王国の生き残り (2)
「紋章を宿した手を――左手を。貴女が大人しくしていれば、彼女は傷つけません。私たちだって、何の罪もない子どもを斬り刻むような真似はしたくないわ……目的は、あくまで貴女一人なのですから」
皇太后ドロテアが言い、ユーリは彼女をじっと見つめる。
それから捕らわれているルティを見た。ユーリがどんな選択をするのか、ルティには分かっていた。
尼僧から差し出されたタオルを受け取ろうとした瞬間、ルティは腕をつかまれ、タオルに隠されていた短剣を突き付けられてしまった。
そしてルティを人質に、皇太后はそう要求してきたのだ。
ユーリが左手を差し出し、皇太后がそっと触れる――ユーリの左腕は肘から下が凍り漬けになって、セレスは人形サイズまで縮んだ。小さなセレスは、銀色の鎖によってがんじがらめ状態。
そんなセレスを、ドロテアの白い化神が両手でしっかり抱えていた。
きっとこれで、ユーリは紋章が使えなくなった。セレスも動きを封じられてしまって。
……自分のせいだ。
自分が身の程知らずな願いをして、ユーリをこんな場所へ連れてきたから。
激しい後悔に、ルティはぽろりと涙をこぼした。
ユーリの紋章とセレスの動きが封じられてしまった後、祭壇のある静かな部屋に複数の男が入ってくる。尼僧院には明らかに不似合いな男……そして出で立ち。
武器を持ち、ユーリを取り囲んで。
全員がオルキス人だ。
誰がどう考えたって、皇太后……オルキスの内親王だったドロテアが無関係のはずがない。ユーリが訪ねてくると知って、待ち伏せていた。そしてドロテアたち尼僧の手引きでここへやって来た。
「ローゼンハイム帝ユリウス……ついにこの時が来た」
男たちのリーダーらしき中年が、武器を手にユーリに近付く。ユーリを睨みつけながらも、警戒しているようで。一定の距離を取ったまま、ユーリの様子をうかがっていた。
たぶん、紋章を恐れているのだろう。皇太后が封じたが、それでも警戒せずにはいられない力だ。
「父親の罪を償わされるのは気の毒だが、ローゼンハイムの帝位に就いた時に、それは覚悟していたはず」
「もちろんだとも」
男の言葉に、ユーリは不敵に笑う。この状況でもその美しい笑みを湛える皇帝の度胸には、男たちもたじろいだ。
「ローゼンハイムの王冠を戴くということは、父の罪――そして歴代のローゼンハイム帝たちの罪すべてを受け継ぐということ。それらを抱えてもなお輝きが陰ることのないボクだからこそ、与えられた運命だ。無論、逃げ出すつもりも、目を逸らすつもりもない。キミたちが復讐すべきローゼンハイム帝とは、ボクのこと」
堂々とした態度のユーリに、大したものだ、とリーダー格の男が呆れと嘲りの混じった笑みを浮かべる。
「あのローゼンハイム帝の子と聞いて、どのような反応を返すか色々と予想していたが、予想以上の不敵さだ。顔色一つ変えることなく、命乞いもしない」
「乞うべき命はボクではないからな。ボクがキミたちに望む慈悲はひとつ――その少女を解放してくれ。ローゼンハイムの皇帝として復讐者の刃を受ける義務はあるが、同時に、自分のせいで巻き込んでしまった罪なき少女を助けなければならない。ボクが連れてきたばかりに、本来なら落とさずに済んだ命を道連れにしてしまう……彼女を解放してくれと、跪いてキミたちに命を乞うべきだな」
「俺たちが、そんなものに絆されるとでも思っているのか」
男は嗤ったが、ユーリも笑っている。
「思っている。復讐を望みながらもキミたちは慎重に時を待ち、機会を待ち続けた。それだけの冷静さと辛抱強さがあるということだ――そんなキミたちが、最後になって、ただ居合わせただけの少女の命などどうでもいいと切り捨てたりはしないはず。すでに役割を終えた彼女に慈悲を与え、解放することだろう」
笑うのを止め、リーダー格の男がルティを見た。
他の男たちも、気の毒そうにルティを見ている。復讐を選んだが、彼らにはまだ罪悪感があり、良心が残っているのだろう。ルティを巻き添えにしたことに、多少の後ろめたさはあるらしい。
ユーリはすでに紋章を封じられ、化神も抑え込んだ。少女は、もう解放されてもいいはず。
「……いいだろう。ユリウス二世の悪い真似をするのは俺たちも御免だ」
リーダー格の男が言い、ルティを捕えている尼僧を見て、外へ連れて行け、と指示した。
自分を連れて行こうとする尼僧に、いや!とルティが叫ぶ。
「ちょ、ちょっと……!」
「いや!放して!」
短剣を突き付けられてるのも無視して、ルティは女の腕の中で暴れた。ルティの思わぬ反抗に、尼僧も焦っている。
短剣を持ったまま、ルティを何とか押さえつけようとして……。
「あっ――!」
尼僧が青ざめ、小さな悲鳴を上げる。
頬に、熱が走ったような気がした。それを痛いと感じるよりも先に自分を拘束していた尼僧の力が緩むのを感じ、必死に振り解いてユーリに駆け寄った。
「ルティ!」
ユーリも血の気が引いた顔で、滅多にない取り乱した様子でルティに駆け寄り、すぐに自分の上着を脱いでルティの頬を押さえた。
上等な上着が、じんわりと赤く染まる。尼僧の持っていた短剣がルティの頬をざっくりと切ってしまったようだ。
なんだか頬がじくじくと痛み出してきたけれど、それどころではない。
「話が違うぞ!私たちが大人しくしていれば、その子には手を出さない約束だろう!」
鎖でがんじがらめにされたまま、皇太后の化神の手の中でセレスが吠えた。
オルキス人の男たちも、血で汚れた短剣を持つ尼僧を咎めるように見ている。
「……おい。いくらなんでも、やり過ぎじゃないか」
「私はそんなつもりじゃ……!あの子が暴れるから!」
尼僧は恐れおののいたように短剣を放り捨て、弁解した。
チッとリーダー格の男も舌打ちする。
――少女まで傷つけてしまったのは悪手だった。復讐を決意したが、もとは善良な人間ばかり。子どもを傷つけたことに動揺している。
余計なことに気を取られると、復讐心が削がれてしまう。大帝国の皇帝を殺そうというのだ。並大抵の精神力ではやり遂げられない。
「その子をこっちへ引き渡せ。外へ出してやる」
「ルティ、彼らと一緒に先に外に出るんだ。ボクなら大丈夫だから」
「いや!」
自分を諭そうとするユーリに、ルティは首を振る。
「いや、いや!絶対にいや!最後までお母様と一緒にいる!ようやくお母様って呼べるようになったのに、もうお別れなんていや!」
ルティの言葉に、ユーリが動揺した――この状況で、自分との親子関係を暴露してしまった。それがどれほどまずい事態を引き起こすか、ルティも分かっていた。分かっていて、ルティも喋ったのだ。
皇帝ユリウスの妹リーゼロッテは、拾われただけの血の繋がりのない少女。だからこそ、この場にいる男たちも見逃そうとした。
けれど、ユーリの実子となったら話は別だ。
「ルティ――」
「お母様が死ぬなら、私も一緒に死ぬ!もう置いて行かれるのはいや!一人にしないで!」
自分をなだめようとするユーリにしがみつき、ルティは泣き喚いて引き離されるのを拒んだ。
死んだって構うもんか。もともと、フェルゼンが巻き戻りのチャンスを与えてくれなかったら、ユーリの死と共に自分もいずれ死んでいた身だ。
それをやり直すために戻って来たのに、こんなところでまたユーリと死に別れてしまうなんて――だったら、今度は自分も一緒に死ねばいい。
巻き戻りが上手くいかなかったら、どうせ最後はきっとそうなるのだから。
ルティは、自分をユーリから引き離そうとするオルキス人の男たちを睨んだ。涙をいっぱいに溜め、敵を見る。
その姿に、男たちは悟った――単に癇癪を起して泣き喚いているのではなく、本気で言っているのだと。本気で……母親と共に、自分も死ぬつもりだ。
「おい。子どもを引き離せ」
リーダー格の男が、別の男に言った。いやだ、と指示された男が即座に反論する。
「なんだと?」
「自分でやれよ。他人に汚れ仕事を押し付けるんじゃなくて」
男の反論に、他の男たちも同調しているようだ。
……これを危惧していた。
ローゼンハイムの皇帝を殺す――その復讐心を削がれたら、彼らも心が折れ、計画が頓挫する恐れがあった。幼い子どもの存在は、その不安要素の最たるものだ。
「ローゼンハイム帝を殺す覚悟はしてきた。でも……幼い子供の目の前で、その母親を殺す話は聞いていない」
オルキス人の男たちが揉めている。
ユーリに抱きついたまま、ルティもそれを感じていた。どうやら自分がいることで、仲間同士でも意見が分かれているようだ。
なら、意地でもユーリから離れるもんか。
ルティはさらに強くユーリに抱きついた。これで一緒に殺されることになったって――ユーリの意に反することになってしまうかもしれないけれど、これだけはルティも譲れない。
その時、尼僧院全体が揺れた。
地震が起きたのかと思ったが、轟音が響き渡り、ドロテアの化神がヒスイによって押さえつけられていた。
雷のように飛び込んできたヒスイによって、部屋には大きな穴が開いていた。
「ドロテア様。彼らに武器を捨てるよう言ってください。僕は本気です――いまのユーリを傷つけるなら、例えあなたであろうと殺します」
静かな声が、部屋に響いた。
皇太后ドロテアも、いつの間にか飛び込んできていた男に捕まり、長い剣を首元に突きつけられていた。
ナーシャが、明確な殺意を持ってドロテアを人質に取っている。
少し遅れて、フェルゼンと……知らないオルキス人の男がまた飛び込んできた。オルキス人の男は、化神らしき小動物を連れている。
祭壇前の状況に、紋章使いが驚愕した。
「アナスタシウス様!いままであなたをお守りくださった御方を――」
「ユーリのお腹には、いま、僕の子がいるんだ!」
ナーシャが言った。
「僕が誰よりも守らなければならない相手だ――叔母上……恩を仇で返すことになったとしても、僕はユーリを優先します」
叔母上。
ナーシャは、ドロテアにそう呼びかけている。ユーリの腕の中でルティは二人を見比べた。
皇太后ドロテアはどこか呆然とした様子で、何か呟いていた。何を言っているのか、距離があり過ぎてルティには聞こえなかったけれど。
「子ども……お兄様の血を引く……」
皇太后の化神の腕から放り出されたセレスは、人形サイズのまま、鎖でがんじがらめにされてじたばたともがいていた。
みんな、飛び込んできたナーシャたちに目を奪われ、ユーリやルティたちのことを一瞬忘れてしまっているのではないだろうか。
凍り漬けにされたユーリの左手が光を放つのを見たのは、ルティだけだったかもしれない。
氷の中でかすかに光った次の瞬間、あたり一帯が真っ白になるほどの光に包まれて、ルティは目が眩んだ。ルティだけでなく、きっとこの場にいた全員が。
光が収まった時には、オルキス人たちの足元が凍り付き、彼らは動けなくなっていた。尼僧たちも全員……ドロテアだけは、ユーリの力が及ばなかったのか、ナーシャが捕えたまま変化はなかった。
代わりに、ユーリの左手の氷は消えてなくなっている。
セレスも鎖が解けて、皇太后の化神が人形サイズに――今度は、こっちが同じ鎖でがんじがらめになっていた。
「ナーシャ。ノイエンドルフの部下たちを呼び寄せろ」
「監視は全員殺されている」
ユーリの指示に対して、フェルゼンが口を挟んだ。
なら、とユーリが言葉を続ける。
「すでにノイエンドルフのもとに連絡が行っているはずだ。監視は一定時間ごとに近くの町に待機する別の部下に連絡する決まりになっているんだ……それがなければ、ノイエンドルフに即座に報告に向かう――それまで尼僧院を封鎖しろ」
ユーリが指示を出すのを、彼女の腕の中で、ぼんやりとしながらルティは聞いた。
ホッとしたからか……血を失い過ぎたからか……意識が遠のく。
最後に見たのは、自分に駆け寄ってきて、顔の傷を治療しようとするセレスとユーリの姿だった。




