分断 (2)
ユーリの左手の紋章が光ると同時に、一瞬にしてあたり一面が真っ白な霧に包まれる。
視界が奪われ、その場にいたほぼ全員が困惑するのをバックハウス隊長は感じた――混乱の中、誰かが自分に呼びかけている。
「バックハウス!部下たちをただちに撤退させろ!キミはともかく、化神持ちの紋章使いを相手にさせるのは危険すぎる!」
自分に命令するのは……できるのは、この世でただ一人。ローゼンハイムの皇帝だけ。
声も口調も彼女のものだし、見た目もユーリに何となく似てるから、きっと目の前の子どもはユーリその人だと思う。
……でも、明らかに年齢がおかしいのだが。
「ボクのこの姿については、あとで説明する。とにかくいまは」
なんだか年齢一桁ぐらいの幼い姿で、ユーリが言った。
また突風が吹き荒れ、霧が薄くなった。ほんの刹那のことで、ユーリの紋章により相変わらず視界は不透明なまま。
どうやら大鎌を使う男が風を起こし、霧を吹き払おうとしたらしい。ユーリも対抗し、霧であたりをおおっている。自分の部下たちを逃がすために。
「――撤退だ!全員、グライスナーの隊と合流に迎え!」
「それは困りますねえ。こうなった以上、できるだけ目撃者には消えて頂かないと」
背の高い男が言い、虎が吠え猛る声が聞こえてきた。隊長の部下たちの悲鳴も聞こえる――視界が奪われても、獣の本能で敵を嗅ぎ分け、動くことができるらしい。
放置できるはずもなくて、バックハウス隊長も音を頼りに味方の援護のために霧の中へと飛び込んで行ってしまった。
「バックハウス――」
彼の後を追いかけようとしたが、ふわりと身体が持ち上げられ、気付けばセレスの腕の中――大鎌の刃が、何度も自分の鼻先を掠めている。
「ほう、やるねえ。そんな足手まといを抱えてちゃ、オレの勝ちは決まったようなもんと思ってたけど……さっきよりも腕が上がってる」
長い髪の隙間から見える男の表情は、満足そうな笑顔であった。
剣と鎌がぶつかり合い、空気を切る音と鋭い金属の音がよく響く。ユーリでは、刃先がどう動いているのか目で追うこともできなかった。
ユーリを片手に抱いたまま、セレスも一歩も退くことなく大鎌との攻防を続けていた。
男の周囲で、風が渦巻いているのを感じる……さっきから何度も起きている突風は、この男の仕業だ。
風の影響を受けて、長い髪や衣装もなびいている。とても戦いづらそうなのに、セレスと互角以上に渡り合っていて。
「セレス――この男、右目に紋章を宿している!」
長い髪の隙間から見えたものを指してユーリが叫べば、セレスがわずかに動揺した。
男の鎌とつばぜり合いとなり、押し合いになりながら、男の顔を確認して呟く。
「なら……この男は人間!?」
紋章を宿しているということは、目の前の長い髪の男は宿主であり、人間ということになる。
化神のセレスに、平然とついてくるだけの動きを見せながら。化神の気配もあるのに。
「セレス。化神は武器のほうだ!この大鎌が、やつの化神なんだ!」
「目がいいね、おたくの宿主。なかなか察しもいい。大帝国の皇帝だけはある」
自分の正体の一部が発覚しても、男は余裕そうだ。セレスの力も、ユーリの器にも素直に感心している――攻撃の手は一切緩めることのないまま。
大鎌が風をまとい、攻撃はいっそうし烈になった。
大鎌だけでなく、刃と化した風がセレスたちを襲う。セレスも紋章の力で氷の盾を作り出して防いでいるが、刃は盾にも深い傷を与え、削り落とそうと攻めてきて。
「防戦一方だねえ。もっとも、オレを引き付けてお仲間を逃がそうとしてるんだから、無理もないけど。オレはあんたと戦うほうが楽しいから、まんまと乗ってあげるよ?」
楽しそうに話し続ける男にセレスは反応を返さず、攻防を続けていた。
この男の言う通り、バックハウス隊長の部隊が全員撤退し終えるまでは、自分はこの男を引き付けておかなくてはならない――味方を守りたいユーリのため、セレスは剣を振るうのみ。
部下を連れてきたのは大きな間違いだった。バックハウス隊長は、それを痛感していた。
ディートリヒの反逆を目撃させ、彼を確実に捕縛するために部下を連れてきたというのに、まんまとディートリヒには逃げられ、見過ごせない被害が出ている。
自分だけなら難なく撤退できただろうが、部下を巻き込んでしまって……せめて、一人でも多くの部下を逃げ延びさせるために、自分は最後までこの虎の相手を努めなくては。
大きな虎は見た目通り頑丈で、見た目に反して俊敏だった。しかも、どうやらこいつは二足歩行もできるらしい。
ただの獣ではなく紋章によって模られただけの虎なのだから、本来とは異なる動きをするのも当然か。
自分に飛び掛かってきた動きに合わせて後ろに倒れ、鋭い爪と牙が自分の急所を抉ろうとするのを防ぎながら、渾身の力で巨体を押し返す。
力比べには自信があったが、これは押し負けるかもしれない……持久力勝負に持ち込めれば、もしかしたら。
虎の口に剣を噛ませ、歯を食いしばって耐える。虎も刃が剥き出しとなった剣に噛みついたまま、顔を近づけてきて。
……鈍い音を立て、剣は砕けた。
まずい、と。頭で考えるよりも先に身体が動き、虎の腹を無理やり膝で蹴り上げて横に転がり、わずかな隙間から脱出した。
勢いをつけて噛みつこうとした虎の口は、地面を深く抉った……。
すぐに起き上がり、虎と正面から向き合う。
背中を見せれば終わりだ――内心の焦りも動揺も一切おくびに出すことなくバックハウス隊長は虎と睨み合った。
武器もなく、身体能力でも劣る……圧倒的不利な状況でも、敗けるつもりはない。負けるかもしれないなんて、考えることも許されない。
「バックハウス、これを使え!」
セレスの声が聞こえてきて、すぐそばに剣が飛んでくるのが見えた。
一目散に剣に飛びつく隊長に、虎が襲い掛かってくる――無我夢中で剣を振り、虎を牽制しようとした。
思ったよりもそれは効果的で、初めて虎が怯み、わずかに後退する。
この剣が理由だ。
青い光を放ち、握っているバックハウス隊長にまで伝わるほどの冷気。
手甲を付けているから問題ないが、じかに触れていたら皮膚が張り付いてしまっていたことだろう。
剣は化神セレスが使う力と同様に、氷の力をまとっていた。
化神同士の力がぶつかり合うことになるから、さすがの虎も、先ほどまでのように気楽に攻めてくることはできない。隊長の隙をうかがうように、うろうろと警戒の目を向けてきている。
これがあれば、仕留めることができるかもしれない。
改めて虎を攻撃しようとした自分に、何かが飛びついてきた。
虎に集中していたから、まったく気付かなかった……この巨大な虎の宿主への警戒を怠ってしまっていた……ユーリが作り出した目くらましの霧に守られてるのをいいことに……。
自分に飛びついてきたのは――。
「陛下!?」
たしか、さっきはもっと幼い姿をしていたはず――いや、あれが幻だったのか?そもそも、あの姿が異常だったわけだし。
とにかく、いつもの姿をしたユーリが予想もしない方向から飛びついてきて、そのまま……なぜかあっさりと自分の身体は彼女のされるがままとなり、崖下へと落ちていった。
「バックハウス、手を!」
すぐにセレスも落ちてきて、自分に向かって手を伸ばしてくる。しがみつくユーリを片手でしっかり抱きしめ、もう一方の手をセレスに伸ばした。
かろうじて指先がつかめる程度の距離だったが、ほんの少しつかんだだけでもセレスには十分で、人並外れた力でバックハウス隊長を引き寄せ、持っていた剣を絶壁に突き刺す。
落下は止まらず、ガガガと激しい振動と共に三人は落ち続けた――あえて落下を止めないのだと、バックハウス隊長にも分かった。
落下スピードを和らげているだけで、セレスはこのまま下へ降りるつもりなのだ。バックハウス隊長も着地のタイミングを見はからった。
「落とすぞ――この距離ならば問題ないだろう?」
「任せろ!」
生い茂る木々も間近に迫り、これなら自分でも、と隊長も同意する。防具だってつけているのだから楽勝だ。
守るべき御方を腕に抱いていることだけを決して忘れることなく、バックハウス隊長はセレスの手から離れ、飛び降りた。
勢いをつけて、木から木へと飛び移って地面へと着地する。いつもより動きが鈍くていささか無様な着地にはなってしまったが、ユーリだけはちゃんと守り抜いた。
「陛下、お怪我は」
そっとユーリを地面に降ろし、彼女の無事を確認する。大丈夫だ、とユーリは頷いた。
ひらりとセレスも華麗に着地し、ユーリのもとへと駆け寄ってくる。
「バックハウス、装備を解け。いますぐにだ」
「え――はい、ただちに!」
ユーリからの突然の命令に戸惑いつつも、バックウハウス隊長はすぐに行動に出た。留め具を外して、鎧を……脱ごうとするのだが、なぜか指が動かない。
ありったけの力を込めているはずなのに、まるで凍り付いたかのように……。
「やはりか。セレス、バックハウスの装備を解く手伝いを」
ユーリに命じられ、セレスが手際よくバックハウス隊長の防具を脱がしていく。
……防具とは言え、女性に脱がせてもらうという状況にはひどく動揺してしまって、隊長もおろおろするばかり。抵抗したくても、そもそも何もできないし。
ユーリも自分の上着と軽装備を脱ぎ捨て、布の服だけとなったバックハウス隊長の両手をつかんで引き寄せた。
自分の服の中に、男の手を入れて……。
「へ、陛下!?いけません!そのような――!」
温かく柔らかいものが、両手に触れる。吸い付くようになめらかな肌……ユーリは、バックハウス隊長の手を自身の脇の下に挟んでいる。
だから……つまり、自分の掌に触れているものは……。
「いまは躊躇っている場合ではないぞ、バックハウス。ボクが動けなくてもキミたちに抱えてもらえばどうということはないが、キミが動けなくなったら死活問題なのだから」
ユーリの言葉に、ようやくバックハウス隊長も自覚した。
自覚した途端、鉛のように身体が重くなり、呼吸をするのも苦しいほどの冷気が胸の奥を締め付けた。
――戦いの興奮で忘れていただけで、自分の身体は驚くほど鈍化してしまっていた。体力を著しく失い、全身が冷たくなっている。
化神セレスから借りた剣……やはり、紋章の力は不用意に扱っていいものではないのだと、改めて思い知らされた。




