでしょう。反抗するのなら、私も彼に攻撃を命じなければなりません。できるだけ生かして連れてこいという依頼ですから、ここはお互い協力し合いませんか。命の保証はしますよ」
「依頼人とやらに引き渡すまではの話だろう」
いったい誰が自分たちを捕えようとしているのか。
セレスは分かっているようだった。目の前の男と、初対面ではないらしい。
ペルが吠える。
男がペルを見て、おや、と目を瞬かせた。
「化神が二体いると聞いて、一人しか見えないので不思議に思っていたんですが……なるほど、その小さくも勇敢な犬がそうだったのですか」
ペルが吠えても、男も大きな虎もまったく動じない。そうだろうな、とルティも思った。
とても勝ち目があるように見えない。小さなペルでは、善戦の余地もない。セレスと共闘しても、何の戦力にも……。
突然、身体が強く引っ張られた。
ふわふわした感触に包まれ、轟音と、強い衝撃が伝わってくる。何が起きたのかすぐ把握することができず、気が付いた時には城の外。
真っ暗な夜空の下に出ていて、ルティは白いふわふわしたものにしがみついていた。
猛スピードで走ってる。
振り落とされないよう、セレスがルティの身体を押さえていた。エディはちゃんと自分の腕の中にいて、ミーナも一緒だ。
「ルティ、頭を下げて、しっかりしがみつけ!エディを落とさないように」
暗さに目が慣れてきて、ようやく周りが見えるようになってきた。
ルティたちは、大きな白い犬に乗っている。サイズがまったく違っているけれど……毛のふわふわ感も、見える顔も、ペルに似ている……。
ペルはルティたちを背に乗せられるほど巨大になり、城の壁もぶち壊して外へと逃げ出したらしい。
セレスたちが人間と同じぐらいの大きさになれたり、人形サイズになったりするように、ペルも大きさが変わるタイプだったのだ。いままでずっと、ちっちゃな犬だと思ってたのに。
ルティは前を見た。
林の中をペルは駆け抜け、ものすごい勢いで木々が通り過ぎ去っていく。ぶつかるかもしれないとか、ちゃんと避けられているのかどうかとか、ルティの目では判別できないほどの速さで。
ミーナも振り落とされないようしがみつき、ルティとエディもできる限り支えていた。
セレスが何度も後ろを振り返っていることに、ルティは気付いた。後ろから……白いものが自分たちを追いかけている。
きっと、さっきの虎だ。あの虎も化神……。
「ルティ、ミーナ、私は離れる――自分でしがみつくんだ!」
セレスが叫び、自分を抑えていてくれた手が失われた。途端、ルティたちを守ることを優先していたミーナはペルの背から落ちてしまい、小さな悲鳴を上げて地面へと転げ落ちていく――ペルがすぐに引き返してミーナに駆け寄り、ルティはペルの背を降りた。
「ミーナ――」
地面に身体を打ち付け、足も痛むミーナは、うずくまって起き上がることもできないでいる。彼女を抱き起こそうとしながら、ルティはセレスの姿を探し、彼女を見つけて息を呑んだ。
セレスは、誰かと戦っている。
暗くてよく見えないけれど、刃のようなものが光っている。刃の形から察するに、大きな鎌……鎌を武器にしている男に、心当たりがある。
「シャンフ……マティアスは……?」
別れる直前に、シャンフと戦っていた男。彼がここにいるのなら、相手をしていたはずのシャンフたちは?
恐ろしい結末しか思いつかなくて、ルティは青ざめた。
ルティのそばで、ペルが牙を剥き出しにして唸る。
突風が起こる勢いで、ルティたちに向かって飛びかかってきた虎に、ペルは飛び掛かった。
ペルと虎も、し烈な攻防を繰り広げる――鋭い爪と牙を使い、噛みつき、引っ掻き……真っ白な毛が、徐々に赤く染まっていく。
「ルティ……エディを連れて逃げなさい……今度こそ、あなた一人ででも!」
地に這いつくばったまま、ミーナが懇願するように言った。
ルティはぎゅっと腕の中のエディを抱きしめ、意を決して走り出した。
見捨てるわけじゃない。自分が逃げて、少しでも相手の注意を逸らせたら。
そう思ってルティは逃げようとした。でもダメだった。虎の宿主が、自分の前に立っている。その手に武器を持って。
「観念して、大人しく私について来てくださる気になりましたかね?」
男は愛想よく笑って言ったが、その言葉はまぎれもない脅迫だ。
逃げ切れるはずもない。非力な自分では何も選べないと、ルティは悟っていた。
大きくなったペルの犬種モデル:
ジャーマンスピッツ(大きさは規格外)




